日記、メモ

11月15日(火)、
 完璧な世界に住んでいたい。僕は真夜中が大好きだ。昼間うるさい、僕自身を弾劾してくる、「僕が」、「僕は」、「僕なんか」、僕、僕、僕……、の連なりが、あっさり消えてしまうからだ。ヘッドホンで、あるいはスピーカーで大音量で音楽を流しながら、ぱたぱたキーボードを叩いている時間が僕にとっては至福で、ある種の状態に「入った」とき、「モード」が切り替わったとき、音楽と言葉の中に、僕自身は消え去っていく。自室で自失することが、僕にとって完璧な世界。そこにあるのは、ただ単純で完璧な全ての全てだ。
 だから僕の夢は、もっと完璧な密室を手に入れること。あまり夢について詳しく書くと、白けてしまうので、簡単に書くけれど、音楽の機器に囲まれて、それらのランプが暗闇の中で銀河みたいに光っていて、ディスプレイがあって、キーボードがあって、座り心地のいい椅子があるような部屋が欲しい。もちろん外界の音は完全にシャットアウトされている。その部屋の中で見捨てられた人形みたいに生きたい。地球最後の人みたいな意識で生きたい。もちろん、死ぬまでずっとその部屋にいたい訳でもないけどね。外出も嫌いというわけじゃない。

 まだ、いつでも心の中に温もりを感じられる訳ではない。大抵僕はまだ、空虚感の中で、水に慣れないクラゲみたいに、途方に暮れている。けれど、毎日良くなっている感触はある。僕の中にある、深い水脈に、いつか辿り着けるのではないかと思う。心の中の泳ぎ方を覚えたい。

 肉体は鍛えれば見るからにすごく変化するけれど、脳はどうなんだろう? やっぱり継続して鍛えれば、脳だって、ものすごい能力を発揮するようになるのだろうか?

 

11月16日(水)、
 感傷的(東洋的)な美は、そこまで嫌いではない。本居宣長は、朝陽がぱーっと射して、真っ赤に光る山桜ほど、例えようもなく美しいものは無いと言った。オレンジ色の、とろりとした陽光に満たされた畳の部屋とか、庭の隅で冷たく光る湿った石、あるいは金や銀の遠い海原、百万里も拡がる谷川の情景、その中を飛ぶウグイス、反響するその鳴き声……、美しいものはいっぱいあって、それらの風景のひとつひとつの、遠い、身に染みる情景を、全否定したいとまでは思わない。

 でも同時に、そこから遠く離れても、僕は成立している。キーボードが僕は大好きだ。人工物が好きだ。日本が嫌いって訳じゃない。でも日本の伝統や美というものに、共感したことが殆ど無くて、ヴィクトリア調の部屋や、西欧の古城の写真に、どうしても懐かしさを感じる。古い音楽でも、雅楽や三味線や琴には馴染めない。

 今日は一日中クラシックを聴いていた。僕はクラシックのことは殆ど知らなくて、今までは、たまにバッハとかベートーヴェンなどの、有名な人のピアノ曲を聴くくらいだった。たまには全然馴染みが無かった人の音楽も聴いてみようと思って、今日はラフマニノフとかマーラーとかプロコフィエフストラヴィンスキーシベリウス、と、一応名前だけ知っている人の曲を延々流していた。
 初めて聴く曲ばかりで、少し身構えていたんだけど、聴いてみたら、案外、例えば、映画のサウンドトラックみたいに、すんなり聞けたので、何だ全然難しくないじゃん、と拍子抜けした。もっとおどろおどろしくて、難解なんだとばかり思っていたんだけど。
 大好きなピアニストのグレン・グールドが、シェーンベルクという作曲家を高く評価していたので、グールドの弾くシェーンベルクを何曲か聴いたことがあるのだけど、それは不気味で、わざと心地よい和音やメロディを避けて作った、奇異を衒った音楽みたいに聞こえて、どうしても楽しめなかったので、有名じゃない作曲家はイコール難解、というイメージが頭にこびりついていたみたいだ。……もしかしたら、いろんなクラシックを聴いていたら、シェーンベルクも、楽しめるようになるのかな? だって、グールドが、いいと言うのだもの。
 ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番は、映画みたいで、石造りの小さな家に住む少女が、街に出て行って段々人として生きることの悲しさを知っていくようなストーリーが、頭の中に映像的に浮かんできた。空や風の音が印象的な白黒の映画みたいだと感じた。
 何年か前に、二十人ほどのピアニストの演奏を聴き比べたことがあるので、好きなピアニストは何人かいる。でも、とても有名な曲、しかもピアノの独奏曲しか聴いたことが無かった。オーケストラは、本当にほぼ全く聴いたことが無かったので、演奏者による違いはまだ分からないし、いまだに指揮者の、演奏への貢献度が分からないレベルだ。
 マルタ・アルゲリッチというピアニストが大好きなので、彼女がピアノを担当した協奏曲を何枚か聴いた。どうしてベートーヴェンモーツァルトではなく、プロコフィエフラフマニノフなどの、(多分)あまり主流ではないクラシックの作曲家のピアノ協奏曲を、彼女が精力的に録音しているのか、不思議に思っていたのだけど、聴いてみたら納得出来た、と思う。クラシックって何も、小学校の音楽の教科書で大きく扱われているような作曲家ばかりが全てではないのだな、と思った。

 ロックの分野では、僕はヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、世界最高のロックバンドだと思っている。初めて聴いたときから、他のバンドとは全然違って、楽しいだけじゃない、内面の深い場所を見せてくれるバンドだと感じ続けてきた。でも、高校生の頃から、いろんな人にヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴かせてきて、いい反応を得られたことは、ほぼ一度も無い。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴かせて、素晴らしいと言ってくれたのは、過去、二人だけだ。まあ、僕には、自分の好きな音楽(や本)を、人に勧めまくる悪い癖があって、聴かされた方はそれだけで迷惑したとは思うんだけど……。
 クラシック音楽には、今のところ、心から好きな曲が無い。クラシックを好きになれたら、それだけで、僕の世界は、文字通り、一回り大きくなると思う。世界の大きさは、知識の総数ではなく、「好き」の気持ちの大きさで決まるものだと思っているから。楽しくないことをいくら覚えて、いくらたくさんのことを出来ても、世界は窮屈だと思う。そのことを、努力しないことの言い訳にしている節があるにしても、あんまり生きていることが好きじゃないまま、何となく生きて死ぬのは嫌だし、意味を見いだせないことをやり続ける能力が、僕には欠如している。
「好き」の気持ち自体が死に絶えるのが、鬱という病気だ。鬱のときは、生よりずっとずっと、死にばかり魅力を感じる。生きることを楽しいと思いたい。もっともっと楽しくなりたい。今やっと、書くことに楽しさを、音楽や言葉に喜びを感じられるようになってきた。強い感情だけが、生きていることの意味を、僕に感じさせてくれる。どうせなら、全てを知りたいと思わない? 幸せよりも、快感よりも、ずっとずっと根本的なこと。でも、言葉と音楽が無ければ、僕はそこに行けない。言葉の先に、音楽の先に、僕にとっての全てがある。僕の生きていく意味。生きていく力。それは全てを知りたいという気持ち。瞑想や教義じゃない。僕は僕の感情の中心にあるものしか信じない。全てが、そして全ての人が生きているんだ、って、そして何もかもが好きだ、って思えなきゃ、生きていたって仕方ない。

 

11月17日(木)、
 全てを肯定したいんだ。批判も恐怖も、不安も疑いも無い場所が、僕の中にはある。何の理由も前提も価値判断も無く、いいも悪いも無く、全てをひっくるめて、好きになれる場所。悪いことや、憎むべきことも、あるんだけどね。でもそれが自分に関わることなら、許せるはず。他人からの悪意なら許せると思う。僕自身も悪意を人に向けたことがある。人を傷付けたこともたくさんある。自己正当化してきたことがたくさんある。

 僕は多分悪人に近いし、偽善者なんだろうと思ってる。何か特別な理由がある訳じゃないけれど、そう思った方がしっくりする。

 

11月18日(金)、
 怒りとか恨みとかは一生消えないものだと思っていたけれど、そうでもないのかな? 最近になって、別に両親が激変したという訳ではないのだけど、僕の方で、親だって弱い存在なんだと思うようになった。見下している訳ではないと思う。完璧な人間なんていないというだけで。
 それに、人を恨んでいる時間なんて無いんだ。

 本当にしばしば言われていることだけれど、変わるのなら今すぐ変わるしかない。