没にしたメモ

 『生きていくことのメモ』を書いていて、削った部分です。削った部分の方が多いです。捨ててしまうのも勿体ないので、ここに上げておきます。


 人が本当に求めているのは、物だとか名誉だとかあれこれよりも、無と、人との繋がりの、ふたつだけなんじゃないだろうか。窓ひとつ無い、鉄格子とトイレとコンクリートの壁だけの独房でこそ、人は落ち着けるような気がする。人がいっぱいいればそれでいいという訳じゃない。満員電車に四六時中いたら、狂ってしまう。誰にも邪魔されないスペース。少なくとも僕はその場所をずっと求めている。それから、誰かとふたりで、それとも何人かで、子供みたいに笑い合うこと。そのこともずっと、すごく強く求めている。
 僕には親友がいて、十代の頃は、本当に、毎日毎日毎日、彼と一緒にいた。自分の家にいた日よりも、彼の部屋で寝泊まりした日の方が多いかもしれないし、彼もまた、ときどき僕の部屋で寝泊まりしていた。僕と彼との間には、好意の膜みたいなものがあって、それを破って近付き過ぎないように、お互いにずっと注意を払い続けてきたと思う。「幸せだ」と言った瞬間に幸せが壊れるように、「俺たち友達だよな」と言った瞬間に友情は傷付く。大体、一緒にいることに、わざわざ名前を付ける必要なんて無い。多分、彼がいるから、僕は安心してひとりでいられる。会って仲を確認し合わなきゃ崩れてしまう間柄ではないからだ。誰でもきっと、自分なりの独房を持っている。そこには誰も招待してはいけない。個人的なスペースを失うと、常に演技してなければならなくなる。そして僕には、とても多くの人が、常に演技をしているように見える。自分じゃない誰かの振りをし続けているように見える。そういう人とは笑い合えない。笑顔も嘘くさい人といると、死にたくなる。もっとひどいのは、自分自身が演技をしている自覚はあるのに、どうやってそれをやめたらいいのか分からない時があることだ。

 広々とした夕暮れの銀河をガラスの中に閉じ込める。

 枯れ木の、ひとつひとつの名前を知りたい。僕はアニメを見て、笑って、優しくなりたい。ねえ、いつか死ぬ。そんなことは心から知っている。でも、死ぬから人生は暇つぶしだなんて言う人は、大事な、とても大事な感情を忘れている。例えば、「どんなに努力しても、結局は全て失うのですよ」と言う人がいるとして、その人は、失われるものには価値が無い、という、とても社会的な既成概念に囚われている。多分、そういう人は読書をしない。一瞬一瞬が大事だから、僕たちは努力するんじゃないかな。人間の世界が好きだから詩や小説を読む訳で、いっぱい好きになって、それで死ねば、それでいいんじゃないだろうか。
 小説や詩がとても好きだ。とても、くだらないからこそ。僕は富も名誉も称賛も、本当にくだらないと思っている。きゅんとする気持ちが大事だと思う。どんなに歳を取っても。生きることって美しいよ。多分僕たちは、美しさを知るために生まれてきた。多分それだけだ。
 何もうまく感じられなくなって、生きる意味とか真理とかに逃げ始めたら危険だ。真理とか、そんなものが無いとは言えない。意味も真理もあると思う。でもそれは偉そうな人が言った偉そうな言葉を鵜呑みにすることでは得られない。

 僕たちはみんないつかは空っぽになるし、いつかは死ぬ。僕はいつ死んでもいいと思っている。人は本当にあれこれ考える。そして少し幸せになったり、すごく不幸になったりする。そうして気苦労を重ねたあげく、最終的にはみんな空っぽになって死ぬ。空っぽであることの素晴らしい万全感の中で死んだり、何もかも失ったという絶望の中で死んだりする。空っぽって、ものすごい快感なんだ。本来は生きていることは快感だ。「自分」というものは、別に確固として存在している訳じゃない。自分とか自分の身体なんていう、世界との境界線、枠は存在しない。自分で勝手に、世界と「自分」との間に線を引いているだけだ。その線の内側は絶望的に狭くて苦しい。宇宙はただ何の意味も無くあって、そこはすごい快感に満ちているけれど、「自分」は生きる意味を求めるし、そんな意味なんていくらこじつけても、絶対に手に入るはずが無い。「私は幸せになりたい」と多くの人が言うけれど、「私」と言っている時点でとても有限で薄っぺらな存在なので、絶対に幸せにはなれない。幸せとは自分という枠が無いことだ。だからお酒とか薬で自意識が曖昧になると、人は少し幸せの余韻みたいなものを感じる。

 何も知らずに音楽に溶けていけるのが好き。クラシックには溶けていけないけれど、いろんな場所に行ける。ウォークマンがひとつあれば、私たちは生きながらにして死ねるし、いくつもの世界にいくらでも行ける。ガラスの森を漂うような。バッハはロックぽいなと思う。『ブランデンブルク協奏曲』は、やたら気持ちいいし、グレン・グールドが弾くバッハの曲は、ピアノなのにギター並に快感に満ちている。
 金色のウォークマンから伸びる、金色のケーブル。金の服を着たいとは思わないけれど、金色は好きだ。見ていて落ち着く。赤と同じくらい。生きているって感じがする。メイプルリーフ金貨がずっと欲しくて、資産価値とか、人に見せびらかすとか、どうでもいいんだけど、ぴかぴか光って重量感のある金貨をただ手で転がしているだけで、うっとり出来るだろうなと思う。
 ヘッドホンは脳と音楽をコネクトするプラグ。ケーブルを通して、私はウォークマンと、その中の音楽データに繋がっていて、時空を超えて、音楽そのものにも、ミュージシャンとも繋がっている。隔絶は何処にも存在しない。テクノロジーと魔法は補い合う。音楽はテレパシーだ。本もまたテレパシーであるように。もし録音技術が確立していなかったら、僕は音楽の無い生活を余儀なくされる。
 僕の脳ではなく、音楽が僕のことを覚えていてくれる。

 今この瞬間、生きてること。

 空っぽってすごく幸せなんだ。僕が忌み嫌うことは、絶望したまま死ぬことだ。それでも死んだ後はみんな幸せなんだと思う。何故なら、もう自分がいないから、自分の痛みや悩みに苦しむことも完全に無くなるから。僕は悲観的であるとも言えるし、すごく楽観的でもある。いつ死んでもいいと思っているし、でも生きている内は、出来る限りこの世界を好きでいたい。最高の気持ち良さは、死んでも得られるし、生きてる間は、自分が消えて、自分以外の全てを好きなときに得られると思う。自分という枠なんて存在しない。自分という、世界との境界線は多くの場合、自分の思考や身体によって規定されていると思うのだけど、思考も身体も消し去ってしまえば、僕は世界に満たされる。あるいは世界が僕に満たされる。それほどの快感って、多分他に無いと思う。
 僕はずっと逃げ道を探している。自分が辛いから、苦しいから、っていう言い訳が、誰にでも通ると思っている。言い訳が通じない人からは離れる。苦しいし、苦しくない振りをしている。けっこう苦しかった。周りからの期待も大きかった。
 僕は十二歳の頃に、生きる意味が分からなくなって、幸せを求めて、嫌な言葉からは徹底的に逃げた。僕には本当の本当に、読み書きと音楽以外、何も無かった。小さな、ひとつひとつのものが好きだった。死ねばいいんだといつも思っていた。けれど本当は、誰かとくすくす笑い合えたら、それでいいと思う。昔からずっとそればかり求めていたと思う。遂にその瞬間は得られなかったんだけど、でも今も生きている理由があるとすれば、とてもプライベートな空間で、誰かと笑い合えたらな、ということ。それだけだ。
 人間の世界に生きてて、人間以外に何を求めるというのだろう? 快感なんてくだらない。そんなのひとりで勝手に得られる。人との関係以外の全てのものは、ひとりきりでも手に入るんだ。

 加湿器がそろそろ必要なくなってきた。そう思っていたら、薬局の待合室のテレビでは、空気が非常に乾燥しています、といっていた。昔僕は、粘膜がすごく弱くて、毎年中耳炎と喉の腫れに悩まされて、耳鼻科に通っていた。二十五歳頃から、命が本当にどうでもよくなって、煙草をがんがん吸い始めたせいか、喉や耳の炎症がぴたりと治まった。喫煙はいくつかの致命的な病気を予防するらしくて、花粉症にもいいと聞いたことがある。



 世界中の雨の音を集めたい。ひとつひとつを瓶に入れて、古びた木の棚に並べたい。

 人生は、おそらく一回きりではない。もし一回であったとして、それは永遠だと思う。無が有になり、有がまた無になるなんてナンセンスだ。今、この瞬間もまた無なのだという方が、よっぽど納得出来る。

 現実とは何か。現実とは思い込みだ。良くも悪くも。思い込みが無ければ現実は無い。もちろん全てはあるのだけど、現実は無い。どうしてもあるのは感情、喜怒哀楽、愛らしい人形のような人々、眼に映る街の光、自分の中の広大な世界、感覚、カラフルなイラストの数々、そしてもちろん音楽と、全ての言葉たち、それくらいだ。僕の中には果てしない街がある。僕「たち」と言うとき、もう既に、僕以外の人々が、僕と同じように生きている、という思い込みが入っている。
 人が人形だと言うのは悪いことのようでもあるけれど、僕は人形を愛している。人形と人間を分け隔てるものは何も無い。人形を愛することは倒錯的? 人間を愛することは倒錯的ではないのに?

 本当に本当に存在するものは何だろう? この世界がみんな嘘でも構わない。嘘だからって信じてはいけない理由にはならない。アニメの世界は明らかに嘘なのに、とても魅力的だ。自分が信じたいものだけを信じればいい。この世界は混沌みたいなものだから、形ある、自分が信じられるものを持たなければ、生きてはいけない。何にも執着しなければ、無の境地を知って悟りを開いた禅僧みたいになってしまう。禅僧でもいいんだけど、僕は、何かが特別に好き、という感覚がとても好きだ。悟りなんて死んだら開けるんだから、生きてる内は思い切り執着して、貪欲で感情的で衝動的でいればいい。悟りなんて仏像にでも永遠に開かせていればよくて、仏像はたまに見るだけでいい。
 本当に存在するものは一切無い。この世界が作りものでも、少なくともこの世界を作った何ものかは存在する、と昔は考えていた。でもその「創造主」みたいなものだって、本当に実在するかは分からない。それもまた作りものかもしれないからだ。創造主の創造主の創造主の……と何処まで遡っても、これこそが本物、というものには辿り着かない。要するには、「何かが絶対に有る」か「何にも無い」かは、信念の問題でしかない。そして僕は、何にも無いと思う。何にも無いけど、すごく綺麗。それでいいと思う。

 何が真実かなんて決まっていない。様々な思想があることと、様々な気質があることは、同じようなものだ。真の思想や宗教なんて無い。もし唯一正しい思想/宗教があると信じ込んでしまったら、端的に言って面白くない。ひとつの考えを採用した途端に、そこで考えがストップしてしまって、せっかくの無限の世界を、小さな有限の場所に閉じ込めてしまう。それはつまらない以上に、間違っていると思う。排他的になって、他の考えを持つ人たちとの衝突が絶えなくなってしまう。

 例えば本居宣長は、何処までも確かに「物」が実在すると信じた人で、物を深く感じる(「物のあはれ」を知る)ことが、他の何よりも大切だと説き続けた人だ。僕は小林秀雄の『本居宣長』を読んだだけで、宣長自身の著作を実際に読んだ訳ではないけれど、「物のあはれ」という言葉/考えには深く共鳴できる。宣長はまた、言葉の命を信じた人だ。物や言葉、そして特に桜(山桜、葉桜)を一生愛し続けた人だ。僕もまたソメイヨシノなんかより、山桜の方がよほど美しいと思っている。
 「感じる」というのは、ものすごく孤独な作業だ。みんなと一緒にあれこれ言いながら、感じることは出来ないし、みんなで一緒に何かを愛することも出来ない。「物のあはれ」を知る、というのは、個別の物を深く心で感じることであると同時に、個人としての自分自身、つまりは孤独を深く感じることでもあると思う。
 僕は物がとても好きだ。(好きな物について列挙していたんだけど、切りが無いので削除した。)何にも無いことと、一つ一つの物たちがとても美しいことには、何の矛盾も無いと思う。それから言葉が生きていること、音楽が生きていること。「無」には全ての生命が含まれていると思う。「無」は非常にカラフルだ。
 僕は「ひとり」を感じる時間がとても好きだ。詩を読むときに、一番「ひとり」を感じる。小説や音楽の中に感じることもある。けれどやっぱり詩が一番だ。中原中也の詩、それから最近では西脇順三郎の詩、彼らの全詩集は僕にとって宝物で、僕が僕自身の場所に戻るのに、不可欠なものだ。宝物は、生きてれば、少しずつ増えていくだろう。外国語の詩集もそこに含まれるようになるかもしれない。



 時々「あ、狂う」と感じるときがある。急にすとんと落ち込んで、何日もベッドから起き上がる理由も意欲も無くて、自分が空っぽに感じることもある。

 でも、ときどき訪れる、何も気にならなくなる時間。何ものにも代えがたい時間が、僕にはある。脳波がゼロに近付くほど楽しくなれると、僕は思っている。脳が死に近付くほど楽しい。痛みと重さの無い身体に、眼と、耳と、指先だけがある。言葉と音楽と、透明な視界だけがある。絵はあまり糧にならないけれど、イラストは大好きだ。
 脳波については碌に調べてないけれど、β波が日常で、α波がリラックスで、θ波がとてもゆっくりした、生と死の中間の波で、さらにゆっくりになると、どちらかと言うと脳死に近い意識になると思う。死の味を知ることが、生の中で最高の経験だと信じている。
 何故なら生きながらにして死を知ることは、自分が死なないことを知ることだからだ。僕は、すごいリラックスを、θの森、と秘かに呼んでいる。以前はもっと死に近付けた。ある種の訓練によって、段々、脳波を死に近付けることが出来る。その訓練はものすごく簡単で、部屋を真っ暗にして、大好きな音楽を聴いて、意識を外界からシャットアウトするだけでいい。好きな音楽は、静謐に近い。静寂と音楽は等価だ。自分が本当に好きな音楽に限るけれど。
 プルーストはコルク張りの暗い防音室で『失われた時を求めて』を書いた。バロウズはヘロインで、おそらく限りなく脳の働きを抑えて『ネイキッド・ランチ』を書いたし、スティーヴン・キングガンズ・アンド・ローゼズメタリカなどの激しいロックを、爆音で流しながら、すごく落ち着いて書いているらしい(ただこれは2000年の本に書かれていたことなので、今はおそらく違う音楽を聴いていると思う)。エレキギターほど心の静けさに近い楽器ってある? ギターがうるさいのは表面上のことで、それは荒波のようなもの。少しギターの音の底に潜れば、深海がある。ロックを聴きながら眠りに就いた経験のある人なら分かるはず。
 β波は活動的だけど、不安や苛々を伴っていると思う(繰り返すけれど、僕は脳波についての正確な知識を持っていない)。いつもβ波状態だと、死にたくなる。でもβ波はβ波で、重要なのだと思う。いや、そうでもないのかな? 何にしろ、普段の僕は神経質だ。激しく混乱していて、てんかんで倒れたり、倒れそうな状態が続くこともある。
 みんながθの森の中に入れたら、平和だろうな、と思う。みんな多分、自分というものに困っていると思うから。
 ほんの少し前まで、僕は、音楽を聴くことではリラックス出来たけれど、ギターやピアノを自分で演奏していても、それほど楽しくなかった。うるさいだけの演奏しか出来なかったからだ。シンセサイザーを弾いていると、少しリラックス出来た。音そのものが瞑想的だからだ。歌うことで自分の世界に入れた時期もある。長年、僕は単純に演奏の才能が無いのだと思っていた。けれど最近になって、表面的な意識よりも深い場所で楽器を演奏出来るようになったと思う。

 心の中はこんなにも深く、安らぎに満ちているのに。僕は普段、本当に神経質だ。外の世界の脅威にまみれている。見えるもの、聞こえるもの、そして頭の中の考えの数々が現実なのだと信じ込んでいる。プラトンの「洞窟の比喩」では、一般的に人々は洞窟の壁に映った影だけを現実と信じ込んで生きている、と説明されている。まったくその通りだと思う。

 苛々していて何にも集中できないときは、はっきり言って僕はひどく自堕落だ。煙草を吸って、処方薬を飲むけれど、あまり効果は無い。何をしていいやら分からず、あたふたしている内に時間が過ぎてしまう。



 手指の滑らかさ。

 身体という枷から解き放たれたとき、意識は無限に拡がっていく。もちろん身体は身体で、この世で生きて生活するのに、とても大事だけれど、身体に意識を閉じ込める必要はない。「僕の意識」から「僕の」を切り離せたらいい。そうして意識だけがある。僕はここにいない。「(僕がいなくて)意識だけがある状態」の中に、本当の僕がいると思う。あれこれ「僕」について考えている僕ではなく。意識が全てと溶け合う時間/状態。そこに本来の、束縛されない僕がいる。
(泳ぐように。クジラのように。踊るように。詩人の翼は泳ぐためにある。地上では不器用にしか歩けないけれど、永遠の海を自由に泳ぎ回れるペンギンのように。僕と僕以外の境界線が無くなるまで。永遠の海にダイブしたい。)

 普段、僕は僕の意識を、この怯えて強張った身体の中に閉じ込めている。不安の中に自分を押し込めている。そして「僕」が本当は何かなんて全然分かっていないのに、延々「僕は」「僕は」「僕は」という、狭い思考の中でぐるぐるしている。

 誰もが眠る真夜中、僕の部屋は限りなく宇宙に近付いていく。音楽の中で。自分と外界との境界が薄らいでいく。身体の内と外の区別が曖昧になる。僕の内面が外界へと拡がっていく。外の世界が僕の内へと溶け込んできて、内側と外側が引っくり返る。全ては混ざり合う。いつか全てはイコールで結ばれるだろう。世界全体と自分自身は正しく等価になるだろう。
 音楽やイラストや言葉の中で、意識が溶けて形を失っていく感覚がとても好きだ。

 ヘッドホンを愛している。
 嘘の光たち。LEDがとても好き。

 光と影が世界を作っている。――何らかの形で、世界に身を捧げられたら、他には何も要らない。世界を知ることは、世界の表面的なあれこれを知ることではなく、世界に潜ることだから。何もかもを知らなくてもいい。ひとつだけ、世界に潜るためのツールがあればいい。

 何処までも拡がりゆく意識と、限界のある、世界との境界線としての身体。世界と自分との間には、本当は境界線なんて存在しない。(Where is the line with you?)同時に世界から孤立した、身体によって他と差別化された「この僕」もまた、確固として存在しているように思える。たとえそれが錯覚であっても。名前とナンバーを与えられた「僕」という存在。
 僕と世界は同じものだけれど、普段生活している僕は、戸籍に登録された、ただの社会的な一個人だ。少なくとも戸籍名も住所も忘れてしまったら、社会での生活が困難になるどころか、脳に欠陥があると見なされて、病院から出られないかもしれない。本来名前の無い「全て」としての僕と、本名に拘束された、うだつの上がらない「個人」としての僕。両者は矛盾するようでも、両立させなければ、うまくは生きていけない。ただのちっぽけな「社会の中の個人」として僕を生きるのは、とても息苦しいことだし、自分は「全て」なんだ、っていつも誰彼になく宣言していたら変人になってしまう。

 僕にはペンネームが必要だ。「由比良倖」は本名ではない。けれど市役所の書類に書かれた名前が、絶対に本名だなんて、誰が決めたのだろう? 僕は「由比良倖」として生きている時間の方が長いと思う。
 「由比良倖」という名前には、宇宙よりも、掛け替えのない小さな優しさが含まれていて、とても好きな名前だ。小さな幸せが、宇宙の真理より好きだ。宇宙とか悟りとか、ともすれば僕は空疎な真理にばかり興味を持ってしまうので、悲しいくらいの、切ないくらいの、小さくて親しみのある感情を忘れたくなくて、僕はこの名前を、自分のメインの名前に選んだ。
 「由比良(ゆひら)」というのは、もちろん穂村弘さんの「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ」という短歌から採っていて、僕はこの歌の情景が滅茶苦茶好きだ。美しくて柔らかくて、優しいと思う。一応説明すると、この歌の女の子は「雪だ」と言いたいのだけど、体温計をくわえてるから「ゆひら」としか発音できなくて、そしてさわぐ女の子を眺めている作者の視線が、温かくて、でもちょっと冷めていて、でも、僕は何より「ゆひら」の発音がものすごく可愛いと思っていて、人にそう呼ばれたら素敵だと思った。生活の中のひとつひとつの小さな情景ほど素敵なものが、この宇宙にあるだろうか?
 ちなみに「由比良倖」の「倖」は、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.の書いた『たったひとつの冴えたやり方』というSF小説で、宇宙の果てに旅立ったまま行方不明になった「コー」という登場人物から採っていて、単に外国でも発音しやすそうだから付けた。それだけで、「倖」という単語に、幸せという意味があることは考えてもなくて、単に字面がいいと思って選んだ。でも今は「倖」という字は気に入っている。人の幸せ、という一番大切なことを忘れずに済むからだ。

 「由比良倖」としての僕は、世界の全てとしての僕と、ちっぽけな個人としての僕の、両方に跨がって生きている。宇宙であることと個人であること、その両者の接点、プラグ、ミーディアム、それが「由比良倖」としての僕であるといい。世界と個人、名前の無い全てと、名前によって限定された僕。キャラクター性。名前を失うことと、名前の付いた個人として生きることは、どちらも同じくらい大切なことだ。全てを感じつつ、生活の中での、ちっぽけな感情/感覚も大切にすること。その両方を同時に感じて生きることに、僕は美しさを感じる。

 日常会話だけで、本当に大切なものを伝え合うことは、本当に難しい。だから創作があるのだと思う。

 僕は僕から自由になりたい。だから夜中、僕から僕が溶け出していく時間を待っている。(2024年の)2月にリリースされたCanのライヴ盤を聴いている。気持ちいい。テクノも気持ちいいし、インドのシタール(ギターに似た弦楽器)の音は、とても瞑想的で、ああ、もうヘッドホンの中の、この空間さえあればいいな、と思うのだけど、すぐにまたギターの音に戻ってきてしまう。エレキギターアコースティックギターも、等しく好き。
 最近、青葉市子さんの音楽に嵌まっているので、クラシックギターの音も好きになってきた。彼女の歌の殆どは、クラシックギターの弾き語りだ。彼女はデビュー前に買ったヤマハのミニクラシックギターを、もう15年以上も使い続けているらしい。普通のギターより一回り小さくて、可愛らしい音がする。彼女にあやかって、僕もミニクラシックギターを買った。どっしりした音というより、流れるような幻想的な音がする。
 ミニクラシックギターを演奏している内に、ギター全般の演奏がまた好きになって、今はけっこう忙しく、アコースティックギターエレキギターも弾いている。演奏することにストレスを感じなくなった。演奏にならなくても、一音一音が特別なものに思える。
 ギターを演奏していると、指先を通して、身体の領域を、音楽の領域まで拡げることが出来る。まるで心がギターに憑依するよう。ミニクラシックギターはとても抱きやすいので、身体との一体感を感じやすい。



 いつもいつもいつも不安を抱えている。ひとりでいてもひとりになれない。僕はほとんど絶望している。死にたいと思い続けている。ただ、また書けるかもしれないという希望にだけ縋って、自殺の決行を先延ばしにしている。実際のところ僕は、いつ死んでもいい。本当に、今すぐ背後から銃で頭を撃ち抜かれてもいい。満足だ。けれど僕はしぶとい。他の何をしても、おそらく多分、書くことほどの満足を得ることは出来ないのだから、脇目も振らず、書いて、書いて、また書ける楽しさを取り戻してやろうと思っている。20年掛かっても、30年掛かってもいい。

 遠い場所が好き。ひとりきりの部屋で。私さえも関係ない場所。陶酔ではなく覚醒。でも滅茶苦茶気持ちよくて、これ以上なく楽しい場所。何の不安も恐怖も無い場所。私さえもいない場所。
 だって、この宇宙には本当は私はいない。要するに私は、私がイメージする「私」が壊れるのが怖いのだ。私が私を「私」という一人称に閉じ込めなければ、私なんて存在しないし、怖いことなんて何ひとつ無い。

 書きたいな、と思い続けている。書くことは、完全に安心できる場所を得ることだ。自分だけの小部屋で、普段の自分から解放されて、宇宙に行くこと。それが書くことの全てだ。普段決して得られない、心からの満足を得ること。

 以前、……もう13年も前のこと……、世界で一番楽しいことはふたつあった。書くことと、音楽を聴くことだ。音楽を聴きながら書くこと以上に楽しいことは存在しないと信じていた。……それなのに僕は、長い長い間、音楽をまともに聴けなくて、全く書けずにいた。言葉が、心の底の生命の海から、雪の花のように浮かび上がってくる、、、あるいは端的に、僕はいなくて、僕の身体は無くて、キーを叩く指先と、ディスプレイに浮かび上がる日本語だけがある。ヘッドホンの中の音楽に、何もかもが溶けてしまって。誰もかもが何もかもを許し合えるような、地球最後の平和の中にいるみたいな、完璧に平穏な時間を、僕は毎日過ごせていた(特に真夜中の静謐の中で)。
 ずっと、書いている振りをしている。書くのが楽しかった頃の(もう殆ど見えなくなってしまった)記憶を辿りながら、あの頃の自分を模倣すれば、ひょっとしたら、……という儚い希望を感じて、でも次の瞬間には、もう二度と幸せなときは訪れないのだと思って、全身の神経から力が抜けていく。心が干上がっていく。……もちろん泣けもしない。

 さて、最近のこと。僕に「最高の瞬間」、つまり本当の「楽しい」が、再びやって来るのか、あまり自信が持てなくなっている。正確に言えば、憂鬱や退屈や苛々や、もう何にも考えたくない時間、辛さや暗闇に慣れてしまった。あまりにも長い間独房にいると、外の世界の記憶が段々薄れていって、自由って何なのか、もう分からなくなってしまう。生きて、独房の中で死ぬのだという諦観に疲れ切って、放っておいても屍のようになってしまう。どうして『ショーシャンクの空に』の主人公は、20年間も諦めず、脱獄のための穴を掘り続けることが出来たのだろう? 20年も経ったら、外の世界は縁遠く、まるで前世の記憶のようになってしまって、独房の中が世界の全てだとしか考えられなくなるのが普通だと思う。
 僕は僕自身の牢獄の中にいる。自由って何なのか、自由に泳げるって、書けるって何なのか、ほぼ完全に近く、忘れかけている。つまらない精神を抱えた人間(つまり僕)ほど、多趣味になる。ちょうど囚人が、希望の無い四角い灰色の中で、時間潰しの技術にだけは、年々長けていくように。諦念や不安から気を逸らすためだけの技術。
 まだ、20年は経っていない。あと7年ある。僕は事実よりもフィクションに力を貰うことが多い。フィクションはリアルだから。それに現実とは「リアル」というお墨付きを与えられたフィクションであり、そのお墨付きを与えるのは不特定多数の人々で、僕は個人的に、人々の過半数悲観主義者だと思っている。つまり現実とは、悲観主義的な視点から見られた、世界の一側面に過ぎないと思う。創作家は、何よりも「楽しい」を知っている人でなければ始まらないと思う。だから僕は「楽しい」を知っている創作家の言葉を信じていて、「世知辛い世の中だ」なんて言い合って頷き合っているような、いわゆる馴れ合いの現実を、一切放棄してしまいたいと思っている。何にしろ、「辛い」とか「怠い」とか言い合っている世界に、僕の目指すものは存在しない。

 話がずれてしまった。最近のこと。言葉が滅茶苦茶好きなのは、昔から相変わらずだ。ここ三週間ほど、英語がきらびやかなくらい好きで、『不思議の国のアリス』を英語で読んでいる。はっきり言って、英語版の方が、ものすごく面白い。オーディオブックでも、毎日『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の朗読を聴いている。日本語だと、くだらない話だと思っていたのに、英語だと、心の底の小さな扉を開けて、ずぅっと前から開かれていたお茶会に顔を出せる感じがする。そこでは本当に生々しく、言葉の魔法を感じられる。言葉は魔法。うん。テレパシーだと思う。だって、僕は今こう書いている。そして、あなたはこれを読み、きっと、僕の心の大事な部分を感じてくれる。

 そしてギターをすごくたくさん弾いている。毎日こんなに弾いていたら数年後にはプロになれるんじゃないかと思うほど。



 時間が過ぎていく。時間とは何だろう?

 自分のことも、何も考えずに消えていければいいのに。

 見えるってすごいことだよね。見えるって何だろう? この景色は、何故見えているのだろう?

 机の上に、多和田葉子さんの本を積み上げている。多和田さんの本は、全部で16冊持っている。まだ買っていない本が数冊あるはず。多和田さんの本は、どれも宝物だ。活字って、宝になるんだなあって思う。

 ビートルズの濡れた世界。

 想像することが大事。と言うより妄想すること。強い妄想は現実になる。

 四月の水はクロロホルムのようにとても冷たい。長い髪のように。喉仏が清水になったような。生きていて、真実なんかよりずっと大事なことがあると分かってきた。僕にとっては陶器よりもプラスチックが大事だし、油絵の具よりもアクリルの方が大事だし、鉛筆よりもコンピューターの方が大事。
 哀愁よりも血が大事だし、雨の日の夜中のコンビニとか、点滅する信号機の黄色が濡れたアスファルトに反射していたりとか、信じられるのは水、木材、紙、カラフル。日本に生まれて良かったなと思うのは唯一、日本語っていう、面白い言語を特に苦労せず身に付けられたことだけだ。あとはアニメやイラストが大好きだけれど、それは外国にいても手に入るものだし、日本の音楽は殆ど聴かない。でも多分、もし僕がイギリス生まれだったら、日本語を勉強していただろうなと思う。
 別に新しいものを節操なく好きな訳じゃなくて、今僕は、3週間前に買ったミニクラシックギターを抱きかかえたままで書いている。(時代に合わせて生きるほど、自尊心は暗い欠片みたいになっていく。)ものを新しく好きになる必要は無いと思うけれど、人は好きにならなくちゃ死ぬ。
 僕がまずものすごく好きな人は、中原中也ニック・ドレイクグレン・グールドだ。ニックかグールドの音楽を流しながら、中也の詩集を抱いて死のうと昔から決めている。何年か前にはグールドの『ゴルトベルク変奏曲』を流しながら手首を切ったし、この間はニックの『ピンクムーン』を流しながら、お茶碗一杯分の薬をウォッカで飲んだ。きちんと中也の詩集を抱えて。
 ゴッホとかゲーテとか、偉い人はいるけれど、実質今僕が生きているのは、米山舞さんのイラスト集に、宇宙を塗り替えられるくらいの生命力を貰っているからだ。だから、神さまや仏さまよりも、十字架や大仏よりも、イラストのカラフルな生命力の方が、僕には断然大事だ。
 廃墟の底のプールサイド、靴底のガラス、とっくに壊れて、しかし尚も回り続ける室外機。僕は今、眼鏡を掛けている。眼鏡以外のアクセサリーは一切付けていない。
 好きなもの。ギター、ピアノ、コンピューター、手と指、ウクレレ、詩や小説、紙の本、イラスト集、ウォークマンとヘッドホン、あとスピーカーくらいが、今僕の部屋の中にあるものの全てだ。
 酸っぱいようなギターの音。ザ・スミスを聴いている。……

 身体が音楽モードに入っているときは、文学モードにうまく入れない。例えば、長時間ギターやピアノを弾いたり、歌ったりした後は、書こうにも、すぐには言葉が出てこない。身体をゆっくり文学モードに切り替えていく必要がある。音楽を聴きながら言葉を書くことは出来る。というか寧ろ音楽を聴きながらじゃないと書けない。
 音楽を聴くことと、書くことは似ていて、両方とも心の海の底に潜っていく感覚、あるいは身体が世界に溶けていくような感覚を伴っていて、とても気持ちいい。僕は、パソコンで書くことは演奏だと思っていて、愛用のキーボードを9本の指でリズミカルに叩く(タイピングには右手の親指を使わない)ことは、音楽の即興演奏と同じだと思う。
 おそらく、いずれ音楽モードと文学モードは、僕の中で統合されると思う。つまりギターを弾くことと、書くことを、同じ精神状態で行えるようになると思う。僕の中には広大な音楽回路と文学回路があるけれど、演奏回路はほとんど備わっていない。日本語回路はある程度あるけれど、英語回路やフランス語回路はほぼ無いのも同然だ。
 身体の中にいろんな回路を作って、それらを統合できたら楽しいだろうな。新しい研究によると、脳だけじゃなくて、身体の様々な場所に思考回路があるのだそうだ。多分、身体全体が思考しているのだと思う。そして僕の血管には音楽と言葉が流れている。そんな風に想像すると、身体がとても愛おしくなる。