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私は鳥籠が嬉しい。
金網越しの空や、きちんと掛かった鍵が嬉しい。
中で音楽を聴いているとここは、
私専用の小さな天国のよう。

音楽のリールが回ると、時間は逆流して、
金網は溶けて水となり、
物語みたいな私の過去が再生される。
過去の記憶、それだけが意味。
宇宙の、そして私がいることの。

あるとき私は海にいた。
雨降る車の中で私は子供で、
雨垂れの底で私は宇宙だった。

金網の中で疲れを横たえる。
昔と変わらぬ音楽を聴く。
ロックにジャズにクラシック。
眼の中は空っぽで、
皮膚は開かれ浮遊する。

私は鳥籠が嬉しい。
鍵の錆び、空の憂鬱。
万年筆、書き散らされたノート。

全てが溶け合うのを見ている。
あなたが死んだとき、最後まで悼むのは私。
私は絶対に何も忘れない。

鳥籠をありがとう、世界。

日記(人の中で)

10月9日(土)、
僕は変われるんだなあ、と思う。良くも悪くも。この頃、精神の状態が大分良くなってきた。もしかしたらまた、心から楽しい時間を過ごせるようになるかもしれない。

 

10月10日(日)、
少しずつ、少しずつ良くなっていく。少しずつ身軽になっていく。

 

10月11日(月)、
朝から、頭の芯が目覚めていない感じ。ぼんやりしていると、すぐに不安に取り込まれてしまう。心配ごとで頭の中が一杯な気がするけれど、具体的に何を心配しているのか分からない。

子供の頃のように夢見て過ごしていたい。頭を使って。想像して。難しいことに憧れて。僕の今までの長年の記憶は、もやもやと悪い塊になっているけれど、その中には純粋に美しい記憶も含まれている。僕は別に、何かを成し遂げて、人に賛美されたいなんて思わない。最高の瞬間は、自分の中にある。自分の心に出会いたい。僕はまず、精神の病気を治さなければならなかった。有り難いことに、何故か、病気は大分治ってきた。僕自身が意思の力で治した訳じゃない。ごろごろだらだらしている内に、調子が良くなってきた。とても運が良かったのだと思う。まだ、僕の求める場所には行けないけれど、もう絶望はしない。もしかしたらまだもう少し生きられるかもしれないことが、嬉しく感じられるようにさえなってきた。

 

10月12日(火)、
あらゆるものが繋がっている。

人はいつでも変われるのだと、最近いつも思う。でも、変わろうとする意志は、一体何処から出てくるのだろう? 変わりたいと思っているときにはもう、変わっているのではないだろうか?

朝からヴェルヴェット・アンダーグラウンドをスピーカーで聴いている。音楽は美しい。たとえ虚無感に取り憑かれていても、音楽が美しい限りは生きていける。

 

10月13日(水)、
音楽や読書を楽しめる、って有り難いことだ。鬱がひどいときは、音楽を聴いても不安になるばかりで、本を読んでも、少しも頭の中に入ってこなかった。外でもヘッドホンを付けていたら、とても内向的そうだけれど、内面に不安があるときは、ヘッドホンで音楽なんて聴けない。スピーカーではもっと聴けない。音楽をどうしても楽しめないときは、自分のことが嫌になる。僕は本当は、スピーカーで音楽を聴くのが最高に好きだった、ということを実感として思い出してきた。4ヶ月前に、せっかくBOSEのスピーカー(CDプレーヤー)を買ったのに、昨日まで殆ど使っていなかった。音楽が、生きている空間を塗り替えてくれる感覚を、本当に久しぶりに感じている。

BOSEのスピーカーは、しばしば低音に癖があると言われていて、音のバランスは決してフラットではないらしいので、もし僕が今スピーカーを選ぶとしたら、もっと他の、音に出来るだけ味付けをしないものを選ぶと思う。たしかパイオニアに、とても評価の高い、木製のCDプレーヤーがあった。昔、BOSEのCDプレーヤーを使っていたので、同じのを買えばまた音楽を楽しめるんじゃないかと思って、今度もBOSEを選んだ。それでも買ってからずっと、なかなかスピーカーでは音楽に集中できなくて、BOSEのスピーカーも昔とは音が変わったのではないかと訝ったりさえしていた。けれど昨日急にすんなりと、スピーカーから流れ出る音楽をとても心地よく感じて、やっぱりBOSEの音が好きだと思った。昨日からはロックばかり聴いている。BOSEのスピーカーは、主に中音域の、ギターとヴォーカルがとても綺麗に鳴るし、ベースとドラムの低音に深みがあるので、バンドサウンドにはとても合うと思う。

「楽しい」っていう感覚は一体何だろう? 音楽は、音楽単体で美しい訳ではなくて、僕の耳に入り、脳がきちんと音楽を音楽として認識したときに、初めて僕はそれを美しいと感じる。気分が悪いと、音楽は美しくない。でも、脳に出来るのは認識するところまでだ。音楽を感じるのは、心なのだろうけれど、心って、一番分かるようで、一番説明しづらい。誰もが心を持っていると思うけれど、他人の心はなかなか見えない。音楽を聴くと脳内麻薬が出るとしても、脳内麻薬が出ることの心地よさを感じているのは何処なのだろう? 心? 世界?

人生は短い。と言う割には、長く生きてきた。もっとずっと早く死んでいてもおかしくなかった。せっかくなら自殺はせずに生きて、自分の人生の全てを込めた小説を書きたい。

もう迷いたくない。

 

10月14日(木)、
ゆっくり、非常にゆっくり進んでいこう。

 

10月15日(金)、
疲れがあって、頭の中心に薄い膜が張っているような調子が2、3日間続いていた。怠い間、松尾芭蕉の俳句を読んでいた。短歌の方が14文字も長く、いろいろなことを書き表せそうなものなのに、短い俳句の方が胸に迫ってくるものを感じることが多いのは何故だろう? 僕は俳句に関してはまったく無知で、昔、荻原井泉水が書いた、『奥の細道』の解説本を読もうとしたけれど、古文が読めなくて断念した。今読んでいるのは、角川書店が編集した『覚えておきたい芭蕉の名句200』という、軽めの書物で、とても分かりやすく解説されているけれど、もちろん解説よりも、俳句自体がとても素晴らしくて、読み応えがある。俳句は最近まで殆ど好きだと思ったことが無くて、ただ一人、荻原井泉水の自由律俳句だけ、昔、好きになって、今も好きだ。井泉水の名作を網羅した本が出ないのは残念なことだけれど、それも仕方なくて、井泉水には、名句は少ないと思う。ただ、いくつかの句が、一度読んだだけでずっと覚えていられるくらい、はっとするほど美しい。井泉水は、山頭火や尾崎放哉の師匠だったと思うのだけど、弟子の二人の方が、ずっと知名度が高い。今は手許に井泉水の句集が無いので、ネットでちまちま、井泉水の句をたまに読むのだけど、とても透明度の高くて、放哉や山頭火よりも、現代的だと思う。例えば、僕の好きな井泉水の句は、「石、蝶が一羽考えている」「うちの蝶としてとんでいるしばらく」「月光ほろほろ風鈴に戯れ」など。5・7・5の縛りを、最近までとても煩わしく思っていた。今でも定型はあまり好きじゃないけれど、読むときには気にせず言葉をそのまま感じればいい、という程度には考えられるようになった。
古文は、分かりづらくて、いろいろと想像しながらじゃないと読めないところが面白い。芭蕉の俳句は、不意に心の中に風が吹き抜けるような清涼感があって、大抵の詩を読むより、気分がずっと良くなるけれど、やはり当然のことながら、短いところが少し物足りない。一句一句、深く想像するのは楽しいことだけれど。もう少し元気のあるときは、『枕草子』や『徒然草』を読んでいると、イメージに連なりと膨らみがあって、別の時代の別の場所に連れて行かれるような感じがして、いつまでも浸っていられる。言葉を通して、心は繋がっていると感じる。

最近は、何の衒いも無く、日本語が美しいと思えるようになった。

朝。鳥が忙しく鳴いている。僕は睡い。モニク・アースの弾くドビュッシーを流している。心には時々不安がある。遠い気持ちのままでいることは難しい。

昼。どこまでも落下していくような不安。いや、不安とは違う。恐怖、とか、戦慄、と言った方がいい。

夜。僕は大事なことから目を逸らし続けている。僕には行かなければならない場所があるのに。決して今のままじゃ辿り着けない場所。ぼんやりしていては行けない。よく目覚めていること。そしていつでも自分を捨てられる覚悟を持つこと。

別に人が好きじゃなくてもいい。意地悪なのが好きでもいい。でも、意識が思考に偏して、他人が人に見えなくなる状態は、自分にとっても何のよすがも無い状態で、心がどんどん硬くなって、何にも面白くなくなっていく、危ない状態だ。人のことは自然には人に見えない。また、人が人でなければならない必然性みたいなものは無くて、言葉で考えていると、人が人であることなんてすぐに忘れてしまう。単に、自分より他人が好きな方が生きていて楽しい。誰とでも仲良くなりたい方が生きていて楽しい。それは経験論で、何故そうなっているのか説明することは難しい。

日記(とても怠かった)

10月1日(金)、
夜中。虫の声を聴いている。そろそろ窓を開けていたら寒い季節がやってくる。今聞こえるのは、単調な虫の声(風がそのまま鳴っているみたい)、扇風機の音、キーを打つ音、それからやっぱり高速道路の音。

全ては消える。溶けていく。

今まさに死ぬ、というときになって大事なことに気付くのでも、決して遅くはないと思う。

 

10月2日(土)、
鬱の時は、お腹の中に砂利をいっぱいに詰め込まれているような感じがする。その苦しみを吐き出したいけれど、苦しみは、異物ではなく、もはや僕の身体と一体化しているので、どうしても吐き出したいなら、死ぬしかない。骨折と同じで、精神も、一瞬にして折れることがある。そして治癒するのには非常に長い時間が掛かる。一生掛かっても癒えない傷ばかりかもしれない。僕にとって、ラミクタールは唯一効果が実感出来た薬で、劇的に治りはしなかったけれど、飲み始めてから、自分が少しずつ快方に向かっているのは感じられた。

僕は左利きに非常に憧れていて、ギターも本当なら左利きの持ち方(右手で弦を押さえて、左手で弦を弾く)をしたいとずっと思っていた。お箸は15歳から20歳か21歳頃まで頑なに左手で使っていたのだけど、ついに自然に使えるようにはならなかった。右手と殆ど遜色なく使えはするのだけど、無意識に使えるまでには至らなかった。今でも、左利き用のギターを衝動買いしそうになることがある。まだ僕はギターが全然素人なので、今から左利きの持ち方に換えても、上達のペースはそんなに変わらない気がするのだけど、やはり、ペンやお箸を持つ右手の方が、より細かい動きに慣れている。どうせなら既に左手よりアドバンテージのある右手の方を極めようか、と思ったりする。

朝。海の中にいるような気分。でも時々、生活の不安に押し戻される。地上では呼吸が出来ない。相変わらず高速道路の音を聴いていたけれど、両親が起き出して、外から人の声が聞こえ始めると、ひどく不安になる。ヘッドホンを付ける。エイフェックス・ツインを大音量で聴く。

ギターは好きだなあ、と思う。金属の細い弦に、ピックが擦れて磨り減っていくのも好き。この頃ギターを、ほぼピックでしか弾いていない。アコースティックギターを爪で弾くのは大好きだけど、今はアコースティックギターを持っていない。

夜の音。窓を開けていると肌寒い。扇風機も付けていない。本当に誰とも話したくない気分なので、両親が眠ってから夕食をひとりで食べようと思っているのだけど、僕の両親は大体2時頃まで起きている。

感情の上下が激しい日だった。

 

10月3日(日)、
……

 

10月4日(月)、
昨日と今日で、チョコレートとチーズをひとかけらずつしか食べてない。空腹を感じるけれど、食べると思うと吐き気を感じる。それにとても疲れている。

昼。クーリッシュを食べる。

身体の傷と同じで、心の傷も、痛みだけを覚えていて、時に傷跡が疼いたりする。だけど、もう、いつ何処で受けた傷なのか、忘れている。悪夢を見る。随分長い間、いい夢を見ていない。朝は半分、意識が夢の中にいて、今まで嫌なことしか無かったし、これからもそう、という気がしてならない。

夜、クーリッシュを食べる(飲むと言った方が近いかも)。

多分、卑屈になっている。遠い遠い高速道路の音も、静かな夜の風も、みんな悪意の針を持っていて、僕を取り囲んで、「どこにも逃がさない」とメッセージを送ってきているみたいだ。いや、そういう感じがするだけで、ただ疲れて過敏になっているだけだ、と認識してはいる。自分の疲れや苛立ちを、外界のあらゆるものに投影しているだけ。

何にも、欲しいという気がしない。

 

10月5日(火)、
夜中、ゆで卵を三つ食べて、少し人心地が付く。

僕は僕自身としていられればいい。他人と比べて醜いとか美しいとか、賢いとか愚かだとか、そういうことに興味が無い。それでも、そういうことが気になることもあって、窮屈な思いをする。毎日、ほんの少しでもいいから、何にも囚われない時間を得よう。そしてその時間を少しずつ伸ばしていこう。

何も無く、全ては無なのか、と言えば、それは違う気がする。だって感情があるし、朝焼けは美しいし、言葉や音楽に感動する自分がいるから。本当に、例えば哲学的な思考なんかに嵌まっていたら、無意味極まりなく思えるような、いかにも合成された安っぽい香水の匂いに、妙に懐かしい気分になったりする。昔嗅いだことのある匂いで、そして昔と同じく、僕は憂鬱に不安に生きている。けど憂鬱や不安は、確かに僕で、それは神さまとか宇宙とか、真理とか概念とかには関係が無いと思う。朝露に湿った空気の中で、信号機だけが点滅する。まだ車も通らない、早朝の国道なんかを思って、僕はその信号機の明滅の寂しさ故に生きているような気がする。僕は哲学も好きだけど、やっぱり詩や小説は、それ以上に大切に思っているし、ひとりぼっちで聴く音楽が大好きだ。ヘッドホンの向こう側では、やっぱりニック・ドレイクがひとりぼっちでギターを弾いて歌っていたり、グールドが、時を超えた孤独の中で、ピアノを弾いていたりする。「世界とは何か」「全ては無だ」という言葉は、高尚なようで、実感が伴っていない。

 

10月6日(水)、
痛みや苦しみを表現したくない。現世が十分に辛いところだと、僕は分かってる。恐怖を分かち合いたくない。苦しんだ分、報いを受けるとは思わない。苦しむだけ損だとも思わない。きっと僕には透明な時が来て、世界をまるごと愛せるときが来るだろう。卑屈や、割に合わない不幸を抱えたまま、傷付いたままで、僕は生きていくしかない。普段は、後悔や、羞恥心の中で生きている。けれどそんなこと、どうだってよくなる心境も、僕の中にはある。

 

10月7日(木)、
音楽と一体化したい。

夜、10月に入ってから、気持ちの波が激しく、そわそわしたり、何も心が動かなくなったりして、殆どの時間、疲れを感じる。

 

10月8日(金)、
脳の機能があるとすれば、一番大事なのは情熱だ。いくら計算が速くてもあまり意味が無い。

10月に入ってから、とても疲れていたので、あまりギターを弾いていなかった。時々、妙に感動的になって、ギターを伴奏に歌ったりはしていた。でも、僕は涙が溢れてくるような感動は、あまり好きじゃない。本心から何かを感じるとき、人は感情を表情にする暇も無く、端から見れば寧ろむっつりしているものだからだ。例えば、ドキュメンタリーで、グールドが『ゴルトベルク変奏曲』を弾いている映像を見ると、歴史に残るほど感動的な演奏を繰り広げながら、表情は寧ろ、伝票にサインでも書き入れてでもいるように、実務的なくらいの顔をしていたり、鳥に餌でも撒きながら、少しいいことを思い出しているみたいに、楽観的な鼻歌を歌ったりしている。いずれにしろ、楽しそうではあるけれど、特に深遠そうでも、深刻そうでもないし、感傷とはほど遠い表情だ。『ゴルトベルク変奏曲』を聴きながら号泣している人の姿は想像出来るけれど、グールドは号泣なんて感情はとっくに超えてて、ただ淡々と弾いているみたいだ。それが、人が本当に感動したときの、顔なのだ、と思う。

全てがあるべき場所にちゃんとないと不安だ。しばしばiPodの整理をしていて混乱する。今日は、あまりに入れすぎた曲(20000曲も入ってる)を減らそうと思って、一曲聴いては消して、ってしていたんだけど、その内、消したいのか置いておきたいのか分からなくなってきて、もういっそ一度全部消そうと思った。そして、少数精鋭で聴くのが、一番いい気がする。曲の再生回数を集計してくれるアプリが好きで、もう2年と半年くらい使っていたけれど、一度再生回数を0にリセットするつもりだ。この頃、再び、音楽がとても楽しくなってきたし、今まで聴いてきた音楽よりも、これから聴く音楽に興味がある。集計結果を消してしまうのは勿体ないので、これまで聴いた音楽のランキングを、写真に撮っておいた。僕にしか興味が無いような画像ですけど、上げておきます。もし、何年か経って、まだ生きてたら、見返すのも楽しいだろうから。↓

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……全ての曲を一度消した。ぽつりぽつりとダウンロードしたり、CDから曲を取り入れていこうと思う。

いろいろと考えたいし、人間の中で人間として生きていきたい。それはあまり難しいことじゃない。ただ考え込みすぎると、世界にまるで自分ひとりしかいないように感じられるだけで。

10月に入ってから、疲労感が強く、何もまともなことが出来ない日ばかりが続いている。でも今は、一週間ぶりくらいに、少し目が覚めてきた。頭が働くのは嬉しいこと。明日からは、少しはましに過ごせそうな気がする。

9月最後の日記

9月22日(水)、
……

 

9月23日(木)、
昨日からひどくぼんやりしている。

当たり前のことだけど、僕はここに独りでいる。誰かと話していても、言葉が自分の気持ちから逸れていることが多くて、仕方なく笑っている。人の好さは、多分僕にはあると思う。

例え何十億人の人に好かれようと、僕が独りであることに変わりはない。友達が1000人いようと、寂しさがその分減るわけじゃない。

 

9月24日(金)、
今は指が全く震えない。僕は2年くらい前までの6年間ほど、指の震えが止まらなくて、ギターを弾くどころか、パソコンのキーボードを叩くことさえままならなくて、ペンで字を書くときも、まるで利き手と反対の手で書いているみたいだった。本屋で本を立ち読みしていても、手が震えて字が読めず、本を取り落としそうになっていた。2年ほど前に、ひどい震えが収まってからも、長い間指を使ってなかったせいか、指先の感覚が少し遠くて、軽い震えは最近まで止まらなかった。ギターはほぼ一からやり直した感じだ。2年前は、普通のコードを弾くのでさえ、よたよたしていた。今は指の調子がいい。指が震えていたのは、おそらくリチウムの副作用がずっと続いていたのだと思うのだけど、鬱だったことも関係しているかもしれない。回復する、って有り難いことだ。

 

9月25日(土)、
自分を捨てるって難しい。捨てずに持ち運ぶには重過ぎる過去を生きてきた。僕は身軽になりたい。
今しか無いんだな、と思う。過去がどんなに辛くても、重くても。今、ギターアンプがじーっと鳴っている。今を生きろ、と言われたって、身体が勝手に怯え、疲れ、不安に縮こまるのを、僕はどうしようも出来ない。新しい人生を生きたい。もう長年鬱で不毛に、ただ息をして生きていただけとは言え、そしてその間に僕の心身はすっかり衰えてしまったとは言え、僕はまだ年寄りというには若い。

ううん、僕は空っぽになって死にたいのかもしれない。

僕は今テレキャスターを抱いていて、このテレキャスターがぼろぼろになるまでは生きたいなと思う。とてもよく出来たギターだ。しなやかさを感じる。

僕はやっぱり夜型だ。小学生の頃からずっとそう。昼間は怠くて不安で、外が明るいと落ち着いていられない。

 

9月26日(日)、
……(一日中ギターを弾いてた。)

 

9月27日(月)、
薬を飲むのをやめたい。頭を使うことでナチュラルにハイになりたい。定期的に薬が嫌だ、と書いている気がする。僕は自分では、明らかに精神の病気に罹っていた、と思うけれど、もう大分良くなってきた、とも思う。

大人になったからって何かを知れる訳じゃない。何か知った気になるだけだ。子供の時より、苦痛だけは存分に味わった。苦しみの他、何も知らずに、何もかも忘れて死ぬのかと思うと辛い。

何にも要らないな、と思う。僕は今、デスクの両脇に渓谷のように本を積み上げて、わざとらしいほどの入念さと怠惰さで、ゆっくりとそれらの本を消化している。渓谷は段々僕の精神を圧迫してきている気がする。

絶望するならするで、それでも生きていくことは、生きるに価する何かなのだ、と思うこともある。

 

9月28日(火)、
……

 

9月29日(水)、
今日も一日ギターを弾いていた。死んだら何も無くなるんだなあ、と思う。どんなに教養を身に付けても、死んだら何も残らない。死ぬ前にやりたいことをやって、死ぬ前に行きたい場所に一直線に行くしかない。衒学趣味もコレクション癖も不要だ。いつ死ぬか分からない。1秒生きられることだって僥倖なんだから。

それにしても。ああ。今、僕は生きている。何て不思議なことなんだろう!?

ギターを弾いたり、読書をしたりで、毎日は過ぎていく。明日は何処にも無いし、昨日もまた何処にも無い。

生きていて、退屈したことは一度も無い。それとも退屈をも感じないほどに不感症で怠惰なのだろうか? 生きることに全然意味なんて無い、と頭では思っているけれど、それでも、例えば読書に集中したり、書いたりしているとき、生きることには意味があると思えてならない。音楽を聴いているときもそうだ。最近、ギターをよく弾いていることも大きいかもしれない。……目を瞑ると何も見えないし、音は現れた刹那、消えてしまう。身体の感覚が無ければ、全ては無いのと同じ。死んだら、遠い遠い、きっと、生活的な意味での感情も感覚も無い、懐かしい何処かに帰っていくのだ、という感じがする。生きている間の時間を、とても儚く思う。……でも、ギターを弾いていると、生きることは、単に生きることを超えた何かであるような気がしてくる。

 

9月30日(木)、
僕には物質の世界が何なのか分からない。目を離している隙に、みんな消えてしまうかもしれない。

結局は、ゆっくりゆっくりと、焦らず、ひとつのことをやっていくしかない。人生で出来ることは、表面上、とても限られている。どんなに急いだって、本当に深められることはわずかだ。でも、出来ることはわずかで良くて、わずかなことに集中して、自分の奥底にある自分自身に出会えれば、それでいいんじゃないかと思う。それに、くだらない毎日なんてものは無い。例え自己嫌悪の毎日/毎秒だとしても、死の瞬間にでもいいから、自分の人生を受け入れられたら、それでいいと思う。

明日から10月だ。段々、静かな気持ちになれることが多くなってきた。本当に行きたい場所に行けるといいな。はっきりと目覚めたまま、全てが溶け合った世界に。自己の消滅のぎりぎりの場所に。……それはともかくとして、いい月になればいい。じっくり生きていけたらな。

日記(少しだけ楽でいたい)

9月21日(火)、
今日は頭がぼんやりする。晴れていて蒸し暑いのに、身体は冷たい。今日こそは外に出かけようと思っていたのに、結局はうつらうつらと椅子に座ったり、ベッドに横になって本を読んだりしている内に、すっかり夜になってしまった。母にビタミンCの錠剤を買ってきてもらった。そろそろ夏も終わりだ。いや、もうとっくに秋に入っているのだろうか? 虫の声が変わった。

生活を忌避するときは、忌み嫌うという形で、生活に囚われている。親を嫌う人がそうであるように。嫌な親だって、遠くから見れば懐かしい。自分の中の嫌悪感や絶望感だって愛おしくなる。何もかもから遠く離れることは、一種の逃避であり、主体的に離人感に向かうことだろう。そうでもしなきゃ、真っ正面から嫌悪感や不安にぶつかっても、嫌な感情の真ん中で、身動きが取れなくなる。

神経質になると、いろんな矛盾が解消されないで、頭の中で神経網が糸くずのように絡まって、いつまでもほぐれないような感じがする。今日は、本で、ヨーロッパの高級な果物畑では、盗人が入らないよう、周りを厳重な柵で囲っている、という記述を読んで、そう言えば、日本では毎年、収穫直前のスイカが大量に盗まれる事件がよくあるなあ、と考えて、畑に鉄条網でも張り巡らせて、電流でも流しておけばいいのに、と思ったのだけど、あちこちの畑が核施設か何かみたいに厳重に警備されている光景も嫌だなあ、と思った。徒然草でも、いい感じの鄙びた家にミカンの木があって、それに柵を巡らせているのが、いかにも疑り深い気がして、この柵がなければどんなにいいだろう、と書かれていた。けれど盗人は一定数存在する。父に言わせれば、日本人には、一年間手塩にかけたスイカを盗んでいくような恥知らずは存在しない。中国人に決まっているのだそうだ。僕は中国に二度行ったことがあるけれど、そこに住む人が悪いとはとても思えなかった。ホテルの人の感じがいいのはともかく、保育園の先生(親戚の子供を僕ひとりで迎えに行った)とか、散歩帰りにマンションに戻ろうとしたら、なかなか中に入れてくれなかった守衛の人に、怪しいものじゃないんだ、と説明したら、実に辛抱強く説明を聞いてくれたし、真夜中に酔っ払って街を歩いてたら吐きそうになって、近くの開いてるマッサージ屋の人に、吐きそうで死にそうだ、と言ったら、心配してくれて、バケツを持ってきてくれた。当然のことだけど、国民性の違いなんかより、個人間の違いの方がずっと大きい。皆が他人を漠然と疑って自衛している社会は嫌になるし、外国人を一絡げにして悪く思う心理は嫌だし、かと言って全く無防備だと「襲われる方が悪い」とか訳の分からないことを言われそうで、それも気が滅入る。そう思っている僕が、じゃあ、人を一切傷付けない善人なのかと言えば、全然そうじゃない。実際に言葉で多くの人を傷付けてきたし、それに、部屋で何もせずに生存しているだけでも、両親には負担をかけ続け、Amazonで物を買えば、Amazonの労働条件の悪さを助長しているし、僕が持っている多くの物は、人件費の安い国で大量生産されたものだ。いざとなれば僕は、自分が餓死するよりは、ミカンだってスイカだって盗むだろう。僕が憂鬱なら、憂鬱じゃない人を滅入らせるし、元気なら元気で、憂鬱な人を踏みにじる。

だから結局は、ひとりで漠然とした不安なんかに囚われずに、今自分がしたいことをせっせとしていくだけなのだけど、一度引っ掛かったもやもやを自力で解きほぐすことが出来なくて、いつまでもぐずぐずしている。頭の回転が悪いからこんなことに悩んでいるのだとも思うけど、ぐずぐずと自分が喪ったことに拘ったり、自分がひそひそと部屋で怯えていることの言い訳をだれにともなく頭の中で繰り返したり、漠然とした罪悪感に形を与えようと不毛な言葉を平坦に組み立てている内に、一日が終わってしまう。堕落していると思い、自分が嫌になる。それは今自分が楽しくないからだし、何も好きと感じられないことに対する不安から起こっていると思う。僕が鬱々してるときに考えることなんて碌なことじゃない。金閣寺は裕福な人々の贅沢の象徴だ、と言って、火を付けた昔の青年みたいに、大真面目にずれたことを考えている。

今すぐ、自分が大好きなことに心から没頭すればいい。何とかして頭を叩き起こす。僕には今、エレキギターという強い味方がいて、何にも感じなくても、しばらく弾いていると、何もかもが溶け合ったような不思議な気分になる。晩ご飯に呼ばれたけど、何の罪悪感もなく、ギターを弾き続けてる。部屋の中で僕が鬱で自罰的であろうが、ハイでフラットな意識でいようが、人には関係ない。それならハイになれ、と思う。

部屋の中で思い切りナルシシズムに浸っていればいい。活字と音楽と画集に助けを求めながら。それでも何にも感じなくて、不安しか無いなら、枕でも抱えて目を瞑ってじっとしているしかない。妙な自信だけは失いたくない。

無くしていきたいということ

9月20日(月)、
昨日、夜11時頃に眠り、今朝は1時に起きる。2時間眠った。昨日は多くの時間を寝て過ごしたので、睡眠時間は十分足りている。昨日はとても不安だったので、何日かの分の抗不安薬を飲んだけど、今日は大丈夫な気がする。起きて、今日一日が殆ど丸々残っている、ってとても嬉しい。

とてもとても神経質になって、不安な考えが消えないときがある。その内しなければならない面倒なことを考えると気が滅入る。もう全然時間なんて残されていないのに、と思う。

僕は時々、完璧に孤独だと感じる。それが時々じゃなくなるといいと思う。いつも孤独の中にいて、時々生活の温みの中に入りたい。

何故、僕は僕のこの意識なんだろう? この意識は多分、僕が産まれて、少し大きくなるまでは存在しなかった。そして何十年かこの意識があって、また消え失せるのだろう。

僕には地球の顛末は分からない。いつか全ては砂漠となって、いずれはその砂漠さえも無くなるのだろう。形あるものは形を失う。いずれ論理は破綻する。ふたつのものはふたつじゃなくなり、光は速さを失う。分子や原子も時間をかけて崩壊し、空間だけが残り、空間さえもいずれは無くなる。今と同じように。僕が思いでいっぱいになり、世界が思いでいっぱいになるとき、全てはその意味や形を失う。

無感情は無に辿り着けない。とびきりエモーショナルになって、何もかもを感じ過ぎるくらい感じること。何も感情が湧いてこず、何も感じないときは、無理矢理にでも何かを感じようと努力すること。ナツメグを舐めて味わったりとか、とびきり濃いコーヒーを飲み下すとか。何でもいいから。倦怠感や厭世観から出る答えには、何かが欠けているのではなく、何かが過剰で、その答えはすっきりとはうまく働かないのだ。

僕は何もかも無くしていく。そもそもの始まりの場所に戻るために。時間の無い場所に戻るために。

日記

9月17日(金)、
僕は正気にしがみつこうとする。それは狡いことだろうか? 例えばギターのことを出来るだけ呑気に書いて。でもそれはあまり続かないのかもしれない。気付くと僕は、自分が本当の孤独の中にいる、と感じる。もとからそこに、誰もがいる場所。生活の外にころっと落ちると、生活苦、という言葉には重みが無くなる。自分を健康だと感じるけれど、病院に行ったりする。病院とも、僕は関係ない気がする。生活の外にいると、生活がひどく恋しくなる。でも、生活の中で病気になって、それでも生活の中で生きていくことは生半可なことじゃない。

高速道路の音が遠く、身近に聞こえる。とても神経質だったときは、「あの車の中にもいろんな人が乗っていて、殺人者だってもちろん乗っている。いろんな感情を乗せて走っている。人間たちが何処にだっている」というような感じがした。今は音としか聞こえない。ただ低い、ごーっという音が、とても懐かしく聞こえる。明日は台風が来るそうだけど、明日のことだって懐かしく感じる。今朝食べたご飯のことだって、遠い思い出みたいだ。

夜、散文(『存在すること』)を書く。メモではなくて、自分で「散文」カテゴリーに入れたくなる文章を書いたのは久しぶりだ。言葉が、人生の中の暇つぶしのひとつではなく、生きることそのものになる時間が恋しい。ここ数日、毎日長い時間ギターを弾いて、本を読んで、それから万年筆で書きものをしている。ギターを弾いていると、段々意識が生活を離れ、地球を離れ、宇宙の果てに飛ばされていく気がする。生活の中で僕は「何もかも手遅れだ」という言葉に苛まれるけれど、ギターをずっと弾いていると、年齢の関係ない場所に行けるような気がする。キング・クリムゾンのギタリストであるロバート・フリップが、ギターを通して精神性を高めていくような、セミナーのようなものを開いていたことを思い出した。

 

9月18日(土)、
昨夜、夜の10時に眠って、日付が替わる頃に起きる。2時間だけ眠った。

読書をしていると、生きている気がする。本を読むことが通常だった僕が、十年間、ほぼ本を読んでいなかった。読書ノートを、どんなに辛いときでも欠かさず書いているから分かる。年間数冊ほど無理に読んでも、それが面白かったという記憶がない。言葉を恐れていたときもあった。言葉があるからいけないんだ、と。ただ、辛かった間に読んだ本のタイトルを見ると、辛かったことが思い出されて、そしてそれは過ぎ去ったのだなあ、と思う。「読書をする」「小説を読む」「詩を読む」ということの意味が分からなくなっていた。活字に目を走らせても、何も感じず、疲れるか、怖くなるか、どちらかだった。

日常的に読書をする人は、大体20人に1人くらいだろう、と村上春樹が書いていた。僕もそれくらいだと思う。これは小説や詩に限った割合で、文学には興味ないけれど、実用書はよく読む人を含めれば、その割合は多分2倍くらいになると思う。僕はものごころ付いた頃(4歳くらいだろうか)から、当然のように毎日本を読んでいたので、読まない、とか、読めない、という感覚が分からなくて、「読んでみたら絶対面白いから」と、何の疑いもなく、そう思っていたし、言っていた。書くことも大好きで、書けない、という感覚が分からなくて、読書感想文や小論文を代わりに書いてくれ、と言われれば、寧ろ喜んで引き受けていた。言葉が好きだった。音楽も同じくらい好きだったけれど、それは言葉が好きな僕、というナチュラルな状態が先にあってからのことで、言葉と音楽のどちらかを選べ、と言われれば、随分迷って、やっぱり言葉を選んだと思う。そして今、僕は改めて言葉が好きになってきた。毎日読み書きをしていれば、もっともっと大好きになっていくと思う。読みたい本や、読めば素晴らしい体験になるであろう本が、日本語の本だけでも、ほぼ無尽蔵にあるし、大抵の本は自由に手に入れて読める。英語やフランス語も、本当にやりたくなってきた。違う言語で本を読めたら、それから書けたら、どんなに素晴らしいだろうと思うからだ。音楽もまた、まだ聴いていない音楽は無限に近いくらいある(今この瞬間にも新しい音楽は世界中で作られている)し、ずぅっと好きな音楽が、たくさんある。CDやレコードやiTunesで、ヘッドホンやスピーカーで、いくらでも音楽を楽しめる。コンサート会場に行くことや、ライヴ演奏を聴くことには、あまり興味が無い。

今、少しハイになっているかもしれない。ハイというよりはダウナーな感じだけれど。元気に動き回るよりも、全てがフラットに溶け合っている時間が好き。

 

9月19日(日)、
ネットの中とか、ネットの向こうとか、実際に人が生きている街とか、何なのだろう? 僕には分からない。

朝から不安で堪らなかった。ギターを弾いて、3時間くらい歌っていると、急に空虚感が押し寄せてきて、薄暗くした部屋で、ベッドの中で、ひたすら蹲っていた。

夕方頃、何か不思議な気分になり、読書の続きをする。読めるから嬉しい。むしゃむしゃと、今までに読むつもりで買って、机や、ピアノの上に積んでいた本を、次々と消化している。読書って、本当に脳全体が良くならないと出来ないのだな、と思う。シンプルに考えても、読むのは左脳だし、読んだことを感じるのは右脳だ。左脳と右脳の機能差をあまり信じていないので、比喩だけれど。思考で読んで心で感じる、と言った方がいいかもしれない。本が読めないときの僕は、どこかおかしい、と自分で感じる。読めないときにも、書くことは出来るけれど、書いても楽しくない。言葉から何か抜け落ちている。

夜、ギターを少し弾いて、書きものをする。
とても眠い。

 

存在すること

理由。 重さが正気にたどり着くとき。
僕は、お金があったら、ポロックよりも、寧ろベーコンの絵を集めたい。
そして、全ての絵をガラス張りにして、暗い、電気の当たる、地下室に並べたい。

僕は、多分ネガティブな要素を原動力にしてしか生きられないのだろう。
自分が嫌いだとか。それも嘘だとか。他人のことは、好き嫌いじゃなく、みんな懐かしい感じがする。とても遠くて。手を繋いでも、僕の手が僕の手じゃないのか、人の手が人の手じゃないのか、うまく分からない。多分前者だと思うけど、僕自身が単に他者であるだけかもしれない。いつか手の感触を思い出すのかもしれない。

いや、やっぱりポロックの絵を集めたい気がする。ポロックもベーコンも、画集で十分な気もする。僕は画集が好きだ。印刷が好き。脳は暗闇の中で、真空の中で、孤独なのだろう。それをうまく忘れたいのだろう。真空の中で、生活を組み立て、それは確かに存在すると感じるけれど、生活よりも本や、絵や、音楽に結び付きを感じるとき、生活内では病気と言われ、生活の外では至って健康でいられる。そして段々生活が恋しくなる。人は伝達する。伝達しなければ何も無い、というのは本当だ。ポロックの絵が無ければ、僕にとってポロックは存在しない。伝達手段は全部借りものだということを忘れてはならない。僕はギターを弾くけれど、もちろんギターは僕が作ったものじゃないし、音楽の原理は人間が作ったものじゃないし、ギター職人は木材を作ったわけではないし、言葉も絵の具も、すべて借りてきたものだ。うまく借りて、孤独に変換して、外に出す。表現をする。何故、そんなことをしなければならないのだろう。光や重力が無ければ、星は星と認識されない。光も重力も発しない星があったとしても、何も無いのと同じだ。すべての空間は『何も無い』で充満している。何らかの現象、質量とか、だけを僕は認識し、「在る」と言う。情報と存在は、僕の中では同一だ。「現実が在る」というのは何の比喩表現だろう? 「脳がプールに浮いている」というのが現実の比喩であるように。

ネットワークの一部になること。それは大きな喜びだ。シナプス一個には何の意味も無いけれど、神経網には意味があって、孤立したシナプスでさえ、何らかの関わり合いで生きている。

何年か前、少なくとも何年か前と思われる昔、友人が「君が『全てがただの映像に見える』と昔言ってて、すごく驚いた」と言ってて、僕はその言葉に驚いた。普通、そんな言葉は流してしまう。あるいは病気だと言う。彼は流さず、病気だとも言わず、ただ何年も覚えていた。そのことで、僕は彼を、とても友人だと思う。

人間は、完璧な自由に耐えられない。僕は耐えられない。自由が無い、にも耐えられない。だから僕は、ギターの「スタンダード」チューニングが決まっていることを煩わしく思うけれど、でもドレミファソラシドには従っていて、チューナーでチューニングを神経質に合わせる。並び替えてるだけだ。並び替えるだけの自由。それが普通で、ある程度普通じゃなければ、やっぱり僕は存在出来ないのだ。ドレミファソラシドに従わず、滅茶苦茶に弾いてたら、ある種の卑怯に思われるか、面食らうか、なかなかだと言われつつ、隔離される。から、という訳じゃない。隔離が怖くて従うのではない。僕は病気が怖いし、ちゃんと滅茶苦茶なのは分かる。気持ちに従って生きている。軸索が、伸びるだけどこまでも伸びていく。DNAさえ失うことは破壊だ。消失はしたいけれど、破壊はしたくない。

消失は嬉しい。脳なんて邪魔なものは無くても現実はあるし、記憶はある。僕は僕が好きだった記憶の強度を高めつつ、それだけの為にでも存在していたい。ギターを破壊するパフォーマンスは汚いと思っていた。けれどそれは木を切ることと違うのか? ギターを作った職人の心を躙ることは破壊にしても質が悪いかもしれない。けれどギターを焼いたり、今すぐ窓から放り投げたりしたい気持ちは、痛いくらい分かる。痛い。それほどの痛い自由と、遺書を書くように生きる強さは分かる。遊び心など知らない。遊びで生きてる訳じゃない。生きることは傷付けることだ。他人を、全てを。自他を破壊しながら生きている。酸素がきちんとあって、呼吸出来るのは今だけのこと。書くことだって無理してて、とても痛いのだ。

泣いたって、分かってくれない。泣いたことだけ分かってくれる。泣いた泣いた、と言われる。病気なんてそんなものだ。病名なんて。泣かない薬をくれるだけ。現実にしがみつこうと努力している。その努力は、価値があるとすれば、価値のあることで、壊れるものを必死に修復している。卵が現実だとして、割れたら何処に行くのだろう? 何処にも行かない。やっぱり生活があって、今度は否定することで生きていく。割れた卵から、殻が産まれる。離別の苦しみがあって、離れたくないから、字を書いたり、音楽が好きな自分を決して手放さない。iPodの中に入った音楽は、いつか誰かが奏でたもので、ロックはやっぱりギターの六本の弦で弾いたのだ。そう思うと嬉しい。それだけは手放さない。信仰している。信仰は存在と同じだ。映像を現実として見るように、僕の好きな人たちは生きていたし、また、生きている。同じことを、何度も何度も書くように、同じ本がずっとあって、書いた誰かは生きていたのだ。書いたことは傷みたいに信じているし、読んだことも傷みたいに覚えている。その傷に滲む血だけが僕だ。

生きることは幸福ではないけど、幸福な存在があることは、それだけで幸福だ。見えることだって、感じることだって。物だって、人だって、ちゃんといる。いくつか好きなら、とても満足して生きられる。


……

日記(目が醒めてきた)

9月12日(日)、
昨日は頭が重くて、一日中、ご飯も食べずだらだらしていた。今日の午前2時半くらいになってやっと起きる。身体はすっかり軽くなっていた。爪が一日で大分伸びたような気がする。ギターを爪弾けて、キーボードを叩くにも支障がない微妙な爪の長さがあって、その長さを昨日の内に超えてしまったのだ。本当に微妙なライン。ポール・マッカートニーはベースを指で弾き、アコースティックギターは爪で弾くのだけど、ベースの弦に爪が当たらなくて、ギターはちゃんと爪で弾けるくらいの長さにいつも整えるのは、面倒じゃないのかな、と思う。

昼。僕は遅かれ早かれ死ぬ。そして遅かれ早かれ全ては消え行く。そんなことは意に介さず、ただ、今を一音一音、一歩一歩生きることが大切だと感じるときもある。今、この瞬間生きていることが、何にも増して大切なことなのだと。そう思えないときもある。今がそう。何にもしなくていいし、前に進まなくてもいい。そもそも「前」って何だ?、と思っている。

後天的に、経験的に、好きになっていったものの方が多分多い。僕の大部分は、今までの経験によって形成されていて、ギターの良さだって、最初から良く感じていたわけじゃない。ジョン・レノンの弾くアコースティックギターは、最初から特別好きで、いつかこんな風に弾けたら、とずっと思い続けてきたけれど、今は、ギタリストひとりひとりの音の違いが分かるようになってきて、ジョンのギターがいかに真似出来ないか分かってきた。10歳の頃から音楽を聴かない日は殆ど無いくらい、主にイギリスとアメリカのロックを聴き続けてきて、やっと、ギターに心を込める、ということの意味が分かるようになってきた。初めて聴いたときから、ジミ・ヘンドリックスのギターには、その迫力にすぐ圧倒されたし、エディ・ヴァン・ヘイレンのギターは、ギターに全く素人の僕でも、ものすごくテクニカルなのが分かるし、音色がとても現代的で、こんな風に弾けたらどんなに格好いいだろう、と思った。ヴァン・ヘイレンを聴いて初めて、ギターが主役のバンドが存在することを知った。でも基本的にはギターはヴォーカルほどは目立たない楽器で、特に伴奏楽器としてのギターは、誰が弾いても同じだろう、くらいに考えていた。今では僕は、どんなロックでもヴォーカルと同じか、それ以上にギターの音を集中して聴いていて、それから、ギターよりさらに目立たないと思っていたベースにも注目するし、曲を成り立たせているドラムやピアノやシンセの音や、バックで鳴っているアレンジの音など、いろいろな楽器の音をよく聴いている。それから、あまり興味の無かった歌詞も、今は大切な要素だと思ってる。「この曲いいな」とか「この曲の景色や色が好き」いう、曲全体を漠然と捉えたり、浴びたり浸ったりするような聴き方もとても大事だけれど、ひとつひとつの楽器を分けて聴いて、それぞれの良さを感じることもとても面白い。両方の聴き方を使い分けている。初期のボブ・ディランの曲は、アコースティックギターをじゃかじゃか鳴らしながら、ぼそぼそと歌うだけで、歌詞がやたら長いし、何がいいのか全然分からなかったのだけど、今はディランの曲のメロディやギターの良さを感じるし、歌詞はまだよく知らないけれど、ディランの音楽特有の空気感を感じられるようになってきた。

夜。何故か気分がましになってくる。アルフレッド・ブレンデルの弾くベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』を聴いている。多くのピアニストが弾いている有名な曲らしいのだけど、僕は2年くらい前にアンドラーシュ・シフのアルバムで聴くまで、この曲の存在を知らなかった。一般的な知名度は低いのではないかと思う。バッハの『ゴルトベルク変奏曲』はグールドの演奏が有名だと思うのだけど、やはり意識的にクラシックを聴く人にしか知られていないのだろうか? アニメ映画の『時をかける少女』で『ゴルトベルク変奏曲』の最初のアリアと第1変奏が、とても効果的に使われていて、嬉しかった記憶があるけれど、テレビや街で流れているのを聴いたことは無い。もっとも僕はテレビを殆ど見ないし(そもそも僕の家にはテレビが無い。僕が壊したからなんだけど)、外にもあまり出ないのだけど。一般的な知名度についての感覚は別に要らないと思っているから、それはいいけれど、僕が話したり書いたりする話題が、実はとてもマニアックで、あまり通じていないのではないか、という懸念はたまに持つ。でも、どれくらいの人に通じるだろう?、と考えながら書くよりは、自分の好きな、書きたいことをどんどん書いた方が楽しい。いちいち他人のことを気にしながら書いていると、書くほどに不安になってしまう。

 

9月13日(月)、
昨日、現代詩のことについて書いていて、ああ言葉って面白いな、もっと詩や小説を読みたいな、と思っていると、頭がひどく重たくなった。ベッドで蹲っていても頭がぐるぐるするだけなので、焦点の合わない眼は瞑って、いろんなギターの音源や、クラシックの演奏などを効いていた。楽器が上手に弾けたら素晴らしいだろうな。でも、弾けなくても、ある程度音を鳴らせるだけでもギターは面白い。チェロにもずっと憧れているけど、多分、かなり上手くなるまで、少なくともきちんとした音程で弾けるようになるまでは、弾いていても楽しくない気がする。綺麗な単音を出すだけでもとても難しい。大学生の頃にチェロを借りて弾いてみたことがあって、ニック・ドレイクの『チェロ・ソング』の旋律を弾こうとしたのだけど、まず音が出なくて、すぐに断念してしまった。実家に「チェロを買って欲しい」と電話したけど、値段を言うと、無理に決まってると言われ、祖父にも電話をかけたら、そういうのは大人になってからだ、ということを言われた記憶がある。祖父母には大学の入学金や授業料を出してもらっていたので、僕もあまりしつこくは言わなかったけど、もっと真剣に頼めばよかったかもしれない。けど多分、チェロを買ってもらえたとしても、その頃の僕は、ろくに弾きもせず、すぐに投げ出していたと思う。

頭痛はほぼ引いたけれど、今度は胃が痛い。ロキソニンを飲み過ぎたせいだろう。頭痛に比べればどうってことはない。母に胃炎の薬を貰って飲んだ。

朝。ギターのことばかり書いていた。

ほぼ一日中、ギターのピックアップの高さを調整していた。

 

9月14日(火)、
昨夜は10時過ぎに寝て、今朝4時前に起きる。まずまず健康的だ。

考え方や感覚を複雑化していくのはやめなければならない。

早く起きたものの、怠くて、急に狭い箱の中に閉じ込められるような、どんよりした灰色の気分になったので、じっと眼を瞑って横になってた。

 

9月15日(水)、
今日は、ほぼ一日中ギターを弾いていた。ここ数日、人生って長くないんだな、と一日に何度も考える。病気になって苦しみ抜いて死ぬことにだって、意味が無いわけじゃないと思う。けれど、僕は、せめて、本当に書きたいことを書きたいし、本当のことを知りたいし、それにやっぱりギターを弾きたい。

いつ指が動かなくなるか分からない。いつ声が出なくなるかも分からない。いつかの為の予行練習を生きているわけじゃない。

 

9月16日(木)、
一週間ほど頭が重く、ときどき頭痛がしたけれど、今朝起きると、きちんと目が覚めている感じがした。今日も半日ほどギターを弾いていた。テレキャスターの音って、何でこんなに美しいのだろう?

人生って本当に短い。今を本気で生きていかなくては。

日記(怠さの中で)

9月9日(木)、
不安や焦り、それはどこから生まれてくるのだろう? 不安も焦りも不要だ、と理屈では分かっている。でも、考え方でどうにかなる問題じゃない。

この頃やっと、外の世界がちゃんと外に見える。何年もの間、外に行っても、ずっと自分の精神の内側にいて、全てが不安な映像にしか見えなかった。今日は二回目のワクチンを打つために外出したのだけど、驚いたことに、外の景色が鮮やかに見えて、美しいとさえ感じた。けれどそれは何か、地元の美しさとか親しさ、というのとは違って、とても綺麗に印刷されたカタログを見てうっとりするのと似ていた。僕はアウトドア用品や文房具のカタログを見るのが好きだ。ギターの画像を何時間も見ているのも好き。アコースティックギターは見ていて大して面白くないけれど(実物を見て、木目とか、作りの良さとかを見たり、音を鳴らしてみるのは楽しいと思う)、エレキギターはアートとしても最高に美しいと思う。デュシャンがサインした便器(『泉』というタイトルで、何かの企画で20世紀最高の芸術作品に選ばれていた)は要らないけれど、同じくレディメイド(既製品)こそが芸術だと言うのなら、エレキギターこそ、最も美しいと思う。もちろん僕の個人的意見だが。もちろんデュシャンの眼目は、普段誰でも目にしている、例えば便器なんかにも美しさは隠れているので、芸術とは何も崇高な芸術作品を仰ぐことではなく、日常の中で発見出来るもの、つまり見方の問題なのだ、ということだろうと思うけれど。ギターって本当にいろんな個性的な、どれも美しいデザインがあって面白い。音色にももちろんそれぞれのギターで個性があって、その中で僕の好き嫌いがある。ピアノのデザインはどれもこれも似たり寄ったりだし、音色だって、スタインウェイヤマハで、どう違うのか知らない。ベーゼンドルファーのピアノは、マイノリティっぽくて格好いいので、YouTubeiTunesでよく聴いてみていて、大体こんな感じかな、という音のイメージは持っている。エレキギターの画像や、もちろん実物を見たり、小説の描写を読んで、とても美しい、と感じる感じと、スーパーマーケットで色とりどりのぴかぴかしたトマトを見て、美しいな、と思うのと、あまり違わないような気がした。病院で注射を打った帰り、食料品店に行ったけれど、そこはまるできらきらしたカラフルな小惑星や小宇宙のように見えた。ギターの美しさや、一冊の本が小宇宙であるように。トマトも食肉も菜っぱも、ひんやりとディスプレイされていて、見ているだけで美味しいような。ずっと、アレン・ギンズバーグの『カリフォルニアのスーパーマーケット』という詩を思い出していた。その詩を読むのと、スーパーマーケットの中を歩くのと、変わりはない気がした。言葉や音楽は美しい。全てが美しいことの一環として。でも、スーパーマーケットを出るとき、ショッピングカートなどを置く、トイレの出入り口なんかがあるスペースが、冷房の効いた中から急に出てきたのでむっとしていて、自動ドアには蚊が巨大化したような虫が、何となく観念的な感じで止まっていた。駐車場には、アスファルトと踏み石の隙間から草が出て萎れていた。そういう、身体が移動することでの、予測していなかった場面転換が、実際に歩くことにはあって、そういうのを新鮮に感じたのだけど、言葉や音楽にも、場面転換はもちろんある。でも、聞き逃したり、読み飛ばしてしまうことが多い。歩くとそれを否応なしに感じる。そして、一度感じたことを僕の脳は二度と忘れない。もっと本を読みたいな。外国語をやると世界が拡がる、というのは、外国人と話が出来たり、英語の情報が読める、ということだけではなしに、文字通り、本当に世界が拡がるのだと思う。つまり、英語を道具として使える、ということではなく、英語の世界を生きられるから。学ぶことは歩くことと同じなんじゃないだろうか? それを苦行に感じるか、いつも新鮮に楽しく感じられるか。

 

9月10日(金)、
薬の離脱症状なのか、ワクチンのせいなのか、怠さを感じる。自分が苦しいと、誰もが苦しいのだと思えてくる。僕は何もしたくなくて、ただ時間と自分を殺し続けている。しばしば自分に「今すぐ死ねる薬があれば飲むだろうか?」と尋ねてみる。大抵の時は「楽に死ねるなら」と答える。瞬間瞬間の逃れることの出来ない苦痛と稀薄な感情で、今までの僕の歴史は、それでも何故か成り立っていて、何をして生きてきたのか分からない。記憶なんかまるで無いみたいだ。思い出は美化されるなんて、誰が言い始めたのだろう? 病院の薬は、生活と同じで、いろいろ試している内に、何が正解なのか分からなくなってくる。いろいろ薬を換えて、薬が増えて、もしかしたらこんなの、最初から飲まない方がずっといいんじゃないかと思いつつ、病院通いをする前は確かにもっと苦しかった気がして、効いてるのかな、と思ったり、自分がただ馬鹿で鈍感になっただけだと思ったりする。飲むのをやめてみると、焦りで頭がいっぱいになって、首を吊ろうかと思うけれど、遺書くらいは書きたい、とか身辺整理をしてから、という生活的な嫌な観念も湧いてきて、取り敢えずまた薬を飲んでしまう。薬を飲んだからって動きたくはならない。苦痛は鈍くなるけれど、生きている感じも鈍くなる。薬を多量に飲んで眠って、起きると、良くも悪くも空っぽになれるし、死ねるならそれでもいいと思って、とりあえず持っている薬を一度に飲んでしまったりする。薬を一度に多く飲んだり、急に飲むのをやめたりしていると、身体にも頭にも良くないらしいし、依存症にもなりやすいらしいけれど、今現在の苦痛が実際に消えるのなら何だっていいと思ってしまう。

英語の勉強のために聖書を読んでいて、ここに書いてあることをそっくりそのまま信じられたらとても楽だろうな、と思う。信仰によって救われる、というのはある意味本当だと思う。教義が真実だから宗教が存在するのではなく、実際に心を楽にしてくれるから、人はいろんな信仰を持つのだろう。自分ひとりだけ勝手に救われるのなら、別に何を信じても構わない。宗教を信じるのも、哲学や物理学を信じるのも、金を信じるのも、文学や音楽や芸術を信じるのも、熱中すれば快感を得られるという点では同じだし、自分の世界観を規定してくれるところも同じだ。自分には自分の世界があるし、他人には他人の世界があって、それぞれに優劣は無いし、他人に押し付けられるほど大した世界なんて、誰も持っていない。

ギターを弾くのは、いつか役に立つから、とか人前で演奏するまでの練習とか、そんなのじゃなくて今楽しいから弾くのだし、読書も勉強も本当は、別にいつかの未来のために苦しんでするものではない。今勉強すれば、将来役に立つから、ということはよく言われたものだけど、そう言う人たちが全然楽しそうじゃないのはどういうことだろう?

昼前、オイルサーディンにタバスコをかけてもそもそ食べた。オイルサーディンは何種類か食べてみたことがあるけれど、結局一番無難なキングオスカーのを食べている。いわしが油に浸りきって、ジャンクな感じなのが好きだ。ときどき無性にオイルサーディンを食べたくなる。サバの缶詰でも、貝の缶詰でもいけない。あと、イカが食べたくてしょうがないこともある。

怠くて横になっていたら、僕は完全に完璧に間違っているのかもしれない、と急に思う。何がどうとは言えないのだけど。