老いた石

地球の裏庭で髪を弄っている。
草も花も気に掛からない。
虫だって、星だって嫌なんだ。見えるようで、
全ては匂いのようで、しかも何の匂いもしない。私は、
一体何を見て生きているのだろう?

老いた白い髪、度の強い眼鏡、石ころだって電子の星からの、
意味の無い隕石。……私は髪を弄っている、私は老いた。
この白々しい、無限で永遠な音楽の中で、
私はしがない、透明な音。

部屋に戻るとギターがある。ギターも私同様老いている。
窓からは無意識みたいに凍った山が見えて、
山の一部は、私の心臓の底にあって、透き通る黒さに光っている。

ホウロウの流し台が影になっていて静かな感動を湛えている。
真鍮の蛇口を捻ると、遠い国からの水が流れ出す、まるで古い本の頁みたいだ。
私は静かに浮かぶように、夢想する。水の道……

  私は水の街へお金を払う。
  水の道をどこまでも下っていく。
  一滴の虹を手に入れるために。

  蛇口からの止め処ない水の流れ。
  川、だけじゃない。透明なグリッドの世界的な通信。

  水はあらゆる和音を含んでいる。蛇口の水でさえも。
  ギターもまた川になる。
  和音が変わると私の、人生が変わる。

  メロディは私の背中をやわらかく押し出し、リズムは、
  私の脳の中に渦の溜まりを作る。

  私は、あらゆる音楽を背負っている。あらゆる足音を、
  あらゆる音楽を、古い靴の、引き摺りかちな足跡として。
  引き出しの中には、古い音楽のポートレート

その電気信号が頭の中で発火する。
窓からは黒い黒い鳥の軌跡、それは黒くて、不自由で、
LEDの電灯を付けて椅子に掛け、ギターを手に取れば、
アンプに灯を灯せば、私は一時的に、
光る石になる。

僕がいて

木立の中で昼のウィスキーを飲む。
犬がとても寂しく鳴く。執拗に、悲しげに。
僕は何もかもを感じる。
電線が冷え切っている。

ち、ち、ち、という音がして、屋根から雨粒が落ちる。
僕は急いで眠ろうとする。
酸っぱい草の匂いがする。
昼間のぬるいウィスキー。

どこもかしこも寒々しい。
黄色い看板。
全ては、遠い記憶。
昨日の、夕食だって。

リピート

私はあらゆるボタンを押してまわった。
dボタンで全てが消去された。

リズムが揺さぶる葉っぱたち。
頭の中の音楽に、全ての有線が断ち切られていく。

何もかもが静止した通りの中、揺らめく人影。
この中で私の意識と心拍だけが駆動している。

理想は全てが記号になること。
私がタップした指の先で、全てが消えること。

私はあらゆる空間を切って回った。

私は瞬時、呼吸を意識してしまう。
あ、と思う間に全てが復活して、
私は眼の前にあるあらゆる有機体の生活に、
涙を流して混乱して、懇願する。

それだけの私(カバンのロゴが光っている)。
また一から、ボタンを押しなおしていく。

日記(自分を取り戻しかけていると思う)

1月16日(月)、
 雨が降っている。雨音は心地いい。けれど僕はヘッドホンを付けて音楽を聴いている。音楽が楽しいと、起きているのが楽しくて、ベッドから起き上がるのが簡単だ。朝の5時に起きて、一日中UKロックを聴いていた。
 読書をして、フランス語の勉強をした。

 

1月17日(火)、
 真夜中、ふと思い出して、昔掛けていた眼鏡をネットで検索したら、ひとつだけ売っているのを見付けたので、一時間くらい迷って、購入ボタンを押した。その眼鏡はすごく気に入っていたのに、壊してしまったので、ずっと同じのを探していた。何年も前に生産中止になったみたいで、どのサイトを見ても売り切れだったので、もう手に入らないものと思っていた。鼻に当たる部分のパーツが無くて、眼鏡のフレームの金属が、直接鼻に引っ掛かるようになっている。シンプルなデザインがとても好きだ。
 その眼鏡はレンズが丸いのだけど、少し楕円形で、ジョン・レノンが一時期掛けていたのと同じモデルなのだそうだ。ジョンはいろいろな眼鏡を掛けていたので、特別その眼鏡を愛用していた訳ではなかったみたいだけれど。僕は数年間、ジョン・レノンが最晩年に掛けていた、白山眼鏡店のセルロイドの眼鏡を買うつもりでいたけれど、結構高価なのでずっと買い渋っていた。間に合わせで三千円で買った眼鏡を、三年以上も使っていた。
 僕は少し気持ちが軽くなったのかもしれない。セルロイドの眼鏡のかっちりした感じよりも、細い金属フレームの丸眼鏡の、軽やかな感じが好きになった。

 

1月18日(水)、
 ……食欲が無かった。おにぎりを一個食べた。

 

1月19日(木)、
 脳波が、音楽の中で切り替わる感じが好き。一度感じると、それ無しでは生きられなくなる。楽しいことがあると、完璧に生きられそうな気がしてくる。

 真夜中、空が低い音で鳴っている。空の高いところで。人間には到底作り出せないような電圧が、雲の中で渦巻いている。

 赤く、きらめく色が好き。赤色の物があるとすごく欲しくなってしまう。色に合わせて自分を変えるのが好きだ。四年間愛用している万年筆は深い海の色で、その瞑想的な感じが好きなのだけど、しばしば真っ赤な万年筆を買えば良かったと思う。赤は表面的で、どきどきするけど、同時に落ち着く色。

 明朝体がとても好きだ。

 

1月20日(金)、
 自分が自分であることの寂しさ。空虚感だけは満たせないのかもしれない。ずっと何かを求めながら。寂しさは嘘を吐かないけれど、嘘を吐かなければうまく生きられないのかもしれない。太宰治の『斜陽』だったと思うんだけど、「生きているんだからインチキをしているに違いない」というような言葉があった。あるいはただ、僕は気が弱いだけなのかもしれない。それとも、他人も僕と同じ人間だと想像する力が足りないのかもしれない。誰といても、間違いを犯さないか、相手の気分を損ねないか、怯えている気がする。

 とは言っても、わざわざ孤独をかこつ必要も無い。楽しく生きることが大事。幸いなことに、僕は今、音楽と言葉がとても楽しくなってきている。

 夕方、眼鏡が届く。素晴らしい。懐かしい気分になる。届いて気付いたんだけど、サイトに表記してあったのとサイズが違っていた。でも掛けてみると、こっちの方が似合っていると思ったので、一応、サイズ表記が間違っていた旨、メッセージを送って、この眼鏡を使うことにした。書いてあったのより、横幅が2mmだけ大きかった。すごく気に入った。

 一昨日(水曜日)の朝から眠っていない。焦りと楽しさが、心の中で同居している。快楽物質がいっぱい出ている一方で、アドレナリンも大量に出ている感じがする。

 

1月21日(土)、
 夜中。久々にジョン・コルトレーンの『アセンション』を聴いたら、気持ち良くてびっくりしている。『アセンション』はいわゆるフリー・ジャズで、メロディはほとんど無く、何人かのサックスとトランペットの奏者が、思うままに、一見滅茶苦茶に吹きまくっていて、それが80分近く続くという、多分難解な部類に入る作品。一応ピアノとベースは整っているのだけれど、あまり目立っては聞こえない。ドラムがばしばし鳴ってて、吹奏楽器の轟音が吹き荒れるだけの、よく分からないアルバムだと思っていた。ギタリストのジョン・マクラフリンは『アセンション』を絶賛していたけれど、マイルズ・デイヴィスは、段々コルトレーンが理解できなくなってきた、というような発言をしていて、僕もどちらかと言えばマイルズに賛成だった。
 『アセンション』が、どういう訳か楽しくなったので、他のフリー・ジャズも聴いてみたくなった。ドン・チェリーオーネット・コールマンを聴いてみたい。

 『アセンション』だけが楽しくなった訳じゃなくて、音楽が全般的に、今までの数年間とは、全く違って聞こえる。音楽を、もう一生楽しめないのではないかと、長い間、とても不安だった。
 まだ完全には、頭の調子は良くなっていない。でもひとまずは、「楽しい」という感覚が、まだ自分の中にあったことが分かって、とても嬉しい。もう二度と、楽しさを無くしたくないな。

 19日からの3日間、音楽が楽しい。何の衒いもなく「楽しい」と書けるのは、本当に久しぶりだ。本もたまに面白い。もっともっと、音楽と活字に中毒症状を起こしてしまいたい。

 

1月22日(日)、
 昨日の正午頃、眼鏡ケースが届く。商品画像ではチョコレートの箱みたいに真っ赤だったけど、届いた物は、かなり深い赤だった。これはこれで悪くない。ディスプレイで実物の色を表すのはとても難しいし、かと言って店頭で見ても、店の照明によって色は違って見えるので、結局「本当の色」なんて無い。美術館で絵を見たら、照明が大分落とされていて、写真やディスプレイで見た方が綺麗だったりする。

 昨日の夜、やっと眠れた。丸三日眠っていなくて、眠りたいと思いつつ、眠ってしまうと、ここ数日感じていた楽しさが無くなってしまいそうで不安でもあった。今朝起きると、やっぱり少しぼんやりとしていて、頭がしばらく働かなかったけれど、音楽を聴いていると楽しくなってきた。ねぼけているけれど少し不安で、部屋の物も外の景色もうたた寝しているように静止していたんだけど、音楽の中で、また全ては動き始めた。

 

1月23日(月)、
眼鏡を掛けていると快感を覚える。まだ伊達眼鏡で、レンズを入れに行くのがいつのことになるやら分からないけれど。度が入ったら、きっともっと素晴らしいだろうな。

視覚表現が昔から苦手だ。最初は絵やデザインが全然分からなかった。その内には、絵や映像を見ると混乱するようになった。

 

1月24日(火)、
 ……とにかく寒かった。

 

1月25日(水)、
 昨日から、息が凍るように寒かったけれど、今日の昼頃になると空が晴れてきて、いつもより暖かいんじゃないかと思うほどの陽気になった。僕も、昨日は落ち込んでいたけれど、天気のせいかどうなのか、今日は躁気味と言ってもいいくらいだ。一週間ほど前から、時たま多幸感がある。精神科の薬を飲んでいるので、ナチュラルハイとは言えないかもしれないけど。
 今日は全然外出したい気分ではないけれど、病院の日なので、行かない訳にはいかない。ほとんど処方薬に中毒になっているので通院しているようなものだ。ついでに、少し遠いけれど、眼鏡屋に行って、この間買った眼鏡にレンズを入れて貰おうかと思っている。

 午後、雪が降った。病院は灰色で、寒かった。エアコンの室外機が、雪交じりの風で回っていた。無重力と重力が交互に起こる中を歩いているみたいに、ふらふらになるほど緊張していて、血圧を計ってもらうと196だった。でも、血圧が高かったり、緊張感が強いことは、個人的にはいい傾向だと思っている。それってとにかく、僕が人間の存在に反応しているってことだし、それに多分、膨大な量の情報をうまくシャットアウト出来てないということだから。感じることは、大事にしたい。気持ち良くはない、どちらかと言うと吐き気のする、アドレナリンばかり出ているような気分だったけれど、頭の隅ではずっと、とても落ち着いていた。多分、僕は治りつつあるのだと思った。
 精神科の先生は呑気なもので、僕の高血圧について「寒いし、緊張したんでしょうねえ」とだけコメントした。

 ふらふらのままで眼鏡屋さんに行った。3年前に眼鏡を作ったときより、随分眼が悪くなったような気がしていたけれど、左眼がほんの少し悪くなっているだけだと言われた。3年前には運転免許証の更新を裸眼でクリアしたので、まだまだ、眼が悪いと言うほどには悪くない。せっかくなので、ちゃんとコーティングされた、なかなかいいレンズを入れてもらった。

 帰宅して、抗不安薬と躁鬱の薬を飲んで、ストーブの前でぬくぬくしながら計ったら、血圧は130しか無かったので、やっぱり緊張なのかなあと思う。
 父が帰ってきて、父の前で血圧を計ったら、何度計っても血圧が190ある。父の存在自体がストレスになっているとは、今は思わない。間接的に、一気に生活的な精神状態になって、自分の駄目さとか、これからの行く末について自動的に考えてしまうのだと思う。夕食時になると、お酒を飲まないのに、いつも酔ったような感じになるのは高血圧のせいだろうか? ……でも割りと、頭がぐるぐるして、脳がきゅぅっと孤独になる、切迫した気持ちも、嫌いではない。でも、心臓には悪そうだな。

逃避

孤独を・記憶を睡眠毒で噛み潰す。
私の身体が音楽/点になるのを待つ。
LEDが向こう側で密柑色に暮れていく。
画面の奥で電子の麦粒子が踊っている。
RGBの奥の、奥で、奥へ、私の顔が流れていく。
私は、私が私になるまで動かない。
電話で、中の人に話しかけてた時代は終わった。
今は何処にも中なんて無い。何処にも、人なんていない。

CMYKの滑らかさ。
赤が好き→白い矢印の中で眠る。
逃避[とは]何から逃げること?
全てがグラフィックでデザインされてて、点線越しの
幽霊(幸せなホログラム)をディスプレイに泣きながら叩き付ける、癖。
逃避の先にはスプレー缶で出来た街灯。
全て優しく、包みかくさず、揺れていく夜。ライト。反応。

1億年でも、たった5メガバイトの、得られない距離でも、
私はただ待ち続ける。
ベッドなんて要らない。線になって眠る、、と人々は言う。
私はただ待ち続ける。
毛布の中で眠るとき、私は毛布に縫い止められた、
何処かの国の、平坦な国旗みたいに。
みんなみんなそう、デザインされているのだから。

骨までただしく私であるとき、私は量子/資料でしかない。
情報には解体された軽さが青く角張っていて、
朝ご飯は、「朝と青とドラムとベース」のトースト、
ギターの左手の押弦で喉に押し込む。

日本語の感触:尖っていたり、赤みがかっていたり、柔軟だったり、木製だったり、金属質だったり。
尖った言葉たち、シュガーレスで神経質で、凍冷して分裂していて。
どちらかと言うとハイだったり。
ときにブルーで孤立していたり。

何処にも繋がることのないプラグ、空へと消えていく。
混滅に身を委ねる。レモンの味がするような夜の街、夜空。

雲がはらはらと落ちる。
ともかくキーが嬉しい。全てが押しなべて虹色の中で、
白黒、で、文字を綴じている、それは美しく、
全身の、水の出入り口が傷で出来ていて、いずれ酸化する、
その、日を黒く塗りつぶすみたい。痛くて、脳に手を入れるみたいに、
心地いい、作業。

[全ての水が破壊される宇宙!]

過去は歌。
私の皮質に、うろこのように刻まれた。
油っこい、未来。
私のようで、私ではない、
この手。

光る眼をした天使が、私の壁を全てスクリーンに変え、
世界で唯一近視の私が、喫煙者の私が、
部屋くらいの大きさになった宇宙いっぱいにタイピングして、
あなたが隣の宇宙から縄文の地図を差し入れてくれたなら、
私は私の脳のコピーを少しあげる。

王国

僕はここにいて、
ここにしかいない。

暗い部屋の中。
スピーカーから流れ出す、
ニック・ドレイクの歌の中。

僕はここにいて、
ここにしかいない。



街外れの港には、油のにおいが染みていた。
電柱の影は銀色で、送電線が光っていた。

夕暮れに、船はぎしぎし鳴っていた。
僕は自転車から降りて、
堤防でしばらくぼんやりしていた。

僕の心も送電線のように光っていた。
僕は地球の裏側にいた。

秋を目前にしたアスファルトは、水色のジョウロの匂いがした。



近所の、人の声さえ懐かしい
冬の朝には、白菜みたいな色がある
やまなし、かわなし、うみなし、
プラスチックの基盤みたいな



淡い、青い気流がある、私は、読書をしている
子供のように個人的に、このまま死ぬのかと、白い朝、思う
空気は甘く、私はひとり、
針のように親しい、波のような、風のような、
合板の棚の前に、座っている

私はひとりで、肌は薄く、また硬く、
社会との間には真空がある、そして
私は誰の過去も羨まない、私は私から
手を離さない、私は地に生きて、
中原中也ニック・ドレイクが好きで……

私の中心は気流のように、白く、懐かしく、細いミルクのように
私の過去はいつも春だったみたいで、
ひとり私であることをどうする気もなくて、
春の中で死ねるのなら、それもいいのだと、
それから先は、何も、
分からないままでいるのです……

暗めのメモ

 死が美しいとか、死に惹かれる、と思ったことは、多分一度も無い。不安から逃れられる一番安直な方法として自殺を希求し続けただけのことで、それは多分、誰だって同じなんだろうと思う。今僕は相変わらずストゥージズの『ファンハウス』を聴いていて、基本的な生活態度は十年前から変わっていない。聴いている音楽までほとんど同じだ。十年前からの新しい十年は既に古びていた。この十年間、新しく発表された音楽の殆どは、僕には古い、もう思い出せない記憶の向こう側で鳴っているもののようにしか聞こえなかった。死ぬなら、出来れば美しく死にたい。死ぬほど、最期の一瞬が、美しくあるといい。

 死のうか、と考えたとき困るのは、死んだらこの世界が消滅するとは言え、それでも僕の想像の中では続いていく、僕の死後についてのことだ。僕の遺品のことを考える。それから僕が死ななければならない、どうしてもの理由を、特に家族や友人に納得させられるだけの、遺書を書きたいと思う。いや、人に、というのも確かにあるけれど、自分自身に納得させたいのかもしれない。無意味に死にたくなんかない。何かに負けて死にたくなんかない。
 迎え入れられる最良の未来として、光として、死を選びたいと思う。死に至る動機が着々と形成されてきた、その経緯を出来れば丁寧に説明したいと思うし、仮に本当にひとりぼっちの言葉が書けたなら、僕はもうひとりぼっちではない気がする。きっと皆がひとりぼっちだからだ。
 ひとりぼっちじゃなくなって、僕はひとりぼっちを超えて、天使みたいになりたいのかもしれない。もはや僕が既に死んでいたこと、そして僕が既に死を克服していたことを伝えられたらいい。今はまだ何処にもいない読者に向かって、僕は書こうとしている。

 幸いかどうか、僕は今全然天使なんかじゃないし、生への執着心が強くて、執着心故に苦しむこともあるけれど、いつか僕は僕自身の過去を全て受け容れられることが出来て、過去が全て光に満たされる瞬間があることを信じている。ずるずる生きてきたけれど、希望はずっとあり続けた。生の時間の総体として、いつか全ての過去はゼロになる。死んだら、例えどんなに祝福された生を送ったとしても、全てがゼロになる。だとしたら僕の取る態度は、ふたつしか無い。さっさと死ぬか、ゼロとしての今この一瞬を永遠であると感じて生きるか。

 憂鬱で、何も感じなくて、何もしないでいると、自分がゴミのように思えるけれど、無理に何かをしたからって、そのたいへんな努力を誰も誉めてはくれないし、僕自身疲れるだけで、何の達成感も無い。「また明日」という言葉が重圧になるばかりだ。自分の部屋の片隅で座り込んでしまう。聞きたくない言葉ばかり。いつもヘッドホンを付けている。
 外出したらしたで、お店に行けば、入り口近くのベンチから動けなくなって、けれど休めずに、居たたまれない感じがして、きょろきょろしてしまう。自分がとても馬鹿っぽい顔をしていると思う。鳴っている音楽が全部同じに聞こえる。

 今僕は部屋にいる。ひたすら部屋にいる。どんなに今を永遠に感じられても、時計の針は確実に進むし、例え部屋の中で言語的ハイに陥って、自分が何か偉いものに思えたとしても、僕は多分限り無く無価値だ、と要らぬことが頭に引っ掛かる。
 気持ち悪くなり、動悸が始まって止まらなくなる。今大好きで聴いているボブ・ディランも、ドラッグをやって、あっちの世界で法螺を吹いているだけの気楽な馬鹿に思える。ディランだって、書いて歌うのが楽しくて、書いて書いて、生活の苦痛から逃げ切ることが出来ただけの、ただの運のいい人だと思う。書いても逃げられない、息を吸っているのかも吐いているのかも分からない僕とは無縁だ、と寂しいだけの考えが渦巻く。
 僕はもう、何にも楽しめなくなってしまう。動悸は止まらない。


 昔、僕は英語を日本語に翻訳することが本当に大好きだった。英語の文章の中から感じられた感情や風景を丁寧にすくい上げて、それを出来るだけ損なわないように、僕の手で丁寧に日本語として定着させる。
 英語をよく読んで、作者の呼吸を感じる瞬間が大好きだったし、その呼吸のままに日本語を無心に組み立てる作業が大好きだった。今の僕には、英語は死んだ染みだ。本当の染みの方が静かで楽しいくらい。染みを見ていると、以前感じた何かを感じない自分を意識せずに済むから。
 頭の中で常に言葉にならない言葉が鳴っている。実際、頭の中で得体の知れない炎症が拡がっている感じがする。ネガティブな言葉が脳幹に宿っている。僕の言葉は疲労している。僕の感情は古い言葉の群れにへしゃげている。何もかもどうでもよくなるくらい苦しい。
 何か新しいことが書けたなら、その分僕は新しい自分を自覚できるだろう。朝目覚めたとき「どうせ」何も無い一日だ、という確信に襲われてしまったりしないだろう。それでも毎朝僕は新しい一日に少し期待する。けれど即座に、何をしても無駄だ、という思いに満たされる。言葉も音楽も、もはや僕の意識を運び去ってはくれない。みんな遠くで鳴っているだけ。僕に感じられるのは灰色の羽音だけだ。

 妙な言い方かもしれないけれど、肉体的に死ななくても、僕の中には既に死がある気がする。全ての論理の外側から降ってくる、とても、きらきらした光がある。全てを捨てられたときだけ許容できる光がある。みんな捨ててしまえ、と思う。僕は光だけが欲しいのだから。

自殺願望があるときって妙に笑ってしまう。生きてること自体が、嘘を吐いているみたいな気がするからだと思う。……僕は今すぐ死ぬつもりはないけれど、自殺の考えを完全に拭い去ることは、多分ずっと出来ないだろうと思う。

音楽が聴けるようになってきた

 この世はそれ自体が不思議だ。

 音楽を聴く為に音質は、ある程度は必要ではあるけれど、少しでもいい音をと拘る必要は無い。オーディオにたくさんのお金を注ぎ込むくらいだったら、レコードやCDを買った方がいいと思う。いい音を聴けたら、それだけで気持ちいいけれど、音楽がとても楽しいとき、僕は音質のことなんて忘れている。ラジカセの音でも別にいい。いい音を聴くより、いい音楽を聴きたい。

 最近、カセットテープが少し流行っているらしい。カセットって音は悪いけど、余計な音が削ぎ落とされたタイトな音で、中音域(特にヴォーカルやギターの音域)がよく聞こえるし、それに、カセットを聴いているという実感がいいらしい。
 レコードも、カセット以上に流行っているみたいで、今ではAmazonで多くの新品のレコードが手に入る。レコードもまた、CDに比べると、全然音がクリアじゃないし、音域も狭い。もちろんハイレゾの音質には遠く及ばない。数値上は、レコードはかなり音が悪い。けれど研究している人に拠れば、レコードでしか出ない心地いい音の成分がいっぱいあるらしい。針の揺れや、振動、摩擦音(ノイズ)や、真空管の電流の不安定さや、いろいろな要素が重なって、レコードの音を良くしているらしい。
 僕はほぼデジタル音源の時代に生きてきたので、アナログの音を味わってみたいという興味はある。エレキギターには真空管のアナログアンプを使っていて、デジタルのアンプと細かく比較したことは無いけれど、確かに何かしら心地いい音がするような気がしている。

 音楽が楽しめないときに限って、音質に拘ってしまう。音楽がいいと思えないのは音質のせいもあるかと考えて、もっと音が良かったら感動出来るんじゃないかと。でも僕が最初(10歳のとき)に音楽に感動したのは、カセットテープに録音したビートルズウォークマンで聴いたときで、イヤホンも安物だった。それでも毎日毎日聴いていて、感動が薄れることは一度も無かった。
 12歳のときにMDプレーヤーを買って、次元が違うと思えるほどの音に、大袈裟じゃなく衝撃を受けて、カセットには戻れなくなってしまった。SHARPのMDプレーヤーだった。でも2年くらいで、CDプレーヤーの方が、CDを買ってすぐ聴けるし、コピーの手間も要らない思って、今度はCDのウォークマンを買った。TSUTAYAでCDを借りて、MDにコピーして聴くということに、まどろっこしさと、何かしらの純粋じゃなさを感じていて、お小遣いは少なかったけれど、月に2枚くらいCDを買って、それを何度も何度も聴き込んでいた。14歳の頃から20歳頃までは一貫してウォークマンとケンウッドのコンポで、CDをじっくり聴いていた。イヤホンがあまり気に入らなくて、もっぱらヘッドホンを使っていた。イヤホンは音に包まれる感覚があまり味わえないし、それに耳に突っ込んだときの異物感が気になって仕方なかった。

 20歳のときにパソコンを買ったのに合わせてiPod(Classic)を買って、それからコンポも、BOSEのとてもいいのを買った。それから3年間ほどは、今までの人生の中でも、特に音楽が死ぬほど好きだった時期だ。音楽が無かったら死んでいただろうと思うくらい。iPodでは、圧縮音源(MP3、AAC)で、ヘッドホンも安いのを使っていた。
 22歳のときに、今もまだ使っているaudio-technicaのATH-M50というヘッドホンを12000円で買って、それでもう世界で一番いい音を楽しんでいるつもりでいた。
 その後少し経って、10年間以上、僕は鬱がひどくなってしまったので、音楽を楽しめなくなってしまった。音楽に恐怖さえ感じた。音楽を聴くと、すぐに不安になった。病院に行ったとき、ヘッドホンをいっときも外さない少年を見て、彼の内面はきっと音楽に満たされているのだろうと思うと、本当に羨ましかった。自閉的な人はよく音楽を聴く。外の音が苦手で、いつも音楽に籠もっていたいからだと思う。頭の病気になると、音楽さえ聴けなくて、何処にも逃げ場が無くなってしまう。

 僕は、音楽を楽しめないのは僕の精神(脳)の問題だと思っていた。ヘッドホンは22歳の頃から頑なに換えなかったし、近頃までずっとiPodを使い続けていた。同じリスニング環境で、昔と同じように楽しめるのでなければ、脳が治ったとは全然言えないと思っていたから。一度だけすごくいいヘッドホンを買った。やっぱり音が違えば、と期待してしまったから。でもすぐに、音は確かにいいけど、昔とは違うという気持ちが強くて、そのヘッドホンは、綺麗な内に売ってしまった。

 半年ほど前に、最新のWALKMANを買った。iPodの電池の消耗が早くなって、そろそろ新型のiPodが出る時期だと期待していたら、何とiPodが完全に生産中止になってしまったからだ。WALKMANは、ただ音が綺麗なだけじゃなくて、何となくノスタルジックな音がするので好きだ。アナログ(レコード)の音質を志向して開発されたそうだ。

 WALKMANを意識する前は、もういっそ携帯音楽プレーヤーを使うのをやめて、iMacで音楽を楽しもうかと思っていたけれど、WALKMANを買ったことは、結果的にはiMacを買うよりずっと良かったと思う。WALKMANは、僕の生活を一変させてくれると思う。音楽には人生を変える力がある。

 WALKMANを買ってから半年間、やはりほぼ音楽を聴けない状態でいた。今になってWALKMANの良さに感銘を受けている。半年間、ほぼ雨戸を閉め切って、真っ暗な部屋に閉じ籠もって、お香なんかを焚いたりして、インド音楽グレゴリオ聖歌を聴いたりしていた。何にも聴かない日も多かった。WALKMANの売りは何と言ってもヘッドホンで聴くときの音の良さなのに、Bluetoothでスピーカーに繋いで聴くことの方がずっと多かった。
 半年間、ごくたまに瞑想状態のような、それともただ単に半睡状態でぼーっとしているような、現実離れした時間が訪れることがあって、それはとても気持ちいい時間なので、僕は毎日、朝から晩まで、自分の意識が変化する瞬間を待っていた。でも、最高に気持ちいい場所までは一度も行けなかった。ある種の変性意識(?)には、目が冴えてないと行けない。眠気の先には何にも無いと思う。快感は、聖歌やインド音楽ではなくてロックの中にある。

 今、クラシック音楽を楽しめるようになってきている。クラシックの世界に入ることが出来たら、また新しい感覚を味わえて、きっと素晴らしいだろうと思う。

 音楽が気持ちいいことは大事だと思うけれど、例えばニック・ドレイクの音楽は、気持ちいいから好きなのではない。気持ち良さは身体の感覚だけど、僕は、敢えて言うならば、頭で音楽を聴いている。もう少しリリカルに言うと、心や精神で音楽を聴いている。頭で聴くことは、耳を澄まして意識的に聴くことだ。退屈な音楽や地味な音楽に、ふと嵌まれる瞬間が好きだし、何度も聴いて初めて好きになれる音楽はとても多い。
 もっと、音楽が無ければ、本当に生きられないくらい、音楽を好きになりたい。また音楽が聴けなくなったら、虚無感と自己嫌悪で、生きる気持ちがまるで無くなって、今度こそ本気で自殺を考えてしまうかもしれない。

 WALKMANは、すごく味のある音がする。音に色があって。音の向こう側にも音があって、音楽の心地よい混沌の中にどっぷり浸れるような。今は雨戸を開けているけれど、自分の影が四方八方にぐちゃぐちゃと拡散していくような不安は感じない。寧ろより濃密な空間の中いるみたいで、ヘッドホンを付けていれば、心の内側の世界に行けるような気がしている。僕の存在がひっくり返って、大きさという概念や、内面と外界の違いや境目が、段々分からなくなっていく。

 僕が今まで本当に好きだった音楽が、例えば、12平均律で作られていたから駄目だと言われたら、それは絶対違うと思う。耳がすごくいいのではなく、あまり音楽を楽しめない人に限って、周波数がどうとか、理論に走ってしまうのではないかと思う。
 僕はかなり長い間、音楽が面白くないどころか、聴いていると不安になり、大好きだった音楽にさえ恐怖を感じていた。10年以上それが続いて、自分が嫌になった。自分が不協和音に敏感になりすぎたのかと考えて、民族音楽や、12平均律を徹底的に否定したハリー・パーチの音楽や、グレゴリオ聖歌や、古典音楽を聴き漁ったりもした。

 日本のスタジオではSONYMDR-CD900STというヘッドホンが、圧倒的に多く使われているらしい。僕がaudio-technicaのATH-M50というヘッドホンを選んだ理由は、イギリスやアメリカのミュージシャンがスタジオで聴いていたそのままの音を、味付けすることなく聴けるのではないかと思ったからだ。ATH-M50は、欧米のスタジオでは、おそらく一番多く使われているヘッドホンだから。

 不満足に生きていると、何かが変わることを期待して、あれこれ欲しくなってしまうし、せっかく買った物はなかなか捨てられず、ますます不満になり、死ぬことも出来なくなる。

 最近、少し音楽が聴けるようになってきた。13年前に買ったATH-M50は5年ほど使っていたら断線してしまったので、すぐに後継機のATH-M50xに買い換えた。ATH-M50xは、ケーブルが交換できるようになっているので、すごく良心的だと思う。ATH-M50xは、2度ケーブルが断線したけれど、その度に新しいケーブルに取り替えて、もう7年と半年近くも使い続けている。
 ケーブルで音が変わるかと思って、8000円もするケーブルを買ったけれど、音楽が楽しくなってくると、純正のケーブル(1500円)の方が何故か音楽をより楽しめると感じるようになった。イヤーパッドだけYAXIというブランドのに換えている。(純正が2000円で、YAXIのは3500円だ)。
 WALKMANは好きだけど、たまにiPodで音楽を聴き直してみると、音は少し平坦ではあるけれど、十分に楽しめる。WALKMANの真価はおそらく、ハイエンドのヘッドホンじゃないと発揮できない。でも今は音質に拘ることを、意図的にやめている。今のヘッドホンで十分音楽を楽しめるようになってから、余裕があれば、趣味としてもう少しいいヘッドホンを買うかもしれない。

リチウムの中で

絵だって歳を取る。
私は十万人の老人に囲まれて暮らしている。
印象的な微笑みは、
鏡の中に。

寂しさを、睡眠薬で噛んで飲み下す。
リンドウの花が、
蜂の巣の中で咲いている。

人は、
人の孤独を「美しい」と言う。
瞳孔の中で揺れているのは、
いつも涙の海の光。

パワーショベルやスマートフォンが、
ゴッホの絵みたいに、
みんな黄色く塗られて、
ふと周りを見渡すと、
皆が私であるような錯覚に陥る。

私は赤信号を見上げる。
信号の赤はたらたらと、道路に溢れ落ち続けている。

そして私だけが、宇宙を終える。

日記(落ち込み気味だ)

2023年1月3日(火)、
 午後、久しぶりに、自分が自分であることを思い出した。ひと月近く、僕は、僕が僕である感覚を忘れていた。風の音、そして空の匂い、この寂しさの中を生きていくこと。大事な感情や感覚を、僕はすぐ忘れてしまう。自分が自分であることはとても簡単で、とても難しい。寂しさの喪失は、何より、あってはならないことだと思う。僕には個人性や、拘りや、愛着がある。僕がいることの感覚。プライベートな感触。

 今年は出来れば、この個人性を取り落とさずにいられればいいんだけど。

 瞑想をしなくてもいい。宇宙を知らなくても、意識の次元(?)を高めなくてもいい。自分が自分でいられればいい。この僕でいたい。

 寂しさとは、自分の全存在を感じることだ。

 

1月4日(水)、
 ものすごく気分が落ちていた。生きていて何になるんだとか、何かが出来たところで仕方がないとか。

 

1月5日(木)、
 ぼんやりしていて、何もやる気が起こらない。雨がさらさら降っている。何となく、窓辺に置いたデジタルの時計を見ていた。
 遠くの林の匂いが、湿っぽい空気に乗って運ばれてくる。記憶の匂い。実際に嗅いだことのある匂いかは分からない。これが今感じている匂いなのかも分からない。陽の光が、鳥の声と共に、薄く開けた窓から、部屋の中に滲み込んでくる。本を読んでいると、匂いを強く感じる。

 

1月6日(金)、
 何も思い出せない。頭の中が脅迫的な言葉に満たされていて、意識の表面が殺伐としている。静けさなんて何処にも無いみたいだ。

 

1月7日(土)、
 命のぎりぎりの端っこにいることで浮かび上がってくる、全てがきらきらとした感覚って、きっとあると思う。今、生きていることの感触。

 ……僕は少年のままでいたいと、昔、思っていた。感傷的なままで、何も知らずに死にたいと。僕はいつしか、どうしようもなく大人になってしまったと思って、行き場のない衒学趣味に囚われていた。逃避願望か、もしくは虚無か。そうでなければ踏ん張ることしか出来なかった。いっぱい知らなければならない、何故だかはよく分からないけれど、たくさん知った方がいいのだと焦り、けれど自分自身、今の自分に納得していなくて、結局じっと座り込んでは、光が自分の中に見付かる瞬間を待っていた。
 今また思うのだけど、何歳になっても、60歳になっても、90歳になっても、もしかしたら200歳になっても、少年のままで、感傷的なままでいていいのだ。僕は僕のままでいたいし、僕のままで生きたい。僕のままで死にたい。

 けれど動けない。今いる椅子の上が、人間が生きている世界の外みたいに思える。

 

1月8日(日)、
 眠いのに眠れない。骨までがぴりぴりとしている。欠損。

 

1月9日(月)、
 全てを知りたいという気持ちがずっとあって、それと同時に、僕はただの僕でいたい、僕が感じることを、惨めさも含めて大事にしたい、という気持ちがずっとある。その両方が、僕にとってすごく大事なんだけど、どちらかと言うと後者を忘れてしまった方が、ずっと危ないと思っている。「世界」なんて言葉は、忘れてしまっていい。でも、自分が自分であることや、人が人であることを忘れてしまったら、僕の心は消えてしまう。

 

1月10日(火)、
 今現在を、魚が泳ぐように生きられたらいい。何も気にすること無く、何も思いわずらうこと無く。闇の中、ディスプレイの向こう側で、デジタル表示の時計の[04:09]がぼんやりと青く光っている。
 何も無い空間にいたい。ネットカフェが世界で一番好きな場所だったのに、病気が流行って行けなくなり、この頃になって行ってみようと思ったら、煙草が吸えなくなっていて、自分の生息区域がどんどん狭められているような、もやもやとした不安を感じる。真っ白な空間が好きだ。訳の分からない、出来れば気持ちいい思考をどんどん膨らませていたい。

(いつか真っ赤な、大きなピアノが欲しいな。窓を開け放つと音が長水路のように流れ出していく。樹々の葉っぱが水底を泳ぐみたいに揺れていて。
 それとも、アップライトのピアノでもいい。水草のような小さな部屋で、ランプやデジタル時計の周りを、ピアノの音が静かに回る。その小さな、儚い渦の中で、僕は小さな声で歌っていたい。)

 ディスプレイの中は、虚ろではない。僕はもう大分前から、怒りたくなったら、とにかく30秒、数を数えることにしている。それでも駄目なら、少し横になる。怒っているとき、不安なとき、不満なときは、何をどう考えても、絶対に自分が正しいとしか思えない。すとんと絶望に落ちたりする。孤独を慰めてくれるものが何も無い。

 僕には書くことしか残っていない。でも、書くことは残っている。

 夜。久しぶりにお酒を飲んでしまった。お酒を飲むと、自分がただ時間に流されている感触を肌や、そのずっと奥の骨で感じる気がする。

 

1月11日(水)、
 水の音。薄いドアの音。キーボードの音。僕は自分を治療して、世界に連れ出すために生きてきたはず。こんな暗闇の中で。

 何も無いなら、何も無いところから生き始めなくてはならない。

 

1月12日(木)、
 どうしても気分が落ち込んでしまう。夕食時、よほどお酒が飲みたかったけれど、酔って一瞬気分が良くなっても、すぐに空虚感に満たされると思って、少しも飲まなかった。そしたら何故か急にハイになったので、両親のいるところで、日付が替わるまでずっとギターを弾いていた。

 

1月13日(金)、
 ……

 

1月14日(土)、
 ……

 

1月15日(日)、
 朝、空の高くでは、雲が陽の光になかなか溶けきらず、緩慢にその形を変えている。ぼんやりそれを眺めている。心に余裕が出来てきて、ぼんやりしていても時間の無駄とは感じない。体内時間がゆっくりと流れている。

 午前中、ホワイト・ストライプスの『Ball and Biscuit』という7分19秒ある曲を10回くらい聴いた。とにかくエレキギターの音を堪能出来る曲なので、ギターの音を聴きたいときや、自分の精神状態を確かめたいときや、音のチェックをするときに、延々聴いている。今朝は、iPodで聴いてみたり、WALKMANの音の設定を変えながら聴いてみたり、ヘッドホンのイヤーパッドやケーブルを交換したりしながら、何度も繰り返し聴いた。ほんの少し聴いて音がいいと思っても、それで7分も聴いていると、何故か疲れたり、少し音が悪いと感じても、その音だと7分間とても楽しめたりする。本当に自分が聴きたい音を見付けるのには、少し時間が掛かる。
 くっきり聞こえすぎるのも良くなくて、音が少し混ざっているくらいの方が、音楽に浸りやすい。眼鏡のレンズも、完璧にくっきりと見えると疲れるから、ほんの少し見えにくいくらいに合わせた方がいいと眼鏡屋さんに言われて、そんなものかと思ったのだけど、音楽もそれに似ているかもしれない。聞こえすぎると疲れる。

 ヘッドホンは15年間、ずっと同じのを使っている。audio-technicaのヘッドホン。このヘッドホンの音が、僕の基準音になっていて、このヘッドホンで随分音楽を楽しんできたし、完璧に音楽に感動してきた。だから、このヘッドホンで音楽を楽しめないなら、ヘッドホンが悪いんじゃなくて、僕の精神が悪いのだと、僕は頑なに信じている。

 小さい冷蔵庫を買おうか迷っている。冷蔵庫は意外と音がうるさいので、廊下か、隣の部屋に置こうと思っている。加湿器やストーブの音や匂いは好きなんだけど。

 夜になって、雨戸を閉めた。ここ数日、夕方頃に小雨が降ることが多い気がする。風はほとんど吹かない。木枯らしを最後に感じたのはいつだろう? 雨の音に、時々、昔から連綿と生き続けてきた自分の息吹みたいなものを思い出すことがある。何もかも大丈夫だと思える。誰から見放されたとしても、自分が自分を感じられるなら、何も迷うことなんて無い。
 一週間くらい、比較的暖かい日々が続いて、空気は乾いているけれど、外に出ても、氷を押し付けられるような、びっくりするような寒さは感じない。
 この街には……世界には、子供の頃とても大切にしていたのに、今では何も思い出せない、大事な場所が何処かにあるような気がする。見付かったら瞬時に「この場所」だと分かる、僕の中の時間を巻き戻してくれるような場所。実際、僕の中では、時間なんて本当は流れていないのかもしれない。全て錯覚なのかもしれない。ただ、大事な場所からどんどん切り離されていく過程を、便宜的に時間と呼んでいるだけで。この世には、きっと何処かに、時間に流されることのない、永遠の場所があるはず。そしてそれは、まさにこの場所なのかもしれない。僕の中にあるのかもしれない。忘却していくことの白々しい不安。でも何を忘れているのかも分からない。

 この部屋にも酸素があるって、何て不思議なことだろう。そして僕の浅い呼吸。

 最近体重が増えた。僕の身長だと健康体重が68kgなのだけど、何とそれを超えるくらい肥った。70kg前後あって、こんなに肥ったのは20歳の頃以来だ。痩せるのはけっこう簡単だ。一回50㎏台まで落としてみようかな。