日記、思ったこと

10月15日(土)、
 少し遠くの図書館に行って、小説を借りてきた。陽だまりは懐かしく澄んでいた。小説からは、少しレモンの匂いがした。
(小雨の朝とは違う昼の光や、少し遠くに来たという身体の浮遊感とか、風が染みることとか、今また空に浮かんでいる月の遠さとか、夜の滲み具合とか、そう言うものが、単に今、頭の中に書き込まれている情報なのだとは思えない。)
 カーテンを開けたままの部屋に帰宅したら、とろとろと部屋に流れ込んでくる夕闇に、異様な既視感を覚えた。心の引っ掛かりにぼんやりしている内に、すぐに部屋が暗くなってしまった。心の中に、何かちかりと光るものがある。何にも思い出せないことに、虚しさと孤独さと、少しの安らぎを感じながら、やっと電気を付ける。

 さっさとカーテンを閉めて電気を付けてしまうことが、健康な生き方なのだろうか? 僕には無駄な行動や感情が多い。詩や小説でさえ、無駄な感情の羅列にしか見えないことがある。でもその無駄さが秘やかに好きだったりする。サクランボより、サクランボの枝の方に親近感を覚えたりする。
 僕が健康的になったら、実用書以外はあっさりとみんな捨てちゃうだろうか? 無駄なこと、言語化に苦労することばかり考えては、ひとり悩んでいる。何か素敵なことを書こうとしては、ひとりきりで、ぼんやりしてしまう。書けないことに落胆する。僕はネガティブな連鎖を抜けられないだけなのだろうか?
 感情を簡単にコントロール出来るロボットの脳には、僕の大部分が理解できないかもしれない。僕は、たとえ間違いだらけであれ、思い悩むことをやめない。何故?

 何故、わざわざ悩むのだろう? 僕は常に何かを想像しているけれど、それは現実的な利益には繋がらないし、どんなに強く正確に想像しても、僕の想像と他人の想像するものは全然違っていて、共通の見解を得ることはまず不可能だ。でも、僕はそういう、無駄でしか無いことを、何故かとても大事に思っていて、詩や小説が大好きだ。
「詩なんかが何の役に立つのか」と訊かれたら「役には立ちません」と即答できるけど「でも……」とは言いたくなる。「でも……」の先は言えない。けれど僕は完全にひとりではない。詩や小説は毎日たくさんの人によって、書かれ続けているのだから。

 目の前のちょっとしたものを愛しいと思う。例えば、文庫本のロゴマークなど。

 カメラは、人間よりも余程正確に、完璧に風景を記録出来るけれど、カメラは多分、何も感じてない。もし、脳の中の映像記憶を、そのままメモリに移せたとしたら、十年前に見た風景だって鮮明に思い返せる。便利だ。
 けれど、古びた記憶の懐かしさ、その風景を食い入るように見詰める、昔よりずっと老いてしまった眼のひたむきさは、メモリの中には無い。
 そのひたむきさだけが、僕の根拠なんじゃないだろうか?

 借りてきた多和田葉子さんの本。読みながら、活字の連なりが今日一日の終わりを織りなしていくような感覚。僕は宇宙にほどけていく。読書ノートだけが、今夜の僕の生存を、無愛想に、きっちりと、そして、永続的に保証してくれるだろう。
 読書ノートを読み返す眼の中に、僕は生存している。他人にとっては、何の価値も無いノートだけど。

 星のように、僕は生きている。意味もなく。けれど光を発しながら。

羽化することのない痛み

 この頃は、多分軽躁状態だ。毎日が楽しい。けれど一抹の不安。
 今僕はふわふわ浮いていて、ほとんど喋り尽きるということがない。身近にいる母が僕のお喋りの一番の犠牲者になっている。僕は何時間でも喋る。意味は無くて、途切れない音と、滑らかで棘の多いリズムだけがある。台所には生活感ともったりしたにおいが堆積していて、僕は台所の主の母もまた停滞しているように思えて、時々腹が立つ。母は眠いくらいが気持ちよくて、あまり目覚めたくないと言いながら、ストーブの前から動かない。老人め、と思ったり、母の中でドーパミンは一体何処に行ってしまったんだ?、と思う。同じものを食べているのに、僕の感情だけにスピードがあって、眠さに閉じこもる母を、どんどん追い越してしまう。そういう僕が間違いなのかと思って、すぐに、つんとするくらいに泣きたくなって、本当に涙が流れてきそうで、僕は急いで笑う。
 急に、喋っている僕が何なのか分からなくなって、自分の目が泳ぐのが分かる。そしてそういう戸惑いの辺りに僕が本当はいるのかなと思っていると、幽霊みたいな女の子が、冷蔵庫の明かりに照らされている真夜中のイメージが見えて、母を相手にぺらぺらの言葉を並べている自分をとても虚しく思う。
 皮膚の粟立ち、また泣きたくなる、速度、太陽系の中でただひとり軌道がずれていく僕の感情。頭の中は真っ暗で、黙っていてもそれだけでいいような誰かと、果物、何かの果物の皮を剥いて、丁寧に切って、静かに食べたり、食べなかったりしたいなと思う。多分、寂しくなってて、僕には僕自身が、その寂しさに値しないように思えて、汚れた心と自分の言葉をグロテスクに眺めている。急に生活感が戻ってきて、ぽつんとした気分で、早足で僕は僕の世界へ、僕の部屋へ戻る。

 友人たちに会いたいとひどく思う。それから今までに会った全ての人たちと楽しい話がしたい。今、一番身近な友だちは本だ。沢山の本たち。窓を開けると、色の無い風景。固体でも液体でも、気体でもない、砂のような光が舞い降りてくる世界。中也の書いた『ひとつのメルヘン』では、透明な世界は美しいけれど、僕に見える風景はただ、僕の心が空に反映されて、全てはただ狂ったまま押し黙っているよう。自然というものにまったく興味が無かった学生時代の感覚を、ふと思い出す。
 大学は美しいポプラ並木や、図書館前の澄み切った人工の湖で有名で、誇らしげに、この景観が何かの賞を取ったとか、わざわざ看板を立てていたけれど、僕はその綺麗らしい景観を、全く覚えていない。覚えているのは夜だ。夜の構内の、誰もいない冷たい空気と電灯の光。一番素晴らしかったのは、完成したばかりのラグビー場の真ん中で、真夜中そこの芝生に転がって、芝の匂いや、夜空いっぱいの冷たさに全身で浸ったこと。夢のように懐かしい。ポプラの葉がどんな形なのかも、幹が真っ直ぐなのかも覚えていない。覚えているのは、抽象的で、あいまいで、けれどはっきりした夜の感覚だけだ
 僕が、授業が嫌いでもう嫌になったと、地元の友人にメールで書いたら、「君は自然が好きなんだろうと思う」と返ってきて、何故か、ああそうか、とすとんとした気持ちになった。地元の山や海が急に思い出された。僕の性格というのは、僕が決めるんじゃなくて、誰かからの嬉しいひと言を覚えていたり、はっとさせられたことに起因しているんじゃないだろうか、と思った。
 僕の性格は産まれ付きではなく、人に言われた嬉しい言葉の集積。例えば子供の頃「お前は本が好きだなあ」と言われて初めて、自分を本好きなのだと認識したり。僕も人には、「本が好きなんだ」と言い始める。
 今も別に僕は自然には興味が無い、と自分では思い続けているけど、「自然が好き」と友人に認識されている自分については嬉しい。少し屈折しているかもしれない。仮に「君は自然が嫌いなんだな」と返ってきてたら、その通りかもしれないけど、反発したと思う。

 雨の匂いがする。本当はアスファルトが濡れた匂いらしいけど、やっぱり雨らしい匂いだ。ゆっくりと夜の底に沈んでいきたい。明るすぎると、僕は急速に浮かび上がってしまうので、電灯の光は極力落としてある。
 この部屋の中に、僕の宝物だけがあればいいとよく思う。本当は全て無色なのだ、と科学者や哲学者は言う。じゃあこの赤は何だ、と思う。対象の表面が跳ね返す光の周波数、それがゆるやかだと、それは赤に見える。
 言葉の世界に逃げたいとよく思う。赤が周波数だとか、空の青は、大気の屈折率がどうの、なんて考えたくない。僕の言葉は今、干涸らびている。頭の中に苔が生えていて、その苔の下をちょろちょろと流れる水を、やっと指先で掬い出すようにして、言葉を書いている。
 言葉でしか表せないことがある。良し悪しは置いておいて、僕にしか書けない言葉があるはず。
 放課後の理科室みたいな、清潔な部屋が欲しい。白っぽくなったビーカーやシャーレが息をひそめているけれど、それは僕を脅かさないし、僕もそれを捨てようとしない。
 僕の過去は霞んでいる。ふやけた本みたいに。ある一日は隣の一日とくっつき、ずでんと湿った重苦しい塊となり、僕の脳内の過去の領域に鎮座している。僕はそれを開くことが出来ない。何にも分からない。毎日日記は書いてきたけれど、どの一日の記述を読んでも、それはここ数年の澱んだ、任意の一日という以外、僕に何の感興も、懐かしさも、何にも引き起こさない。
 暗い暗い、腐った殻からいつまでも出られないサナギのような生活。今になっては蝶にもなれない。

 白いスピーカーからシビル・ベイヤーの、憂鬱な空の下でぽつりぽつりと呟くような歌声と、遠い思い出を愛でるような、とても控えめなギターが流れている。最近、彼女の『Colour Green』というアルバムが大好きで、月夜を夢見るような世界に、すっかり引き込まれている。2006年にリリースされたアルバムだけど、録音されたのは1970年から1973年のことらしい。ニック・ドレイクの『Pink Moon』が出たのが1972年なので、ちょうど同じ時期にギターと声だけの、目立たない、でも世界中の孤独な人々に愛され続ける2枚のアルバムが録音されていたんだなあと思うと、50年の時間の経過なんてまるで幻想みたいに思える。僕は本当はこういう、ずーっと未来の人にも「今」を届けられるような音楽を作りたいんだと思う。言葉を書くとしても、未来に読む人が「いかにも昔だなあ」と思うようなものは書きたくない。
 多分、僕はまだ「今」だけを届けられる言葉を書いたことがない。心がしんとする。僕は中原中也の詩が好きだけど、彼の詩を「古典」として読んだことがない。ニック・ドレイクも中也も、まるで今生きている友だちみたいに感じていて、僕も出来れば、この呼吸と鼓動をいつまでも伝えられる音や言葉を紡げたら、と憧れるように思う。

 ひとりきりの夜中。ひどく感じやすくなってる。自己の消失・拡散とは逆のベクトルに向かって、僕は生存している。生きている自分を感じる。僕は宇宙になって、あらゆる光を発している。
 画集を見ていると、絵を描いた人や、本を作った人と、共通の意識を、自分が持っている感じがする。まるで、僕ひとりの為に作られたものか、それとも、まるで、僕が自分で、今この瞬間、これを、描いているような。

流れ行く(メモ)


スミスを聴いている。BOSEの白いスピーカーで。タイプライターが欲しい。僕の指先から紡ぎ出されていく言葉たち。指先はとてもアナログだから、アナログの書字機械の方が親和性が高いかもしれない。英語を書きたい。とても。フランス語も書けたらいい。世界がデジタルかアナログか、それは知らない。物理学では、宇宙は細かく見れば全てデジタルで、風景っていうのは超高性能のBlu-rayみたいなものの中に収められていて、そこから3Dディスプレイみたいなものに投影された、映像みたいなものらしいのだけど。細かい素粒子の転移によって世界は動いていて、あるいは動いているように見えて、ピクセルピクセルの中間点が無いのと同じように、光も物質も、とてもとても細かく見れば、最小単位から最小単位へ、ちかちかと点滅するように移動しているらしい。本質とか実質というのは無くて、全ては文字通りの意味で、世界というディスプレイ上に、映像として存在しているらしい。だったら何だ、って感じだけど。僕にとっては別に、地球が平たかろうが丸かろうがどうだっていいし、ここが世界の中心であろうが辺境であろうが関係ない。世界がアナログでもデジタルでも、僕には関係ない。僕は言葉が好きで、書いていたい。それだけ。



僕は経験論者で完璧主義者で、とても神経質な人間だと思う。僕が人間かどうか証明は出来ないけれど、僕は僕が人間であると、一応は定義する。一応は、というのは、そんな定義なんて無くても生きていけるし、僕が僕の思考や創造力(?)をフルに活かしているとき、僕は自分が人間であるという感じが全然しない。言葉や音楽に親しんでいると、個人としての人間を超えてしまうような体験は有り触れている。



スミスのメンバー、少なくともヴォーカルのモリッシーと、ギターのジョニー・マー菜食主義者らしく、『Meat is Murder』というアルバムまで出している。名盤だ。『Meat is Murder』は「食肉は殺人だ」という程度の意味だと思うのだけど、タイトル曲は、最初に不気味なエフェクトに混じって牛の低い鳴き声が入っていて、曲調も暗く、しかも長いのでちょっと苦手だ。僕は牛を食べる。牛肉は好物だと言ってもいい。殺して、食べる。システマティックに量産された食用牛を。牛たちに命があろうが知らない。僕は多分、のっぴきならなくなったら、人の肉だってむしゃむしゃ食べるだろう。

でも、食に過剰な興味を持つことは好きじゃない。はっきり言って、味なんてどうでもいい状態になりたくて、お金があれば、完全栄養食だけ淡々と摂取して生きていたい。点滴で全ての栄養を補給出来たら、どんなに素晴らしいだろう。食欲と性欲は嫌いだ。それが大事だと言う人は、それ以外の楽しみを知らないのだと思う。確かに、いろんな感覚に興味を持つことは大事だ。いろんな料理を心ゆくまで楽しむこと、……セックスだって、脳にいい刺激になるかもしれない。でも、そればかりが楽しい人生では得られないものがあると思う。言葉と音楽で得られる楽しみや快感の方が、セックスなんかよりずっと大きく永続的で、それは麻薬体験さえ超えていると思う。薬だけが楽しいような人生になったら嫌だ。僕は、書くこと、創造することの足しになるなら何だってしたい。いろいろ経験したい。けれど、薬やグルメやセックス自体が人生の目的になるくらいなら、死んだ方がいい。



「高く心を悟りて俗に帰るべし。」という芭蕉の言葉が大好きだ。ずっと、座右の銘にしたいくらい。普遍的な事柄について深く考えることは案外簡単で、そしてあんまり意味が無い。言葉を定義したり、厳密にすることは、言葉の拡がりを殺してしまうし、感情を殺してしまう。「悟る」っていうのは、僕の場合、全てを完全にフラットに感じることだ。自分の記憶や感情や意識も含めて。それは体験であり、言葉にはならない。言葉で考えると、必ず言葉に囚われる。そしてますます体験から遠ざかる。

フラットっていうのは、自分と世界の境界を無くすこと。何故なら境界なんて初めから無いものだからだ。そして、世界の細部と細部の境界も無くすこと。それもまた、無いものだからだ。

完全にフラットになって、内部も外部も無くなったなら、再び生活の感覚に立ち戻ること。フラットな感覚は気持ちいい。でも気持ち良さだけを目的とすると、自分が人であるという感覚を無くしてしまう。今生きている人、もう死んでしまった人の心を感じられなくなる。悟った自分を、他人より優れていると思ってしまう。生活を好きになること。まず人を、そして街や社会やテクノロジーを。世俗から完全に離れた生き方もあり得るけれど、それを選ぶなら、もう人とは関わってはいけない。人を、生きた人だと思わない人ほど、危険な人はいないから。……僕は10年間ほど、隠遁したいと思っていた。でも、僕は世捨て人には向いていない。人に好かれたいし、人を好きになりたい気持ちが強すぎる。人が好きな気持ちを捨てたら、僕の感情や感覚は確実に鈍磨する。山奥にひとりきりで住んで、それで清澄な心の拡がりを感じる人もいるかもしれない。でも、僕には無理そうだ。

僕は書きたいけれど、別に正しいことを書きたい訳じゃない。思考によって言葉を書いても、言葉は生きていない。感情で言葉を書きたい。感情は、今の社会や人たちを好きだと思うときにだけ湧いてくる。知識の羅列からは決して感情は湧いてこない。今生きている自分、そして他人を感じることが大事だ。

未来や、人間の世界の滅亡や、死についてもよく考える。多分、人類の意識は段々均一化されていく。現代は苛々の多い時代だけど、いずれは永遠の平和が訪れるだろう。そしてゆっくりと、とても明るく、光の中で、全ては終わるだろう。今はまだ、どうしても個人が個人であることの悲しみや苦しみというものが存在する。殆ど遍在する。
悲しみはとても得がたいものとして、世界に残り続けるだろう。未来の人にとっても、人間の次の知的生命体にとっても、宇宙人にとっても、もしかしたら宇宙全体にとっても、人間の個人の感情は特別なもので残り続けるだろうと思う。僕は完全にフラットになる。世界の全てを受け入れる。僕は僕の全てを完全に受け入れる。けれど同時に、ただの僕であり続ける。僕個人の感情に執拗に拘り続ける。

断捨離はしない。仏像みたいな頑なな悟りも要らない。僕は社会が好きだ。遠くから偏見無しに見れば、全ては綺麗だ。「綺麗」を書きたいし「綺麗」を伝えたい。



僕は社会的な価値基準に深く、深く囚われている。脳は不便で、とても不自由だ。

全ての傷、全ての痛み、全ての、悪意さえ包み込める、全てをまるでひとつの風景のように収められる視点がある。変性意識というより、寧ろ原始の意識。そういうとき、時計のデジタル表記は、本当に美しく見える。それはひとつの意識のあり方というより、ひとつの場所の感覚と言った方がいいかもしれない。その場所に、僕は十年間、一秒も行けてない。フラストレーションが溜まっている。もう絶対に行けないどころか、そういう場所があることさえ忘れていて、生活の中でもがいていた。言語力が足りないのだと思いながら。

誰でも、新しい本を読むとき、どこでもいい1ページをぱっと開いて、さっと眺めれば、大体自分に合う本か分かるものだと思う。それは、もしかしたら特に日本語の本の場合、顕著かもしれない。日本語は字面が複雑で美しいと思うけれど、眺めてぐっと惹き付けられる字面と、苦手と感じる字面がある。

哲学の本は大体に於いて厳めしいけれど、東洋哲学の本は、いいなと思った。東洋哲学が好きになったり、つまらなくなったりを繰り返していた。今、哲学は要らないなと思いつつ、東洋の、禅とか仏教の考え方は、正しいと思っている。神はいない。世界は無くて、同時に有る。感覚があるから、世界があって、自分がいる。身体の感覚を失うと、世界はただとろりと溶けた、ひとつの総体でしかない。世界は言葉や音楽のように流れている。流れはあるけれど、何か、が流れている訳じゃない。未来も過去も無いし、物質も無い。有るのはこの瞬間だけだ。瞬間なので、本当は何にも無い。何も無いけれど流れている。ゼロなのに「これはマグカップだ」と言葉にすることが出来る。それはとても美しい感覚だ。

一見意味の無い言葉たちが、異様に輝く。言葉たちは、動き、流れている。

感情的な表現には、それほどの感情が含まれてないと感じる。怒りや熱っぽさには、うるさい自己主張や焦りがある。本当に感情がある人の表情は、一見無表情に見える。本当に面白いとき、人は笑いも泣きもしない。ゲームに集中する表情とも、ハイになって虚空を見詰める表情とも違う。寧ろ退屈そうで、日常的な顔をしているものだ。老衰で死んだ人の表情のように。

大昔の人が、洞窟の最奥に絵を描いたのは、洞窟の奥という酸素の薄い環境では、意識が切り替わりやすかったからなのだそうだ。深呼吸したり、呼吸によるお腹の動きに意識を合わせることで瞑想状態に入りやすくなる、と言われることがあるけれど、僕が思うに陶酔状態での呼吸は浅い。僕は明確に瞑想状態に入ったことがあるけれど、そのときも呼吸を意識なんてしなかった。身体なんて無かった。意識が研ぎ澄まされたままで、呼吸も心拍も弱くなり、眼を開けたままで、海の底にゆっくりと沈んでいく感じがした。すごく遠い場所、歴史さえも無い場所に行ける。海の底では、悩みや言葉は、意識の別の側面にある。音楽さえも要らない。言葉も要らない。

僕には、どんなことでも、どうしても言葉にしたい欲求がある。言葉はとても狭い領域についてしか書けない。けれど、言葉で何かを指し示すことは出来る。言葉や音楽で行けるのは、海の浅瀬までだと思う。そこからは自らの力だけで、沈黙の海に潜らなければならない。海底とはおそらく原始人がいた場所。原始人は、音楽も言葉も持たなかった。彼らにはコミュニケーション手段さえ必要なかった。何故なら一人一人が、皆同じ場所にいると知っていたからだ。毛繕い程度で十分だった。

僕は読み書きが出来る。音楽がとても好き。音楽も、言葉も、本当は要らないのかもしれない。それは毒かもしれない。けれどそれは消滅するための毒だ。言葉や音楽を本当に極めたとき、社会は消え、何もかもが消える。そして原始から続く静けさだけが残ると思う。

個人的なメモ


子供の頃は、難しいことを学んで、難しい本を読めば、世界の全てが分かるのだと思っていた。僕は知りたかった。ある程度歳を重ねたとき、難解な本を読んだところで、世界が分かる訳ではないと思った。最終的なところは、誰も分からない。自分の生の意味や、何故世界が存在するのかということについて、誰も知らないみたいだ。

だから僕自身でよく考えて、解き明かすしかないのだと思った。訳も分からない自信があった。中学に行かなくなっても、高校に行かなくなっても、大学に行かなくなっても、何かに自分が近付いているのだ、という感触はあった。それが二十歳頃から、ぷつんと途切れた。実家で引き籠もっている内に、僕は自己嫌悪に負けてしまった。話し相手は、ほとんどいなくて、父から働け働けと、毎日何時間も説教された。

読書は本当に大事だと思うけれど、読書だけでは、答えに近付けない。自分で書いて、思考している間だけ、遠い、予感に満ちた世界に行ける。なのに僕は書けなくなった。考えたいという衝動も消えてしまった。死ぬことしか考えられなくなった。自殺未遂ばかりしている内に、心身は衰え、立っているだけでも疲れるようになった。今はかなり元気になって、買い物にも行けるほどに回復したけれど、立ちくらみはいつもけっこうひどい。椅子から立ち上がると、1分間くらい、目の前が紫色に見える。

何かが足りない気がする。命とは何なのか。答えに近付いている感触を得たい。生活的な苦しみを死んだ理由にされるのは嫌だ。ちゃんと分かってから死にたい。僕には、言葉と感情しか無い。

情報が命を得る瞬間を知りたい。自分が何故いるのか知りたい。脳科学には答えは無いと思う。脳があるとして、じゃあ何故物質に過ぎない脳が、意識や心を持つのか? 脳が全てだ、というのも、一種の信仰に過ぎない。

デカルト松果体に心が宿る、と言った。今は前頭葉扁桃体に心がある、と言う。でもそれは、楽しいときには笑う、という程度の意味だと思う。楽しいときには扁桃体シナプスが発火する。楽しさと発火は並行している。その発火が何処から来たのか、誰も知らない。何もかもが無から現れたとして、無が何処から来たのか、誰も知らない。

仏教では全てが無だと言い、キリスト教では、全ては神が作った、と言う。でも、無や神が何処から来たのか、そして僕が何処から来たのか、それは何処にも書いていない。何故か、そうなっているからそうなっていているのであって、考えたって仕方がない、生きている今を良くしていくだけだ、と言うのも尤もだと思うけれど、それだけでは何かが足りない。

数学には前提がある。前提が何処から来たのかは分からない。科学にも、例えば重力定数があるけれど、重力が永遠に、必ず同じ力を持っている保証は無いし、それは観察によって、今までそうであったから、これからもそうだろう、という経験論でしかない。(「全体の調和」というものを持ち出す人もいるし、僕にしたって、宇宙が本当に調和しているのなら、どんなにいいだろうと思う。けれど、「人間が生まれた」というただひとつのことを取っても、十分宇宙が不調和であることの根拠になる気がする。靴の擦り減り方だって、右と左では大分違う。調和の中に溶けて行けたならな。と書きつつも、僕は多分、調和というものを信じているのだろう、と感じる。いや、願っていると言った方がいいかもしれない。)



最初から好きなものよりは、好きになろうとして好きになったものの方が、もしかしたら多いかも知れない。馴染みの無いものを急に好きになるのが難しいからと言って、一見して興味が持てないものをすぐに放り出していたのでは、自分の世界はなかなか拡がらない。

本は、読まなくても本棚に並べてるだけでもいいと思う。

僕は国民性とか、日本人の血、とかいうものを信じていない。大昔の日本人の感覚や記憶を、今の僕が覚えている訳が無いと思う。



昔、中学校に行かなくなったとき、それでも毎日律儀に制服を着ていたことを思い出す。一応、行くつもりはある、という体裁は守らなきゃいけないような気がして。今は僕は引き籠もりだけど、だからと言ってずっと同じパジャマだとか、カップ焼きそばだけを食べてむくむく太るとか、見栄も外聞も捨てたような生き方をすると、まずいんじゃないか、という強迫観念がある。

少しは社会のことを知りたいと思って、新聞を買ってきたけれど、大抵の新聞記事は、文章が良くなくて、あまり読まない方がいい気がした。悪文は悪文で、読んでいれば文章の勉強にはなると思うけれど。

本当はもっと外に出たいと思うけど、行く場所が無い。今よりずっとひどい、鬱の数年間の間に、僕はひどく疲れやすくなった。鬱状態になると、何も目に付かなくなってしまう。鬱の間は、床にへばり付いた嘔吐の跡を、数年間ほったらかしにしていた。掃除をしたり、歯を磨いたりするのは、これからも生きていく人が計画的に行うことだ。僕は自分には、もう回復の見込みは無いと思っていた。

今は、出来ればもっと生きたいと思っている。ほんの時々、楽しさや面白さの影みたいなのを感じる。音楽や読書が好きだ、と言える。手も震えない。もしかしたら、生きていたら、楽しい時間が戻ってくるのではないか?、という期待がある。

自分を悪くしてしまいたくない。空虚感や疲労と、文字通り格闘している。とんちんかんな努力かもしれないけれど、例えばハンドソープを買って、こまめに手を洗ったりとか、いい匂いのシャンプーとボディソープを買ったりとか。手をよく洗うおかげで、最近買った本は、すぐには手垢で汚れない。ゆっくりゆっくり古びていくのが好きだ。手をあまり洗わずにいると、本が少し嫌な汚れ方をする。

世捨て人にはなりたくない、という気持ちがこのところ湧いてきて、もっと頭が良くなりたいとか、格好良くなりたいとか、人に好かれたいと思ったりする。ひたすらな世捨て人の方がいいのだろうか? でも浮世離れすることが怖い。理念の上では、格好付けたいなんて、馬鹿馬鹿しい。でも、身なりも何もどうでもいいとしか思えなくなったとき、何かが消えるような気がしてならない。

あるいは、世俗的な心を一切無くすことは、もしかしたら本当に正しいのかもしれない。でも僕は、格好付けたいという気持ちがとても好きだ。そして、今この瞬間の自分の感情や鼓動を感じていたい。
心から笑いたい。笑う暇も無いほど楽しくいたい。死ぬ前に、墓参りしたい人が何人かいる。ずっと、寂しさを感じていたい。

未来が懐かしいこと

ディスプレイが好き。そしてディスプレイに明朝体を叩き付ける10本の指が好き。そして指先に血液を供給してくれる血管が好き。脳と指先を繋ぐ神経が好き。僕は僕の脳が好きだ。キーボードは僕の指の延長。指は僕の脳の延長、そして脳は心の延長。ディスプレイに映し出される日本語は、僕の心の正確な延長。

僕は奏でるために産まれた。身体なんて、音楽を顕在化させるための楽器に過ぎない。音楽が僕を揺さぶる。僕は音楽に身を任せるだけ。

言葉は、言った途端に過ぎ去ってしまって、結局は何も言えないので、もどかしさばかりが残る。けれど、言葉は好きだ。言葉はいつか、言葉に出来ない場所に辿り着ける。僕は書き続けたい。

身体はひとつの十分な表現。音楽でも、絵でも、やりたいことをやればいい。

他人にとっての僕は、ただの表面だ。僕に表せるのは表情や言葉だけ。いくら苦しみを訴えても、苦しみそのものが伝えられる訳じゃないし、また伝えたいとも思わない。一生懸命苦しむことで、僕は何を期待していたのだろう? 憐れんでもらいたかった? 僕は僕自身で、楽しくなる努力をしなければならない。生きている他人を認めない限り、僕もまた、生きた心を持った存在だとは認められない。

何にも気にならなくて、ぷくぷく浮いたような時間が続くことがある。まるで世界はひとつの海で、海のほか、何も無いような。僕は物質や現実が、完全には信じられない。科学も数学も大事だと思う。それに、それらはとても面白い。プログラミングとかも。でも、それらはあくまで仮定的なもの、という感情が拭えない。

人々が、苦しくても、生活や、生活的な感情に縋るのは、現実の外に放り出される恐怖を、みんな本能的に知っているからではないだろうか? 僕は、現実感を失う恐怖に耐えられない。僕は書き続けることに、安堵を覚え続けている。現実の外には行きたくない。僕は時々、現実を統合出来ないし、自分を統合出来ない。僕は、しつこく、僕の手指に拘る。痛みを覚えるほどに指を使い続けると、指が確かに現実だと信じられるようになってくる。それから僕は、物に固執する。自分の、良くない声にも固執している。自分の、表面的なデータをかき集めて、辛うじて僕という個体を保っている。

相変わらずジョイ・ディヴィジョンを聴きながら、真夜中、煙草を吸って起きている。デスクの上に揃えた10本の指は、書くためにとても便利だけれど、書いている間、両足にはすることが無くて、音楽に合わせてぺたぺた足踏みするくらいしか用途が無い。パソコンにもペダルがあって、有効に使えたら面白いのに。

坐っている自分を意識しなくなると、コックピットにいるような気分になる。大気圏を越えて、宇宙にも行ける。音楽を浴びていると、自分の身体が消失して、僕が消えて、世界には音楽だけがあるみたいだ。

脳は僕を何処までも連れて行ってくれる。全ての細部が美しくて、細部を見ているだけで、一日が終わってもいい。

人類は進化している。人は昔より幸せじゃなくなった、と言われることがあるけれど、いずれテクノロジーは人を幸せにするだろう。人と人とがダイレクトに繋がれる、意識のネットワークが開発されることによって。精神的には人間は退化したかも知れないけれど、いずれ物質的な進化が一段落すれば、人類全体の世界観が一変するような、精神的な進化の時期がやって来ると思う。世界観ががらっと変わって、悩みは一掃されるだろう。いずれ、身体は不要になるだろう。国境も年齢も性別も無くなり、宗教も無くなる。もっと正確に言えば、もともと国境や年齢や性別なんて存在しなかったことが共通認識となると思う。最終的には、個人という概念も必要なくなり、芸術も世界から消え失せるのではないかと思う。自分の内側と外側という概念が消え去り、大きさや空間という概念も、今とは全然違った風になると思う。現代では、人は概ね自分の身体のサイズを基準にして、物の大きさを測るので、ミジンコの世界や、銀河の意識を感じることは難しい。でも、いずれ人々が身体を捨てると、大きいも小さいも無くなるだろう。

皆が一斉に、肉体を放棄する必要はなくて、昔ながらに自分の身体で生きて、あくまで自分の個人性に拘る人もいていいし、信仰を守り抜く人がいてもいい。僕が望むのは、僕自身の消失だ。人同士を比較する、競争心などが、まる存在しない世界が、早く来ればいいと思う。

夜、月

紙の本が好きだ。
それから辞書が好き。紙の。英和辞典と仏和辞典と国語辞典を持っている。どれも表紙は合成皮革で、英和辞典は限りなく黒に近い青黒色、仏和辞典は鈍いワインレッドで、国語辞典は真っ赤。
辞書には言葉の原子が並んでて、それらは寧ろ、発された/書かれた言葉よりも、ずっと生きている。辞書はちょっとした宇宙だ。そこには星々が点在し、生のままで、そのままで美しい。とても広い。言葉は宇宙を解体し、また繋ぎ合わせて編みあげて、新しい宇宙を作る。小説・詩集は、蟻塚程度の構造ではなく、まるでひとりの人生の詰まったトランクのように、懐かしい匂いに満ちている。命の光が一冊の中に編み込まれ、絶え間なく、生きている。

汚れた窓越しに見る月は、弱々しくぼやけた黄色で、疲れているみたいに見える。夜の、冷たい弱い孤独さも、風に心拍が灰色に高鳴る感じも、ずっと忘れていた。

気分が悪い。吐き気がする。煙草を吸い過ぎた気がする。あまり食べてないし、寝ていない。

夜が好きだ。また好きになった。夜になっても何処にも行けない期間は過ぎて、何処までも続く一面の夜に、私はひっそりと逃げていける。夜に私の細胞はどこまでも拡散していく。元あったように、大きさの無い世界へ。

メモ(手のひら)

東洋の美というのが、最近よく分からなくなった。僕は書や和歌や俳句や、日本の昔の建築、書院造りの部屋などが、今も好きではあるけれど、それを見る僕の眼には西洋的なフィルターが掛かっている気がする。万葉集古事記は端から分からない。富士の山を見ても感動しない自信がある。古墳なんかを見ても、まるでそこに古墳なんか無いみたいに見える方がいい。その大きさにびっくりするよりも。

「美」なんてとても薄ら寒い。手の感覚。この僕の冷たい手のひらを取ってくれる、もうひとつの手のひらを夢見ている僕は、スケールの大きさというものには興味がない。欲しいのは、個人のぬくもりだけ。ディスプレイの、人工的で仮想的な光を浴びているのが好き。架空の言葉が浮かび、クリックすると映り変わる目映いイラストたち。エディタを開いて、真夜中、音楽に溶けながら、僕の身体が消滅するのを待つ。文字を打つ指だけが、微笑むようにたゆたっている。

辞書が好き。電子の世界が好きだけれど、紙の辞書も好き。そこでは文字の核たちが踊っている。――この世界がヴァーチャルだという主張が、最近けっこう一般的になりつつあるけれど、「私」と外界(ヴァーチャル)の境界線なんてもともと無いのだと思う。私は言葉しか信じない。言葉は私を規定し、世界を規定する。人には、それぞれの世界の規定の仕方がある。

規定なんてまるで消えた瞬間が、私は一番好きだ。言葉が言葉になる前の世界。境界線が消えた世界。そして言葉は、私にとって、書くことで世界を具現化させる為にではなく、寧ろ世界を拭い去るためにある。……完全に消えた方が、ずっと遠くて、とても未来的で、気持ちいい場所に行ける。私は皆がひとりひとり、消失すればいいと思っている。自己を失う、という意味ではなく、不純物を取り去った、透明な自分に出会うこと。自分の輪郭と世界の有りようを、一度リセットする。まるで意味を失った手のひら。ただの手のひらでしかない手のひら。形容詞をまるで持たない、誰かの手のひら。私はそれを求めている。

海の花

「記憶自身が自殺するような朝にね、百年後には誰も私たちのことを知るひとなんてひとりもいないと思ったら、あたしは今日いちにちがちょっとした冒険みたいに思える。ほら」と言って真海は床の青いカーペットに指を這わせて、「もう音楽が始まっている」
 そう言ったあと彼女はまた読みかけのペーパーバックの世界に戻った。僕はプラスチック製の椅子に座って、あるかなきかの音で流れている、まるで遠近法で描かれた靄のような、電子音楽の旋律に耳を沿わせていた。部屋の中は、水族館の廃墟みたいな空気(泳ぐ魚たちの幽霊)があって、そのあちこちに本が散らばっていた。部屋の半分は本で占められていた。テーブルの上の本の山は、もう殆ど雪崩を起こしかけていたし、床上では一面に拡げられた本が、物語や詩や思想や宗教や芸術のページの渓谷を成していた。真海はその谷間に毛布を丸めて、その上に、本の国の神さまみたいな格好で座っていた。唯一、部屋の隅にある背丈ほどの本棚だけが、真海が中毒を起こしたみたいに本を買い漁り始める以前、この部屋にあった秩序の名残をとどめている。そこにはいま日が差して、フランス語の詩集には小さな虹が架かっていた。
 ある朝早く真海は「分かった! 分かったんだよ!」と言って、その日の内にリュックサックいっぱいの本を買い込んできたのだ。でも、何が「分かった」のか、いまだに僕には説明してくれない。
 真海が買ってくる本の殆どは日本語か英語で書かれているのだけど、ときにはフランス語やドイツ語や中国語の本を買ってくることもあって、「読めるの?」と聞くと、「読めない。でもいいの」と真海は答える。
「ねえ、死んだら何もなくなるのよ。死とは私たちを生あるものと感じさせる、不思議な前提なの。死があるから、出会いがある。それってとても」
 と急に真海は言葉を切って、毛布の座椅子の調子を試すみたいに少し身をよじってから、ふと笑って、僕を見上げ
「とても美しいと思わない? 私は神さまには出会わない。神さまが何かなら、それとも誰かなら、私は神さまになんか会いたくない。でもあたしはあなたに出会った。それはとても美しいこと。そう思わない? それこそ、そう呼べるなら『神さま』だと思わない?」
 そう言って、真海は本の山の頂に危なっかしく置かれていたペリエを手にとって、ゆっくりと飲んだ。

 昼、僕が台所で煙草を吸いながらラップトップに向かって書き物をしていると、本の世界から手ぶらで出てきた真海が、僕のすぐ後ろに立って何かを言った。僕はヘッドホンをしていたので、よく聞こえなくて「何?」と聞き返したけれど、彼女は「何でもない」と言って去って行った。僕は彼女のことを書いていたのだけど、急に気乗りしなくなって、台所の隅に置いてある(前は書斎にあったけれど、本に居場所を取られてしまった)くたびれたオレンジ色のソファまで歩いていって、ぐったりと横になった。目を瞑って、頭の中に二次関数のグラフを描いた。ニュートンの考えは大したものだけど、物理的な真実は、うつろな頭を慰めてはくれない。前に真海が言ったこと……「私たちには、例えば波しか見えない。音にしても光にしても、観測できるのは世界の波打ち際に過ぎないの。そして世界の全てとしての海はね、それは心の中にしかないものなの。それはとてもとても深くて、そして私たちひとりひとりは、本当は海の全てなの。いい? もし本当のことを見ようとするなら、どんなに目を凝らしても駄目。ただ感じるままに感じるしかなくて……、そして本当にいい本には、観察された海じゃなくて、海そのものの声があるの、ただひとつの海……」と真海は言った。

 静かで、遠く、絶望的な感情が、僕を満たしていった。真海とは自殺サイトで出会った。自殺の予定日は、もう少し先だ。真海には読む本があるし、僕には書きものがある。静けさが僕たちを満たしていく。僕たちは段々海のようになっていく。ある日、僕たちがついに海の底でふたり一緒にいられたとき、僕たちは一緒に死ぬだろう。そんなの、何でもないことみたいに。

メモ(詩について)

薬を飲むと、本当に気持ちが楽になります。前向きに計画的に生きていこうという気持ちになります。でも同時に自分の感情や、痛みや、共感覚が無くなります。共感覚とは、例えば、何かを触ったときに色を感じたり、……僕はどんな感覚にも色を感じることが多いのですが……、風景が音楽に聞こえたり、要するに、五感の区別が曖昧になった感じです。絵に匂いを感じたりとか……。特に、言葉に色を感じます。書くとき、単語を意味として並べていくのではなく、色合いや、音楽的な調和を意識して、言葉を紡ぎだしていく感じです。全ての単語には色、音色、触り心地や、匂い、もちろん味や、それから動きがあって、それを感じると、自分の感情を、描くように、歌うように、踊るように言葉にすることが出来ます。それを感じないとき(つまり薬が効いているとき)は、単に言葉を辞書的な、モノクロな意味としてしか捕らえていなくて、それだと正確には書けるのですが、意味以上のこと、……感情や、感覚、……は何も書けません。内容はあっても、何かどこか平坦な文章しか書けません。色合いの変化や音楽…音色や旋律や、リズム、触り心地や、匂いを感じて、それらが総動員された生命として、言葉を味わうことが出来るとき、僕は言葉ほど豊かな表現は、他に無いと感じます。……人は誰でも多かれ少なかれ、おそらく意識せずとも、言葉に色や匂いや、ともかく意味だけではない、いろんなものを感じています。だから、同じようなことが書かれていても、何故か惹かれる文章があったり、いいことが書かれているはずなのに、何故か、あまり美しく感じられない文章があったりするのだと思います。

詩は、特にそうです。詩は、意味(だけ)ではありません。それは、五感と感情で感じるものです。書かれていることの意味自体はともかくとして、詩には非常に多くの感覚(また感情)が含まれています。詩の音楽性(そもそも詩と歌は同じものでした)ということが言われるけれども、それは単に言葉のリズムがいいとか、語呂がいいということではなく、感情の流れがあることを言うのであって、七五調にすればいい、というような問題ではありません。リフレインやオノマトペなどのテクニックも、あってないようなものです。ところで、その「感情の流れ」を説明しろ、と言われても、それはひと口に説明できるようなものではなく、また、説明できるものなら、「感情の流れ」を表現する簡単なテクニックが存在することになり、感情が無くても「感情の流れ」が書ける、という妙なことになってしまう。そして、「感情の流れ」を感じなくても、そのテクニックに頼って詩を読んで、「この詩には感情の流れがあるから良い」と、簡単に点数が付けられることになってしまう。それでは、読んだことにはならない。あくまで、詩は自分で読んで、自分で感じるものです。自分の感覚と感情を総動員して、書かれた言葉を、そのままに感じること。それが全てです。……しかし、まさに、それこそが難しいということ。それを、僕はよく知っている。

心の底で、何か、うまく言えないけれど、でも明確な何か、きゅんとする何かを感じるということ。自分にとっていい作品(詩でも音楽でも絵でも何でも)に出会ったとき、自分が今まで知らなかった、あるいは形に出来なかった自分の感情に会える気がする。「何故この人はこんなに僕のことを知っているのだろう?」と、作者と実際にお会いするよりも、作品を通して、さらに深い部分で共鳴し合えた気がする。それはとても個人的で、寂しくて、カラフルな感触を伴っている。……人がいいと言う作品を、僕もまたいいと感じることは少ない。でも、それはもちろん、その人にとってとても大切な作品なのだから、僕が悪くは言えない。また、僕が本当に好きな作品が、人にとってはどうでもいい、ということが多くあって、でも僕が好きだ好きだと言っていたら、誰かが興味を持ってくれるかもしれないので、僕は割と自分が好きなものは、誰にでも強く推している(それがいいことか悪いことかはともかく)。

まだ、共感覚は、理解しやすい話題かもしれません。「共感覚があればいい」というのは、少し話を単純化し過ぎです。また、「感情の流れ」や、個人的な好き嫌い、だけで作品について語るのも、やはり創作についての、本当に大事なポイントを、ごっそり抜かしている、と感じます。僕は創作にとって……あくまで僕個人にとって……大事なポイントは、少なくとも四つあると思っていて、ひとつは共感覚で、ひとつは多即一、一即多、の感覚で、もうひとつは物ごとをどこまでもフラットに見て、社会でさえも美しいものとして捉えられる、個人的感情を超えた言語感覚です(あくまで個人的に、ですが、どんな創作をする場合でも、言語感覚は必須だと思っています)。何だって遠くから……個人的感情を抜いて……見れば美しいです。そして四つめは(三つめと矛盾するようですが)、あくまで自分自身の、個人的な感情を強く感じ、それを信じることです。借り物の物差しで物ごとを測らないこと。その四つが総合されたとき(言語表現に限らず)創作が可能になる、と個人的には思っています。でも、四つだけあれば、というのでは、やはり何か抜けているかもしれません。物ごとの基本的な心構えについては、どうも話を単純化しすぎると大事なポイントが抜けてしまうし、細かく書き過ぎると話のポイントがあやふやになってしまうみたいです。

必要不可欠ではないと思いますが、日本語で創作をする場合、何語でもいいので、外国語を習得することは、非常に役に立つと思います。日本語だけで思考し、日本語だけで書いていると、思考や文体が、使い慣れた日本語によって、固定化されてしまいがちだと思います。でも、個人的には、敢えて心得にしなくても、僕は英語とフランス語が好きだし、要するにひとつの思考に囚われなければいいわけであって、それは「個人的感情を超えた言語感覚」に含まれていると思います。

個人的には、僕が先ほど挙げた四つのポイントだけでは、何か足りないと思っています。もちろん、細かいことで、しかもどう考えても僕個人にしか適用できないようなポイントなら、幾らでも挙げられそうですが(それについては、自分宛に、秘かに書いているのですが)。

そしてもちろん、僕自身が創作を出来なければ、僕が書いた創作論は、空論ということになります。また、僕は創作論を書いているというよりは、ひとつの(僕の理想とする)世界観について書いている、という気もします。そのどちらにしても、僕は今、自分の状態が良くなっている(少なくとも悪くはなっていない)と感じていて、自信というか、希望を持っています。追々、僕自身が納得のいく創作(あるいは世界観)を、きちんと提示できるだろう、という気がしています。

でも、僕自身にとっては、僕が正しいかどうか、それを証明できるかどうか、ということは興味の無いことで、僕は個人的に、自分から解放されることを望んでいるだけです。それは同時に、僕が僕自身になることでもあるから。外的な基準を全く気にしないで我が道を行きたいとは全く思わないし、また外的な基準に合わせて自分を無化しようとも思わない。社会とはイマジネーションの構造体です。僕は社会に沈殿したイマジネーションを浮かび上がらせたいだけで、そこに僕自身というイマジネーションを新たに沈殿させたいわけじゃない。当然、社会を否定したいわけじゃないし、また肯定したいわけでもない。全てがたゆたう、あるべき状態を取り戻したい。

メモ(目覚めていられますよう)

新しいものに対する好奇心は概ね30歳で閉じてしまう、と書かれているのを読んだことがあるけど、それは嘘だな。30歳を超えて好きになった音楽は多いし、20代の時よりずっと、いろんなものに僕は興味がある。でもそれは僕が20代の初め頃から、10年間ほど、あまりの鬱で好奇心どころじゃなかったから、鬱が治ってきた今、10年分のブランクを一気に埋め尽くそうとしているのかもしれない。ネガティブなことを書くとするなら、こんなことを書いている今でも、僕は本当には楽しくない。10年間、誓って1秒だって、僕は本当には楽しくなれたことがない。けれど、これから、もしかしたら、本当に楽しい時間が訪れるのではないかという希望に縋って、僕は生きている。……美しい未来が訪れますよう。音楽は美しい。美しいと感じられるようになってきた。それ以上に文学……詩や小説を、本当に、心から美しいと感じられるようになったことは、僕にはもう考えられなかった、期待さえもしていなかった、奇跡で僥倖だ。音楽と言葉と共に歩んでいける。そして多分、きっと僕はずっと人として、人を好きで生きていけるだろう。僕が僕自身として生きていることの奇跡と不思議、宇宙や世界を知りたいという渇望も無くなることがないだろう。……熱量と共に生きていきたい。電熱線のように。白熱灯のように。何より真空管のように。熱く、光に満ちて生きたい。目覚めていられますよう。