日記

1月19日(火)、
ポップな気持ちになれない。古い古い時代に閑居している気分だ。

タイピングの回数を集計するアプリを使っていて、今までキーが何時頃に一番多く叩かれたか分かるのだけど、1月5日に集計を始めて、1週間くらいは完全に昼から夜にかけてだけ書いていて、朝型というか、昼型生活だったことが分かるのだけど、ここ1週間は、真夜中に多く書いていて、やっぱり夜型生活に戻っている。どちらがいいんだろう? 何となく、昼に元気いっぱいの方のときの方が、より強く目が覚めている気がする。代わりに夜中に目が覚めているときは、とても自省的な感じがして、それも好きだ。今のところ、夜型生活を続けても、特に支障は無いのだけど、夜型生活だと、目覚めてから数時間が怠くて堪らない。朝型の生活だと、朝起きてからすぐに活動できるような、気がする。昼に寝て、夜目が覚めたときには、何となく一日(昼の間中)を無駄にしてしまったような気がして、自己嫌悪に陥る。まあ、このところは夜型と言うよりは、二日起きてて一日ぐったり眠る、というリズムになっていて、多分今日も、夜まで眠らずにいて、その後また半日くらい眠る、ということになりそうなんだけど、長く眠った後の寝覚めはいつも最悪で、頭の中が死にたさでいっぱいになる。一日中目がきちんと覚めていて、夜は数時間だけしっかり眠って、また一日中元気に過ごせる、という生き方が出来ないものだろうか? 一日の間でも、疲れと虚無感に取り憑かれる時間が長くて、心はほとんどの時間、冷めていて、何もかも、もうどうだっていいような気がして、でもそういう自分を嫌悪していて、嫌悪している内に、この頃は少し底力みたいなものが蘇ってきて、一日に少しの間だけ、何が何だか分からなく情熱的になる。その間は何もかもが美しくて、面白い。今日も、日付が変わってからやっと、身体が軽くなってきた。好奇心のかたまりみたいなときの自分が好きだ。

ラヴィ・シャンカールノラ・ジョーンズの父親としても有名かも)の魅力がいまいち分からない。というかシタールの良さがあまり分からない。ビートルズが好きなのでシタールの音には馴染みがあるのだけど、聴いてても、インドだなー、としか思わない。あんまり入れない。なのに何故かシタールに似た楽器のサロードは大好きで、しばしばアリ・アクバール・カーン(カタカナ表記がこれで合ってるか心許ない)のサロード演奏を聴いている。サロードシタールより少し深い音がして、一番の大きな違いは、シタール独特のびーんっというノイズ音が入ってなくて、響きが澄んでいる。最近、言葉に対して、自由なスタンスを、段々取れるようになってきた気がするのだけど、音楽も、きっちり型に嵌まってても嵌まっていなくても、どちらでもいいと思えるようになった。ジンバブエの民族楽器であるンビラ(現地の発音に近いのかな? Mbiraと書く。英語での発音はエンビーァラに近いみたい)はかなり昔から好きで、10年くらい前には自分でも持ってて、けっこう面白く弾いてた。オルゴールの元祖と言われてて、オルゴールみたいに、並んだ鉄の板を、親指などで弾くことで演奏する(カリンバという呼び方の方が有名かも)。民族音楽が取り立てて好きなわけじゃなくて、あまり民族音楽とか西洋音楽とか、意識せずに聴いてる。民族音楽の面白いところは、12音階の縛りが曖昧で、例えばピアノだとミとファの中間の音は存在しないけれど、サロードにしても、日本の箏(こと)にしても、ミとファの間の音程の揺れがすごく大事で、その点、ギターのチョーキングや、スライドギターによく似ているかもしれない。チューニングが完璧じゃないところも。実際、インドの音楽は、弾ければ何の楽器を使ってもいいらしくて、ヴァイオリンやギターを使って弾くインドの演奏家もいる。それからジンバブエの音楽が特にそうなのだけど、変拍子や、拍子が曖昧な曲がすごく多い。メロディは4拍子っぽいのに、リズムは平気で3拍子だったりする。インド音楽とコラボレーションするロック・ミュージシャンは(特にギタリストに)とても多い(レディオヘッドジョニー・グリーンウッドもそうだし、ライ・クーダーとか、ジョン・マクラフリンも、もちろんジョージ・ハリスンもそうだ)し、アフリカの複雑なリズム(いわゆるポリリズム)を取り入れたロックもたくさんある。日本の、いわゆる邦楽(三味線とか琵琶とか)も、地味だけど、ここ数日僕は内田百閒を読んでいて、百閒の箏の師匠だった宮城道雄という人のアルバムがiTunesにあったので、聴いてみてて、僕は日本の情緒がどうにも苦手なのだけど、あまり湿っぽくなくて、単純に格好いいな、と思った。洋楽が好きな人が聴いても、普通にクールに感じるんじゃないかと思う。僕は音楽はビートルズを最初の核として、そこから少しずつ拡げるようにして、いろいろな音楽を聴いてきたのだけど、サロードもンビラも、ほとんどロックの延長として聴ける。ブルースは最初よく分からなかったけれど、ロックの本当に純粋な形、ファッションではなくパッションの固まりとしてもロックは、ブルースなんじゃないかと感じるようになってきたし、ジャズはそもそもロックとの境界が曖昧だ。特にミンガスはロックだと思う。クラシックは最初は単にグールドのピアノが好きなだけだった。何故か僕はバッハをとてもサイケデリックに感じることが多くて、バッハとサイケデリックロックって、全然違うようだけれど、とても、聴いていて、浮遊感や、光や恍惚感のようなものを感じる。それからサイケデリックとは違うんだけど、バッハの音楽には、精神の深みのようなものを感じることが多い。精神の深み…まるで眠りと覚醒の中間のような、瞑想的な感じがバッハにはあると感じていて、それはマイルズ・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』を聴くときにも感じる。……昔ながらの、熱い、トランペットやサックスが高音を吹きまくるジャズは、まだあまり分からないし、ヒップホップやラップは、聴いてて何だか不安になる。個人的にあまり好きじゃない音楽はどうしてもあって、メタルは、多分友人が生粋のメタラーじゃなければ、僕には全然縁の無い音楽だったと思うのだけど、友人にいろいろ聴かされている内に、メタルはメタルで深い音楽で、多様性もあるんだな、と思うようになった。デスヴォイスにしても、ヴォーカリスト毎に全然違う、ということも、知らなかったと思う。知り合いに熱烈なラップのファンがいたら、僕の、ラップに対する、多分、偏見のようなものも、薄れていたんじゃないかな、と思う。何でもそうだけど、何かを熱烈に好きな人の言葉には、耳を傾けたくなる。とは言っても、やっぱり僕はメタルはそれほど好きじゃないんだけど、少なくとも、メタルに偏見は持っていないと思う。ラップにも別に偏見は持ってはいないと思うし、パブリック・エネミーはとても好きなんだけど、それはやはりパブリック・エネミーはロックとしても違和感なく聴けるからで、何というか、いろいろなラップの曲を聴いても、どう感じたらいいか分からない。入り込めない。でも、それはそれでいいのだと思う。好きなものに惹かれ惹かれていれば。ロックが好きだと標榜しながら、僕はアニソンがかなり好きで、それからゲームやアニメのサントラが大好きで、それもまた、僕の生活から外せない。いろいろな音楽があって、それぞれの音楽を好きな人がいて、素晴らしいな、と思う。あまり、自分はこういう音楽が好きで、と好きなジャンルを自己規定したり、好きな音楽のジャンルが合わない人を敬遠したりとか、そういうことは全く無意味だと思う。「好き」という感情に、違いは無いと思うんだ。

午前3時半、ちくま文庫の内田百閒『サラサーテの盤』を読み終える。決して読みやすい文章ではないけれど、妙にどろどろしたような、透き通ったような、不思議な感触が胸に残る。中でも「柳検校の小閑」が別格に心に残った。盲人の箏の名人(宮城道雄をモデルにしたらしい)が、若い弟子の女の人に淡い恋心を抱く話だと思うんだけど、一人称で、もちろん視覚描写は無いわけだから、会話文や空気感だけで女の人を描くのだけど、その描写にとても透明感があって、見た目も表情も全然描かれていないのに、美しい人だと思う。視覚表現が無いのに、風の感じや、触感や気配だけで、全然曖昧なところがなくて、一番鮮明な印象を受けた。あとはノンフィクションと想像を織り交ぜた、宮城道雄をそのまま主人公にした小説で、特に、寝ながら点字の本をお腹の上に置いて撫でながら読書をするところが面白かった。もしかしたら、明かりの下で読むよりも、ずっと静かに本の世界に入れるかもしれない。文学書から医学書まで、とても幅広く読んでいたらしい。

午前5時半、『人間失格』を読み終える。昔からこの小説が嫌いで、好きだ。死にたいけれど不具者にはなりたくない、って何て可愛らしく人間的だろう。不具者になってもいいじゃないか。人間であれるならそれくらい。……太宰は、常識を持った読者が、どの程度までなら理解できるか、感情移入できるか、天才的なくらい的確に把握していると思う。

昼、注文していた古本のディランの歌詞集が届いた。予定より随分早い到着だ。イギリスから届いたみたいなんだけど、イギリスから日本の飛行機って、今も普通に飛んでいるのかな? けっこう使用感があったんだけど、前の持ち主が栞代わりに本屋のレシートを挟んであったのが面白くて、2013年7月26日の18時12分に、イギリスの最南端のブライトンという街にあるWaterstonesという書店で、税込み20ポンドで、この本を購入したらしい。でも多分、本棚の肥やしになっちゃっていたので、売ったんだろうな。衝動買いしたけどディランがそんなに好きじゃなかったのだろうか? 僕は3700円(送料込み)で買ったので、随分割高だけど、絶版の本なので仕方ない。ちょっとよれてるけど確かにイギリスから届いた、という感じがして嬉しい。

午後3時、お寿司を何回かする。880回打てた。

夜はしゃぶしゃぶを食べる。お酒は飲まないでおこうと思っていたのだけど、やっぱり飲んでしまった。酔うと何にも出来ない。

 

1月20日(水)、
午後3時頃までぐーすか眠る。17時間くらい眠った。二日分の睡眠にしても長すぎる。まだ半分意識が夢の中にある。
冷凍のパスタとパピコを食べる。

夜、何のやる気も湧いてこない。昨日は何か、宇宙の果てにひとりいるような孤独を感じた。今日は生活の中で、生活の不安を抱いている。そしてそこから抜けられないことに、頭が重くなっている。頭が動かない状態でお寿司を何度かして、835回叩けた。まあまあだ。

消えてもいいんだ、と思ったら楽になる。この世に対する訳の分からないくらいの愛情。それは僕自身が儚くて、この世が全て儚いからだ。美しいもの、無くなって欲しくないものに出会うと、とても淋しくなるのはそのためだ。現在を生きていること。そのことを愛したい。今を生きている人たち。その人たちを愛したい。

ああ、どうか目覚めていられますよう。宇宙や世界を確かに認識したまま生きられますよう。何もかもを愛せますよう。愛おしさや優しさや情熱でいっぱいのままでいられますよう。

日記

1月16日(土)、
午後1時半、納豆とキムチでご飯を食べる。さすがにとても眠くなってきた。取り敢えず、横になるとしよう。

夕方までごろごろだらだらする。カレーを作るのを少し手伝う。カレーを食べる。

日付が変わる直前になって、少し心に熱量が感じられる。

 

1月17日(日)、
昨日は頭も働かなかった。お寿司を毎日してて、何はともあれ毎日800回以上は叩く、ということを目標にしているのだけど、昨日はその目標には達したとはいえ、814回しか叩けなかった。頭と指先のパフォーマンス性が落ちている。まああと、右手の爪が大分伸びてきて、ギターを弾くのにはいいんだけど、キーボードが少し打ちにくくなったのも、多く叩けない理由だと思う。どうしても800回すら行けないときは、疲れているときなので、眠った方がいい、と考えている。目が覚めないとき、お寿司を何度かすると、目が覚めるときが多い。

午前1時、何度か寿司打をしてて、取り敢えず836回叩けたので、一端やめる。

何の情熱も湧いてこない。

午前3時、キムチでご飯を食べる。

朝8時、ホワイト・ストライプスを聴きながら英語の勉強。ギターも少し弾いた。右手の爪が伸びてきたので、フィンガーピッキングがやりやすい。お寿司を何回かしたら878回打てた。まあまあだ。

……

 

1月18日(月)、
昨日は朝、冴え冴えとする時間があった。夜はまたカレーライスを食べて、早めに眠った。

今日は、眠りに眠って、昼の1時半頃、やっと起きる。何のやる気も無く、ぼんやりとして、自己嫌悪ばかりあったのだけど、午後8時頃、やっと頭がすっきりしてくる。この頃何だかんだと言って、怠いとか死にたいとか、毎日思うけれど、一日に一回は、必ず目が覚める時間がある。多分、、、停滞はしていないと思う。段々に、目が覚める時間が長くなっていけばいいと思う。

難しいことがしたい、と鬱が飛んでいって、目が覚めていると、すごく強く、そう思う。

夜10時。一時的に少し目が覚めていたけれど、やっぱり気分が優れない。今日は半日、ほとんど台所にいて、ストーブに当たりながら、怠いながらも、母とあれこれ話していた。今日ばかりは停滞した一日かもしれない。怠い。

頭の調子がすごく悪いと思って、試しにお寿司をやってみたら、873回だった。意外にも頭と指はよく動く。お寿司は自分の調子を客観的に測る目安になると思う。

うるさいギターの音楽が大好きだし、クラシック(主にピアノ曲)が大好きだ。

このまま多分明日まで起きていると思う。夜中には元気でいられるといいのだけど。

日記

1月14日(木)、
午前2時。なかなか眠れない。納豆と焼きおにぎりを食べる。煙草を吸って、薬ばかり飲んでいる。

午前4時、パピコを食べる。それからしばらくして眠る。

昼の4時頃に起きる。半日近くも寝てた。起きると頭も重いし、お腹も痛い。今朝(夜中)は、本当に目が覚めていたのに。

午後5時、また目が覚めてくる。パピコだけ食べる。パピコはすごい、目が覚める。
でも、頭が重くてあまり調子が良くないので、薬を飲んでしまったら、また少し眠くなってきてしまった。

夜、唐揚げをたくさん食べて、ビールと梅酒を飲む。日本酒も飲もうかと思っていたけれどやめた。

 

1月15日(金)、
午前3時45分。昨日遅くまで寝ていたから当然なのだけど、まだ眠れずにいる。酔いは完全に醒めている。疲れを感じる。自分は何にも出来ないんじゃないか、という不安、怖れ。

午前4時45分。納豆とキムチでご飯を食べる。不安がややましになってくる。

朝。ドビュッシーピアノ曲を聴いている。ドビュッシーはピアノの曲しか知らない。遠い國の、霧の森のような風景。何人かの人の演奏を聴いたけれど、どうも僕は最初に聴いたモニク・アースの演奏に慣れ切っていて、他の人の演奏だとしっくり来ない。モニク・アースのドビュッシーのアルバムは、教会で録音したらしく、ときどき小鳥の鳴き声が入っているのだけど、それがもう僕にとっては曲の一部になっている。スタジオでの録音とは少し違う、自然な感じの残響も、ゆったりとしていて落ち着きがあるし、ドビュッシーの幻想的な旋律や和音によく合っている。モニク・アースがどれだけすごいピアニストかは分からないのだけど、優しくておおらかな演奏だと思う。心がやわらかく包まれて、夢に誘われるような。 

ドビュッシー:ピアノ作品全集第1集

ドビュッシー:ピアノ作品全集第1集

 

同じフランスの作曲家ということで、今まであまり聴いていなかったラヴェルも聴いてみた。なかなか良かった。フォーレもなかなかいい。ショパンはやっぱり何か、胸につかえるような感じがして、長く聴いていられない。それから、ドイツ人だけれど、シューマンの曲も今なら分かるかな、と思って聴いてみたら、やっぱりあんまり好きになれなかった。いろいろな曲、就中慣れていない曲を続けて聴いていると、頭がぼんやりしてくる。

午前中、コロッケを2個食べる。

午後1時。1時間くらい横になってた。眠ってはいないと思うのだけど、とてもリアルな夢を見たから、少しの時間眠っていたのかもしれない。音楽をいろいろ聴いて混乱していた頭がすっきりする。

audio-technicaのヘッドホンのイヤーパッドがそろそろへたってきた。前に取り替えてから、大体1年と3ヶ月経っていて、まだまだ使えそうではあるけれど、見栄えは悪い。それに多分、多少遮音性は落ちていると思う。以前、イヤーパッドを取り替えないままで4年間使い続けて、音が悪い悪いと書いたことがあったのだけど、イヤーパッドを取り替えると、荒天が澄み切った蒼穹に変わったくらい、くっきりと音が変わって、本当にびっくりした。イヤーパッドを買う直前にAKGのK712 Proというかなり高級なヘッドホンを買って、あまりの音のクリアさに感動したんだけど、イヤーパッドを取り替えたaudio-technicaには、全然敵わないと思った。K712は開放型というタイプのヘッドホンで、音に拡がりがあるのが特徴らしいのだけど、audio-technicaの方が、密閉型にも関わらず、さらに広大な音が聞こえる気がした。audio-technicaの方が、何もかも上だと、僕は感じたので、AKGの方は売ってしまった。ただ、ヘッドホンって、明らかにブランド毎の音の癖があって、僕はaudio-technicaを、もう11年間使い続けているので、audio-technicaのヘッドホンから出る音が、僕にとっての標準の音なのだけど、一度AKGに取り替えてから、またaudio-technicaに戻してみると、やっぱりある種の音の癖みたいなものがあると感じて、僕はその癖に慣れ親しんでいるので、すごく安心できるのだけど、AKGをスタジオで使うミュージシャンも多いので、やっぱりAKG特有の癖が好きな人もいるのだと思う。audio-technicaは多分、どの音もくっきりしていて、何となく全体的に音に重量がある。AKGの方がふわっとしていて、締まりが無いような、、、でも空間的な音には割と合うのかもしれないな、と思った。僕はどちらかというとタイトな音が好きなので。11年間同じ、audio-technicaのATH-M50を使い続けている。二代目は正確にはATH-M50xで、ケーブルが取り替えられるようになった。一代目のATH-M50は5年と半年でケーブルが断線して、どうしても買い換えなくてはならなかった。二代目のATH-M50xも5年くらい経って、やっぱり断線したのだけど、ケーブル(1500円)を交換したので、まだまだ使えそう。消耗品が交換できる、って本当に有り難い。イヤーパッドって、本当に大きく音の良さを左右する。音が悪いと言っていたときのイヤーパッドは、グロ画像に近いくらい、ほとんど朽ち果てていて、遮音性はほとんどゼロだったので、新しいのに取り替えたときの感動は、とても大きかった。↓

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↑ぼろぼろのイヤーパッド

午後5時半、どうにも頭が重い。何処に(ここに?)何をしに生きているのだろう? どうして何かを感じたり、無感情になったりするんだろう。混乱と不安が抑えられない。

夜はカップヌードルを食べる。

午後8時半、子供の頃の嫌な思い出に拘ってしまう。

日付が変わる直前、気持ちがふわっと拡がる。死にたさに時間が圧縮されていたのが、一気に膨張して、心にいろいろな色、虹やプリズムが取り込まれている感じ。うまく行きそう。明るい、花のように。

明日からさらに良くなる気がする。今日は今日で、本を一冊読んだし、まあ悪くない一日だった。

日記

1月11日(月)、
0時半、眠れない。何もする気になれない。

ああ、どんなときにでも熱量を。

2時半、眠れなくて寿司打を何回かした。またぴったり897回叩けた。900回くらいはすぐ行けるかもしれないし、伸び悩むかもしれない。明らかにデスクトップのパソコンを使っていた頃(去年の12月15日まで)よりキーを打つのが速くなっていて、mouseのパソコンでは、指と心とキーボードが一体化している感覚に近付けている。デスクトップのパソコンに東プレのキーボードを繋いでいたときの、お寿司の最高記録は819回で、大分とてとて打っている感覚があった。東プレのキーボードは叩いてて気持ちいいし、けっこう、速く打てると評判なのだけど、やっぱりノートパソコンのキーボードで、撫でるように打つ方が、僕には速いみたいだ。あるいはmouseのパソコンを最強の武器にしようという心意気が強いのか。まだ、無意識にすらすら叩けるまでにはなっていない。お寿司で1000回はどうしても行きたいな。全く無意識で書いていた頃の打鍵の感覚にはまだ遠い。滑らかに打ちたいな。

午前8時半、何もせずに起きていた。眠気が訪れない。焦燥感ばかりが激しい。
キムチと納豆でご飯を食べる。

午前9時半、少し人心地が付いてくる。
ガリガリ君のレーズンバターサンド味という奇妙なのがあったので食べる。まあまあ美味しい。

正午、食パンを食べる。まあまあ目が覚めてくる。

どうしたことか急に、初期のビートルズも好きになってきた。ロックンロールが細胞核を震わせるみたい。エルヴィス・プレスリーチャック・ベリーもとてもいいと感じられるようになった。

昼、ミンガスを聴きながら英語の勉強。ときどき読書もする。満ち足りた時間だ。

わくわくする気持ち、熱量を忘れたくない。

夜、カップ麺を食べる。

生きている振りが出来ているだろうか? 希薄な生を抜け出せるだろうか?

今日は本を2冊読んだ。多和田葉子さんの『献灯使』と、太宰の『斜陽』。

 

1月12(火)、
昼頃起きる。カップ焼きそばを食べる。

夜、両親と鍋を食べる。鍋というか、鍋の中で茹でられたものを食べる。この頃、あまり生きていると感じられない。ずっとそうだった気もするけれど。多分、僕は、いろいろなことを両親にも分かってもらおうと、甘えていたのだろうと思う。今は、悩むのは、ひとりでいるときだけにしようと思う。とても疲れている。目の前にあるものが現実なのか、錯覚なのか分からないけれど、どちらでも同じことなのだと思っている。人が人形に見えるなら、人形を思いっ切り愛すればいい。

 

1月13日(水)、
朝、7時半。ずっと起きている。寂しいような。混乱しているような。

朝食は納豆とご飯。

昼、12時半。パピコを食べる。

全然、何に対してもやる気が湧かない。死んでも別に構わないと思う。
コンビニの安いとろろそばが無性に食べたい。

午後4時、いろいろ食べる。食パンにチーズを乗せて焼いたのと、フルーツグラノーラに豆乳をかけたのと、豆腐に塩昆布とごま油をかけたのをふたつ。食べると身体がぽかぽかして、眠くなってきた。

午後8時半、昨日の昼から起きているけれど、頭はまあまあ目覚めている。もっともっと、読書と勉強の時間を増やしたい。不安で腕を切るしか無いような時間を減らしたい。情熱。内側から湧いてくる力が欲しい。

午後11時、レトルトのハヤシライスを食べる。
今日は、まあまあ実り多い一日。夕方からは読書もしたし、勉強もした。それに、かなり自分に感情が戻ってきたのを感じる。感情がとても希薄な時間も長くあるけれど、毎日、成長していきたいな、と思える時間が増えてきた。

明日はいい日になりそうな予感がする。

メモ

この世にはこの世を超えた場所があって、そこには暖かみはない。透明な凍えがひたすらあるだけ。この世には音と光があって、……生きるとは苦しいことかもしれない。枯れていきたい。急速に。音楽があるってなんて素敵なことなんだろう。ロックがあるって。
全ての人が対外意識に生きているわけじゃない。自分が世界の中を生きていて、生活の中にはいないとき、僕は僕だけじゃないんだ、って分かる。
やっぱり赤が好きだなあ。青だからって赤じゃないとは限らない。身体の切望の中には曜日が無い。

死んだ記憶が蘇ってくるような日。何かが僕の中で死んで、蘇り、死に、蘇り、死に。

僕自身の苦労によって、僕のオピニオン(主義・主張)は完成されていく。

自分が活発な自動人形となるまで、自分を高めていく。正確な衝動だけで、動く人形。

全てが疑わしくなる午後。「全てはただ有る」(?)???

音楽のある世界で良かった。ロックのある世界で。

人生の価値は、多分、愛することの出来たものの数で決まる。

何も知らないでいるって、何て気持ちいいことだろう!

生命の光を集中させて魂を燃やすような意識でいたい。

ピックケースに埃が積もっている。生きていく理由は無い。ただ生命の火が灯っているだけ。それを消したくないだけ。

未来。未来って何処にも無い。全てのものが見えない隕石みたいに無作為に僕の部屋に降りてきたように見える。何故、他の僕ではなく、まさにこの僕が、この僕に選ばれたのか? 僕は多くの言葉に傷付いてきた。でも何で傷付く必要があったのだろう? 何故殺されるのが怖いのだろう? 悲しいだけで、別に怖がる必要は無いのに。死にたがりだし。意識にしがみ付く必要は無いんだ。かと言ってぼんやりしてはいけない。完全に醒めたままで意識だけを捨てること。

光と音。とにかく光と音を浴びたい。

本当に孤独なとき、それは誰にも伝わらない。
誰にも何も伝わらないという当たり前のことが強大に立ちはかること、それが孤独。
それが絶望。(だからひとりで勝手に愛せ。)

日記

1月7日(木)、
寝たのは午前2時。1時頃にとてもお腹が減って、納豆とご飯と焼きおにぎりを食べる。それから美味しい西洋梨を食べる。

起きたのは8時半。寝過ぎという程ではないなあ。いい詩をたくさん書く夢を見た。小説も書いた。『キヌと解決』をいうタイトルだった。あと、妹にインドのラビが乗り移って、それで妹が大儲けする夢を見た。「あんなのどうせ演じているだけだ」と僕に言う人がいて、「サッカープレイヤーだって、サッカープレイヤーを演じているだけだ。でもお前はそれに金を払うだろう?」と僕は言った。夢があんまりくっきりしているので、起きてても日常の記憶のようによく覚えていた。

朝9時、アジの開きとご飯を食べる。今朝は寒い。あられ模様だ。
水道局の車が通っていて、水道管が凍ったり破裂したりするかもしれないから気をつけてください、と言っている。

今日はちょっとハイだ。でも何か、寂しい気持ちもある。

昼はクジラの肉の缶詰めと納豆とご飯を食べる。

雪がはらはら舞っている。

何もやる気が出てこない。まず何かをやり始めるのがいいとはよく言われるけれど、始めようという気にさえならない。

 

1月8日(金)、
昼、12時半頃起きる。寒くて何にもする気にならない。昨夜は唐揚げを山のように食べて、ビールをがぶがぶ飲んで、眠ってしまった。美味しい梨も食べた。

今朝(昼だけど)はとにかく寒い。

今日もちょっとハイ。そわそわして落ち着かないけれど、悪くない一日だった。少なくとも目は覚めていた。

 

1月9日(土)、
人生が空虚に思えて、全然起きられなかった。

10時過ぎ頃に起きた。やはり落ち着きがない。

……

 

1月10日(日)、
昨日は、夕方頃になって、大分落ち着きを取り戻してきた。読書もしたし、書きものもしたし、なかなかいい一日だった。

今日もまたそわそわしていて、でも目は覚めていて、お寿司で新記録を出せた。18200円分食べられたのは初めてだし、897回も叩けた。今までの最高は正月一日に出した880回。段々無意識に叩けるようになってきて嬉しい。スムーズに指先が動くと、それだけでも大分、気分が落ち着く。

他には、今日は読書を少ししたくらい。でも寿司打で新記録を出せたから、まあ、実りある一日だったということにしよう。この頃、夜寝る前によくノートに詩を書いている。言葉の世界に、もっと深く入りたいなあ。今年は、今のところ、割と元気だし、読書も英語の勉強もするだろうから、多分、去年よりかは良くなれるだろう。明日もいい日になるといいな。

夕暮れ

甘い記憶みたいに
柊色の山を見る

青いほどに青いほど
カメラに撮れない雨が降る

空は明るく僕は元気で
元気で元気な振りをする

実際僕は死にたくて
空を飛ばない鳥たちが
金の勘定するように

甘い記憶を数えてて
柊色の山の果てには

ぶら下がってる猫の幽霊
そこに冷たい雨は降るのだ

さて甘い甘い雨の音
固い記憶に打ち当たり

僕は心臓にまた
嘘を吐いた

針を一本飲み干して
冷たい猫への悲しみに
日は暮れる

痛い冷たい
日は暮れる

ノートと僕と

段々自分、
ひとりきりの自分を思い出している
昔からいつもノートを持ち歩いているので
「何を書くんだ」とよく父に怒られた
詩を書くとは言わなかった

ペンのインクが減っていきます
インクの瓶は健在で
揺れる液体が僕には嬉しいです
家にいると不安になって
文字は小さく哀れになります

急に陽が差すとき
奈落の底にも幻想が吹きます
あまりに遠く遠く
それでも僕は遠くにいます

少し僕は英語もします
英語の中でもひとりいます
ノートを書けば書くほどに
僕は父から離れていきます

詩を書くとはいまだ、言えずにいます

別離

私は誰も幸せには出来ないと知った
空は暗くて私はひもじい

昼間は薬を飲まなくなった
薬に慰められるのが嫌になったから

今私は万年筆でかさかさ書いていて
万年筆の先だけが私の友達だ

私はもう迷わないだろう
迷うとしても私自身がそれを迷うだろう

昼は私を砂漠で殺し
私はひとり宇宙で生きている

いつかまた人に出会えたら
そのとき私は死ぬだろう

それまでさよなら、さよなら世界

世界の終わりの、終わりの終わり
そのときにまた会いましょう

それまでさよなら、さよなら世界

ゆめは孤独な街

一人きりのポケットに
詩を詰める
寂しさは風のように
私の愛する文字を
隈なく埋める

誰もここにはいない
誰もここには戻ってこない

ギターがあります
レスポールです
アンプに繋がずそれを弾くと
私の骨が産まれます

衝動のままに生きたいです
きっと私はひとりのままなので
世界をポケットに詰めて
私自身を

幸せにしたいです
遠い誰かの笑みを浮かべて

それだけの願いで
私は生きていけます

……
私は死んで、
そのとき私は成就するでしょう

この夜の先で、いつか
きっと、いつか……