生きていくことのメモ


 僕は考え方が段々に変わってきている。人間関係で嫌な思いをすることは殆ど無くなったけれど、やはり両親と一緒に暮らすのは、肩身が狭い。
 親とは諍いを起こしたくない。でも、僕にはやっぱり両親が、感情任せで生きている子供のままだとしか思えないことが多い。僕が偉そうなことを言えたものではないけど、しかし両親ともにほとんどいつもスマートフォンを弄っていて、生き甲斐と言えば孫の成長くらいで、いつ死んでもいいと言いながら、食費にだけはお金を掛けて、あとはしょうもない小言を言い合って、母は月一くらいで家出と称して旅行に行ったりしている。

 正直言うと、両親といると、自分が馬鹿になった気がするし、馬鹿な振りをしていないと両親の機嫌を損ねそうで面倒くさい。心底くだらない話に機嫌良く相槌を打ったり、父と母の仲をかなり苦労して取り持っていると、自分が馬鹿なホストか何かにでもなったような気がする。ずるずる親に甘えていて、独り立ちするための努力もしていない僕自身のことも嫌になる。

 一月に入院して痛感したのだけど、僕はおそらく人にもっと会わないと駄目になる。そして尚かつ、人と演技抜きで関われたらいいと思っている。デイケアには、二度予約して、二度とも行けなかった。小学生みたいな言い訳だけど、当日になって下痢が止まらなくて、緊張でふらふらするし、とても行けるような状態じゃなかった。服やカバンを買って、髪も切って、準備をするまではデイケアに行くのが楽しみなくらいだったのに、いざ行くとなると、恐ろしくなった。

 やっぱり僕にとっては、普段の生活で、どうしても伝えられないことがあるから、文学に惹かれるのだと思う。詩や小説の中では、正直に、ときには大胆にさえなれるから。
 人と全然上手く話せないことも、人と余裕を持って付き合えることも、両方とも等しく辛いことなのではないかと思う。どちらかと言うと人付き合いが苦手な方が、本当に言いたかったことがたくさんあるから、文学には向いている。表面的な付き合いで満足してしまったら、もう書くことなんて残っていないから。
 もし、書いていて、もうこれが書けたら死んでも構わないと思えるものが書けたら本望だ。と言って、書いて死ぬ訳ではないけれど。引き籠もりの卑屈なたわごとなど、もう書きたくない。
 要するには、人は人に会いたい生きものなのだと思う。例えば、小さな子供は、たまたま砂場で隣り合った子供同士が、無言のままで自然に仲良くなって、一緒に砂で山や川を作ったりする。そういう素朴な出会いとか、言葉抜きで仲良くなる、ということは、大人にはとても難しい。大人は孤独だと思う。でも、文学でなら、それは可能なんじゃないか、と思っている。例えば僕は、もう随分昔に死んだ、詩人の中原中也が本当に好きで、まるで親友のように思っている。ニック・ドレイクにしてもそうだ。現実の生活ではまず起こりえないような、人との繋がりが、文学や音楽の中では可能になる。ゴッホポロックの絵を実際に見たときもそうだった。絵の美しさに感動したと言うよりはずっと、絵の前に佇んで、絵を見て、僕は大袈裟かもしれないけど、仲間意識のようなものを感じた。ゴッホポロックも孤独で、僕も孤独だ。普段の生活で、孤独な人同士が出会える可能性は、ほとんど無い。でも、言葉や音楽や絵を介して、人と人とは出会うことが出来ると思う。

 人が好きで、好きであることを伝えたくて、一緒にいることはとても素敵なことだろう。けれど、人との関係性はすぐに、お互いに嫌われないようにと、微妙に嘘や誤魔化しの入ったものとなっていく。お互いに本心を隠し合って、相手に好かれようとか、嫌われたくないとか、お互いに策を練り始めたら、段々人付き合いは辛くなる。自分は優しくしてあげたのに、相手からの見返りは少なかったと思ったり、お互い相手の意見に合わせたりしていると、お互いの本当の気持ちが、どんどん分からなくなる。不自然な会話は、結局は仲を引き裂いてしまうし、段々心が冷え切ってくる。それどころか、初めに期待していたのとは違う関係性に絶望的になり、割に合わない気持ちを抱き、遂にはお互いに憎悪を抱き始めるようになる。無視さえし始める。そのくせ、相手が自分に構ってくれないと焦り、嫉妬を抱き、お互いの心が離れそうになっては急いで取り繕い合うという、危なっかしい関係が出来上がる。そこで、さて、改めて正直になろうとしても、もはや苛立ちしか残っていないから、相手に苛立ちをぶつけたり、非難し合ったりすることが正直な姿なのだという、とんでもない勘違いが起こる。そもそも最初に求め合っていたのは、心から仲良くなりたかった、という気持ちだけのはずなのに。つまりは、事の発端から、大人って言うのは多くの場合、自分を偽っていて、どんどん偽りのループに嵌まっていくのに、しかもそのことに自分自身気付かない。自分は一生懸命誠実だと思いがちだ。そのため、最初に求めていたのとは、ほど遠い場所に運ばれているのに、それを相手のせいだと思う。正直さの欠如は悪夢を産む。しかし自分の気持ちをぐっと抑えて相手に合わせることが、美徳だとか、いいことだと思えてしまうから、ややこしい。嫌われるのが怖いだけで、ちょこちょこ吐いてきた嘘が蓄積して、後戻り出来なくなったのに、なおも自分は悪くないと思う。まあ、この世に、悪意を持って人に接する人はあまりいないだろう。それなのに、人と人との関係性は、大抵悪くなる。
 正直であることが肝心だ。結局、嫌われるものは嫌われる。嘘を吐いて好かれても、早晩破局する。自分自身であること、自分を偽らないこと、それは難しいことだけど、それこそが一番大切なことなんじゃないかと、今の僕は強く思っている。優しさと誤魔化しは、全然違うものだ。そんな簡単なことが、この歳になるまで分からなかった。この頃ようやく、やっとのことで分かってきた。



 音楽の中に飛行機が見える。光の中にいるみたい。明るい、甘い、青さ。
 石造りの池のあった山間の祖父母の家を思い出す。ヘッドホンの中で一年が過ぎる。

 大人って孤独だよね。孤独すぎるから、文学や音楽があるのだと思う。真理も見付けたいけれど。
 生きているということは、今地球上に生きている七十億人だか、それ以上の人に会える可能性があるということ。言葉は、日本語なら主に日本人の一億三千万人くらいの人にしか伝わらないから、少し寂しい。言葉だけじゃなく、あらゆる表現手段は、ある種の文脈や文化の枠組みの中で作られるものだから、完璧に人類全体に伝わる芸術は存在しない。
 書くのは何かを伝えるためでもあるけれど、自分がきちんと生き切るためにも、僕は書いている。絵に自分を託せる人もいる。ポップな絵は今生きていることの実感をくれるから好きだ。過去の時代を羨ましく思ったことは無いし、未来は何処にも存在しない。
 熱帯魚を飼おうかな、って思ってる。昔からずっと飼いたいと思っていたけれど、お金も無かったし、たまには旅行にも行っていたから、飼うのは難しかった。でも今は僕は引き籠もっていて、何処にも行く予定が無い。水槽を買うお金くらいはある。ただ、すぐに飽きて、餌やりも怠ってしまう危険性はあるけれど。
 おそらく、生きたとしても残り数年の命だ。僕はおそらく何も書けないだろう、とよく思う。決して楽しくなれないし、喜びも得られないだろうと思う。何もかもを失った。あと失えるものと言えば、自分の命くらいなものだ。長い年月、心は冷め切っている。

 生きている実感。本当の喜びが欲しい。

 音楽から「何か」を、また少しだけ感じられるようになった。夢の欠片。眠って見る夢は悪夢が多くて、だから僕は起きている方が好きだ。昔は、好きな音楽を聴いていれば、自然に素晴らしい気持ちになれるのが当然だと思っていた。脳の病気は僕の世界をことごとく奪ってしまうけれど、自殺願望だとか不安だとかは別にどうでもよくて、音楽が聴けなくなったことと、本を読めないことと、書けないことが辛かった。
 別に常識に毒されたままでもいいんだと思う。ありきたりで不安で疲れた人間でいてもいい。気が触れたようなところが少しでも残っていれば、それは正常ということ。

 生きているって、どういうことだろう? 多分、感じること。宇宙でただひとりきりで、いちどきりの自分を、真っ白なくらい、強く。この宇宙は一度きりの永遠。笑っていられる、日常の中で。

 何故、生きることや、物に執着するのか? 全ては消えるし、もともと無いものなのに。優しさ、白さ、個人的であること。きゅんとすること。思い込みの深さ。宇宙の広大さは、ひとりきりの小さな部屋のためにあるのだと思う。そして宇宙の全ては、ひとりでいたり、誰かといて、泣いたり微笑んだりすることのためにあるんだと思う。それから存在したり非在したりする全て、沈黙や、嘘や、嘘でもとても綺麗なものたち、一瞬ごとの永遠たち。海辺や、ぴかぴか光る街。好きな人や、嫌いな人たち。お互いに触れ合うことの無い、数十億の人たち。死は、……そんなもの音楽が軽々と飛び越えられる。個人的見解と、感傷と、感覚と、感情があれば、それが僕にとっての全て。結局は生きてることは、そして世界は、感情論が全てだと思う。
 だから、例えば宇宙的な視点で見れば、人を殺したって、それは何と言うことのない物質的な出来事だけれど、でも殺人は悲しいことだと思う。加害者もまた、被害者だというのは、本当だと思う。自分や自分の世界を、好きだと思えないことほど、悲しいことってある?



 結局、僕は音楽と本と画集があるから生きられる。つまり、人がいるから。自然なんてあっても無くてもいい。音楽はいろいろ聴いてて、本は詩集と小説を読んでて、画集は主にイラストを見てる。哲学の本もかなりの時間読んだし、いっぱい考えたけれど、それで生きたくはならなかった。アインシュタインも「死ぬとはモーツァルトが聴けなくなることだ」と言っていたけれど、死は置いておくとしても、生きていることは音楽が聴けるということだと思う。ポップな音楽もロックもジャズもクラシックも何もかも、みんな音楽としては等価だ。最初にとてつもなく好きな曲やアルバムに出会って、そこから「好き」の網が拡がっていくように、新しい音楽を理解しながら、いろいろと好きになって行ければいい。身体の、細胞の中に、個人的な音楽回路が出来上がっていく。僕は僕の中にある音楽回路がとても好きだ。

 「人間が好き」と断言出来ないことは危ういことだろうか? だって嫌いな人もいる。嫌いと言うか、理解し合えなかったり、すごく苦手な人はたくさんいる。多分、究極には、人なら誰でも好きになれると思うのだけど。人の好き嫌いって、表面的な振る舞いの齟齬から起こるものでしかないから。僕は自分を、どちらかと言うと悪人的なメンタリティの持ち主だと思っている。けれど自分が正しいとか、自分に才能があるとか思ったことは、多分一度も無い。僕よりすごい人は本当にいっぱいいる。僕は自己愛に陥ることが多いけれど、自己愛よりも他人を好きでいる方が、自分にとってもすごく楽なことは知っている。

 死にたくなると殺伐として、音楽も頭に入ってこない。それでも生きていたくなるのは音楽があるからで、自殺願望は一時間で終わったり、数十日も、時には数年も続くけれど、結局は、音楽を聴きたいから、生きることに戻ってくる。死にたいときも、ほぼ一日も欠かさず、日本語を書いてはいるけれど、それは習性のようなもの。僕は書く生きものだ。

 「生きる意味」なんて考えると、意味は無い。喜びの無い時に喜びについて考えても、喜びなんて無意味な錯覚にしか思えない。感動も忘我も自分からは隔たれた、遠いものだとしか感じられないとき、生きることは苦痛で、生存なんて無駄だとしか思えない。後悔と、もう何もかもが手遅れだという思いしか見当たらない。

 何も手に入らない。誰にもなれないし、何処にも届かない。でも、願いは叶うかもしれない。誰かと、心から笑い合いたい。もう、誰かと泣くのはご免だ。泣いていると、まるで僕が僕じゃないような気がする。記憶の中で誰かと繋がれた気がしたら、その日は一日、それだけでいい。

 あなたはあなたが好きですか? 全てを全肯定できますか?

 僕が、僕を捨てられるかが問題。そして何より、僕が僕自身でいることが大事。そのふたつは矛盾するようだけど、僕が僕を捨てたとき、僕は本当の僕を感じられる。それは誰にでも当て嵌まる、普遍的なことなんじゃないかと思う。

 昼には昼の、夜中には夜中の楽しさがあって、両方が無ければ、僕はバランスを取れないのかもしれない。毎日毎日きちんと、昼と夜が交互に、律儀にやって来る。ずっと真夜中ならいいのにと思いはするけれど、ときどきはやっぱり明るい時間も好きだと感じることがある。
 この間「ずっと真夜中でいいのに。(ZUTOMAYO)」のライヴをYouTubeで見ていたら、彼ら自身のコメントに、「爆音推奨です。そこから更に2デシ上げましょう」と書かれていて、好感を持った。格好いいコメントだ。デシベルってよく知らないんだけど、僕もスピーカーで音楽を聴くときは、大音量で気持ちいい音量にして聴いていて、うるさいくらいが、生きてる感じがする。



 私が言っているのなんて、ただの言葉に過ぎなくて、英語やフランス語だって、ただの言葉に過ぎなくて。言葉……、でも音楽は未知に繋がっていて、大抵は言葉にならない場所に繋がっているのだけど……。芸術家……、画家とか音楽家とか詩人とかは、きっと特別な場所にいるのではなくて、寧ろ芸術家以外の、ほとんど全ての人たちが特別な世界に住んでいるのだと思う。生きていることがものすごく特別で、死は普遍だ。何故なら私たちにとっては、全てが借り物に過ぎないからだ。借り物を事実だとか、自分だとか、自分の物だと言えるのは、結局生きている内だけ。全てが借り物でしかないと感じられたときは、楽だし、気持ちいい。なのに人は好きこのんで苦痛に執着する。苦痛って、とても愛らしいから。

 何も考えないための暗い部屋が欲しい。全ての人が、毎日一時間、何も考えない時間を持てたらいいのに。それで社会が変わらないとしても。別に幸せが増える訳ではなく、それどころか自殺者が増えるとしても。確実に世界は面白い場所になるよ。
 ギターアンプとか電気ピアノとかいろいろなシンセサイザーとか、それからきらきら光っているディスプレイなどが所狭しと置かれた狭い部屋が欲しい。窓は無い防音室。ジミ・ヘンドリックスも「全ての人に、サウンドと光に溢れた部屋が与えられればいい」という意味のことを言っていたと思う。本当にそうだ。それは平和の第一歩だ。
 私はいつも怯えてて、いつも何のやる気も無い。引き籠もりなので運動不足だけれど、運動の必要を感じていない。自然に触れ合うのも退屈だ。

 何も残らないとき、私は満たされている。

 快感よりも、陶酔よりも、完璧な心の静けさが大事。快感を追い求めても、いつも何故か、多くは得られない。完璧な静謐の中に、結局は、一番大きな快感がある。今を生きている感触が大事。

……
今ここにいる私は、私ですらない。仮にもし、自分がどうでもよくなったなら。私が本当に、ここにいないなら。何もかもが私に関係無いなら。何も感じることが無いならば。何も無い私を維持出来たなら。

あらゆる匂いは揮発し、拡がっていく。だから私は香水を買う。

もし私が無だったら。私がただの病気でしかなかったなら。

あらゆるものを気にするのをやめた。神経質なのは仕方が無い。記憶喪失のまま一生を過ごせたなら。ディスプレイの上に記名できたなら。無でいられる時間を延ばせたら、笑ったり、怒ったりしながら、いつも眼をぱっちり開けていられたら。

やわらかい電気オルガンの音に懐かしさを感じる。小学生の頃歩いた、湖のある枯れた林のような。七十年も昔のアメリカの人が弾いたものなのに、あまりそういうのは関係無い。何もかもを置いて、私は死ぬ。

時間が波打っているみたいだ。言葉は記号に過ぎないのに、小説を読むと内面の、何ものにも代えがたい経験になるのは何故だろう?

ひとりの部屋、ひとりの時間、ひとりきりの祈りの時間が欲しい。

「寒くない?」
「いいえ、寒くない。」

……




『補遺』(没にした部分の抜き書き)

 哀愁よりも血が大事。

 廃墟の底のプールサイド、靴底のガラス、とっくに壊れて、しかし尚も回り続ける室外機。僕は今、眼鏡を掛けている。眼鏡以外のアクセサリーは一切付けていない。
 好きなもの。ギター、ピアノ、コンピューター、手と指、ウクレレ、詩や小説、紙の本、イラスト集、ウォークマンとヘッドホン、あとスピーカーくらいが、今僕の部屋の中にあるものの全てだ。
 酸っぱいようなギターの音。ザ・スミスを聴いている。……

 四月の水はクロロホルムのようにとても冷たい。長い髪のように。生きていて、真実なんかよりずっと大事なことがあると分かってきた。僕にとっては陶器よりもプラスチックが大事だし、油絵の具よりもアクリルの方が大事だし、鉛筆よりもコンピューターの方が大事。
 雨の日の夜中のコンビニとか、点滅する信号機の黄色が濡れたアスファルトに反射していたりとか、信じられるのは水、木材、紙、カラフル。日本に生まれて良かったなと思うのは唯一、日本語っていう、面白い言語を特に苦労せず身に付けられたことだけだ。

 僕には親友がいて、十代の頃は、本当に、毎日毎日毎日、彼と一緒にいた。自分の家にいた日よりも、彼の部屋で寝泊まりした日の方が多いかもしれないし、彼もまた、ときどき僕の部屋で寝泊まりしていた。僕と彼との間には、好意の膜みたいなものがあって、それを破って近付き過ぎないように、お互いにずっと注意を払い続けてきたと思う。「幸せだ」と言った瞬間に幸せが壊れるように、「俺たち友達だよな」と言った瞬間に友情は傷付く。大体、一緒にいることに、わざわざ名前を付ける必要なんて無い。多分、彼がいるから、僕は安心してひとりでいられる。会って仲を確認し合わなきゃ崩れてしまう間柄ではないからだ。誰でもきっと、自分なりの独房を持っている。そこには誰も招待してはいけない。個人的なスペースを失うと、常に演技してなければならなくなる。そして僕には、とても多くの人が、常に演技をしているように見える。自分じゃない誰かの振りをし続けているように見える。そういう人とは笑い合えない。笑顔も嘘くさい人といると、死にたくなる。もっとひどいのは、自分自身が演技をしている自覚はあるのに、どうやってそれをやめたらいいのか分からない時があることだ。

 広々とした夕暮れの銀河をガラスの中に閉じ込める。

 枯れ木の、ひとつひとつの名前を知りたい。僕はアニメを見て、笑って、優しくなりたい。ねえ、いつか死ぬ。そんなことは心から知っている。でも、死ぬから人生は暇つぶしだなんて言う人は、大事な、とても大事な感情を忘れている。例えば、「どんなに努力しても、結局は全て失うのですよ」と言う人がいるとして、その人は、失われるものには価値が無い、という、とても社会的な既成概念に囚われている。多分、そういう人は読書をしない。一瞬一瞬が大事だから、僕たちは努力するんじゃないかな。人間の世界が好きだから詩や小説を読む訳で、いっぱい好きになって、それで死ねば、それでいいんじゃないだろうか。
 小説や詩がとても好きだ。とても、くだらないからこそ。僕は富も名誉も称賛も、本当にくだらないと思っている。きゅんとする気持ちが大事だと思う。どんなに歳を取っても。生きることって美しいよ。多分僕たちは、美しさを知るために生まれてきた。多分それだけだ。
 何もうまく感じられなくなって、生きる意味とか真理とかに逃げ始めたら危険だ。真理とか、そんなものが無いとは言えない。意味も真理もあると思う。でもそれは偉そうな人が言った偉そうな言葉を鵜呑みにすることでは得られない。

 今この瞬間、生きてること。

 世界中の雨の音を集めたい。ひとつひとつを瓶に入れて、古びた木の棚に並べたい。

 「感じる」というのは、ものすごく孤独な作業だ。みんなと一緒にあれこれ言いながら、感じることは出来ないし、みんなで一緒に何かを愛することも出来ない。「物のあはれ」を知る、というのは、個別の物を深く心で感じることであると同時に、個人としての自分自身、つまりは孤独を深く感じることでもあると思う。

 僕は「ひとり」を感じる時間がとても好きだ。詩を読むときに、一番「ひとり」を感じる。小説や音楽の中に感じることもある。けれどやっぱり詩が一番だ。

 手指の滑らかさ。

 誰もが眠る真夜中、僕の部屋は限りなく宇宙に近付いていく。音楽の中で。自分と外界との境界が薄らいでいく。身体の内と外の区別が曖昧になる。僕の内面が外界へと拡がっていく。外の世界が僕の内へと溶け込んできて、内側と外側が引っくり返る。全ては混ざり合う。いつか全てはイコールで結ばれるだろう。世界全体と自分自身は正しく等価になるだろう。
 音楽やイラストや言葉の中で、意識が溶けて形を失っていく感覚がとても好きだ。

 ヘッドホンを愛している。
 嘘の光たち。LEDがとても好き。

 時間が過ぎていく。時間とは何だろう?

 自分のことも、何も考えずに消えていければいいのに。

 見えるってすごいことだよね。見えるって何だろう? この景色は、何故見えているのだろう?

 机の上に、多和田葉子さんの本を積み上げている。多和田さんの本は、全部で16冊持っている。まだ買っていない本が数冊あるはず。多和田さんの本は、どれも宝物だ。活字って、宝になるんだなあって思う。

 ビートルズの濡れた世界。

 想像することが大事。

 身体の中にいろんな回路を作って、それらを統合できたら楽しいだろうな。新しい研究によると、脳だけじゃなくて、身体の様々な場所に思考回路があるのだそうだ。多分、身体全体が思考しているのだと思う。そして僕の血管には音楽と言葉が流れている。そんな風に想像すると、身体がとても愛おしくなる。