アニメを見ていた

11月23日(水)、
 ……調子が悪くて、ずっとアニメを見ていた。

 

11月24日(木)、
 今日もアニメを見ていた。最近流行っているのと、マイリストに入れていたアニメをいくつか消化した。夜、父に「鬼滅の刃、やっと全部見た。何とか泣かずに見れた」と言ったら「泣くとこなんかあったか?」と言われて「えー」と思った。本当に鼻水が止め処なく出て、涙が溢れて、でもぎりぎり頭が痛くなるほど号泣はしない程度だったので、泣いてないことにしたんだけど。涙脆いのは、僕が大分歳を取ったのだろうか。いや、二十歳以前にも『CLANNAD』を見て、死にそうになるくらい泣いていたので、そうでもないと思う。『CLANNAD』は違うけど、どうも、仲間たちが成長して、強大な敵を、命を懸けて、力を合わせて倒す、というベタな展開に弱い。『鬼滅の刃』では、もう駄目だ、と言うところで、瀕死になっていたはずの仲間が助けてくれたり、兄の危機には必ず立ち上がってくれる(しかも結構強い)禰豆子ちゃんの頑張りがおそろしく感動的で、湧き上がってくる身体の震えをどうしようも出来ないくらいだった。あと、動けなくなった兄の炭治郎を背負ってちょこちょこ走り回る禰豆子ちゃんが可愛い。炭治郎はちょっとタフすぎるよなあ、と後で父とは話していたんだけど。「脚が、動かない。……いや、まだいける」って何回言っているんだ、ゾンビかよ、と冷たく突っ込んでしまったし、父が言うには「敵も味方も、何で基本一対一なんだ。強い奴を何人か出して、一対六くらいでぼこぼこにしたらすぐだ」と言っていて、うーむ、と思った。大体、死にかけているときでも、過去の回想が入れば立ち上がれて、「こいつ、さっきより速くなっている」とか敵に言われるのは、お約束だけれど、もういっそ、戦う前にみんなで回想したら強いんじゃないかとか、腕が一本使えなくなってからの方が強いなら、最初から片手で戦えよとか、何か、父と二人で言いたい放題言っていた。でも、見てるときには関係ない。「みんな頑張ってるな。すごいな。偉いな。僕も頑張ろう」と単純にも感動して、父が帰ってくるまでは、母相手に、何とかその感動を伝えようとした。母は「ほう」と言っていた。どうも、思い出すだけで、また泣きたくなってしまって、『遊郭編』の最終話のサブタイトル「何度生まれ変わっても」の文字を見るだけで、敵であるはずの鬼の境遇が思い返されて、悲しくなる。敵が単なる悪じゃないところが、何とも切ない。戦闘シーンがリアルに三時間くらいあって、ずっと画面を凝視していたから、見ていただけでどっと疲れたのに、炭治郎たちはずっとぎりぎりのところで三時間休みなく戦い続けていて、何という精神力だろう、まだ諦めないのか、人間の心って、ここまで強いものなのか、僕なら最初の一撃で諦めてる、と本気で思って、自分が情けなくなって、彼らが強いのも、折れないのも、弛まぬ修行と、受け継がれた意志と、仲間への信頼の力だ、そして、弱さも含めた人間への強い思いが為せる業なのだ、僕は自分が情けない、負けてはならない、強く生きるんだ、とひとしきり心を奮い立たせていた。こういう心は、すぐに冷めてしまうのが常なのだけれども、少なくとも、今はやれるだけ頑張ろうと思った。人のために戦える人になりたいと、あまり考えないことさえ、思った。

 最近、全然連絡していない人たちに、短くていいから、メールなどを送ろうかと思った。僕はいじけていて、卑屈で、自分はどうせ病気の無能だと拗ねていて、少しは足掻いているつもりだけど、すぐに怠惰に一日を過ごしては、自己嫌悪して、たまにがんばっては、またどうでもいいと思って、ともかく多分、一直線に腐っている。
 でも、もう少しだけ努力しようと思う。まだ、何もかもが終わってしまったわけじゃない。

 熱くなりすぎてて、空回りしている感はある。少しリラックスして、また生き始めようと思う。心の中心は、冷めないままで、生きていこうと思う。