アニメを見ていた

11月23日(水)、
 ……調子が悪くて、ずっとアニメを見ていた。

 

11月24日(木)、
 今日もアニメを見ていた。最近流行っているのと、マイリストに入れていたアニメをいくつか消化した。夜、父に「鬼滅の刃、やっと全部見た。何とか泣かずに見れた」と言ったら「泣くとこなんかあったか?」と言われて「えー」と思った。本当に鼻水が止め処なく出て、涙が溢れて、でもぎりぎり頭が痛くなるほど号泣はしない程度だったので、泣いてないことにしたんだけど。涙脆いのは、僕が大分歳を取ったのだろうか。いや、二十歳以前にも『CLANNAD』を見て、死にそうになるくらい泣いていたので、そうでもないと思う。『CLANNAD』は違うけど、どうも、仲間たちが成長して、強大な敵を、命を懸けて、力を合わせて倒す、というベタな展開に弱い。『鬼滅の刃』では、もう駄目だ、と言うところで、瀕死になっていたはずの仲間が助けてくれたり、兄の危機には必ず立ち上がってくれる(しかも結構強い)禰豆子ちゃんの頑張りがおそろしく感動的で、湧き上がってくる身体の震えをどうしようも出来ないくらいだった。あと、動けなくなった兄の炭治郎を背負ってちょこちょこ走り回る禰豆子ちゃんが可愛い。炭治郎はちょっとタフすぎるよなあ、と後で父とは話していたんだけど。「脚が、動かない。……いや、まだいける」って何回言っているんだ、ゾンビかよ、と冷たく突っ込んでしまったし、父が言うには「敵も味方も、何で基本一対一なんだ。強い奴を何人か出して、一対六くらいでぼこぼこにしたらすぐだ」と言っていて、うーむ、と思った。大体、死にかけているときでも、過去の回想が入れば立ち上がれて、「こいつ、さっきより速くなっている」とか敵に言われるのは、お約束だけれど、もういっそ、戦う前にみんなで回想したら強いんじゃないかとか、腕が一本使えなくなってからの方が強いなら、最初から片手で戦えよとか、何か、父と二人で言いたい放題言っていた。でも、見てるときには関係ない。「みんな頑張ってるな。すごいな。偉いな。僕も頑張ろう」と単純にも感動して、父が帰ってくるまでは、母相手に、何とかその感動を伝えようとした。母は「ほう」と言っていた。どうも、思い出すだけで、また泣きたくなってしまって、『遊郭編』の最終話のサブタイトル「何度生まれ変わっても」の文字を見るだけで、敵であるはずの鬼の境遇が思い返されて、悲しくなる。敵が単なる悪じゃないところが、何とも切ない。戦闘シーンがリアルに三時間くらいあって、ずっと画面を凝視していたから、見ていただけでどっと疲れたのに、炭治郎たちはずっとぎりぎりのところで三時間休みなく戦い続けていて、何という精神力だろう、まだ諦めないのか、人間の心って、ここまで強いものなのか、僕なら最初の一撃で諦めてる、と本気で思って、自分が情けなくなって、彼らが強いのも、折れないのも、弛まぬ修行と、受け継がれた意志と、仲間への信頼の力だ、そして、弱さも含めた人間への強い思いが為せる業なのだ、僕は自分が情けない、負けてはならない、強く生きるんだ、とひとしきり心を奮い立たせていた。こういう心は、すぐに冷めてしまうのが常なのだけれども、少なくとも、今はやれるだけ頑張ろうと思った。人のために戦える人になりたいと、あまり考えないことさえ、思った。

 最近、全然連絡していない人たちに、短くていいから、メールなどを送ろうかと思った。僕はいじけていて、卑屈で、自分はどうせ病気の無能だと拗ねていて、少しは足掻いているつもりだけど、すぐに怠惰に一日を過ごしては、自己嫌悪して、たまにがんばっては、またどうでもいいと思って、ともかく多分、一直線に腐っている。
 でも、もう少しだけ努力しようと思う。まだ、何もかもが終わってしまったわけじゃない。

 熱くなりすぎてて、空回りしている感はある。少しリラックスして、また生き始めようと思う。心の中心は、冷めないままで、生きていこうと思う。

体温

11月22日(火)、
 朝。夜中に目が覚めてから、どうしても眠れない。カフェインを多く摂ったときのように、頭の表面だけ冴えている。外の風景は白っぽくて、スズメの声も硬い。不安や敵意がほんの少しだけ、空気に混じっているような気がする。遠い昔の、どうしても学校に行きたくない朝の感触。冬の初めの、無感情な朝。

 壁を見詰める眼。静けさの中に死の音を嗅ぎ分けようとする耳。不安な匂い。星。遠い、誰かの優しい声と、彼/彼女が近付いてくる足音。感触、感情、病的な脳の中の膜……。全てが溶け合っている。僕という輪郭を保っている。優しい時間が訪れると、優しさと音楽には区別が付かなくなってくる。違いに意味は無くなる。……対して殺伐とした時間、音楽は皮膚や舌に不快に張り付いてくるポリエチレンのようだ。音楽が不快なのではなく、感情の免疫システムが過剰になって、何もかもを拒否してしまう。その感情のシステムを、僕は嫌悪する。その感情自体が僕なのだと思うと、僕の人生にはもう手の施しようがない気がする。僕自身の嫌悪を宥めようとして、それだけでとても疲れる。頭の中で「死にたい」とか、勝手に言葉が流れる。「何かがあったはず」と思う。「何か」は漠然としていて何ひとつ形を為さない。明瞭な「何か」が僕には見えていたはず。なのに今、僕は僕の心に焦点が合わず、何もかもがぼやけていて、何も見えない。

 落ち込んで自信が無いのも嫌だけど、好戦的だったり、頭に血が上っていても、何も出来ない。静かな気持ちで、かつ内燃する感情があるのでなくては。

 昨日は、悪い腫瘍じゃないかと思うくらい大きく拡がっていた口内炎が、今日はただの粘膜のざらざらになっている。

 この手で考えよう。この温度で。

殺さずに生きたい

11月21日(月)、
 朝。ここ数日、一日三、四時間くらいしか眠っていない。無理して起きているわけではなく、また、元気すぎたり焦燥感が強かったりもしない。ただ、やっぱり身体に少し負担が掛かっているのかなと思う。寝不足で免疫力が落ちたせいかどうかは分からないけれど、口内炎が出来て、かなり痛い。眠りを妨げられるくらい痛いので、よし、こんなの噛み切ってやる、と思って噛んだら、しばらく脚をばたばたしなきゃ収まりが付かないくらい痛くなってしまったけど、しょうがないからロキソニンを飲んで、氷を舐めていたら、かなりましになった。

 身体って不便だと思うけど、不便だからこそ可愛らしいものだ。身体の苦痛なら、ある程度は耐えられる。口内炎がいくら痛かろうが、死ぬことはない。それに、ドーパミンやエンドルフィンが出ていれば、苦痛はかなりの程度やわらぐ。つまり、楽しいときや、何かに集中している時は、身体の痛みも忘れられる。もちろん、それにも限度があって、爪と肉の間に針をぐりぐり差し込まれるとか、歯に穴を開けて、そこに硫酸を注がれるとか、そういう怖ろしい拷問には耐えられなくて、何でも自白してしまいそうだし、死を懇願してしまうかもしれないけれど。
 腕を切るとか、ライターで炙ったり、針を刺したりというのは、実はそんなに痛くない。離人感があって身体の感覚が遠いし、それにハイになっていることが多いからだ。たしかアメリカに、かなりの自傷癖を持つ連続殺人犯がいて、睾丸に針を刺したりしていたらしいのだけど、爪の間に針を刺すのだけは、どうしても出来なかったらしい。自傷癖がある人でも、多分本気で痛いことは、滅多にしないと思う。あと、自傷のために自分の顔を切り刻んだという話も、僕は聞いたことが無い。昔の西洋の宗教家の中には、顔の皮を剥いで鏡を見ることで、身体など骨に張り付いた肉に過ぎないということを悟ろうとした人もいたらしいけれど、あまり真似する気にはなれない。

 自分の身体を故意に破壊することは、全然誉められたことじゃないけれど、自分の命や自分の利益を、いつでも簡単に捨てられるような気持ちで生きられたら、どんなに清々しいだろうと思う。いつかは自分の命を失うのだから、死や損失を怖れるよりは、受け容れた方がいい。自殺したり、自殺したいと思いながら生きることはとても苦しいし、殺人は、被害者も加害者も悲しいし、いいことなんてひとつも無いけれど、同時にまた、命に執着しすぎても苦しい。
 戦争や刑罰で人を殺すのは、はっきり言って間違っていると思う。困窮した国同士が、資源を取り合って争ったり、自国を少しでも良くするために他国を攻めたりして、もしそれで勝てれば、いっとき自分の国は豊かになるけれど、負けた方はやり返したくなるし、勝った方は復讐に怯えて、他国を力で抑え続けなければならないし、結局は、戦争がひとつ起こるたびに、世界はどんどん住みにくくなる。「自分の為ではなく、愛する人の為に戦う」という考えは、勇ましいけれど、みんながそう言ってたら、争いは永遠に無くならない。身近な人を守るためには、どうしても人を殺さなければならないという状況は珍しくないと思う。自分の理性や品性を捨ててでも、人を蹴落としてでも、最悪人を殺してでも、愛する人を守りたいし、出来れば笑顔が見たいという感情はよく分かる。だから、そういう状況が出来るだけ起こらないように、全体として変わらなければならないし、それ以上に、人の為と言いながら、自分の為になっていないか、自分自身でよほど注意していなくてはならないと思う。もし他人の為に何かをしたいなら、黙ってそれをして、恩着せがましくならないことが大事だと思う。
 僕は他人を変えることが出来ない。変えられるのは自分だけだ。せっせと自分のするべきことやしたいことをしようと思う。自分の気持ちを枉げてまで人の気を惹くようなことは、もうしたくない。自分に嘘を吐いて望みを叶えても、素直に喜べないし、自己嫌悪や恨みが増えていくだけだから。自分が本当に好きなことをしていたい。人から評価されたら、一瞬気持ちいいけど、すぐに冷めてしまう。評価されること自体を目的にしたら、生きることは空しくなる。

 夜。口内炎が治ってきた。身体はなかなか大したものだ。

良くなったり、悪くなったり

11月20日(日)、
 今日は午前中は頭の動きがすごく悪くて、こんなのでやっていけるのかと思ったけれど、午後には気分が晴れた。心身共に軽くなった。

 エマーソン,レイク&パーマー(ELP)はキーボードとベース、ドラム、という少し変則的な編成なので、ギターの音はほぼ入っていないけど、大好きなバンドだ。グレッグ・レイクジミ・ヘンドリックスを入れて、バンド名をHELPにするつもりだった、という話もある(ただしファンの後付けかもしれない。ジミ・ヘンドリックスと組みたかったのは本当らしい)けれど、ジミ・ヘンドリックスELPでは多分合わなかったと思う。僕はELPの一枚目を十六年くらい愛聴していて、ピアノが主体の幻想的な曲調にいつも引き込まれる。魔法の森みたいだ。二枚目からはオルガンが主体になって、テクニックを惜しげも無く披露しているのだけど、冷たい泉のような感触が無くなって、熱っぽくなったし、エマーソンのオルガンの音数が多すぎる感じがして、たまにしか聴いていない。二枚目以降の方がロックとしては格好いいし、ファンも多くて、プログレッシブ・ロックとして実に完成された感じはあるのだけど、僕はロックはどちらかと言うとタイトな音の方が好きだ。
 本来は僕は、ロックに使う場合はピアノよりもオルガンの方が断然好きなのだけど、キース・エマーソンの弾く美しいメロディには、ピアノの音がすごく合っていると思うので、もう少しだけ多くピアノを使っていて欲しかったなと、勝手に思っている。
 ……昼からは60年代から70年代の音楽ばかり聴いていた。00年代までの音楽はたまに聴くけれど、10年代20年代の音楽はあまり聴いていない。たまには新しい音楽も発掘しようと思うけれど、テクノ以外ではなかなか好きなミュージシャンが見付からない。

 夜、ヘッドホンで音楽を聴いている。最近、多分ひと月くらいは、音楽はもっぱらスピーカーで聴いていたのだけど、少し気分を変えようとヘッドホンで聴いてみたら、ぐっと内向的な気分になれて、やっぱりヘッドホンもいいなと思った。もしかしたらもっと内気になれるかと思って、ノートパソコンを出してきて、少し書いてみたら、こぢんまりとした画面と窮屈なキーボードの感触が懐かしくて、同時に新鮮な感じもして、かなり書くのに集中できそうと思ったのだけど、どちらかと言うと、やっぱりデスクトップの方が書きやすいと思った。その時の気分にも大分依るだろうけれど。一太郎の仕様のせいもあるだろうけれど、デスクトップパソコンのディスプレイの方が、明朝体が綺麗に映るし、外付けのキーボードの方が、打ちごたえがあって、書いている実感を得やすい。でもノートパソコンのキーボードのぺたぺたとした感触も好きだ。もしかしたらその内また、ノートパソコンばかり使って書くようになるかもしれない。
 この間読んだ小川洋子さんのエッセイでは、原稿用紙に手書きでも、ワープロを使って書いても、文体は変わらないと思う、と書いてあったけれど、僕はけっこう変わると思っている。僕の指はQWERTY配列に最適化されている。QWERTY配列が大好きだ。QWERTY配列だからこそ、無意識的に書けるし、即興演奏みたいに、ピアノを弾くみたいに書ける。
 QWERTY配列は一般に、書くのにはあまり適していない、と言われることが多くて、一番効率がいいのはDvorak配列だとか、それを日本語向けに少しカスタマイズした配列とか、かな入力がいいとか、日本語を書くのには親指シフトが最強だとか、いろいろ言われているけれど、僕は個人的には、QWERTY配列で完璧に十分だと思っている。それは、過去、QWERTY配列で完璧に書けたという記憶があるからで、だから例え書けなくなったとしても、それはキーの配列とは関係ない、と思っている。
 原稿用紙は常備していて、時々手書きで書いている。升目をひとつひとつ埋めていく作業は非常に面白い。手で書くのはやっぱり体力が要るので、息の長い文章を書くのは骨が折れる。それにはいい面もあって、パソコンだと長くだらだらと書きがちなのが、手書きだと、短く纏まって、凝縮された言葉を、自然に書くようになる。

 言葉の毒に触れたい。何故かは分からないけれど、昔からずっと、意地悪な小説が好きだ。それから、言葉そのものの面白さを感じさせてくれる小説や詩。未来を感じる言葉や、取り憑かれたように書かれた言葉たち。言葉って、本当に無限だよなと思う。僕もたっぷり勉強して、いろんな言葉に触れて、たくさん書きたいと思う。心身の調子をどんどん良くして、やっぱり音楽も作りたい。

体調が良くなってきた

11月19日(土)、
 このところ、本格的に鬱が治ってきたと感じる。まだ少し、ぼんやりとした匂いのような憂鬱感は残っているけれど、死ぬほど重い鎖が心臓に巻き付いているような、死ななきゃどうにもならないような、絶対的な絶望感は無くなってきた。みぞおちの奥に絡み付いて取れないチェーンのような鬱陶しさはあっても、ときどきは胸の中の温かみさえ感じられるようになってきた。まあまあ、生きていける程度には身体が軽い。

 本当は身体全体で、水と一体化した魚のように、自由な気持ちでいたいのだけど、ここまで回復しただけでも有り難い。僕の精神は、多分壊れやすいと思うけど、休んでいたらきちんと回復するのだからすごい。それから、毎日鬱陶しい顔でだらだら自己嫌悪してばかりの僕に、気長に普通に接してくれた友人たちや両親の存在も、すごく大きな助けになった。もう大丈夫、かは分からないけれど、遠からず、鬱だった自分を過去形で語れるようになれる気がする。

 昨日と今日、夕食時に、日本酒を飲んだのだけど、ビールより日本酒の方が、酔い心地がほやほやして、冬には日本酒の方がいいかもしれないと思った。刺身で飲む日本酒は、最高に美味しい。獺祭というかなり有名な日本酒を、通販で買って飲んでいる。今日、試しに、獺祭じゃなくても案外飲めるんじゃないかと思って、よく宣伝されている銘柄の大吟醸を買ってきて飲んでみたけれど、獺祭の美味しさを再確認できただけだった。多分、他にも美味しいお酒があると思うので、冬の間に、何本か買って飲んでみたいなと思っている。去年くらいまで、薬を飲んでいる内は、アルコールはあまり飲むなと父に言われていたのだけど、最近は、僕が見るからに元気になってきたからか、特に何も言われない。けっこうふらふらになるまで飲んでいる。

 本。一冊一冊、一頁一頁に、果てしない世界が隠されている。本棚の前にいると、溜息を吐きたくなるくらい、満ち足りた、何というか、豊かな世界にいるような気持ちになることが増えた。僕の眼に映る世界は、それぞれが僕の意識から独立した小世界で、そして風景たちは満遍なく、僕のシナプスの発火と反応し合って、普遍的なような、特殊なような柔らかい光を発している。真空管のような、甘く柔らかな光。ドーパミンのおかげで、何もかもがビビッドに見えることもある。本の中の風景も、眼前の風景も。

 音楽は、やっぱりロックが好きだ。この間は頑張ってクラシックを聴いてみたけれど、音の輪郭を掴まえるのに苦労した。まだ慣れてないせいもあるだろうけど。スピーカーから流れ出してくるギターの音を浴びていると、全身の細胞が気持ちよくなる。

 人間には興味が尽きない。人という言葉に温かみを感じるようになってきた。人はそれぞれ、みな固有のストーリーの中を生きている。人が生きている世界に生きていたい。人間として生きていたいな。

日記、メモ

11月15日(火)、
 完璧な世界に住んでいたい。僕は真夜中が大好きだ。昼間うるさい、僕自身を弾劾してくる、「僕が」、「僕は」、「僕なんか」、僕、僕、僕……、の連なりが、あっさり消えてしまうからだ。ヘッドホンで、あるいはスピーカーで大音量で音楽を流しながら、ぱたぱたキーボードを叩いている時間が僕にとっては至福で、ある種の状態に「入った」とき、「モード」が切り替わったとき、音楽と言葉の中に、僕自身は消え去っていく。自室で自失することが、僕にとって完璧な世界。そこにあるのは、ただ単純で完璧な全ての全てだ。
 だから僕の夢は、もっと完璧な密室を手に入れること。あまり夢について詳しく書くと、白けてしまうので、簡単に書くけれど、音楽の機器に囲まれて、それらのランプが暗闇の中で銀河みたいに光っていて、ディスプレイがあって、キーボードがあって、座り心地のいい椅子があるような部屋が欲しい。もちろん外界の音は完全にシャットアウトされている。その部屋の中で見捨てられた人形みたいに生きたい。地球最後の人みたいな意識で生きたい。もちろん、死ぬまでずっとその部屋にいたい訳でもないけどね。外出も嫌いというわけじゃない。

 まだ、いつでも心の中に温もりを感じられる訳ではない。大抵僕はまだ、空虚感の中で、水に慣れないクラゲみたいに、途方に暮れている。けれど、毎日良くなっている感触はある。僕の中にある、深い水脈に、いつか辿り着けるのではないかと思う。心の中の泳ぎ方を覚えたい。

 肉体は鍛えれば見るからにすごく変化するけれど、脳はどうなんだろう? やっぱり継続して鍛えれば、脳だって、ものすごい能力を発揮するようになるのだろうか?

 

11月16日(水)、
 感傷的(東洋的)な美は、そこまで嫌いではない。本居宣長は、朝陽がぱーっと射して、真っ赤に光る山桜ほど、例えようもなく美しいものは無いと言った。オレンジ色の、とろりとした陽光に満たされた畳の部屋とか、庭の隅で冷たく光る湿った石、あるいは金や銀の遠い海原、百万里も拡がる谷川の情景、その中を飛ぶウグイス、反響するその鳴き声……、美しいものはいっぱいあって、それらの風景のひとつひとつの、遠い、身に染みる情景を、全否定したいとまでは思わない。

 でも同時に、そこから遠く離れても、僕は成立している。キーボードが僕は大好きだ。人工物が好きだ。日本が嫌いって訳じゃない。でも日本の伝統や美というものに、共感したことが殆ど無くて、ヴィクトリア調の部屋や、西欧の古城の写真に、どうしても懐かしさを感じる。古い音楽でも、雅楽や三味線や琴には馴染めない。

 今日は一日中クラシックを聴いていた。僕はクラシックのことは殆ど知らなくて、今までは、たまにバッハとかベートーヴェンなどの、有名な人のピアノ曲を聴くくらいだった。たまには全然馴染みが無かった人の音楽も聴いてみようと思って、今日はラフマニノフとかマーラーとかプロコフィエフストラヴィンスキーシベリウス、と、一応名前だけ知っている人の曲を延々流していた。
 初めて聴く曲ばかりで、少し身構えていたんだけど、聴いてみたら、案外、例えば、映画のサウンドトラックみたいに、すんなり聞けたので、何だ全然難しくないじゃん、と拍子抜けした。もっとおどろおどろしくて、難解なんだとばかり思っていたんだけど。
 大好きなピアニストのグレン・グールドが、シェーンベルクという作曲家を高く評価していたので、グールドの弾くシェーンベルクを何曲か聴いたことがあるのだけど、それは不気味で、わざと心地よい和音やメロディを避けて作った、奇異を衒った音楽みたいに聞こえて、どうしても楽しめなかったので、有名じゃない作曲家はイコール難解、というイメージが頭にこびりついていたみたいだ。……もしかしたら、いろんなクラシックを聴いていたら、シェーンベルクも、楽しめるようになるのかな? だって、グールドが、いいと言うのだもの。
 ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番は、映画みたいで、石造りの小さな家に住む少女が、街に出て行って段々人として生きることの悲しさを知っていくようなストーリーが、頭の中に映像的に浮かんできた。空や風の音が印象的な白黒の映画みたいだと感じた。
 何年か前に、二十人ほどのピアニストの演奏を聴き比べたことがあるので、好きなピアニストは何人かいる。でも、とても有名な曲、しかもピアノの独奏曲しか聴いたことが無かった。オーケストラは、本当にほぼ全く聴いたことが無かったので、演奏者による違いはまだ分からないし、いまだに指揮者の、演奏への貢献度が分からないレベルだ。
 マルタ・アルゲリッチというピアニストが大好きなので、彼女がピアノを担当した協奏曲を何枚か聴いた。どうしてベートーヴェンモーツァルトではなく、プロコフィエフラフマニノフなどの、(多分)あまり主流ではないクラシックの作曲家のピアノ協奏曲を、彼女が精力的に録音しているのか、不思議に思っていたのだけど、聴いてみたら納得出来た、と思う。クラシックって何も、小学校の音楽の教科書で大きく扱われているような作曲家ばかりが全てではないのだな、と思った。

 ロックの分野では、僕はヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、世界最高のロックバンドだと思っている。初めて聴いたときから、他のバンドとは全然違って、楽しいだけじゃない、内面の深い場所を見せてくれるバンドだと感じ続けてきた。でも、高校生の頃から、いろんな人にヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴かせてきて、いい反応を得られたことは、ほぼ一度も無い。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴かせて、素晴らしいと言ってくれたのは、過去、二人だけだ。まあ、僕には、自分の好きな音楽(や本)を、人に勧めまくる悪い癖があって、聴かされた方はそれだけで迷惑したとは思うんだけど……。
 クラシック音楽には、今のところ、心から好きな曲が無い。クラシックを好きになれたら、それだけで、僕の世界は、文字通り、一回り大きくなると思う。世界の大きさは、知識の総数ではなく、「好き」の気持ちの大きさで決まるものだと思っているから。楽しくないことをいくら覚えて、いくらたくさんのことを出来ても、世界は窮屈だと思う。そのことを、努力しないことの言い訳にしている節があるにしても、あんまり生きていることが好きじゃないまま、何となく生きて死ぬのは嫌だし、意味を見いだせないことをやり続ける能力が、僕には欠如している。
「好き」の気持ち自体が死に絶えるのが、鬱という病気だ。鬱のときは、生よりずっとずっと、死にばかり魅力を感じる。生きることを楽しいと思いたい。もっともっと楽しくなりたい。今やっと、書くことに楽しさを、音楽や言葉に喜びを感じられるようになってきた。強い感情だけが、生きていることの意味を、僕に感じさせてくれる。どうせなら、全てを知りたいと思わない? 幸せよりも、快感よりも、ずっとずっと根本的なこと。でも、言葉と音楽が無ければ、僕はそこに行けない。言葉の先に、音楽の先に、僕にとっての全てがある。僕の生きていく意味。生きていく力。それは全てを知りたいという気持ち。瞑想や教義じゃない。僕は僕の感情の中心にあるものしか信じない。全てが、そして全ての人が生きているんだ、って、そして何もかもが好きだ、って思えなきゃ、生きていたって仕方ない。

 

11月17日(木)、
 全てを肯定したいんだ。批判も恐怖も、不安も疑いも無い場所が、僕の中にはある。何の理由も前提も価値判断も無く、いいも悪いも無く、全てをひっくるめて、好きになれる場所。悪いことや、憎むべきことも、あるんだけどね。でもそれが自分に関わることなら、許せるはず。他人からの悪意なら許せると思う。僕自身も悪意を人に向けたことがある。人を傷付けたこともたくさんある。自己正当化してきたことがたくさんある。

 僕は多分悪人に近いし、偽善者なんだろうと思ってる。何か特別な理由がある訳じゃないけれど、そう思った方がしっくりする。

 

11月18日(金)、
 怒りとか恨みとかは一生消えないものだと思っていたけれど、そうでもないのかな? 最近になって、別に両親が激変したという訳ではないのだけど、僕の方で、親だって弱い存在なんだと思うようになった。見下している訳ではないと思う。完璧な人間なんていないというだけで。
 それに、人を恨んでいる時間なんて無いんだ。

 本当にしばしば言われていることだけれど、変わるのなら今すぐ変わるしかない。

過ぎ去り、またやって来る時間

11月14日(月)、
 朝。少しだけ眠って、まだ暗い内に起きて、チャールズ・ミンガスをスピーカーで聴いている。LEDの電球色の中で、空気は砂糖水みたいにとろりとしている。六時半になって、鳥が鳴き始めた。部屋の中はジャズの音でいっぱいのはずなのに、ミンガスのベースソロの合間を縫って、雀らしき鳥や、カラスの鳴き声が、僕の耳に割り込んでくる。彼らの声は、鋭く、硬い。耳鳴りのようだ。
 空気はあらゆる音を受け容れる。一度鳴った音は、一度も鳴らなかった音とは決定的に違うのだから、それが消えるなんてあり得ないと思うのに、聞こえたと思った瞬間にはもう、その音は僕の世界からは永遠に消え去ってしまう。そのことを思うと、寂しいような、不安な気持ちになる。宇宙の全てが記録されたレコードなんて、本当にあるのだろうか? この世を稼働させてるCPUや、事象の地平線辺りに、今までに起こった何もかもが残っているのだろうか? そうだといいという気持ちと、無くなったものはきちんと無くなって欲しいという気持ちがある。美しい感情や感覚が残っていて欲しい。今までこの地上に生きていたはずの1000億人の人々の全部の気持ちが、きちんと残っていたなら。……なのに何故こんな、嫌なことばかり思い出すのだろう。
 ……チャールズ・ミンガスの六十年前のライヴ音源を聴いている。最高の瞬間の、最適な録音。僕の最大移動距離は、音楽の中にある。もし飛行機で海外に行くようになっても、原子力潜水艦に乗って深海に行けたとしても、相変わらず僕の最大の距離や深度は、音楽の中にあり続けると思う。それは地図では測れない、特別な距離だから。心の中で正確な感覚を伴う、遠くて近い距離。その不思議な遠さは、もちろん本の中にもある。

 今はAIがものすごく進化していて、たまにYouTubeでAIが作画したイラストを見るのだけど、人間だと数時間は掛かりそうな精密な風景描写や、リアルなキャラクターの作画が、ものの数秒で出来てしまう。古い絵ならともかく、今から絵やイラストを描く場合、AIを全く使わずに、人の力だけで描いていることは、実質証明不可能なのだそうだ(AIが描いた絵を記憶しておいて、手で描くことも出来るから)。個人的には、綺麗なイラストがたくさん見られるなら、僕としては嬉しい。
 AIが自然な文章を書くのは、今のところは無理みたいだけれど、案外数年以内に、AIが詩や小説を作成する時代が来るかもしれない。面白いなら、人が書こうがコンピューターが書こうが、どちらでもいい。囲碁や将棋のプロが、AIとの対局から多くを学んでいるのだから、詩人や作家が、AIの書いた文章を研究し始めたって、全然おかしくないと思う。ロボットなら、100万冊の本だって、一瞬で読んでしまうだろう。
 100万冊から学んだロボットは、無限の文字の混ざり合った言葉の海を内面に持っていて、そこから一瞬にして、透き通った宝石のように結晶化した言葉を、ざくざく掬い取ることなんて、訳なく出来てしまうのではないかと思う。人間がインプットできる言葉なんて、高が知れてる。(90年間、毎日3冊読んだとして、98618冊しか読めない。)

 AIとは多分いい友達になれそう。何にしても、僕は僕の「好き」に忠実に生きていくだけのこと。

 大分精神状態が安定してきたと思う。まだ完全に楽しくはないけれど、生きていることを肯定的に考えられるようにはなってきた。出来れば生きていきたい。死んでも悔いは無いけど。未来を見てみたいな。

日記、Loscilを聴きながら

11月12日(土)、
 未明。街が寝静まってからの時間が好きだ。デスクライトの明かり。ディスプレイの四角い光。キャレットの点滅するエディタ。白いスピーカーから流れる音楽。僕は僕だけの世界を、必要最小限の物たちで温かく組み立てていく。キーボードをぱたぱた叩いている。ペリエと煙草があれば、他には特に何も要らない。

 本当に少しずつ、少しずつ、調子を取り戻してきた。

 夜。音楽を大音量で流している。

 

11月13日(日)、
 胸の奥が凝るような、その凝った部分ががたがた震えるような、椅子に座っていれば椅子から転げ落ちそうになるような、とても不安定な気分。
 身体が揺れている。物音に対して張り詰めている。

 Loscilを聴いている。彼の音楽は、エレクトロニカなのに、いつも悲しげだ。まるで終わってしまった地球を悼んでいるかのように。弦楽器の音に混じって、微かに虫の音が聞こえる。音楽をミュートにしたら、虫はリアルの世界で鳴いていた。窓の外から。虫たちは、彼らの季節がもう終わりを迎えたことを知っているように、儚く鳴いている。そう聞こえるだけかもしれないけれど。冬に鳴くものは、何だって寂しい。冷たい空気に濾されて、遠い車の音さえ寂しい。多分、この頃、日暮れがとても早いから。
 空を写真に撮りたい。インスタントカメラで。世界が滅びていく過程を、一日一日、記録していきたい。優しさと宇宙が両立する場所で。

 自分がどんな不安や恐怖と闘っているのか、自力で知ることはとても難しい。不安はただの、脳の問題だ、と簡単に片付けることも出来る。向精神薬にも様々な種類のものがあって、それに頼ることも出来る。でも、僕が欲しいのは、楽になるための、自殺以外の方法だ。薬を飲まなくても、いつかは訪れるはずの、感動に満ちた世界。
 けれどその情景は、僕の中で、いつも病院の屋上から見る風景だ。見下ろす静かな街に夕陽が射して、僕はギターを持っているけど、いっこうに弾かない。何だかそこが僕の最終地点のような気がする。誰もいない。傍にある冷たいギター。見下ろす街を照らす最後の夕陽。悲しくて、とびきり美しい、現代的な、終わりの風景。

 言葉は無力ではないと思う。いろんな国の言葉がある。そして、どの国にも属さない言葉がある。心の中に。謂わば、言葉になる前の言葉。言葉は形を取りたがっている。いろいろな言葉が、そして生まれる。言葉の起源、バベルの塔以前の言葉を探したって、見付かりっこない。だって、言葉の始まりは言語学者本人の、僕たちの、ひとりひとりの中に、既に、いつだってあるものだから。泣いている自分。冷たい廃倉庫のような場所に、ひとつだけの花が咲いている。廃墟の中で迷子になって、泣いている子供が、誰の中にもいるはず。花を見つけ出して欲しい。(その願いが、つまり書くことなのだろうか?)
 花を見つけたとき、僕たちはそこが廃墟ではないことを知る。見いだすのは、深く深く、満ち足りた海。その、明るい底の方に、僕たちは生きている。彷徨う人の形が僕なのではなく、花を探していた僕は、ほんとうは花が僕自身で、僕は自分自身を探していたんじゃないかと思う。海の底に咲いている、白い花。
 それよりも、もっともっと深い場所があるのだろうか? たとえば、宇宙の果て。銀河や原子の語る物語。知らないけれど、何かもっと、あるんじゃないかな、と思う。きっと見られるだろう。きっと知ることが出来る。
 とは言っても、僕は古びた廃墟の屋上で、人間のまま、個人のまま、ギターも弾かずに、息を引き取るような気がするんだけど。それは、何もかも知った後の、僕の感傷的な姿なのだろうか? 許容なのだろうか? 離別なのだろうか? いいんだ。全て(?)を知っても、知らなくても。

 ……人の温かさの中にいて、人たちは僕に良くしてくれる。怪訝そうな目も含めてね。でも、人たちの生活、人たちの愛情、善意、笑顔の全てが、暖かい世界、向こう側の風景に見えるときが、きっと来る。あなたにも。僕たち誰にだってきっと。自分の存在さえ疑われ始め、そして全ては宇宙の一部なのだと知る。一部が宇宙だと知る。あやふやに溶けつつある自意識の中で。そのとき君たちはみんな夕陽を夢見るようになる。そうして屋上へと上り始める。ひとりで、夕陽の中で。きっと来るよ。自分の生を知り、自分だけの物語を知るときが。全てだったんだって。生きていた世界が、全てだったと知って、あなたはきっと子供になり、大切なものを抱いて、屋上への扉を開く。ぱーっと世界を満たす夕陽の中で、あなたはきっと、最後の微笑を浮かべる。微笑み。やっぱりそれは、許容なんじゃないだろうか? 僕は、待っている。
 生きている。生きていることそれだけが、全てに満たされていることの証拠であると、時に思いながら。満たされていることそれだけが、僕の尊厳なのだと認めながら。……認められるのはたまになのだけれど、それでも。

日々のこと、考えたこと

11月5日(土)、
 朝。不安だ。陽射しがぽかぽかして、子供らの声がする中で、僕は骨まで冷え切ったような気分でいる。身体じゃなくて、心がかじかんでいる。昼の光の中で分裂して、我を失いたいと思う。部屋の中は、中途半端に古びた、つまらなくて心に反する本の中みたいで、つまらないなりに楽しむということが出来ない。子供たちの顔にも、影が重なっていき、いずれ彼らは、影に覆われた、とても血色の悪い表情を浮かべるようになる。よく響く声も、高いのやら低いのやら分からない乾いた声と、嘘笑いに変わっていく。サイボーグや人体改造や脳内チップの時代が来ると言われているけれど、果たして僕は本当に女の子になれるんだろうか?
 それとも僕の趣味も変わり、鄙びた中年の男のまま半永久的に生きたくなるだろうか? 少し疲れた感じの、古書店の店主みたいな風貌のおじさんは悪くない。アニメなどでは、何故か古書店や骨董品店の店主は、老人ではなく中年の男で、しかも結構格好良く描かれている印象がある。ある意味孤高で、浮世離れしているからだろうか?
 何にしても、だ。サイボーグになるにしても何にしても、ギターは弾きたいし、歌いたくて、書きたい。才能や技術はプログラムでさっとインストール出来るとは思えないから、技術や知識だけあっても、それは工業ロボットや電子辞書と同じだから、才能みたいなものは、努力して深めなければならないんだと思う。心の問題は難しい。心の奥深くのことについては、科学ではまだまだ解明出来ないと言われている。心の底や、人の心が描く世界そのものを、定式化した人はいないからだ。そう言えば映画の『ブレードランナー』でも、人間とアンドロイドを区別するのに、心理テストみたいなのを用いていたことを思い出す。アンドロイドにタグを付けるなりすればいいのに、と思ったけれど、ロボットと人間との違いを、テストでしか分からない心理で分けていたのが面白い。

 昼。最近、言葉は頭で書くのではなく、あくまで指先と、指先を含めた身体全体で書くんだ、という感覚を思い出してきて嬉しい。書こうとして頓挫していた小説の続きを書いていて、まだ全然ではあるのだけど。書くことと演奏することはとても似ている。完璧に澄んで、研ぎ澄まされてて、かつ広々として、光に満ちた意識で書けたらいいと思う。
 書くことに関しては、誤解している人が多いと思う。自分がいて、書きたいことがあって、それを言葉に変換して書く、というプロセスが一般に信じられていると思うけれど、それではとても主観的で生活的なことしか書けない。言葉の外に、確固として確立された自分という主体なんていない。生活している自分が、自分の全てではない。もちろん、書いている人の主体性(性格)がよく感じられて、生活感のある文章も、それはそれで素敵だけれど。
 書きたいことを言語化する、という方式だと、書きたいことを完全に言語化することは不可能なので、書いた本人も、自分で満足出来る言葉を書けないだろうと思う。
 書きたいことは、思考や朧気なイメージより、ずっと深いところにある。「深いところ」というと曖昧だけれど、「こういうことを書きたい」と思ったときに「いや、でも本当はもっと何か」と頭の隅でちらっと光るような「何か」があって、誰しも、簡単に見付けられて、すぐに言語化出来るようなことは、本当に書きたいことではないのではないかと思う。思考や言語に移すことが不可能に思えて臆してしまうような、頭の隅のきらきらした「何か」を書きたいんじゃないかと思う。書いていて、初めて自分にも見えてくるもの。説明するよりもずっと、踊るように、泳ぐように書くこと。その先に見えてくる、自分自身さえ想像していなかった何か。書くことは聴くことにも似ている。普段は聞こえない、自分の心や、細胞の声に、耳を澄ますこと。
 とは言っても、口で言えば、「考えずに、ただ書け」という非常に単純明快なことなんだけど、それを実践するとなると、なかなか難しかったりする。

 夕方。雨戸を閉め切っていると、小さなLEDの電球にデスク周りだけが照らされた部屋は、薄明るいというより真空状態みたいに感じられる。宇宙の果てのポッドにいるみたいだ。午後四時までは雨戸を開けていたけれど、黄ばんだカーテン越しの陽光は、部屋を病室みたいに染めていた。
 雨戸を閉めるために窓を開けると、一瞬外の世界を見渡せたけれど、そこは空気が透明で、微生物さえもガラスになって風景に溶け込んでいるような、張り詰めた、まるで冷たい妖精でも出てきそうな情景に見えた。そこは僕の部屋とひと続きの世界には、まるで見えなかった。あまりに近くばかり見て暮らしているせいか、遠近感が咄嗟には戻って来なくて、空も道路も静止画みたいで、僕に対してとても排他的な感じがした。

 夜。夜が一番好きだ。

 

11月6日(日)、
 静止した、たった一つの世界。夜中、二日も眠らずにいて、疲れて何も感じなくなると、頭の中の、自分ではうまく静止できない場所で、悪夢が流れているような感じがする。悪夢が現実を、簡単に侵食してしまう時期があった。それは自分と、世界の奥底の繋がりみたいなものが切れて、孤立した自分の回路に、自分ひとり、組み込まれているような感覚だった。

 一度でも宇宙に行ったら、あるいは前人未踏の深海に潜ったら、それがどんな短い時間であっても、もう宇宙や深海を無いことには出来ない。それと同じことが心にもあって、一度心の底にあるものを、きちんとした意識で体験したなら、もう心の底を、無いことには出来ない。

 僕は積極的には、生きる意味を信じていない。自分をあまり信じていないのかもしれない。大体において僕は、社会的な自分や、生活的な自分や、人間としての自分、大人としての自分、男としての自分、なんてものの確立を忌避し続けてきた。僕にはスキルも全然無いし、教養も、すばらしい人格も、個人としての意見も、何ひとつ所有していない。太宰治が、自分には何ひとつ無いけれど、唯一、苦悩してきたことにだけは自信がある、ということを書いていて、馬鹿だなあと思った。太宰治は嫌いではなくて、全集さえ揃えているけれど。
 自己を確立したとき、確立された自己以外の、無限の自己が除外されてしまう気がしてならない。僕は誰でもあり得るのに、と。出来るだけ、拵えた自己に拘束されることを避けてきた。僕が持っているのは、僕の世界観だけだ。
 心、あるいは世界には、深いところと、浅いところがある。深いところには対立は無く全ては統一されていて、浅いところでは、全ては対立の中で、無限にばらばらに存在している。そして、深いところと浅いところ、どちらかひとつが本当の世界ということは無い。僕はあまり深いところにも、浅いところにも、ひとしく居続けることが出来ない。僕は、自分はペンギンなのだと思う。地上ではよたよた歩くことしか出来ない。でも、地上では他のペンギンと会話が出来て楽しい。そしてまた、僕はひとりきりで海を泳ぐのが大好きだ。深く潜り、浅瀬を泳ぎ、そしてまた陸に上がってくる。
(「詩人はペンギンだ」と書いた詩人がいて、僕はそれを本当に素敵な言葉だと思ったので、ずっと座右の銘みたいにしているのだけど、誰がそう書いたのか、すっかり忘れてしまった。……検索したら見付かった。カミングズの言葉で、正しくは「詩人はペンギンだ。その羽は、泳ぐためにある。(“A poet is a penguin—his wings are to swim with.”)」だった。長い間、僕は自分を、羽の折れたペンギンだと感じ続けてきた。)

 

11月7日(月)、
 書いていて少し気持ち良くなることが、最近、時々ある。昔は、書いてさえいれば、大抵ずっと気持ちが良くて、無敵の気分になれたものだけれど、長年、何故かその状態に入れなかった。一秒たりとも。

 何をしても楽しくなかった。ずっと、不安が黒っぽいアメーバみたいに心に寄生していて、それを引き剥がすのは無理なんじゃないかと思っていた。笑っていても、趣味に走ろうとしても、本当に、一秒も楽しくなかった。言葉と音楽が最高に楽しかった時期が懐かしくて、毎日毎日試行錯誤していた。

 僕は書くときは、昔から、ほぼ必ず音楽を聴いている。最近はよく、スピーカーで音楽を聴いている。昔、ヘッドホンよりもスピーカーの方が好きだと言っていたときの感覚も、少し思い出してきた。ヘッドホンはヘッドホンで大好きなんだけど。

 

11月8日(月)、
 僕の過去の記憶には、粘着質の紙テープがべたべたと貼られていて、しかもそのテープがあちこちで捩れたり、結び目を作ったり、こんがらがったりしている。記憶自体に張り付いていると言うよりは、寧ろ過去を振り返る僕の目に、テープがいっぱい絡み付いているような感じだ。
 今日は月が明るい。ジャクソン・ポロックは「自然とは私だ」と言った。僕もそう思う。自然とは僕だ。けれど同時にポロックは、自分は月の光や満ち欠けに大きく影響を受ける人間だとも言っていた。それも同感だ。月が明るい晩には、心の湖が澄む。テープのべたべたや括り目が一時的に解かれて、身体が軽くなる気がする。体液が透明になる気がする。

 ここ数日、僕は本当はとても宗教的な人間なのではないかと思い始めた。特定の宗教には入らないと思う。自然や物や、人間に対する、あるいは見えないものに対する、慈しみのような気持ちが、僕を生かし、また僕の世界を生かしているのではないかと思う。慈しみは言葉を産むし、そして言葉を旅するその旅路は必ず、僕が目指す、世界の彼方に連なっているだろうと思う。瞑想には興味が無い。マントラにも興味が無い。けれど祈りはある。
 小さな小さな人間的感傷が、結局は一番深くて、一番遠い何かへの唯一の道なのではないかと思う。何故そう感じるのか、理論立てて説明することは出来ないけれど。それは「人間とは何か?」という問いに対する答えと似ている気がする。矛盾も含めて、苦しみも痛みも含めて、全ては人間なのだ。人類に対する漠然とした愛ではなく、個人的な愛が全て。たとえばグレゴリオ聖歌を聴いてみると、それは神がかっていて、何か、心の中に反応する場所があるな、と感じるけれど、結局のところ僕個人にとっての全ては、聖歌ではなく、ニック・ドレイクの歌の先にあると思う。
 そして大切な誰かの手の温度、何気ない会話、微かな心のずれに胸が軋むこと、神経症的に震える、優しい笑み、寂しいこと、葉っぱが鳴ること、誰かとふたり、薄明かりの朝を迎えること。儚く、さり気なく流れていっては、心を疼かせる、様々な日常的な風景が、その何気なさゆえに、僕を遙かな場所に連れて行ってくれる気がする。

 普遍的な方向や方法なんか無い。自分の世界があるだけだ。自分なりに好きになり、自分なりに書くだけのこと。こうすれば間違いないという生き方は存在しない。
 古びて冷たいお城。ひび割れた外壁にはツタが這っていて、そこにはやっぱり明るい、冷たい月が昇るだろう。中庭の大きな枯れ木と、木の許の泉。僕の故郷はイギリスにあるような気がしてならない。イギリスのヒースの荒野が、たまらなく愛しい。あるいはフランスの郊外の、人気の無い古城を思う。湖上を思う。数百年の時を経た一室で、僕は紙片を糸で編んでいる。何かしら明るく、古めかしい数式が似合うような部屋。僕の故郷は欧州の果てにあるのではないだろうか? 季語や俳句や和歌の中には生きられない。
 詩はイギリスやフランスの風を運んでくる。フランスに憧れ続けた中原中也萩原朔太郎のことを思う。日本には、もう長くはいられない。


 言葉は、情報を記録して、伝えるだけのものではない。もし言葉が正確に、現実の写しでしかないならば、僕は言葉に興味を持たないだろう。蜂は言語を持つ。けれど言葉は持たない。花の蜜の方向や距離をどんなに正確に表せたとしても、蜂は歌わないし、パソコンの前で白紙のディスプレイを眺めながら、キーボードに手を置いて、何時間も茫然としていることの心許なさを知らない。言語は学問になるけど、言葉は学問にはならない。何故なら学問以前にあって、学問の根拠になるものが言葉だからだ。
 学問は言葉に近付くためにあるのであって、言葉が学問に寄与しているのではない。その逆で、学問が言葉に接近する為に寄与しているのだ。言葉に近付くためにあるもの。五感も感情も、みんなそう。何もかもを動員して、言葉に近付き、人は、言葉を探る。言葉に潜り、言葉を耕し、小さな生を言葉に沈める。言葉を掬う……。そしてやっと、不器用ながらに言葉を発する。詩や小説を書く。物語を紡ぎ、楽器を弾く。不器用さが言葉を、言葉から言葉を紡ぎ出す力にする。言葉そのものが同時に、言葉を生み出す力だということ。そして言葉は不器用さを中心に紡がれていく。個人にしか発することの出来ない全ての言葉。言葉の全て。それは全て。個人の生が全て。

 宇宙は言語で表せる。惑星の軌道や、星のきらめきについて。彼らは何も語らないけれど、とても大きな沈黙の言葉を抱えている。沈黙に耳を傾けること。沈黙の声を聴くこと。眼の前の壁だって、ディスプレイだって、常に無限の沈黙として、全てを語っているから、時々僕は、これら全ての沈黙に、僕という主体を溶かし切って、消えてしまいたいと思う。自失したい。それは、自分と、全てとの境界を完全に無くすことで、完璧に、完全に、気持ちいいことだから。
 でも、それ以上に、僕は言葉や音楽が好きな気持ちの方が強くて、ニックや中也のいる世界に戻ってくる。そして僕自身、書きたいし、欲を言えば、ギターを弾きたいし、歌いたいし、さらに欲を言えば、英語やフランス語を学びたい。ドイツ語にも、少し興味がある。そして僕はその欲を、とても頼もしく思う。同時に果てしなく哀しい光のように思う。欲を抱くって。生きていくって。人間の生って果てしない。
 僕は書きたくて、同時に、ディスプレイの果てしなさに溶けていきたい。音楽や言葉に溶けていきたい。

 書かれた言葉だけが言葉ではないけれど、書かれた言葉の方に、僕はより興味がある。そう思う程度に、僕は神経症的な現代の人間だ。身体や樹や音や万物のあらゆるものに詩を感じられる時代は終わった。少なくとも僕の中では。僕は鳥の声を聞いても虚しくなる。書かれた言葉が愛しい。音楽が愛しい。人工物が愛しい。ニック・ドレイクを聴いて、中也の詩を読んでいる。僕はとても偏っているけれど、人が好きだと思う。ひとつひとつを愛することは、全てを愛すること。それで全てが愛せたなら、僕は、自然を自然として、個別的にも愛せそうな気がする。
 けれど、僕はこれから一生花鳥風月や日本の四季や自然を愛せなくても構わない。愛せなくても愛しているようなものだし、人工物が大好きなら、それだけで一生を終えても別に構わないと思っている。

 

11月8日(火)、
 ぴりっとしてて甘い風が吹いて、朝になると冬の予感がする。昼間は暖かくて、まだ秋の続きに住んでいるんだなと思う。コートを脱いだり着たりしている。僕は部屋から出ることが極めて少ないので、季節の移り変わりは、風の匂いや温度から類推するしかない。

 今日はたまたま皆既月食が見られる日だった。相変わらず空は澄んでいて、本当にくっきりと、月の光が影に覆われていく様子が見えた。影になった部分も、ぼんやりと赤く光っていた。その内、月全体が淡く暗いピンク色になった。両親と、道路に並んで、それを見ていた。他に空を見上げている人は、近所には誰も見当たらなくて、みんな風情が無いなあ、ネットで見ているのかなと思ったけれど、時間ぴったりになって、向こうの家から、おじいさんが二人、道路に出てきた。近所の子供も、女の人も、誰も出てこなくて、おじいさんだけが空を見上げてたのは面白かった。老人は暇なんだろうか。でも変化していく様子が面白いのになと少し思った。月が段々に影になっていく過程には、何故かわくわくして、子供の頃の、プラネタリウムを見た感覚をふと思い出した。

 書きたいのに書けないときは、心の中の滑らかな流れに、じっと耳を澄ますような、そこに指を少し浸してみるような気分で、ただひたすら椅子に座って音楽を聴いている。最近、僕としてはかなり、すなわち一日に一冊以上、詩や小説を読んでいるけれど、自分では一行も書けない。書けないと虚ろになって、頭だけで、哲学的な思考に走ってしまう。

 存在が、解体されること。夢のように。たまにギターを弾きながら、そんなことばかり考えている。解体……、と言っても、哲学はよく分からなくて、いまだに、構造の解体とか言われても何なのか全然分からない。言語哲学というものがあって、言葉に関する学問なら書くことにも役に立つかもと思ってWikiで調べたけれど、全く何のことか分からなかった。
 言葉に関することで面白かったのは、井筒俊彦さんという人の、主に東洋哲学についての本と、特にそこに書かれていた真言宗の辺りについてのことだけだ。真言宗は文字通り真の言葉についての宗だということも知らなかった。言葉が何処まで遠く、深くまで行けるのか、表すことが出来るのか、と言うことについて、真言宗では、完璧な真理まで行ける、と言っているらしい。
 ロラン・バルトという人が、書くのは意味とか主張とかじゃない、頭ではなくて、存在全てを懸けて書くんだ、ということを言っていたらしくて(井筒さんの本で読んだ)、それはケルアックも似たことを言っていたなあ、とぼんやり思った。言ってみれば、考えがあって、それを書くんじゃなくて、書くという作業自体が考えや自分というものをどんどん開いて行くような感じ。それはすごく親しい考えで、白紙から書くのは(得意かは置いておいて)楽しい。書くという作業以前の何か、書きたい内容とか、自分の存在なんてあまり、僕は信じていない。演奏することと同じで、自分の主張みたいなものを一生懸命込めるのではなく、かと言って出鱈目でもなく、最低限の規則にだけ則って、あとは心を込めるだけで書くのがいいと思う。

 

11月9日(水)、
 昼。鹿が鳴いている。……

 朝から延々アニメばかり見ていた。

 

11月10日(木)、
 真夜中。やっぱり鹿が鳴いている。寂しい鳴き声。

 

11月11日(金)、
 昨日も一昨日も、考え得る限りのものぐさな生活をした。生活とも呼べないか。フランス語の詩集を開く。ろくに読めない。少し朗読してぱたんと閉じる。中也の詩集を開く。中也の詩は多くを暗記しているので、一頁開いては、眼を瞑り、頭の中で読む。ぱたんと閉じる。鹿でも鳴いてるかなと思う。耳を澄ませると全然鳴かない。何か書こうと思って、パソコンの方を見ても、電源を入れる気にならない。それが幸せな一日の過ごし方なのかは分からないけど、まあ悪い気はしない。でも、段々、このままじゃ頭も身体も腐っちゃうなと思う。小川洋子さんのエッセイ集を一冊読んだ。
 確かにここは山に近いけれど、一応は住宅地だ。鹿が街まで下りてきた話は聞かないから、鹿の声はよほど遠くから響くのだろうか? それともあれは鹿ではないのだろうか? 母は鹿の声なんて聞いたことないし、分からないと言っている。キジか何かかもしれない。あるいは近所の、鹿の真似の上手な人が、鳴き声を練習しているのかもしれない(鹿をおびき寄せて仕留めるため)。

 折に触れて孤独になることが出来たら、生きることは相当、楽になるだろうと思う。ひとりでいても、なかなかひとりの気持ちになれない。

届かない光


会いたい気持ちを代弁してくれるのは、
ビデオテープ、
寒暖の差、
秋に吹く冷たい隙間風、
虫の声、
ずっと大切にしてきたいくつかのもの、

私は私であって、
私の身体じゃない、

ひとつひとつの物たちが、ものたちの影が、
服が、服の皺が、
愛おしい。



届かない光について歌いたい。

既製品について。
盗品について、
それから、
ただの私について。



見えない翼が痛い。



神様が、私の無意識を照らす。
ここは王国。

石くれの王国。

赤い、ダウンジャケットを着て行く。

雨みたいな空模様。
全ては光っている。

手を合わせて、
祈りをあげる。

もし、祈りが言葉になるのならば、

感情以外
すべて
捨ててしまえる。