殺さずに生きたい

11月21日(月)、
 朝。ここ数日、一日三、四時間くらいしか眠っていない。無理して起きているわけではなく、また、元気すぎたり焦燥感が強かったりもしない。ただ、やっぱり身体に少し負担が掛かっているのかなと思う。寝不足で免疫力が落ちたせいかどうかは分からないけれど、口内炎が出来て、かなり痛い。眠りを妨げられるくらい痛いので、よし、こんなの噛み切ってやる、と思って噛んだら、しばらく脚をばたばたしなきゃ収まりが付かないくらい痛くなってしまったけど、しょうがないからロキソニンを飲んで、氷を舐めていたら、かなりましになった。

 身体って不便だと思うけど、不便だからこそ可愛らしいものだ。身体の苦痛なら、ある程度は耐えられる。口内炎がいくら痛かろうが、死ぬことはない。それに、ドーパミンやエンドルフィンが出ていれば、苦痛はかなりの程度やわらぐ。つまり、楽しいときや、何かに集中している時は、身体の痛みも忘れられる。もちろん、それにも限度があって、爪と肉の間に針をぐりぐり差し込まれるとか、歯に穴を開けて、そこに硫酸を注がれるとか、そういう怖ろしい拷問には耐えられなくて、何でも自白してしまいそうだし、死を懇願してしまうかもしれないけれど。
 腕を切るとか、ライターで炙ったり、針を刺したりというのは、実はそんなに痛くない。離人感があって身体の感覚が遠いし、それにハイになっていることが多いからだ。たしかアメリカに、かなりの自傷癖を持つ連続殺人犯がいて、睾丸に針を刺したりしていたらしいのだけど、爪の間に針を刺すのだけは、どうしても出来なかったらしい。自傷癖がある人でも、多分本気で痛いことは、滅多にしないと思う。あと、自傷のために自分の顔を切り刻んだという話も、僕は聞いたことが無い。昔の西洋の宗教家の中には、顔の皮を剥いで鏡を見ることで、身体など骨に張り付いた肉に過ぎないということを悟ろうとした人もいたらしいけれど、あまり真似する気にはなれない。

 自分の身体を故意に破壊することは、全然誉められたことじゃないけれど、自分の命や自分の利益を、いつでも簡単に捨てられるような気持ちで生きられたら、どんなに清々しいだろうと思う。いつかは自分の命を失うのだから、死や損失を怖れるよりは、受け容れた方がいい。自殺したり、自殺したいと思いながら生きることはとても苦しいし、殺人は、被害者も加害者も悲しいし、いいことなんてひとつも無いけれど、同時にまた、命に執着しすぎても苦しい。
 戦争や刑罰で人を殺すのは、はっきり言って間違っていると思う。困窮した国同士が、資源を取り合って争ったり、自国を少しでも良くするために他国を攻めたりして、もしそれで勝てれば、いっとき自分の国は豊かになるけれど、負けた方はやり返したくなるし、勝った方は復讐に怯えて、他国を力で抑え続けなければならないし、結局は、戦争がひとつ起こるたびに、世界はどんどん住みにくくなる。「自分の為ではなく、愛する人の為に戦う」という考えは、勇ましいけれど、みんながそう言ってたら、争いは永遠に無くならない。身近な人を守るためには、どうしても人を殺さなければならないという状況は珍しくないと思う。自分の理性や品性を捨ててでも、人を蹴落としてでも、最悪人を殺してでも、愛する人を守りたいし、出来れば笑顔が見たいという感情はよく分かる。だから、そういう状況が出来るだけ起こらないように、全体として変わらなければならないし、それ以上に、人の為と言いながら、自分の為になっていないか、自分自身でよほど注意していなくてはならないと思う。もし他人の為に何かをしたいなら、黙ってそれをして、恩着せがましくならないことが大事だと思う。
 僕は他人を変えることが出来ない。変えられるのは自分だけだ。せっせと自分のするべきことやしたいことをしようと思う。自分の気持ちを枉げてまで人の気を惹くようなことは、もうしたくない。自分に嘘を吐いて望みを叶えても、素直に喜べないし、自己嫌悪や恨みが増えていくだけだから。自分が本当に好きなことをしていたい。人から評価されたら、一瞬気持ちいいけど、すぐに冷めてしまう。評価されること自体を目的にしたら、生きることは空しくなる。

 夜。口内炎が治ってきた。身体はなかなか大したものだ。