無題

落ちていく
水溜まり、って知ってる?
ゼロ
石好みの夜

誘いもなく
誘いもしない
世界が叫んでる
そして心の中には地獄がある

スイッチの中に飛び乗って死にたいのに
書庫で周りを囲まれた
部屋が欲しいのに

僕はカセットテープになって
書架の床で眠ろう
全てが土に帰るまで

誰か泣いてくれ

僕は

理由は葉っぱのよう
次には枯れるのか、
それとも永遠に輝くのか?

電車、
あれは遠い遠い空で鳴る

鳥が鳴いているということは、
鳥がああやって鳴いていることは、
鳥がいるのだろう
鳥は僕の左耳のずぅっと遠方で鳴いてるようで、
僕の右の耳の遠方にはいないようで
左も右もないような
壁を残して全てが回転するような

そう、
インクはインクのあるところ
「いい」インク瓶だと僕は思う
「いい」と思うから生きている気がする
「いい」と思わなくなる気もする
そうなることが怖いので、
僕は毎日インク瓶を触ったり、
眺めたりしている気がする

電車の音はもうしない
あれは遠く遠く走り去っていったのだろうか?
その場所に僕もいけるのだろうか?
それにしても、電車は遠い遠い空で鳴っていた
それに鳥の声もしていた

僕は今はヘッドホンを付けていて
バッハを聴いている
バッハと、バッハを弾いている
グールド以外はいない気がする

街が空へ溶けきってしまわないように
僕は祈っているのか?
それとも呪っているのか?

 

僕は知らない
僕は、何にも知らない

日記

11月14日(木)、
午前9時、起きる。昨日結局、あまりうまく眠れなくて、1時頃から眠った。

感情のコントロールはとても難しい。静かな感情を大事にしていきたいのに、僕はときおりひどく熱くなってしまう。熱い血と、ひんやりして遠い、穏やかさが、両方、お互いを殺してしまわないような、温かさでいたいと思うのだけど。自己主張を急ぐときがある。でも本当は、静かで平和な、しかし内面には熱いものがあるような感情で、生きていきたいと思うのだけど。

午後4時、母と二時間くらいお喋りしていた。宗教について、など。

午後は読書や、手書きでの書きものをして過ごす。


11月15日(金)、
午前2時、まだ寝ていない。シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』を読み終える。以前、読み始めて挫折した記憶がある。今は、前よりはよく分かると思う。でも多分、今も半分も理解出来ていない。しかし、とても心が浄められる気がする。知性って、すごいな、と思う。もっと、近付きたい。世界に、偉大な知性が存在することは、生きていくための、強い理由になるし、希望になる。偉い人の本を読むと、僕がいかに傲慢や、浅薄な自己主張や、卑屈さに取り憑かれていたかを感じる。

午前8時、起きる。

午後3時、ごろごろしていて、非常に怠くなってしまった。

午後6時半、ピアノを弾いて歌っていた。ときどき隣の家からたどたどしいピアノが聞こえてくるんだけど、今日はやけに上手いピアノが聞こえるなあ、と思ったら、僕のヘッドホンから流れるポリーニの演奏だった。

午後7時半、詩を書く(『雨の夜』)。


11月16日(土)、
午前2時、二時間フランス語と英語の勉強をした。疲れる。

午前4時半、静かな音でアコースティックギターを二時間弾いていた。手が震えなくなってから、特に右手の動きがとても正確になってきている。幼い頃から、鬱になる前まで持っていた、音楽が楽しいという気持ちと、音感やリズム感が戻ってきている。音楽に美しさを感じる。それにしてもここ一ヶ月くらい殆どギターを弾いていなかった。眠ってばかりで。
音楽が楽しいし、文学が楽しい。この感覚と、感情を忘れたくない。

午前10時、ギターを弾いて、英語の勉強をしていた。

午後1時半、寝不足で一時、宇宙が崩壊しそうな感じ。横になっていたら治る。

午後6時、晩ご飯を食べた。疲れて眠くてたまらない。早めに寝よう。

おやすみなさい。

雨の夜

外ではピアノの流れるような
緑の雨が降っている
僕はこうして自室の隅で
ギターを弾いて遠い昔の
少年時代を思ってる

遠い記憶は永遠の
落ち葉の流れる秋風の中で
そこではみんな海のよう
死んでしまった女の子たちが
波打ち際で笑ってる

ギターを弾いては波打ち際の
世界の隅で笑ってる女の子たち、
みんな風のように消えていく
涸れてしまった蛇口のように
僕の記憶も嘘笑いする

高速道路を走る自動車
電車の足音、雲の声
それらは全て一点に集まり
そこで始まり消えていく
母ももう、帰ってはこない気がする

死んでしまった女の子たち
波打ち際に去って行く
緑の雨に打たれていれば
僕の自室も流れてく
僕ももう、帰ってこない気がする

ああ僕は詩の中にいたい
ギターなんかは弾きたくない
努力なんかもしたくない
永遠みたいに雨が降っている今
みんなみんなみんなみんな消えてしまえばいい

この頃書いていたメモ

山の木々みたいな、人たちの声。

全ては不在の中に存在している。

生きていて(全てが)存在していること以上の奇跡は無い。

(文学や音楽の効能のひとつは、詩人や小説家や音楽家、確かに魂を持っている(と僕が思う)彼らが死んだ後にも、世界は依然として、何ひとつ変わらず、残っている、と知れること。彼らは、僕の心の中でだけ生きている訳ではない。僕は彼らと同じ世界に住んでいる。)

本を読むときや、音楽を聴くとき、作者が何を感じ、何を考えていたか、ということをよく考えつつ、簡単に、分かったと思ってはならない。よく、よく考えること。分かるときには、確かに分かったと感じる。一番良くないのは、作品を侮ること。祈るような心が無ければ、決して作品の心は分からない。解釈してやろう、という気持ちと、解釈できた、と満足する気持ちが良くない。ただひたすらに感じるよう、努めること。詩人や作家、音楽家に対するリスペクトの気持ちを絶対に忘れてはならない。自分の方が賢いと思い始めたら、僕の感受性は死ぬ。

ほんの少しのことしか言葉に出来ない。ほんの少しの言葉には、無限の感情が込められている。ゆっくり読むこと。


過去は何処にあるのだろう? 過ぎ去った場所は何処にあるのだろう? 記憶は、脳の中に本のように書き込まれている? 頭の中に記憶のアルバムがあるのだろうか? 昨日はもう何処にも無いけれど、昨日撮った写真は残っている。でもその写真は、今在るのであって、昨日に在るのではない。

明日は世界の何処にも無い。関係性は在る。光の屈折率を変化させることで、今現在見えない物も見えることがある。

過去から未来へ向かう速さは、変わらないのだろうか? もし物質が少しも変化しなかったら、時間は無いだろう。あるいは、時間があっても、無いのと同じだろう。昨日も今日も百年前も、何もかもが全く同じなのだとしたら、時間の意味は無くなる。つまり、昨日と今日では、何かが違うのだ。一日分だけ、何かが違う。今日と明日でも、一日分だけ何かが違う。今この瞬間、何ひとつこの場所と変化しない百年後にタイムスリップしても、僕はそれには気付かないだろう。何せ今と同じなのだから。もし、僕以外の人が、皆今日を昨日だと思い込んでいて、世界の全てが昨日の通りに変化したとしたら、僕は昨日にタイムスリップした、と思うだろう。(そうではなく、時間そのものが先にあるのではないのか? 例え、この宇宙に全く物質が存在しなくとも、やはり時間だけは実在するのではないか? それとも物質と時間は同じものなのではないか?)

仮に、非常に不味いものを、幼い頃から美味しいものだ、と教え込まれていたら、いつかそれを美味しいと感じるようになるのだろうか? それとも美味しい・不味い、の意味が別のものになるのだろうか? それとも依然として、やはりいつになっても不味いのだろうか?

日本語の味わい、というものが仮にあるとする。だが、どんな日本語も、結局は表面的な情報の羅列に過ぎないのだ。そこに上下は無い。いわゆる、いい日本語、を書こうと思うと、いい日本語は書けない。何故なら、言葉は、手癖で量産出来るものではないから。その都度、何もないところから書かなければならない。職人とは違う。時間や空間・物質という基盤自体が、言葉には無いのだ。

時間の進行とは物質の減少とエントロピーの増加だろうか? 時間が進むと共に、物質が減少し、エントロピーが増大するのではなく、物質が減少し、エントロピーが増加することが、即ち時間の進行なのだろうか?


クレーン車が誤作動を起こして人を殺したとする。クレーン車を罰したところで意味がないし、そのクレーン車を恐れても仕方がない。人間が誤作動を起こして人を殺すと、人間は当然のように罰されるし、その人間は恐れられる。昔は馬を裁判にかけていた、ということは、現代では信じにくいことだけれど、人間を裁判にかけることだって、未来では信じにくいことになるかもしれない。

言葉は、どんな原理にも従わない。何かの原理に従って書いてもいいが、従わなくてもいい。また何の原理に従うかは自由だし、従わないのも自由だ。

哲学とは技術や、技術によって建てられたヴィジョンであり、真実と直接の関係は無い。存在が即ち幸福である、とは言えるかもしれない。しかしどうすれば存在を幸福に出来るか、とは言えない。

音楽には全く意味が無い。それが音楽のいいところだ。熱狂に依らず現在に何も付け足さないこと。

永遠性と卑属性の調和。美しいものと可愛いもの。

「自分は何もしていない訳では無いんだよ。芸術をしているんだよ」という言い訳のために芸術をするのではなく、周りなど眼に入れずに、完全に自分のためにだけ、芸術をすること。学問も同じ。自己に没入した結果、世俗的な自己からは遠ざかる。世俗的な自己からの解放の度合いが、偉大さの度合いだ。

独創的であることは非常に勇気の要ることだ。けれど非常に勇気があるからといって、独創的であるとは限らない。勇気があることは、怯えや不安に耐えたり、打ち克ったりすることとはあまり関係がない。自殺者や自傷する人は、まさに恐怖に打ち克っているけれど、別に勇気がある訳ではない。


まっさら。からっぽの平原。いつも持っている場所。

あることを考えると暗くなる。
気分が暗くなってしまういろいろなこと。僕は事柄に意味付けをしている。想像するだけで打ちのめされてしまうようなこと。そこから派生すること。それら全てを、うっちゃっておくこと。


今の自分が求めているものだけを求めること。

全ての物質が四元素(火、空気、水、土)から出来ていると考えても構わない。
箱に入れたボールが、箱の中に在り続ける、という保証はない。現実(人間社会)では、在ると信じているものが無いと困る。金庫に入れた金貨が無くなっていた場合、誰かが盗んだか、それとも入れたと思っていたのが間違いである、ということになる。普通、「消えてしまったのだ」とは思わない。だが、消えてしまっても構わないのだ。それじゃ困る、というだけで。現実社会では、金庫に入れた金貨が無くなっていたら、もちろん僕も困る。だが、例えば、小説の中でまで現実の規則に従う必要は無いのだ。在ると思うはずのものが無いということは、現実でもよくあることだ。小説の中では、本当に消えてしまってもいい。実は現実でも、別に本当に消えてしまってはいけない理由は何も無いのだ。ついでに言えば、小説の中では、金貨がありふれたものであっても構わない。

全てがあるべき場所にあること。それを言葉や音にすること。いや、寧ろ、あるべきものがあるように、自分の身体を介して、言葉や音が現れるよう、心を完全に澄ませて、研ぎ澄ませて、空っぽにして、手が創作していることを、頭が知らない、というような状態でいること。もちろん、手は、道具として必要な分だけ、訓練しておくこと。別に名人級にならなくてもいい。必要な分だけの技術を持っていればいい。技術はただの道具なのだから。ただ、拘りたければ、もちろん拘ればいい。しかし、道具に拘ること自体が目的になってはいけない。他の人が出来ないことをする必要は無い。普遍的なもの、悠久なもの、永遠であるもの、を自分の身体(心、感情)を介して、形にすることだけでいい。別に、それがポップな形になろうと何でもいい。コンピューターを使おうと構わない。永遠性は、個性として現れる他無いし、今を生きる人間は、もちろん今を生きる人間としての個性を発揮すればいいのだ。俗っぽい表現であってもいい。バッハはいいけれど、ボカロはいけない、という理由は何にも無い。最初から自己表現をしようとすれば、個性は現れない。言い訳だとか批判だとか理念だとか、要らないものが現れてくるだけだ。自己表現として現れ出た普遍的なものと、自己表現のための自己表現を混同してはならない。ただ、だからと言って、他人の創作を「普遍性が無い」とか「本当の個性が無い」と言って批判するのは間違っている。他人を侮る気持ちは、僕の眼を曇らせる。他人は、いつも、僕を超えている。見下してはならない。他人にも、他人の作品にも、それがどんな他人であれ、どんな作品であれ、誠実に、常にリスペクトの気持ちを忘れずに接しなければならない。そうすれば、他人のどんな作品からも、その人の精一杯の心を感じることが出来るだろう。わざわざ手抜きして作る人なんて、いないのだから。どうしても気に入らないものからは、そっと離れるだけでいい。自分が、果たして、他人を批判できるほどの人間であるのか、よく考えてみなくてはならない。……僕は、自分の好き・嫌い、を信じている。好きなものは、それがどんなチープなものであれ、好きだ。嫌いなもの、というか自分に合わないものはどうしてもあって、しかし、それを批判するのは、はっきり言って時間の無駄だ。自分を傲慢にするだけだ。好きなものが好き、それだけで生きていたい。「好きなものが好き」それが僕の個性なのだから。「あれが嫌いだ。これはどうだ」ということは、僕の個性ではなく、僕の不安や虚栄心(偽の自己、表面的な自己)の表れに過ぎない。それは、僕の個性を殺してしまう。

フィクションはフィクションとして楽しめばいい。宇宙空間で産まれ育って、季節を知らない場合でも、和歌なんかを読んで、四季を想像することは出来るだろう。案外と、季節の移り変わりをよく知っているつもりの人よりも、四季を知らないけれどそれをうんと想像した人の方が、春夏秋冬を深く味わえる、ということもあるかもしれない。


社会的な時間を離れた場所と、現代とを行き来すること。例えば、グレゴリオ聖歌やバッハの音楽にも、ベートーヴェンブラームスシューベルトにも、ロックやジャズやブルースやアニソンにも、等しく惹かれる、ということは、僕にとってとてもスリリングなことだ。グレゴリオ聖歌やバッハだけがいいんだ、と僕が頑なに主張するとすれば、そのとき僕は創作において、僕の個性を著しく損なうだろう、と思う。「好きなものが好きだ」ということが、僕にとって本当のことなのだから。ただし、それには、環境的な要因も大きい。僕は、本当のところは、バッハとニック・ドレイクだけを聴いて、中也の詩だけを読んでいたい、という気持ちがある。そのとき、僕は本当に純真になれるだろう。と共に、今の僕にとって、今の社会を生きる僕にとって、僕が本当に大事だと思う多くのものを失ってしまうだろう。それらを失うことは、もしかしたら良いことかもしれない。だとしても、失いたくないんだ。ポップなものやチープなものを失いたくない。すごく好きなんだ。その、両方がある。だから、両方を行き来すること。何もなくていいのだ、ただ永遠を感じていられればいいのだ、という境地と、現代の現代性、ポップさを愛する心。そのどちらか一辺倒にならず、また、両方をまぜこぜに曖昧にすることもなく、行き来すること。それが大事だ、と僕は思う。


ともかく。本や音楽を熟読すること。視覚表現を含めた全ての芸術作品、それから自然物、人工的なありふれたもの、全てを熟読すること。よくみつめ、想像し、感じること。全てに、永遠性を感じること。個人的に、特に言葉と音楽に対しては、うんと長く、強く、深く、辛抱強く、接すること。ささっと読んで、聴いて、「つまらない」とか「面白い」とか「退屈だ」とか、適当な言葉で、感じたつもりにならないこと。本当に感じるまで、接すること。大抵において、いいものは退屈なものだ。しかし、「これはいいものに違いない」という何かを、初見時においても、感じるはず。その直観を信じて、長く、接すること。直観を信じること。自分にとって本当に好きな作品、いい作品には、長く接している内に飽きる、なんてことはあり得ない。さらに、さらに、好きになるはずだ。「飽きた」と思うときには、僕は混乱していて、何か目新しいものでもないか、と非常に気持ちが表面的になっている。そういうときは、ひとまず休むことだ。自分の「好き」が戻ってくるまで。

日記

11月7日(木)、
午前9時、起きる。

寝過ぎたのか、心身の調子が悪い。お腹の調子もとても悪い。

正午、落ち着いてくる。詩を書く(『000%』)。

午後5時、どうも昼間起きていると、眠くてならない。

午後9時半、少しの間(一時間くらい?)、寝ていた。
まだちょっと眠い。

午後11時、寝てた。

どうも、自然にまた夜型になりそうな感じだ。


11月8日(金)、
午前4時半、うー、お腹が痛い。

そう言えば、この間医者の先生に「夜は、落ち着かないから眠れないんですか?」と訊かれて、「いえ、落ち着くから起きているんです」と、何かちぐはぐな会話をしたのを思い出した。

午前5時、眠くないけれど横になろう。

午前6時、きっかり一時間横になる。

午後11時半、17時間以上寝てた。


11月9日(土)、
午前1時半、また寝てた。

午前9時半、5時間ほど寝てた。

午後1時半、1時間弱、横になっていた。

午後5時、2時間ほど横になっていた。起きている間、何となく調子が悪い。鬱ではないのだけれど。

この頃、勉強も読書も何にもしていない。ほとんどごろごろしてばかりだ。眠って、目を覚ましても、何にもしたくなくて、また眠ってしまう。寒くなってきたからだろうか? 長年、僕はときどき寝てばかりの時期があって、それが過ぎると逆にあまり寝なくなったりするのだけど。

午後11時半、30分ほど、何とか勉強をする。


11月10日(日)、
午前6時半、起きる。4時間ほど寝ていた。

午前8時半、少し起きて、また寝てた。
久しぶりに、すっきりした気分。3週間ぶりくらいだろうか?
肉まんをふたつ食べる。

午前11時、1時間ほど横になっていた。

午後2時、1時間半ほど寝ていた。

午後4時半、また1時間以上寝ていた。

午後7時、2時間ほど寝ていた。


11月11日(月)
午前4時、9時間寝ていた。

午後6時半、今日は昼間ずっと起きていた。とは言っても頭が重くて、ほとんど何もしていない。眠くて、頭がひりひりとするくらい痺れている。実際、脳の何処かが炎症でも起こしている感じ。

僕はやっぱりギターの音がないと生きられない。クラシックもけっこう聴いてる。クラシックは最近よく聴き始めたのだけど、なかなか面白い。僕は大体どんなジャンルの曲も聴くのだけど、ロックとジャズとクラシックが特に好きだ。あとは、ブルースをもう少し知りたい。


11月12日(火)、
午後2時、起きる。3時間半くらい眠った。

今日はあまり頭が重たくならない。冬眠の時期は終わったのだろうか?

午後4時、頭の調子が良くなってきている。一時的なことでなければいいけれど。

午後6時、眠い。しかしまあ、順当な時間だろう。

このところ、精神的にも物質的にも、とてもシンプルになってきてる。どうしても欲しい物も、特に無い。アウロラの万年筆が、今の極細のだと、大好きな色のダイアミンのインクが出にくいので、もう一本(極細でなく)細字のが欲しいと思っていたけれど、何だかペン先の調子がとても良くなって、ダイアミンのインクが使えるようになったので、必要なくなった。何にしろアウロラの万年筆は、いつかはもう一本欲しいけれど。お金にすごく余裕があればプレステ4が欲しいし、iPodの容量の大きいのが欲しいし、スマートフォンの新しいのが欲しいけれど、今すぐじゃなくていい。ものすごくお金に余裕があるならiMacとかMartinのD-18とか、欲しい物はあるけれど。取り敢えず、来月には眼鏡を買えればいいな。眼鏡は免許の更新のために是非とも必要だから。……あとは、本とCDが買えればいいや。(こういう、生活のことを書くことも減るだろうと思う。)

今日は何だか満足な一日だった。

午後11時半、寝ていた。3時間半ほど眠った。
すぐ眠る。


11月13日(水)、
午前1時半、起きる。

午前9時半、母と2時間くらいお喋りしていた。主に老後の幸せについて。

今朝はちょっとだけ眠い。

もしかしたら昼間起きている方が調子がいいのかな? 夜型の方が調子がいいときもある。長いこと日光に当たってなかったのも良くなかったかもしれない。

気分は殆ど健康と言っていいほどに治ってきた。数年間の鬱はほぼ治ってる。次は頭のリハビリをしなくては。まだ好奇心や感情は、それほど活発じゃない。
頭の働きは、たいへん悪い。

夜8時、また母と1時間半くらい喋ってた。人間の心について、とか。

しかし眠い。夜8時に寝て、朝2時に起きるくらいのリズムは、なかなかいいかもしれない。それで一日活発に動けたら言うことないんだけど。

ここ数日、パソコンでは纏まったことを殆ど書いていない。けっこう珍しいことだ。この日記もあまり内容が無い。勉強したり、ノートにペンで書いている時間が長い。生きていることがどんどん楽しくなっていけばいいな。

おやすみなさい。

000%

美しいような、やましいような、奇妙に研がれた気分です。

この本?、この本には詩の息吹がかけられています。ま(だ)新しい本です。
この本は、特別な薬効で私の目蓋の裏にあります。

生きているだけで、小さな一粒なのです(宇宙は小さな一粒、そしてそれはエネルギーとして表され)、エネルギーとは、つまり時間ですね。私の目蓋の呼吸。感情の笑み。
感情の呼吸。

生きてるだけの一粒に、一粒を接ぎ足していきます。

夕暮れにびっしょりになって、西瓜のように満ちている。

ひとつめの、今日という日の甘い一日に添える、ひとつの余剰としてAmazonのギフト券を買い、コントラバスを聴いて、万全の行く道の先に、(自分がひとつの機械になってしまったような恍惚のための歌があってもいいと思うんだよね)、真新しいサラダに、私は完璧さから漏れ出るインクのような芽を食べたい。



ああやってる、こうやってる、どうやってる(?)人たち。

風が吹くからにはたましいは低気圧なんでしょうか? 身体を寄せると、風はやみ、音楽は私に滲みわたらない。私は反応したくない。冬だから雪化粧をして。黙って、ひとりで、いろよ。(ふわふわ、すたすた。)黙って、ひとりで、いるから。ひとりきりの宇宙、醜いけれど、こんなに見せているのに。

山ではカラスが鳴いています。干した芋を咥えたような長閑な声で。
(ふわふわなもの。窮屈な感情への恋しさ。)




もっと遠くへ……涙よりも遠くへ。
私は私ひとりでいきます。
月の裏側で落ちるコインの音、
それはどこまでも、どこまでも光をたなびかせて落ちて、
苛立ちのような白っぽい、粉の地面に着地する。

夢、
なら、一番の私の理想の夢は、
感情に、衒いのない、選びようのない、幸せな
私はここを離れ、孤島に霊を住まわせます。
孤島に遠さを住まわせて…



骨を、透明になるまで砕いて
細い清流に流してください
骨が、痒くてたまらないのです……