とても個人的なメモ

(最近、気持ちにあまり余裕がありません。何かとても急いでいるような気がしています。)



 「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐうべき物もなく、うき世のものとも思われず」(本居宣長『玉かつま』)
 最近、本居宣長が大好きだ。二年前に小林秀雄の『本居宣長』を新潮文庫で読んだときはまだ「ふーん」って感じだったんだけど。
 僕はどちらかと言うと井筒俊彦さんの東洋哲学の本に嵌まっていて、全てが空とか無だとか、この世には本当には何も無いのだ、という考えを、すごく格好いいと思っていたので、宣長の言う、「たとえば、うれしかるべき事にあいて、うれしく思うは、そのうれしかるべき事の心をわきまえる故にうれしき也。又かなしかるべき事にあいて、かなしく思うは、そのかなしかるべきことの心をわきまえしる故にかなしき也。されば事にふれて、そのうれしくかなしき心のわきまえしるを、物のあわれをしるという也」とか、「たとえば、めでたき花を見、さやかなる月にむかいて、あわれと情(こころ)の感(うご)く、すなわち是、物のあわれをしる也」そして「物の心をしるは、すなわち物のあわれをしる也」という言葉を、いかにも素朴で、感情論的だな、としか捉えられず、……桜も月も、単なる視覚情報だよ、幻想に過ぎない、妄念だよ、無だよ、とか思ってた。
 全てが溶け合う世界、溶け合って溶け合って、何ひとつ物の区別は無く、いずれ全ては混沌に帰してしまうという思想や、全ては畢竟平等であって、そしてどこまでもどこまでも物の本質を追っていくと、完全な無に帰結するという禅の思想の方が、どうにも宇宙の真実っぽくて、世界の真相がそこにあるとか思ってた。宣長みたいに「山桜が大好き!」からスタートする「物のあわれ」論には、ちっぽけな生活人的感情があるばかりで、感動はあっても、宇宙の真実は無いよな、と本気で思っていた。

 けれど、最近思うんだ。僕がものすごく東洋哲学、あるいは真理を語っているっぽいスピリチュアルなことを学んだとしても、知識が増えるばかりで、自分自身の感覚や感情は稀薄になり、結局は「僕が生きてる」ってことを忘れてしまうんじゃないかって。僕はより正しい考えを得たかったの? つまり「僕自身」という存在を欠いた答えを。僕は僕自身が、考え、感じ、そして知りたかったんじゃないのか? 自分自身の感動や感情や感覚や、そして理性を総動員して、誰かが言った真理なんかじゃなく、自分自身の答え、僕が心から納得出来る、僕なりの答えを得たかったんじゃないか? 僕は、借り物の考えの継ぎ接ぎになんかなりたくない。無だとか空だとか、実感にないことを、さも真理であるかのように、自分の考えであるかのように振りかざしていたくない。僕は僕の実感だけを言葉にしたい。そして表現していたい。何故なら僕にとって、真実とは、つまり実在とは、ある思考法ではなくて、僕自身の心の表現以外にあり得ないからだ。もちろん、最終的な答えが、ある種の哲学や思想に辿り着く可能性もある。もしかしたら無や空に辿り着くかもしれない。でも、それが誰かが見付けた知識や、誰かが考え抜いた思想の上辺を、ただ借りてきたものであってはならない。あくまで、僕が僕の心で見付けなければならない。

 僕の大きな目標のひとつはもちろん、もっともっとみんなに幸せになって欲しい、ということであって、仮に真実というものがあるとしても、ひとりで籠もって「真実、真実、真実、……」って考えていても、あれこれ上っ面の知識や思想を知っても、気分が暗くなるばかりで、多分一番大事な、心の中の光のようなものを無くしてしまうと思う。そのとき僕はきっと情熱を無くすだろう。僕と外の世界は繋がっている。外の世界を明るくすることは、少なくともそう心がけることは、僕自身の心を明るくすることでもあると思う。そして何がどうあれ、まず僕に心が無ければ、そして心の中に光が無ければ、何にも始まらない。何にも分かる訳がない。外の光さえ、感じる能力を失っていくだろう。世界は平坦な言葉や思考の集積になって、僕の目はもう、何ひとつ捉えることが出来ないだろう。
 僕は決して、知識だけで生きている訳じゃない。第一、僕は僕の力で産まれてきた訳でも、自分の力だけで生きている訳でもない。普通に考えても、部屋の中にいてさえ、数多くの人たちが作った物の中で生きているのだし、日本語だって長い歴史の中で、人々の中で育まれ耕されてきたものだ。今これを書いている僕の身体だって、おそろしく沢山の、何億個とも知れない細胞がすごく頑張っていてくれて、それでやっと動いて生きている。僕は僕以外の無限に多くの物に囲まれているのであって、僕の考えや創造性なんて、その中の表面的な、本当に一部の一部の、無限小の部分に過ぎない。
 さらに僕の考えや創造が借り物であった場合、僕はもう何にも無い、死体よりももっと死んだ存在にしかなれない。僕は無限小どころか、ゼロよりひどい、マイナスの存在にしかなれないだろう。虚無に囚われ、虚無の中へ消えてしまうだろう。本気で何かを好きになる能力を完全に失い、全てが死んで、その癖匿名的な知識をいっぱい抱えて、虚しくて、しかも自分が賢いと思ったりして、孤立し、絶望し、きっと確実に自殺するだろう。

 一年間くらいだろうか、YouTubeで、何やら真理を語っている感じの動画を大量に見た。かなり嵌まっていたかもしれない。けれど僕は「眼の前のものを愛する」ことの実感や、僕自身が生きていることの生身の感覚の方がずっと大事だ、という感覚を失うことが出来なかったし、そういう動画を見るごとに、その感覚はどんどん捨てられないものになってきた。動画を見た瞬間だけ、何かを知った気になって、それが気持ちよかったんだけど、見終えるとすぐに虚しくなる。
 「好きなものは好き。すごく好き」という気持ちを、単なる執着だと言って、捨て去ることがどうしても出来ないし、それが間違った気持ちだとは、どうしても思えない。だって好きなんだもの、という非論理的だけれども、率直な確信があって、その確信には軽やかさと爽やかさがある。「全てを手放しましょう」と言う人は多い。「本当に?」と思う。僕は間違っているかもしれない。ある観点(例えば仏教的な)から見ると、僕はまさにエゴ(業の深さ)の固まりだと思う。精神なんか全然安定していなくて、嬉しいときは嬉しくて、悲しいときは悲しくて、絶望するときは絶望するし、楽しいときもある。感情の変化が僕なんだと思う。絶望するならすればいいと思う。それが僕なら、仕方ないと思う。いずれ安定するかもしれないし、全然しないかもしれない。でも、自分を捨てたくなんかない。

 僕は昔から中原中也がすごく好きだ。中也もやっぱり自分の実感だけを書いた人で、彼は世界や社会の構造をとても論理的に、かなりの部分まで考え抜きながらも、でもそれを自分の感情や創作には全然持ち込まなかったと思う。彼はあくまで「今生きている自分」に徹し続けたと思う。中也は思想や理念なんて書かない。僕は生きているひとりの人間としての中也が本当に好きだ。真理は知りたい。でももっと大事なのは、傷付いたことさえ、捨てたりしないことだ。生きたくもなり、死にたくもなる。心の平穏だけじゃなく、癒やしの中にも存在する痛みとか、静けさだけじゃなくて、混乱や心の分裂や、自分自身のどうしようもない感情とかを捨てないこと。そういうのって、とても、とても大事なことだと思う。

 そう思っていると、僕は今、本居宣長が言っていた通りのことを考えているみたいだ、と思って、最近また急に宣長のことが気になってきて、もっと深く知りたいと思うようになって、新潮文庫の『本居宣長』は売ってしまったので、小林秀雄全集の『本居宣長』の巻を買って、読み始めている。前に読んだときより、かなりじっくり読んでいる。宣長小林秀雄の書く言葉が、以前よりずっと染みてくる気がする。以前は、非常にバイアスの掛かった(宣長を軽んじるような)気持ちで読んでいたので、だから冷めてて、こんな人もいたんだ、とさして感心することもなく、ただ単に名著だから読んでおこうと、適当に斜め読みしたので、大事な部分をかなり読み落としていた。小林秀雄の文章は上手いので、そこにばかり感心していたし、面白かった記憶はあるんだけど、内容はほとんど忘れていた。『本居宣長』は小林秀雄が十二年かけて、それまで出版されていたいろいろな、宣長に関連する全ての本を読破して、宣長と関係の深かった当時の学者の文章も、当然何より宣長の原文も全部、誰よりも熟読して書いた(と小林秀雄本人が言っていた)作品なので、あんまり速く読んでしまうと、ほとんどの内容を取り落としてしまうと思う。

 ニック・ドレイクを聴きながら書いている。全ては無かもしれない。でも、僕が今ニック・ドレイクを聴いている、この気持ちを「無」だとは言えない。僕が死んでも、ニックには残り続けて欲しいし、きっとどこかでニックの歌は、ずーっと残り続けていてくれる。そこはこの世界じゃないかもしれなくても、それでも、という気持ちが僕にとっての現実で、言ってみればそれだけが今の僕の真実。その真実に知識は答えてくれる? 心から好きなものが永遠にあって欲しいという気持ちを、とても大好きな気持ちを、僕にとって何より確かな気持ちを唯一の真実として生きて行きたいという感情を、思想とか理論に当て嵌めることなんて出来ない。本や動画で得た正しい(と言われている)知識を僕が語るとき、僕には欠けているものがある。それは個人的な訳の分からない感情だ。個人性を生きること。プライベートな自分をどこまでも大事にすること。宇宙の真理なんて、僕には知ったことじゃない。
 だから本居宣長の、訳の分からない山桜への熱狂的な愛情を、今はとても正しいと思う。



 多くの人がきっと楽になりたいんだよね。苦痛や不安や恐怖や絶望なども、僕は必要なものだと思っている。けれどネガティブな感情ばかりで、楽しさや喜びが感じられないと、多分誰だって、遅かれ早かれ死にたくなる。YouTubeで「楽になる方法」とかって検索すると、僕にはあまり信じられないものから、役に立ちそうと思えるものまで、無尽蔵に、本当にいくらでも出てくる。登録者数が数十万人もいるようなチャンネルもあるし、再生回数が少なくても熱が入った動画を作っている人もいる。
 しんどい人がそれだけ多いのだろうか。何も考えずに見られるような、リラックス出来る映像と音が流れるだけの動画や、聞き流すだけで楽になれると謳っている動画も、本当にいっぱいある。僕も一時期本当にしんどくて、音楽さえも聴けなくて、iPhoneで環境音(工場の音とか川の音とか)をたくさん聴けるアプリを購入して、毎日聞いていたことがある。母はときどき、護摩を焚いている映像を見ているし、弟は海外でかなりの激務に追われているらしいんだけど、彼は(今は知らないんだけど)疲れた夜にはYouTubeで焚き火の動画を延々と見ていたらしい。その気持ちは、僕にもすごく分かると思う。

 「楽になれる」系の動画は、本当にめちゃくちゃある。(以下の羅列は僕の趣向が偏っていることを示すものかもしれないけれど)細胞が修復される周波数を含んだ音楽とか、見るだけで運気が上昇するとか、賢者の言葉とか、オーラがどうだとか、意識とか魂の次元(7次元まであるとか、11次元まであるとか)とか、アファメーションとか、ワンネスとか、マインドフルネスとか、チャネリングとか、集合的無意識とか共同体意識とか、ポジティブシンキングとか、科学的に解明された意識とか、波としての世界を脳がフーリエ変換によって解析しているとか、引き寄せとか宇宙銀行とか、パラレルワールドの中から望む未来を選択出来るとか、現実はヴァーチャルだとかゲームだとかホログラムだとか、超弦理論とか、ハイヤーセルフと接続する方法とか、潜在意識の開発とか、書くだけで人生が変わるとか、右脳を目覚めさせて自動思考(頭の中のお喋り)から解放されるとか、瞑想による精神や思考の浄化とか、誰でも悟れるとか、神がどうだとか、六道や陰陽五行説や地獄や輪廻や前世やカルマや陰陽やホメオスタシスや因果の法則とか、格物窮理とか、イデア界の頂点にある善のイデアとか、シンクロニシティとかバタフライエフェクトとか、神秘の数とか、アカシックレコードとか、魂や肉体の波動/振動数とか、気功や太極拳、気の流れ、ヨガ、丹田呼吸とか、身体を鍛えることで自信が付くとか、近くにいる人同士の精神の共鳴とか、ソウルメイトとか、量子力学や二重スリットがどうだとか、つまり観測された世界だけが存在するとか、あとは宗教とか、霊能力とかサイキックとか、第三・第四の眼とか、偶像崇拝とか、(自己)洗脳とか、一流アスリートのマインドとか、イメージトレーニングとか、ラッキーアイテムやパワーストーンやパワースポットとか、タロットとかオラクルカードとか、占いとか宇宙人とか、スターシードやライトワーカーとか、未来人や予言とか、陰謀(これは少し違うか)とか、エンパスの生き方とか、画面越しに良い気を送ってくれるとか、ユダヤ人の習慣とか、自分で頑張らずに全て宇宙に委ねようとか、望むものは既に無意識の中にあるとか、ポジティブな言葉を唱えましょうとか、自然と触れ合いましょうとか、樹木の言葉とか、感謝や愛の気持ちを感じて口にしましょうとか、断捨離とか、ともかく言語化することが大事だとか、脳が喜ぶ習慣とか、……本当に、ありとあらゆる「楽になる」ための動画がある。はっきり言って多過ぎて、あれこれ見てると、楽になるどころか疲れてしまう。そうしていろいろ見た結果、結局得ることは「いろいろ言ってる人がいるなあ」という感慨と空しさくらいだ。結論としては「結局自分のことは自分でどうにかしなければならない」ということだけ。
 分からない。楽になるためにエゴを捨てる? 物を捨てる? そんな必要は無いと思う。全て、方法論は概念でしかないから、個人としての僕はそこには含まれない。
 おそらくニック・ドレイクの音楽も含めて、地上に存在する殆ど全ての音楽は、ピアノの中央辺りのA(ラ)の音が440Hzになるように調律されているんだけど、440Hzは精神にも身体にもすごい悪いらしくて、432Hzこそが本当に心身に良い影響を及ぼす宇宙か何かの真理(?)の周波数なのだと主張している人も、それを信じている人も、かなりの数いるみたい。何しろ、大きな音楽サイトで、再生音源を440Hzと432Hzから選べるところさえあったし、432Hzを語っていて、多くの人に支持されているベストセラーの本もある。
 YouTubeにも432Hzの音楽がいくらでもある。でも僕は、音楽をちゃんと聴けば、440Hzで心の底から混じりっ気無しの素晴らしい体験を得られることを知っているし、432Hzだろうが444Hzだろうが、いいものはいいと思う。ヘルツなんて気にしてたら、音楽を楽しめない。
 けれど、楽になりたい一心で、根拠のない、でもとてもまことしやかな説を信じたい気持ちはすごく分かる気がする。「科学的根拠」という言葉に、よく分からないながら参ってしまうことも。疲れていると、本当に自分では何も考えられなくなるから。けれど、それっぽい説を頑なに信じている限り、決して本当には楽になれないと思う。なれたとしても、それは更なる思考停止の結果に過ぎないと思う。今の自分の実感だけは信じる、というスタンスで生きるのが、辛くても、でも一番幸せなんじゃないかと思う。人の言う知識で頭をいっぱいにしていたら、眼の前のものが見えない。個人的になることがとても大切だと思う。今の自分の感覚と感情を大事にすることだけ。自分に嘘を吐かないこと。それだけが、どんな幸福論よりも大事だと思う。

 気になって仕方ないのに声を掛けられずじまいだった人や、今でも声を掛けられずにいる人がいる。でも、勇気を出して声を掛けて良かった、と思うこともけっこうある。人と仲良くなれたらいいと思う。でも、僕が人に及ぼせる影響の範囲は、とても限られている。結局僕は、ほとんどの場合、僕が好きなことを、ひとりでせっせとしているしか無いんじゃないかと思う。
 とても辛い人に、辛さから抜けるための一般論を滔々と説いても仕方なくて、もしかしたらただ抱きしめるのがいい場合もあれば、それが逆効果になる場合もある。黙って一緒にいてあげるだけでいいこともあれば、黙って離れた方がいい場合もある。もしかしたら、僕は孤独にしかなれないかもしれない。けれど人への好意は失わずにいられたらいいと思う。

 結局は、身に染みて何かを(あるいは全てを)好きだと思えなければ、世界をモノクロに、のっぺりさせてしまうと思う。
 繰り返しが多くて、とても性急な文章になってしまった。今の感覚を忘れない内に書いておこうと、とても急いでいるので。
 僕自身の歪んだ思考やスタンスを修正したい。モノクロになりかけている僕の世界が、カラフルな風景を取り戻してくれたらいいと思う。

 僕がずっと、僕自身でいられますよう。

メモ

――いくら時間をかけてもいい。ゆっくり、ゆっくりと。

 遠い遠い感覚。
 何より大切な。外国のお城のような、廃墟のような。

夕方、風の音がして、何かを思い出す。何か、大切なものを。

 詩とはついに、「思い出すもの」なのかもしれない。
 詩とは詩人だけが書ける、あの世の日記かもしれない。
 行間に沈みゆく記憶。
 詩は説明しない。 詩には‘全て’が仕舞われている。
 ――もしかしたら言葉は全てそうなのかもしれないけど。

引き裂くようにギターを弾いていたい。血と、痛みが欲しい。
――好きな人に、好かれないから厄介なんだ。

でも、胸が空白になるような、出会いの予感。
 人を、大好きでいたい。

温かい(ああ、森の草の葉のような)この気持ち。

雨の匂いと消毒の匂いがする。

日記(少し調子がいい)

12月7日(土)、
 とにかく呼吸していよう。

 午前中は本当に何もせずに、だらだらごろごろと、寝たり起きたりして過ごす。

 午後は『イジらないで、長瀞さん』を24話、10時間くらい掛けて一気に見てしまう。長瀞さんにイジられまくるセンパイが、弱気でヘタレでどうしようもないんだけど、ときどき格好いいし、何より長瀞さんが可愛い。「長瀞」ってずっと「ながせ」って読むんだと思ってたんだけど「ながとろ」で、一太郎では普通に変換出来るし、多分実在する名字なんだと思う。いい名前だ。
 『長瀞さん』の作者のナナシさんって、昔ネットですごいエロい絵を描いてた774さんと同じ人らしくて、女の子の表情の上手さとか、とにかく画力の高いイラストを惜しげもなく公開していた方なんだけど(実は僕も見ていた)、そのときの数倍くらい長瀞さんの表情がエロい、、、と思う(ちなみに漫画は三巻まで読んだ。U-NEXTで無料だったので)。
 アニメっていいなあ。何かYouTubeとかで「メンタルの改善には、まず運動しましょう」と言っていても、面倒としか思えないんだけど、虚弱なセンパイが運動を頑張っているのを見ると、僕も頑張ろうかな、と自然に思えたりする。それにセンパイの、絵を描くことに対する一途な情熱と本気さには、長瀞さんじゃなくても、僕も惹かれてしまう。ただのヘタレが何故か一方的に美少女に好かれているんじゃなくて、センパイをどんどん好きになる長瀞さんの気持ちも分かる気がするから、センパイに対して畜生、とかは思わない。センパイが本当にどうしようもない奴だったら、ストーリーが不自然になって、見るのが嫌になっていたと思うんだけど、センパイも長瀞さんも正直すぎて不器用なので、ふたりとも頑張って、って応援したくなる。

 さて、うん、僕ももう少しだけ頑張ってみよう。

 

12月8日(日)、
 最近、二週間くらい、流しに食器が溜まっていたら、とりあえず洗っている。母の負担を減らしたい、という気持ちはゼロで、目の前に出来ることがあるなら、それをした方が楽しいと思い始めたから。
 この前、母が、胃が痛くなりそうなくらい自己嫌悪している、と言っていて、少し驚いたし、生きにくそうだなと思った。父に内臓を提供したくない自分は、とても悪い人間なんじゃないかと、悩んでいたそうだ。父はもう実際、かなり身体が悪い。僕はずっと前から、父には内臓をあげると言っているし、そんな簡単なことで父が元気で長生き出来るなら、いつでもどうぞって思ってる。善意も、恩を売る気も全然無い。僕の気持ちひとつで誰かの寿命が延びるなら、単に自分が嬉しいという、勝手な気持ちしかない。
 でも母は、父に内臓をあげたところで、それから父さんが私に良くしてくれるとは思わないし、あげるだけ損で、正直なところ2000万円くらいくれるなら、内臓をあげてもいい、でもそう思う私は悪人なんだろうか、と言っていた。僕はそうは思わない。母はとても自分を大事に思っている。僕は多分、自分を大事に思っていない。
 多分僕は、通りすがりの人が倒れて、今すぐ内臓の提供が必要だ、ってなったら、すぐあげちゃうだろうし、相手の人が僕を忘れてしまってもいい。僕もすぐ忘れるだろうから。全く善意じゃないんだ。僕は死にたがりで、あまり自分の身体を大事に思っていないという、それだけのこと。
 そんな僕が、役に立つのなら、とても嬉しいし、自己犠牲の気持ちも無い。それに、もし僕が内臓を必要としていたら、父も母も、あまり悩まずに僕に内臓をくれるかもしれない。くれないかもしれないけれど、そしたら他の誰かがくれるかもしれない。いくら僕がもう死んでもいいと言っても、父なら無理矢理にでも僕に内臓を貰ってくれと言いそうだし。
 そういう風に、世界は回り回って出来ている。持ちつ持たれつとか、お互い様とか、どちらかと言うと嫌な響きの言葉だと思っていたけれど、僕はいろんなものをいろんな人から貰って生きてきたのに、それに全然気付いてなかった、と最近気付いた。僕もまた、とても少ないかもしれないけれど、誰かに何かを渡せるかもしれない、と思う。僕は、僕以外の人たちの中で生きているわけだし、僕の内臓を、その循環の中に流してしまうのは、何だか世界の一部になれたみたいで、やっぱり嬉しい。要するに自己愛なんだろうなあって思う。世界は悪い場所かもしれないけど、とてもいい場所でもあると思っていたい。

 

12月9日(月)、
 病院の診察日だった。疲れた。一昨日の昼から、殆ど眠れていなくて、憂鬱の影が、どよんと覆い被さってくるような気分だったので、母に薬だけ貰ってきてもらおうかと、余程考えたのだけど、今日だけは身体を引きずってでも行こうと殊勝な心掛けをして、何とか通院を乗り切った。と言ってもいつも、母に車で送り迎えして貰っているのだけど。この頃「成長しなきゃ」と思っているけれど、あまり思い詰めると、自分に無理ばかり強いてしまう。「頑張る」と「無理に頑張る」は、正反対といっていいくらい違う。今日は無理の一歩手前だった。寝不足と憂鬱でふらふらした心身で、それでも外出できたことは、僕の中ではひとつの達成だったので、帰宅してからは少し心が楽になった。やっぱり緊張していたからか、病院では血圧が186あった。でも帰宅して測ってみると112に下がっていた。大きい波と小さい波はあっても、精神状態は回復に近付いているみたいだ。

 

12月10日(火)、
 朝からパソコンの調子が悪くて、特に画面のノイズがひどく、U-NEXTも見られないし、書きものも出来ないし、仕方ないから音楽を聴いて、読書をしていた。部屋の片付けもしなきゃな。
 何故か夜になってノイズがぴたりと収まる。『路傍のフジイ』という、最近話題になっているらしい漫画を読んでた。全然目立たなくて、会社でも軽く馬鹿にされてる四十歳のフジイさんが、実は秘かに幸せに暮らしている、という描写がいろんな人の視点から描かれるという短編読み切り型の漫画。もう四巻まで出てる。変人というか天然というか、馬鹿にされてることもあんまり気付いてなくて、淡々と小さな幸せを喜びながら、他人には自然に優しく生きているフジイさんは確かに格好いい。フジイさんと接した人々は、何故か心が楽になったり、自分にとって大事なことを思い出したりする。目立たないけど影響力は大きい人。案外と僕の理想の生き方かもしれない。斬新な漫画とまでは思わないけれど、まあみんなぎすぎすしてて、不幸な人が多くて、高望みしては自己嫌悪している人も多そうな社会の中で、自分の思いの通りに、人の評価も気にせず、真っ直ぐと生きているフジイさんは、キャラとしては新しいのかも。みんな多分、小さな幸せを忘れ気味だものね。ほんわかと読んでた。

 晩ご飯は鍋だった。鍋というか鍋物鍋物はあんまりおかずにならないので、そんなに好きじゃなかったんだけど、「金のごまだれ」をたっぷりかけて食べると、白菜でさえご飯のおかずになると知ってからは割と好きだ。具材を食べ終わった後には、残った汁でラーメンを茹でて食べるので、かなりお腹いっぱいになる。
 食べた後は、とりあえず食器や鍋などを全部洗った。その間、母はストーブの前でうとうとしていて、僕は僕が洗いたくて洗っている(というのは洗い物は精神の安定の為にとてもいいとYouTubeで言っていたから)し、手伝いのつもりも無いんだけど、以前よりは母の負担も減っているなら、それはそれでいいことなのかなと思う。でも、ソファに寝転がってiPhoneYouTubeを見ていた父が、ちらとこっちを見て「母さんが洗ってると思ったら違うんか」いい身分だみたいなことを言ったので、少しむっとした。母は母で買い物に行って、野菜も切って、鍋の用意も全部しているのだから、母の負担の方がずっと大きいのにって。僕が全部洗い終えると、父は機嫌良く僕に「ありがとうな」と言ったけれど、その言葉はもっともっと母に掛けるべきだと思って、少し嬉くて、同時に少し嫌な気になった。でも父にそれを言うと、何となく父を非難しているみたいになりそうだし、いや実際非難しているんだけど、話がややこしくなりそうだな、とか思って、僕はさっさと二階に上がってきてしまった。言えばよかった、と少し思う。

 水沢なおさんの詩集(『シー』)を読んでる。病院の待合室でも読んでた。滅茶苦茶かっこいい。「なんかよく分からないけれど、でも君が好き」という淡くて、強くて、透明で確かなもの、愛とは呼べないかもしれないけど、でも自然な優しさで満ちているような詩集。優しさは空っぽ。海のようなもの。受け入れもするし、拒むこともある。けれどただそこにある、透明な深さ。その中をたゆたう私たち自身が、また海でもある。現代詩って、冷たいと思う。この詩集もひんやりしているんだけど、読んでいると身体が軽くなる。生温かくなる手前で小さく微笑んでいるかのような温度感。好きだな、と思う。
 僕も詩を書きたい。もう少しだけ身体の温度を下げて、空っぽの中で小さく、でも確かに笑っていたい。微かでもいいから、消える前に、少しだけ。希望でもなく、絶望でもなく。虚無でもなく重さでもなく。ただ、水のようにありたい。

日記

11月22日(金)、
 とても大切な日。

「本当の自分は冷たい」と決め付けるのも早計だ。

 

11月24日(日)、
 本格的にメンタルが回復している気がする。死にたいと思わない日が続いていて、まるで自分じゃないみたいだ。数日前まで辛くて、ずっと死にたかった。死にたくない日なんか無かったと思う。僕は徹底的に無価値だと思い込んでいた。

 音楽を聴くことの純粋な喜びを思い出しかけている。随分耐えてきたって思う。
 しぶとく生きていたい気持ちもあって、でも、ころっと死にたい気持ちもあって、中途半端な気持ちで、薬で自分を抑えながら、いっときも消えない不安の中を生きてきた。空虚で空っぽで。
 今はどうなんだろう? 少なくとも自分に価値があるとか無いとかは、どうでもよくなってきたと感じる。

 

11月25日(月)、
 今日は通院日だった。久しぶりの外出。

 苦しいなら、考えることを少しだけやめてみればいいのかな? でも、何か考えていないと自分がばらばらになって、何をしでかすか分からないような気がする。

 何故か、あまり人を怖いと思わなくなってきた。長い間、外に一歩出ると、くらくらするくらい緊張してしまって、病院で血圧を測ると、200を超えていることが当たり前だったので、外出なんかしてたら心臓が弱って早死にすると思っていた。前に病院に行ったときは血圧は232あったし、その前は229あった。今日は病院内でも、何か楽しいな、って思えて、冷静で、血圧は139しか無かった。

 

11月28日(木)、
 風の音と車の音が混ざり合って聞こえる。

 悠長なことのようだけど、今僕は僕のメンタルを回復させることを第一に考えている。誰かに幸せになって貰おうとしても、ぎすぎすしてたり、自己犠牲を払っていたのでは、すぐに自分が潰れてしまう。

 家で血圧を測ると107しか無かった。こんなに低い数値は、今まで一度も見たことが無い。子供の頃からずっと高血圧だった僕が、今日は少し低血圧を心配したくなるくらいで、本当に驚いた。食べるものも生活習慣も特に変えてないので、やっぱり心が落ち着いているのだと思う。単なる躁鬱の波のせいじゃなくて、何か根本的なところで、心の調子が良くなりつつある気がする。

 

11月29日(金)、
 もし今の、自分では最悪だと思っている状況を抜け出せたなら面白いだろうな、という感じで、少し今の状況を楽しめている。ゲームみたいな感じ。今までも、とびきり苦しいときには、「あとでこの苦しみは小説を書くときにプラスになるかも。苦しみを描写出来るし、ネタくらいにはなるかも」と思って生き延びてきた。内面的な経験だけでは、外の世界について書くのは難しいと思うので、人と関わり合うことはこれからの課題として。

 

12月2日(月)、
 昨日は誕生日だった。やたらと元気な一日だった。幸先が良さそう。もしかして軽躁状態なんじゃないかと少しだけ心配だけど、落ち着きもあるので、きっと大丈夫だと思う。病気をアイデンティティにはしたくない。

 恐怖って、自分自身で闇を作り出しておいて、その中に自分を詰め込んで、「怖い、怖い」って言っている状態だったんだ、って最近思う。まるで闇の中を懐中電灯ひとつで彷徨っていて、物の影や、ときには自分の足音にさえ仰天して、動けなくなってしまう状態。自分自身をコントロール出来ないと、闇は深さを増していく。

 

12月5日(木)、
 朝、昔のように、角砂糖だけを食べて生きたくなった。コーラだけで栄養補給するのもいいな。僕はここにいて、同時にここにいないような感じ。いてもいなくてもいいや、という感じ。ほんの少しだけ危うさを感じる。

 

12月6日(金)、
 午前中は妙に元気があって、部屋の拭き掃除をしたり、ギターを弾いたりしてた。午後は寂しくなって、町の人の声も遠い思い出の中から聞こえてくるみたいだった。『灰羽連盟』を最終話(13話)まで通して見た。
 とても弱気になっている。きちんとご飯を食べて、たくさん眠って、運動して、仕事をしないと、大変なことになりそうな気がする。

 夕方、父の帰宅前に、母がいろいろと父に対する恨みごとを滔々と僕に語ってくれたので、不謹慎かもしれないけれど楽しかった。端から見てると三十年や四十年の我慢に我慢を重ねた恨みつらみでも、笑って見ていられるんだから、僕にはあまり感情移入の能力が無いのかも知れないし、そんなダメージを受けるだけの能力は要らない。

 「自分」として生きていくのは、とても難しい。「自分らしさ」なんか全然分からない。僕は目先のことしか見えてない。例えば、そろそろ友達にメールを書かなきゃな、とか、三日後にまた病院に行くのが面倒だな、とか。あと謂れのない不安。そして死にたくなるような恐怖感。少しでも得たい優越感。自分は駄目だと思うことで得られるアイデンティティ。苦しみから逃れられない理由をいつも用意している。親のことだったり、病気のことだったり。でも、いつまでもこうしていられないことは分かってる。

 先月買った、エイフェックス・ツインの『Selected Ambient Works Volume II』の三十周年記念盤(CD三枚組)が良すぎて困ってる。気持ちよくて抜けられない。美しい音楽。

 僕は絶望感も喪失感も、それなりに味わってきたと思う。人一倍苦しんだかは分からないけれど、個人的には、これ以上は絶対に無理だろうと思う程度には苦しんだ。生半可じゃない、地獄としか言いようのない苦しみは、おそらく誰の中にも存在する。孤独も、絶望も。僕が「いつかは死ねる」ことを救いのように感じるのは、生きるのを忌避しているからだろうか? 生きていればしばしば、耐えられないほどの悲しみに襲われる。時計の秒針がくるくる回っているのを見るだけでも、少し悲しい。

 僕は、自分がとても冷たくもなれる人間だと知っているので、両親には等しく感情移入はしても、それが僕にとってあまりに負担になりそうなら、思考の中から両親の存在を一時的に切り離すことが出来る、ということを最近知った。僕は別に両親のどちらの味方でもないし、別に夫婦仲に介入したくもない。ただ、人の愚痴を聞くのは全然苦にならないので、母が何か言ってたらふんふんと聴いているのだけど。にやにやしながら軽い受け答えで聴いてるから、あまり聞き上手ではないことは自覚してる。

 と言いつつも、父と母がふたりきりでいると、また妙なこじれ方をするんじゃないかと思って、どうしても時々様子を見に行ってしまう。でも、それは僕に精神的な余裕があるときだけだ。そして父と母の間で発生する重なり合わない電波がノイズになったみたいな毒気に当てられて、大抵僕は疲れ切って部屋に帰って来る。薬が無ければどうしようもないくらい、虚無的な気分になってしまっている。で、薬を飲んで音楽に浸って、また少し回復すれば、両親の様子を見に行って、また疲れて帰って来る。
 僕は多分、父と母の間の緩衝剤に、少しはなれているみたいなので、僕の力で両親間のこじれをどうにか出来るんじゃないか、という淡い期待をいつも持っている。でも、それも僕の傲慢さの為せる業だとは知っている。父は父で、母は母で、彼ら自身をどうにかしなきゃならない。父も母も僕も、本当に子供みたいだ。みんなでもうちょっと大人になろうよ、とか思ってしまう。僕が変えられるのは、僕だけなのにな。僕はさっさと独り立ちしなければならない。
 独り立ち出来たなら、僕が金銭的な面で母をサポートして、父と離れて暮らせる環境をつくってあげられたら、とか、まだ何の目途も立っていないのに、妄想めいたことを考えている。かと言って父をひとりぼっちにしたい訳でもない。僕は、とっても偉そうな人間なので、ちょっと父や母を見下しているかもしれない。僕は成長しようとしているのに、両親ともどもまるで子供の駄々のこねあいをしてるだけじゃないか、って。それって本当、僕は一体何様のつもりなんだろうと思う。自分のことをまず黙って、せっせとしっかり何とかしろと思う。

 僕は基本的に自分の中に壁を作って、その中に住んでいた。僕は宗教や他人の価値観を信じない代わり、他者そのものも信じていなくて、僕以外のものに心を開こうとしたことが全然無かった。まずは自分の中の腐った湿地帯から、抜け出さなければならない。
 一番虚しいのは、自分で自分を見放してしまうこと。僕は「何も分からない」と決め付けていた。心を閉じまくっていた。それに、何かが分かったり、何かを知ったところで、何の意味もないと思っていた。
 大人にならなきゃね。頭の中の袋小路から抜けなければならない。

 少し熱いくらいの温かいお茶を飲んでいる。僕は何を大切にしている? 何を待っている?

 自分しかいない、とか、自分自身だけで何でも分かるというのは、完璧な幻想だ。僕は山と海に挟まれた細長い街に住んでいるんだけど、多分あの山が酸素をたくさん作ってくれてるんだよね、と今は思う。くだらない山だと思っていたけれど、あれらの木々が作ってくれた酸素を、今僕は吸っていて、だから実質、物質的な意味でも、僕はあの山と繋がっている。それを否定するというのなら、息を止めて死ぬしかない。息を吸えば、僕の肺は二酸化炭素と酸素を瞬時に分けて、そして、酸素はすぐに、僕の指先にまで供給される。そういうのって、いつも全然僕の意識しないところで行われている。僕は僕の自意識とか考えで生きている訳じゃない。
 今僕の周りにあるもので、僕が作ったもの、作れるものは、ほぼひとつも無い。ほっこりする感情とか温かさって、自分からは産まれないんだよね。僕は言葉を書きながら(ついでに言えば、言葉も僕が作ったものじゃない)、しばしばネットの個人サイトやpixivでイラストを眺めて感情を整えることが多いんだけど、イラストって本当に多くのエモーションを含んでいる。懐かしさや、きゅんとする気持ち、忘れてならない感情が、イラストには含まれている。

 何か変えていきたいんだよね。僕だけじゃなくて、どうしようもなく引き籠もっている人たちは、日本だけでも何万人もいる。自殺したい人だって、相当な数だと思う。今この瞬間、死を選んでいる人もいるはず。
 メッセージ性なんて僕には全然無いけれど、現実逃避してても何でもいいから、とにかく誰しもに生きていて欲しい。自分を責めずに。少しくらい悪いことをしたって、駄目人間になったっていいから。

 依存とか逃避を、僕は全然悪いことと思っていない。弱々しいメンタルで立ち向かったら死んじゃうことばかりだ。いつまでも楽な道で現実を見ないことは大問題だけど、とにかく傷を癒やさなければ、生きられない。ガメラだって傷付くたびに海底温泉に潜って傷を癒やしていた。誰にだって自分の為の安心出来るスペースや、いつでも逃げられる余地はあった方がいいと思う。
 僕は大量のサプリメントなどの市販薬や、処方薬や、煙草に依存している。そして何より、音楽に依存している。究極には音楽は要らないのではないか?、と思ってはいるけれど、今のところ音楽が一番の、最高の逃げ場になっている。依存の無い生活よりも、依存と共に生きる生活を自分に許している。お酒は合わないと感じるのでやめている。別に依存を正当化するつもりは無いし、他人に勧める気も無い。でも、自分だけのとてもプライベートな逃げ場を、もっと多くの人が持っていた方がいいんじゃないかと思ってる。

 本当に本当に辛いときは、不安と恐怖しか無くて、もう、僕の場合は、死ねる量の薬を机に並べて眺めたりとか、薬とお酒を出してきてがぶがぶ飲んだりとか、腕を切ったり、母相手に死にたい死にたいとぐちぐち言ったりとか、本当、碌なことをしてない。心が燃え滓みたいになっていて、あと一吹きでぼろぼろと何もかもが崩れてしまう。世の中の「楽になれる方法」を総動員しても、救えない心ってある。助けは来ない。何もかもが怖い。
 それでもまだ、死にたい死にたいと言える友人や母がいてくれたから、僕は生きてこられたと思うし、ODや自傷も、本当に死んじゃうことに比べれば、まだずっとましだと思う。

 ともかく、僕にとっての人生は、基本的に僕が決めるものだ。ずっと待っていても、誰かがわざわざ僕に安心感をくれたり、安心出来るスペースを作ってくれたりはしない。自分が安心出来ないことを、誰かのせいにしている限り、安心は得られないと思う。
 一時的に冷血な動物みたいになるんだ。ひとりでいるときは、時たまでもいいから、頭の中から他人の存在をシャットアウトしてみる。別に人を嫌いになるとか、敵意を持つということじゃなくて、本当に自分の安心出来るひとり分のスペースを作ることに、一時的にしろ専念してみること。それが今試していること。うまく行くのか、有用な方法なのかは、分からないのだけど、ひとりでいるときくらい、心からひとりでいたい。それは心を閉じることではないと思う。心を開くとか閉じるとかいうのは、ひとまず置いておいて、自分が安らげる場所で、たまにはひとりでぷかぷか浮いていたいんだ。

雨と夜

レコードショップで
つまらないレコード
を立ち聞きして
あなたに借りたマヨ
ネーズを返しに行く
私は不安に弱い
まるで虹の家にいる
よう
そのうち雨になって

私はひどく頭がいい
ので
雨と夜の関係図を鮮
明に画くことが出来

信じられないよ
あなたに人間並の心
理分析が通用するな
んてね

私は灰のように手が
白い
太陽に当たると露骨
に暴かれる
私の人形性
吐息がかすかに震え
てる
あったかい……

病院の待合室
テレビのワイドショ
ーの音が大き過ぎる
(……この雪で数々
交通機関が麻痺…
…)
(……約1600人の
乗客が空港で一夜を
明かしました)
(……さん親子が生
き埋めに)
(……は捜索の打ち
切りの方針を明らか
に……)
耳の遠いひとが多い
のだろうか
暴力的なまでに甲高
い看護師の声

KID Aを聴いている
僕には関係ない
(靴下を履いてこな
けりゃよかったな)
鉢植えのコスモスが
淡い夜のペディキュ
アのように咲き誇っ
ている

私はひどく頭がいい
ので
雨と夜の関係図を鮮
明に画くことが出来
る……


歳を取る音が聞こえる
死に行く人たちが、
まるでエイフェックスツインのドラムループのように
空間と空間の折り目をたゆたっている
ベース音には骨が折れる音
心拍音の相貌はいつも平坦
で、そこにあるべき生命としてのディテールを常に失っている


僕は40歳
40歳というゴミ
ぼんやりと年老いて
いく音を書き付けて
いくと
こころを喪失した冬
の叫びがきこえる


幸せでいようとして、
そしたら急に泣き出したくなるんだ。
一人ぼっちになって、
ワインを飲んで
世界がむらさき色になり始めたら
前庭のブランコに跨って、
そしてそのまま死んじゃいたいなって……。


雨は夜をあからさまにする
夜は雨を精細に分析する
雨は夜を硬直させ、
夜は雨をあからさまにする……

日記(思うこと)

11月20日(水)、
 僕は、父と母に仲良くしていて欲しい。この世にひとつでも笑顔を増やせるなら、僕もその為に生きられるかもしれない。僕はもう、まるで自分のことしか考えずに生きてきた。自分ばかりが不幸だと思ってきた。でも、父は僕をいまだに信じてくれている。母は僕の寝言みたいな暗い話を、いつも辛抱強く聞いてくれる。自分のことより、僕のことばかり心配してくれる友人や、生きていて欲しいと言ってくれる人がいる。何故気付かなかったんだろう、ってびっくりするくらい、僕は多くの人に助けられて今まで生きてこられた。
 確かに僕はめげかけている。疲れている。でも、僕は他にも、大好きな音楽があるし、大好きな絵を描いてくれるイラストレーターの人たち、たくさんの本、それだけじゃなくて、この社会を作ってくれた、いろんなものを作ってもくれた、いろいろな人たち、そして何故か僕を生き長らえさせてくれる世界、そして僕の身体、……それら全てを無かったことにして、勝手に孤立を深めて死ぬのは、あまりにも自分勝手というか、何にも見てないよな、と今朝起きてすぐ思った。

 不安と恐怖に負けそうなんだ。「感謝の心を持ちましょう」なんて文言を読むと、その度に、僕をこんなに苦しめる世界に、どうやって感謝すればいいんだ、と反射的に反抗心を持ってしまう。今でも「感謝なんてな」胡散臭い言葉だよな、と思ってしまう。
 けどやっぱり僕はこの世界が好きだ。ろくでもない僕だし、しんどくて、もう嫌だ、とばかり思っているけれど、自己嫌悪はしても、僕以外の何もかもを嫌いになんてなれない。素晴らしいものもいっぱいある。美しいものもたくさん。仮に死ぬとしても、ひとつだけ、僕がこの世界を否定して死んだとは、誰にも思って欲しくない。

 昨夜、父に「僕は父さんのおかげで生きてこられた。父さんが僕を見捨てずにいてくれて、ずっと僕を信じてくれているから」と言ったら、父はひと言だけ「そりゃそうだ」と何でもないみたいに答えてくれただけだった。数年前に、僕が衰弱して、両親の前で倒れたとき、母は慌ててただけだったけれど、父は即座に僕の心拍を確かめて、息をしてないからと人工呼吸をしてくれた。父は僕の血液検査の結果を見ては、この数値が高いの低いのとうるさいし、ほっといてくれと思っていたけれど、確かに僕の身体を、僕よりずっと強く心配してくれている。僕は自分の身体なんてぼろぼろになって死ねばいいと思っていたのだけど。
 でも父は、母にあれこれと指図するのに、母にねぎらいの言葉も、お礼も一切言わない。どちらかが死ぬときになってでは遅いのだと思う。言わなきゃ分からない。死ぬときになってお礼を言ったり(言う時間があればまだいい)、相手が死んでからでは遅いんだよ、と思う。
 昨日も母は、父が書くはずの面倒な書類を代わりに書いて、父の腕時計を直しに時計屋に行き、父が夜寒いからと言うので毛布と布団を乾燥機にかけ、父がご飯と言えば全部用意して、上着が無いから寒いと言えば二階まで取りに行き、それで父が言った言葉と言えば、腕時計の汚れが全部取れてないだの、昨日は寒くて寝られなかっただの、寝不足のせいで仕事がしんどかっただの、もっと美味しいものが食べたいだの、書類は不備が無いか、ちゃんと確かめたか、だの、本当にそんなことばかりだ。
 だから僕は「何かをしてくれたら、ありがとう、だよ」と言っても、「ああ、助かった」のひと言だけだ。あんまりだと思う。言葉は愚痴や指図や文句の為にあるんじゃない。気恥ずかしくたって、お礼は言った方がずっといい。ただ少し、ありがとう、って付け足すだけでいいんだ。何の為の言葉だよ、ちゃんと言えよ、って思う。

 僕はたしか13歳になったばかりの頃から精神科に通っていて、生半可な病気ではなかったと思うし、ずっとずっと自殺したいと思いながら生きてきた。多分、誰が悪いという訳でもなかったのだと思う。「悪い」ってどういうことか、考えてみるとよく分からないしね。僕は今からの自分をどうにかするしかない。

 今日は何故か、少しうまく行きそうな気がしてるんだ。

 

11月21日(木)、
 いつから、自分のことを駄目だ駄目だと思い続けていたのだろう? 完全に自分を投げ出していた。もっと傲慢なくらい、誇大妄想的と言われるくらい、自分をすごいと思っていたって別にいいはず。昔はそう思っていた。トム・ヨークと会ったら何を話そうかな?、とか当たり前のように考えていた。いつから僕は、トム・ヨークやジャック・ホワイトと僕では住む世界が違う、なんて考え始めたのだろう? 身の程をわきまえた? どうして僕が僕の身の程を小さく見積もらないといけない? 同じ地球上に住む同じ人間に憧れて、いつか話せたらな、と思うことがそんなに非現実的なこと? なーんにも出来ないと思い込んでしまっていた。それは、うん、今も怖いし、不安でもある。でも、少し考え違いをしていた。僕がすごいというか、みんなすごいんだよね。本当にすごいのに、生きてるだけでべらぼうにすごいのに、全然すごくないと思い込んでる。
 生きることは苦しい。経験的に。でも、苦しくなければいけない理由なんて無い。

 僕は父に怯えていると思う。常に父の機嫌を伺っているし、父を落胆させているのではないかと気になってしまう。いくら、「大丈夫だ、僕はすごい」と思い込もうとしても、いい歳して僕は怯えた子供のままだ。父はよくお金の話をする。その度に、僕は父から多大な借金をしているような気がする。返済の宛てもない。僕がお金を稼げるようになるまで、この怯えは続くのだろうか? 何か、父の期待に応えなければいけないような気がする。「この家に住んでいるけど、僕は僕の好きなようにやる」と、多分、そんなに堂々と言える日は来ないような。夕食の時間が、毎日怖い。

 父に「死ね」と言われたことは一度も無い。気狂いだとか病気だとか病気に甘えるなとか、いろいろ数え切れないくらい言われたけれど、父も戸惑っていたことは分かる。僕も、僕の状態を、正確には表現出来なかったし、多分、本心を話したことは無い。それに、僕も、おそらく父の言葉に、あまり傷付いていない。そんな言葉は僕の表面を通り過ぎて行く。負い目なのかな? 父は毎日働いているのに、僕はその間ごろごろしてたり、母の前では強がっていたりしてて、でも、心はいっときも安まらない。いっそ、父が分かりやすく悪い人なら、僕も父なんか知らん、と言える。多分。でも、これって、「この人は悪い人じゃない。寂しがり屋なだけ」とか言って、心の通い合わない夫婦生活を続けている人、もしかしたら例えば母の気持ちにも似ているのかな?
 でも、思う。僕はもう少し自分を貫いていいと思う。だって、僕にはきちんと好きなものがある。好きな人がいる。なりたい自分についても考え始めた。父を表面的には裏切るかもしれない。今、僕は自室にいる。今くらい、父なんか無視したっていいんじゃないか? そして、早い内にきちんと「僕は父さんの思い通りにはならない。でも、僕は立ち直ろうと思う」と言うべきなんじゃないか? 今この瞬間の怯えを、薬以外で抑える方法を教えてくれよ、と思う。誰かに手を引いて欲しい。でも、これは僕の問題だ。今僕は父に囚われているのではなく、自分で自分を縛っている。僕は僕の弱さを父のせいにして、自分から目を背けてて、そう考えると、父の方がとばっちりを受けてるんじゃないのか? 実際、今現在、父は一階にいて、どう考えても今ここにいる僕を縛ってなんかいないのだから。

 僕の弱さ。それは多分、僕自身が纏っている自己イメージと、元々の僕の間に、かなりの齟齬があることを、あまり見たくないことだと思う。僕は多分、ずーっと昔から、いい人で他人思いである人間を演じてきたと思う。でも、そんな上っ面が嘘だってことは、かなり明確に分かっている。僕はきっと、いい人じゃない。他人のことなんか知らねえよ、と思っているかもしれない。でも、そんな自分を晒したら孤立する。多分、嫌われる。本来の自分が出てきたと感じたら、取り繕うのに必死だ。僕は父のことを思ってるから、父のことを見捨てられない人間だから、期待に応えられないから、だからこんなに苦しいんだ、と思っていられたら、それは楽だよね。何もしないことの理由が出来て。でも、それは嘘だよね、本当は僕は他人のことなんか、さくっと切れる人間なんじゃない?、と思うと、すぐに動揺してしまう。結局は自分の都合しか考えていないじゃないか、と思う。
 最後まで怖い怖いと言って、何かしら優しいっぽい人の振りをして死ぬんなら、勝手にすれば、と思う。僕は多分、いい人じゃないと思う。その癖人とは関わりたい、寂しい。ただそれだけだ、と認めればいいのに。
 僕は人から愛されるに足る人間? 感情が稀薄? 今、泣きたい気持ちなのは何故?

 これから、考えなければならないことが、きっと沢山ある。行動しなきゃならないことも。無茶と自棄だけは起こさないこと。取り返しの付かない勘違いで先走らないこと。この怖れは、逃れられない最終局面なんかじゃない。とにかく、バッドエンドなんかで、自分を終わらせてやったりしない。

美しい世界で

すぐ死ぬくらいなら愛したい。自分さえも愛せずに、何ひとつ愛せずに死ぬよりは、綺麗なものたちや美しいものたち、それどころか醜いものも含めた世界全体を愛せるものとして、愛すべき世界の存続を願いながら死にたい。少なくとも世界は美しかったのだと。自分が嫌いで、世界には虚無しか無く、死後には何も無い、「何も無い」すら無い、とそれだけを思って死ぬのは辛いから。それにそれは事実では無いから。

今、自分に言いたいのは、目の前にあるものを厭うな、ということ。僕の厭わしい視線が、世界を厭わしくしてしまうのだ。それこそ見る目によっては、見るもの全てを金よりもずっと貴重で価値のあるものに変えてしまえる。例えば、ぬいぐるみをただの布の塊と見ることは出来るし、布の塊であることは紛れもない事実のようだけれど、僕がぬいぐるみを抱いて、それを生きたものとして扱うならば、ぬいぐるみは「事実」として生きている。と書きながら、くまのぬいぐるみを抱えてる。

このくまは母に誕生日プレゼントとして貰ったものなんだけど、僕が嬉しがってくまを動かしながら、くまの声(?)で母に意地悪なことばかり言ってたら、母に「何かそのくま嫌いになった」と言われてしまった。だから僕は「いや、口は悪いけど、このくまはいい奴なんだよ」と返した。うん、実際いい奴なんだ。

ぬいぐるみが布の塊でしかないならば、人間なんて肉の塊だ。ただの肉塊として人を扱うならば、大量殺戮だって当たり前に出来てしまえる。ただ、ヒトラーだって、愛する人をただの肉塊だとは、露とも思わなかったはず。もし、世界全体を愛するならば、世界は隅々まで生きている。自分と世界は親愛の情で結ばれる。そこまで行かなくても、自分にとって大切なものを失うと、心の一部にぽっかりと穴が空いてしまう。僕はそんなに愛に満ちた人間ではないから、全てを愛せる境地にはほど遠いけれど、時々、ほんの時々、何もかもが愛おしくなる。小説に出てくる少年が好きすぎて、好きな女の子の名前みたいに、手のひらにその少年の名前を書いてたこともある。そしたら人の中にいても、少しだけ心強い気持ちになれたから。

全てを平等には愛することは、多分特別な一瞬以外には無理だけど、ほんのひとつでもいいから、何かをとても大切にすることが出来たなら、生きることも死ぬことも、少しだけ受け入れやすくなる、と個人的には思う。何故なら、好きになる、ということは主体的なことで、自らが主体的であればあるほど、本来の自分自身として生きられると思うからだ。自分自身として生きて、自分自身として死ねるなら、少なくとも最悪の虚無感からは抜けられる。その分感情の振れ幅が大きくなり過ぎてしまうにしても。僕は受け身で救われたくなんかない。神というものがいるとして、神に感謝はするとしても、神のおかげで救われたいとは思わない。神はあくまで僕の目指す先の先にあるもので、神の方からわざわざ僕に幸福をもたらすとは思えない。祈りはしても、望みはしない。

「自分が何者か」ではなく「自分は何が好きか」で自分を定義すること。僕の心を探ると、嫌な自分が後から後からどろどろと出てくる。僕は自分を悪人だと思っている。僕自身に生きる価値は無い。でも、出来るだけ悪いことはせずに、好きなものを好きであり続けるために生きるならば、僕の生に意味や価値は無くとも、生きる甲斐はある。僕は好き嫌いが激しいし、多分選民主義的(好きな人はすごく好きだけど、嫌いな人は嫌い)だし、ものに拘り過ぎるけれど、でも好きなものが誰よりも好きという自信はあって、だからしぶとく生きてる。自分勝手なのは十分承知で。

日記

11月8日(金)、
 午前10時か11時頃に起きる。昨夜何時に眠ったか正確には覚えていないけど、やっぱり14時間くらい眠ったと思う。起きて、少し読書をして、それからアニメを5時間以上見ていた。疲れてきたので『ようこそ映画音響の世界へ』というアメリカのドキュメンタリー映画を見る。映画のサウンドって、無音の映像に、全て後から入れるんだね。映画にリアリティを持たせる仕事としては、監督や撮影の仕事よりもずっと大事なんだ、って初めて知って驚いた。
 ただ単に役者が歩いているシーンでは、何種類もの風の音を組み合わせて、風音に感情を語らせたりとか。今までそういうのは何となく当たり前にあるものだと思っていたけれど、「当たり前」って感じられること自体がすごいのだと思う。怪獣や恐竜の声は、動物園で録りまくった動物の声の合成だったり(ゴジラの声はたしかチェロの音だったよね)、狭い画面の外で起こっていること(例えば戦争映画では)、主役しか映っていないのに、周りの戦況が爆撃音やヘリの音で、ありありと感じられたりとか。
 『地獄の黙示録』の戦場のシーンが昔から大好きなんだけど、現地で音を録ったのだと思い込んでいた。サウンドマップを綿密に描いて、ひとつひとつの音を丹念に組み合わせていたと知ったので、これから映画を見る際の見る目というか、聴く耳が全然変わったと思う。音響のスタッフの仕事を意識しながら、近い内にまた『地獄の黙示録』を見ようと思った。もう何回も見ている映画だけど。
 例えば登場人物が街中を歩くシーンでの、人々の声や、生活音や、車の音、アナウンス、流れる音楽、、、それらを全て別々に録音して組み合わせるのって、気が狂いそうに緻密で時間の掛かる作業なのに、今まで僕は単に「歩いてるなあ」としか認識してなかった。でもそういう音の、ひとつひとつのディテールが合わさって、やっと映画の中にひとつの街が出来るんだ。ぼーっと画面を見ているだけで、ヘッドホンを着けてるだけで、僕は映画の世界に入ることが出来る。音響の仕事が、地味な裏方だとは思えなくなった。
 あと、映画音楽はやっぱりすごい。僕はハンス・ジマーが作曲した映画のサントラが好きなんだけど(特に『ダーク・ナイト』のサントラ)、彼もこのドキュメンタリーに出演していて、音楽は「まずはハートから作るんだ」と言ってた。それって、とても文学にも通じる。ぐーっと、心の深くに沈んで、そこから光を見付けないと、何にも作れない。技術よりも、その光が表現の核となる。
 学べるところが多いドキュメンタリーでした。そして見終えた後、僕の部屋の、些細な音でさえ、ひとつひとつが生きているように聞こえた。音には命がある。というか音は僕の生活を、無音の世界よりも、ずっと生きたものにしてくれている。ジョン・ケイジが言っていた「全ては音楽だ」という言葉が、初めて少し腑に落ちた気がする。表向きは映画音響のスタッフの技術と苦労を延々映したドキュメンタリーなんですが、音に対する意識が、見る人によっては、少し、または全面的に変わるような作品だと思いました。

 

11月9日(土)、
 朝まで起きていて、『コンパートメントNo.6』というフィンランドの映画を見る。電車の寝台室に乗り合わせた男女が、少しずつ心を開き合って、ほのかに愛し合うようになる話。ずっと孤独なムードが漂っている映画。他にあまり感想は無い。
 男が粗野で下品な男から、急に好青年に変わるので、途中から違う人物に替わったのを見逃していたのかと、最初の方を二度見した。主人公の女の人は、ずっと悲しいムードで、きっと遠方への列車旅行から帰っても、悲しいままなんだろうな、と思う。北国の雪景色ばかりで寒そうな映画だった。

 

11月10日(日)、
 一昨日から起きている。全く眠くない。朝から晴れてて、ほどよく寒くて気持ちいい。

 

11月11日(月)、
 三日前から起きている。恐怖感。夜明け前『ハンニバル・ライジング』を見る。主人公のハンニバル・レクター青年が、ただの自己愛に満ちた猟奇殺人犯になっているのが残念だったけど、まあまあ面白かった。他の作品のハンニバルは、どこか悲しみを秘めていて、異常者にも関わらず、どこか捨て置けないような親しみ深さがあって、それがアンソニー・ホプキンスマッツ・ミケルセンが演じている壮年期のレクター博士の魅力だと思う。この映画のハンニバル青年は、見るからに軽薄なシリアルキラーで、自意識過剰なチンピラみたいな感じだ(『時計じかけのオレンジ』のアレックス君の真似をしていそうな)。でもまあ、それはそれとして、映像は綺麗だった。監督は自然な美意識を持っていそうだし、もっと全然路線を変えて、叙情詩的な静謐な感じな映画にした方が良かったんじゃないかと思う。もっともっとハンニバル青年を無口にして、彼の悲しみを描く路線にした方が素敵な映画が作れたような気がする。

 昼前。理由の付けられない、叫び出したいような恐怖感。少し眠ると悪夢を見る。起きていて、シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』を読む。2024年の新訳。シルヴィア・プラスの詩は昔から大好きで、彼女の唯一の長編小説であるこの本もずっと読みたかった。生きることは、とてつもなく恐ろしいこと。恐怖のどん底で、毎日辛うじて、金の粒のようなとてつもなく美しくて儚い希望を掬い上げるけれど、次の朝にはそれは失われ、世界はまた隅々まで灰色の砂で出来ている。
 取り憑かれたように希望を探し続けてる。見付からなければ終わりだ。死。見付かったら見付かったで、その胸を満たす小さな光と共に死にたいと思う。人間って、行き着く先は死しかないんだよ。シルヴィア・プラスは本当の詩人だ。詩人という人種は、自分の生き死にで精一杯の人だと思うから。それ(生死)以外はみんな余興だ。余興はいつか終わる。自分の生と死に真摯な人は、また他人に対しても実直な人だと思う。余興に興じることが、他人を見下すことにも、つまらない欲得から他人を少し利用する、ということにも繋がると思うから。
 奇跡みたいな美しさは現実だ。そして灰色の世界を作るのは眼と頭の中に溜まった砂のようなもの。人々は砂を投げ合っている。世界を覆い尽くす砂埃が治まるのを待たなければならない。それには眼をぱっちり開いていないと。その分眼が傷付くとしても、それで涙が止まらないとしても。僕は本当の奇跡、本当なら有り触れているはずの美しさを感じなきゃならない。狂いたくなければ。本当に笑いたければ。ひとりになりたければ。そして本当の意味で誰かと一緒にいたいなら。人生は、命を懸けるのに価するものだ。
 僕は生きたい。だから本を読んでいる。映画を見ているのは、自分の中にも当然、悪が存在しているのを見付けるため。僕の中にもナチスはいて、どんな人の中にも冷酷な殺人者はいる。だからこそ僕たちは学ぶんだ。他者への不安(それはすぐに取り返しが付かないところまで膨張する)は、その殆どが自己欺瞞から出来ている。自分がとてつもなく凶暴で野蛮なことを認めない限り、争いなんてこの世から無くなるはずはないんだよ。

 昼過ぎ、注文していた『折々のうた』四冊が届く。俳句編が二冊に、短歌が二冊。最近俳句を、もう少し深く読みたいと思うようになった。手に取ってみたけど、怠くて、しかも執拗に目を覚まさせ続ける恐怖が薄れない。また後で読むことにする。

 夜遅く、何やら身体中の皮膚の、少し奥の細胞がざわつくような。

 

11月12日(火)、
 日付が替わって三時間ほど、自分の好みを思いっ切り前面に出した俳句(のようなもの?)(『死後の世界で会いましょう』)を書く。つまりは夜中に部屋にいて音楽を聴いているのが大好き、という季節感があろうはずもない、現実感から遊離した、ひとりきりの充足感ばかりを並べてしまいました。多分内容は暗いし、閉塞感が強いです。少し生活感情を取り戻さないと危なっかしい気がします。

 恐怖を感じる。未来が完全に閉じられている気がする。

 

11月13日(水)、
 眠れない。

 午後、今すぐ死にたい、と切羽詰まってきて、「ああ、もう薬を全部飲もう」と思ったけれど、セロクエルだけを飲んで、二時間ほど眠る。起きると、穏やかになっていて、もう少し生きようと思えた。死にたいと思ったり、生きたいと思ったり、これは脳だけの問題なのだろうか? 何にしろ、脳というものがあるとすれば、僕の脳は少しバグを起こしているみたいだ。

 今日は眠る前までは音楽さえ聴いていなかったけれど、起きると音楽に飢えていて、早速ヘッドホンを着けて、音楽の世界に浸る。音楽って本当にいいな、と思う。

 夜、すごく眠くなる。明日は平和に目覚められるといいな。

もう少しだけ

動悸がする。ここ数日感じるのは、不安ではなく恐怖だ。今にも真っ逆さまに転落してしまいそうな。もう、頑張れないかもしれない。
(本当ならここからすごく明るいことを書こうと思ったのですが、今は無理そうです。きっと大丈夫だと思うのですが、ときどき心が折れそうになります。と、追記を書いているのは、暗いときでも、もう少し自分を冷静に見る必要があると思ったからです。暗さに飲まれたくはありません。踏ん張るのでも、自暴自棄になるのでもなく、休むことを選ぶのは、気分が落ちているときには、本当に難しい……ということを今感じています。でも今は、どうしてももう少し生きたいと思っています。今、もう少し生きられれば、明日だってまたもう少しだけ生きられるかもしれません。そしたら明後日も。その内にずっと長生き出来るかもしれません。いつか心から楽しくいられるかもしれません。いろいろなことを知りたいです。人のこととか、世界のこととか。……自分のことばかりの人間のままではいたくないなと思いつつ、今も自分のことばかり書いています。これから、生きなければ他人のことも考えられない。僕には何にも足りていません。ずっと足りないままなのかもしれません。人の世界で人として生きることは、とても苦しい。でも知りたくて、表現したくて、愛したくて、という気持ちが僕の中にもあって、僕を生かし続けています。本当の本当に、これから先苦しみしか無いのだとしても、とにかく今何か早まるのはやめて、あと数時間だけは生きてみようと思います。僕には僕のことさえ分からない。他人に対して生きて欲しいと願うように、自分に対しても、少しだけ願ってみます。……休みます。)

死後の世界で会いましょう(俳句)

冷えた指この世の果てがそこに居る


イヤホンの中で無限の春に会う


目蓋から水だけ落ちる安定剤


小指から溶けて旅立つ子供の日


指先に見覚えのある夏の雪


視神経僕とあなたを隔つ膜


細胞のドアを開いて海に出る


数えてる誰の足音とも知らず


幾億の死体安置所冬の歌


冬の夜、前世来世が懐かしい


遺伝子を組み換えていくヘッドホン


肉眼の向こう電子の血が咲いた

 

 

(これを俳句と呼べるのか、全然自信がありません。
 夜中の、全く季節感が無く、現実感が薄れた、自己完結的な気分を、
 前面に出しすぎたと思っています。
 季節感と現実感、生活感情、そして他人に対して開かれた気持ちは、
 俳句にとってとても大事なものだと、思ってはいるのですが。)