日記

7月31日(土)、
鬱は怖い。生きていたい気持ちを一気に持っていかれる。鬱の世界にすぐ踏み入ってしまう。僕はまだ死ぬわけにはいかないのだ。やっと集中状態に入れる予感がしているのに。

僕はいい音楽が聴きたい。昨日リリースされたビリー・アイリッシュの新作を聴いているけれど、相変わらずの囁くようなヴォーカルスタイルは好きだ。でも一枚目の静かでダークで緊密で、何処となく病的な感じは抜けていると思う。ビリー・アイリッシュの音楽には、人を思いっ切りダウナーにさせる力は無いと思う。永遠に人を中毒症状に陥らせる力は。名盤にはどこか僕をロウな気分にさせる魔力のようなものがあるし、僕をとても個人的な気持ちにさせる。一過的に売れる音楽には、何か、人を集団的ハイに巻き込んでしまう強い力、病的なポップさがあると思う。ポップさは僕の大好きな要素だけれど、現代病的なポップさは嫌いだ。ビリー・アイリッシュの人気は、おそらく一過性のものだと思う。アメリカのミュージシャンって、売れると新作がダンサブルになる感じがして苦手なことが多い。一度聴くと格好いいと思うのだけど、何度も聴いていると、音楽から意識が分散してしまって、全然ディープな気分になれない。とは言っても、僕の音楽の好みは、とても偏狭で、精神的、物質的に密室感の無い音楽は、ほぼ全部駄目って言ってしまうんだけど。

鬱からの立ち直りが早くなった。7月の前半は何にもしたくなくて、何にも面白くなくて、近く死のうとばかり思っていたけれど、どうも甥が来てから、僕はかなり元気になっているみたいだ。とても疲れるけれど。

朝8時、素麺を4束茹でて食べる。甥が起きてこないかとびくびくしながら食べてた。書きものをしながら茹でていたので、ほんの少し長く茹ですぎてしまった。

午前10時、サウンドハウスに頼んでいた荷物が届いたので、玄関に出ていたら、甥がとことこ現れたので、ほんの少し遊び相手になって、隙を見付けて即座に二階に上がってきた。僕は今から寝ようと思っていて、残念ながら遊ぶ元気が無い。両親と妹は、遅い朝食を食べている。何となく昨晩から父の機嫌が悪いし、家の中の空気が微妙に悪い。少し家族と話したらすごく疲れた。甥には申し訳ないけど、僕は少し眠ることにする。

午後2時、眠れない。またすごく顔色が悪い。蕁麻疹が手の甲に出始めたし、顔にはすごく久しぶりに、珍しくニキビが出来ている。3時になって、甥は多分お昼寝をしている時間だろうと思って、飲み物を取りに行ったら、甥はすっきり起きていて、結局1時間以上、一緒に遊んだ。最初の日は、おそるおそる抱っこしていたけれど、この頃慣れてきた。でも、抱っこの時間が段々延びてきて、1分経っても、2分経っても降りてくれない。甥は自分の重さを分かっているのだろうか? 赤ん坊がいると、よく腕や手首が腱鞘炎になるらしいけれど、本当だなあと思う。

しかし甥は父には懐かないなあ。結構遊んであげていると思うし、美味しいものをいっぱいあげているのだけど。無理に抱きかかえようとするのが良くないと思う。

結局、夜までずっと起きていた。今日で7月も終わりだ。なかなかいい月だったと思う。明日からは真っさらな8月だ。実りの多い月になるといいな。

日記

7月29日(木)、
活字がとろりとしている。頭はよく回っている。精神は沈み込んでいる。

死ぬほどの憂鬱からは2週間ほど遠ざかっている。ひょっとしたら、しっかり勉強出来るかもしれない。安定した精神状態は、何にも増して得がたいもの。お酒も、出来れば控えたい。飲んでるときは美味しいけれど、僕は残念ながら酔うと元気になるタイプじゃない。ビールもがぶがぶ飲まずに、味わってゆっくり飲もう。

母国語の畑は綺麗に耕しておこうと思っていた。でも、僕の日本語は雑草だらけで荒廃している。

甥が夕食時にもお構いなく遊んでくれというので少し困る。

 

7月30日(金)、
昨日の昼、お酒と煙草を減らそう、と何となく思ったのに、昨晩はまたビールを飲んでしまったし、煙草は吸わなくても平気だと思ったんだけど、日付が替わってから立て続けに5本吸ってしまった。薬と煙草とお酒に依存している。お酒は3年間くらい一滴も飲まずにいられたんだけど、それ以前は明らかにアルコール中毒だった。僕はアルコールはあまり飲めないんだけど、1年か2年、ウォッカを主食にしていた頃もあって、少し気を抜いたら、すぐに大量に飲んでしまう。すぐ酔う割りに、それなりには飲めるのが厄介だ。一日中酔いを持続させたいと思ってしまう。今はビールと梅酒で済んでいるからまだいいけれど。病院の薬は、明らかに多過ぎで、朝から晩まで一日中、僕は正気を保っているとは言えないと思う。朝からサイレースを飲んでいるし、少し不安になるとソラナックスジアゼパムを飲んでいる。いつも何となくぼんやりしている。薬はラミクタールとサイレースだけ出してもらって、サイレースは夜にだけ飲む、というのが、本当はいいのだと思う。サイレースは溜めててもいい。サイレースはたまに友人Mにあげてて、とてもよく眠れると、なかなか喜んでくれるからだ。僕の場合、サイレースは精神的に楽になれるけれど、もはや眠くはならない。

夜、鬱状態の兆しを感じる。甥と遊んでいるときに「これはちょっとまずい」と思う。部屋に戻って、急いで薬を飲んで、1時間ほどベッドで横になる。ましになったけど、一度に多く薬を飲んだので、頭がぼんやりする。

日記

7月26日(月)、
午前1時、頭が火照って眠れない。まだ少し酔っている。あんまり喋ってないし、ほとんど歌ってもいないのに、喉が腫れてて痛い。そのくせ煙草をいっぱい吸っているから、喉ががらがらで、うまく声が出ない。『物質的恍惚』を再読している。前に読んだときより、うまく肯んじられないところが多い。主張のある文章は、それがどんな主張であれ、もう読みたくないな、という気分だ。それでも読んでいて面白いし、「あらゆる主張、主義を排せよ」という主張、主義は、ところどころ決まり切った散文の作法を離れてて、それが時々言葉の意味を逸れて、ふとふわっとした無意味にワープする。でも、それが本当に時々なので、読むのに少し骨が折れる。無意味さをうまく組み立てて、一冊をまるまる書いた本、というのに、僕はお目に掛かったことがない。ナンセンスではなく、無意味の色と光。そう言う本が書けたらどんなに素晴らしいだろう、と思うけれど、今の僕には書けそうにない。でも、いずれ、きっと書きたい。多和田葉子さんの『変身のためのオピウム』という小説が、今のところ、一番無意味な美しさに、多分、言葉そのものの楽しさと美しさに満ちている、と思ってる。

午前6時、普通のサイズのカップ焼きそばを食べる。それでも550kclもあるし、それにご飯も食べたから、栄養は十分だと思う。結局眠れずに、朝が来てしまった。

セミがみんみん鳴いている。朝早い時間には、ひぐらしの鳴き声が聞こえて、静かな気持ちになれるのだけど、どうも普通のセミの声は何かを急いているようで、穏やかな気分になれない。

昼前、ちょうど2時間眠る。随分すっきりした気分になる。

夜、何故かとても憂鬱になる。この世に本当の身寄りなんて一人もいないような。ジアゼパムを2錠飲んで、少し落ち着く。小さい子がいると、まともに憂鬱に沈んでいることも出来ないけれど、その分ひとりになると、どっと落ち込む。本格的な鬱状態にはなって欲しくないと祈るしかない。

 

7月27日(火)、
一昨日からあまり寝ていないけれど、体調は悪くない。昨夜から、いろいろと気になることがあって、どうにも窮屈な思いがして眠れなかった。もっと、何があっても自由な気持ちでいたい。

早朝、また大盛りのカップ焼きそばとご飯を食べる。これで1000kcl摂れるなんて、なんてコストパフォーマンスがいいんだろう、と思っていたのだけど、これで昼と夜もしっかり食べてたら、明らかにカロリーの摂り過ぎだ。今月上旬までは長いこと食欲が無くて、窶れていたけれど、ほんの2週間くらいで、体重が明らかに増えた。計ってみたら4kgも増えていた。

まともな栄養と睡眠をたっぷり摂らなければ。

 

7月28日(水)、
ヘッドホンの中に籠もってる。

ものすごく暑い日だった。久しぶりに病院に行った。疲れてしまって、全く内向的な気持ちになれない。こういうときは書くよりも、読書をしたり、勉強をしたり、ギターやピアノを弾いたり、歌っている方がいい。

停滞していたくないな。毎日良くなっていきたい。もしかしたら、書くことにとって、一番良くないのは、書く時間が無尽蔵にあることなんじゃないか、と思っていたし、今も思っているけれど、あんまり夏の日の経験が輝かしくて鮮やかだと、全然そのくっきりとした夏の輪郭を言語化出来ない。まだ多分、経験が消化されていないのだと思う。病院の中庭が本当に涼やかな影になっていて、美しかった。細くて曲がりくねった気が2本立っていた。中庭には出られないようになっていて、そこは2階(3階?)までの吹き抜けで、底までは陽の光も届かず、ひんやりとしている。僕がとても好きな情景だ。幻想的なくらい。でもその「感じ」を言葉にするまでに、まだ幾つかの膜のような障壁があるのを感じる。静かな、ひとりきりの、宇宙的な気持ちにはなれない。特に活動的だった一日の終わりには。外にいるときの意識を、即座に内面に向けることは、今の僕には出来ない。病院から帰ってきてからは甥とも2時間ほど遊んだ。甥の生きている空気感の中に滑り込んで、甥の呼吸する世界の中で一緒にいるような気がする。そこには抽象的な考えなんてない。ただひたすら、瞬間瞬間が外の物への好奇心で満ちている。その場所で、僕はしばし、出来るだけ、意識の波長を、多分脳波を、小さな子供のモードに切り替えている。どことなく瞑想的で、同時に甥から1秒も目を離せない緊張感が、遊んでいる間、ずっと続く。遊び終わると、しばらくぼーっとしてしまう。自分の内向的な意識ってどんなだったか、まるでいつも慣れ親しんだ僕の部屋に、うまく同調出来ない感じがする。身体的には、甥といても疲れずにいられるコツのようなものを掴んできたし、多分体力も付いてきたけれど、精神的には、なかなか甥の生きている世界観から抜けられなくて、混乱してて、疲労を感じる。椅子にひとりで座っていても、落ち着きを取り戻せない。……書けない。だから読書をして、勉強をして、ヘッドホンの中に、やや自分の場所を感じたりする。今はたっぷり、内面的ではない世界を、出来うる限り楽しんで、夏の光や色や、一面の明るさの中で情感なんか遠くなってしまう気持ちを、楽しんでいようと思う。僕の中は空っぽだったから。読書もしてなかったし。勉強もしてなくて、何しろ僕は鬱屈していた。死にたさや自己嫌悪から、今だけは離れていよう。ただ夏を感じていようと思う。

夜まで何も食べなかった。10時過ぎに父が仕事から帰ってきてから、素麺を食べて、キュウリの漬物で、ご飯を一杯食べた。

世界をまた感じられるようになってきた。もっともっと感じたい。

日記

7月25日(日)、
うぅ、段々疲れが蓄積されているのが分かる。甥の相手に疲れているので、テンションが昨日からものすごく低くて、夢の中でまで甥と遊んでいる。弟が大量にビールを送ってくれて、軽井沢のビールとプレミアムモルツヱビスと、いろんな海外製の瓶ビールが10本入ったのが届いた。僕はいろいろな国のビールを飲むのが好きなので嬉しい。僕は甥と遊ぶときは、とりあえず疲れを忘れて、本気で遊んでいるつもりだけど、今日は朝遊んで、疲れている上に、午後に尚も2時間遊んだので、遊んでいるときはあまり感じなかったのに、ひとりになると自分がひどく疲労しているのに気付いた。大分、抱っこするのにも慣れてきたし、膝の上にも座ってくれるようになってきて、妹が違う部屋に行ってしまっても、取り敢えず僕がいれば機嫌良くいてくれるくらいにはなってきた。僕の父は、僕が泣いてたら押し入れに閉じ込めてたらしいけれど、その気持ちも全然分からなくはない。仕事で疲れてて、しかも小さい子供ともちゃんと遊ぶ、なんてことをやってたら、身体が保たない。しかも、ちょっと成長すれば、反抗期があるし、話が通じるほどの年齢になったら嫌われるしで、父親になっても、全然いいことなんて無い気がする。

夜はどうしてもビールを飲んでしまう。今日は飲まない、と言うより前に、既にコップにビールがつがれているので、取り敢えず一杯だけ飲もうと思うのだけど、一杯飲むと抑制が取れて、どんどん飲んでしまう。酔うと何にも出来ないのに。冷たいシャワーを浴びても、酔いは醒めない。酔うと自傷の痕が赤くなるので、自分の中にまだアルコールが残っているかすぐに分かって便利だ。……昼間はかなり疲れていると思っていたけど、夜になると大分回復していて驚く。自分の中にまだこんな体力が残っていたことが不思議だ。

友人Mにまあまあ長いメールを送ったら、すぐさま返信がきたので嬉しい。友人には甥っ子姪っ子が何人もいて、勝手に懐かれているらしいけれど、まあそれはそうだろうな、と思う。彼は全く愛想を振りまくタイプではないのだけど、僕の友達付き合いには昔から厳しかった僕の父にさえずっと好かれている。僕の祖父母にも一目で好感を持たれていて、少しも八方美人な訳ではないのに、何故か自然と人に好かれる性質を、彼は持っている。彼のことを見ていると、人間って性善説的なのかと信じたくなるけれど、僕はあからさまに性格が悪いのを誤魔化しつつ生きている人間なので、一概に人間全般の性質を云々することは出来ない。

眠い。この頃夜は本当に眠い。すぐに目が覚めるし、悪夢ばかり見るけれど、ともかく夜にはくたくたになっている。ともかくのところは眠ろう。

日記

7月23日(金)、
明け方、お腹が空いたので、大盛りのカップ焼きそばとご飯を食べる。これだけで1000kcl近くも摂れる。

夕方、何とは無しに怠い。

全然調子が上がらない。基本的に疲れた日々の中でも、特にたまに訪れる、魂の無風状態。明日は、もう少しましだといいけれど。

 

7月24日(土)、
午前4時、また大盛りのカップ焼きそばとご飯を食べる。78円しかしなかったし、カップ焼きそばを買い溜めしておこうかな。743kclもあるのに、そんなに多いという感じがしない。

午前9時、一階にクーリッシュを取りに行ったら、甥に見付かって、2時間一緒に遊ぶ。おまけにクーリッシュをほとんど飲まれてしまった。家中を一階と言わず二階と言わず走り回る。階段を自分で登るので危ない。しかし、それにしても3歳くらいまでの記憶は、多分いずれ無くなってしまうので少し寂しい。
部屋に戻ると、非常に気怠い。1時間ほど、お昼寝する。

とても怠いので、しばらく起きていて、また1時間ほど眠る。起きると、今度は割にすっきりしている。ミンガスを聴いている。

甥が来てから、どうもひとりでいても、意識がひとりのモードにならない。体力が付くのはありがたいけれど、寝ても覚めても、何というのか、家の中の空気が少し違っていて、ああ家の中に小っこいのがいるな、という方に意識が三分の一くらい持って行かれてしまう。

昨日出たキングフィッシュ・イングラムのアルバムを聴いている。まだ21歳か22歳のはずだ。驚異的なくらい格好いいリフとソロを弾いて、ヴォーカルにすごく貫禄がある。前作は20歳のときに出していて、それも結構聴いたけれど、ギターの音(多分レスポール)が図太すぎて、少し濃いアルバムだと思っていた。今作は多分ストラトを使っていて、全体的にクールで鋭い。昔ながらのブルースを弾くキングフィッシュは、バディ・ガイより洗練されていて、情感がすごく籠もっているけれど、泥臭くない。好きだ。ロックやR&Bのフィーリングもあって、新しい時代の音楽性を全部ブルースに吸収している感じがする。

いいギターを聴いていると、意識が自分の中心に纏まっていく感じがする。

疲れている時は、僕は箏や、中国の琵琶やインド音楽や、テクノを聴きたくなる。もっともっと余程疲れている時は、アンビエントや環境音を聴くけれど、そこまで疲れることは、このところあまり無い。意識がしゃんとしているときには、やっぱりロックがいいと思う。

夕方、今日も外出する。週に三日も外出するなんて、引き籠もりじゃないみたいだ。備蓄用の水を買わなければならなかったので、運搬係として食料品店に行った。今日はあまりふらふらしなかった。物がちゃんと見える感じで、随分回復したなあ、と思う。

自分の部屋に戻ると全てが遠くなる。とてもいい徴候だ。

甥は僕の父にも母にもそれほど懐かないのだけど、僕にはよく抱っこをせがむので、少しだけ優越感に浸ってる。でもずっと抱きかかえていると、腕が痺れてくる。最初は、とても軽いなと思ったけど、段々ずっしりしてくるし、抱っこをしている間も、動き回るので制御が難しい。抱っこされたまま、給湯器と部屋の明かりのスイッチを押すのが気に入ってて、それから冷蔵庫を開けさせて、中を物色するのも好きみたいだ。こんなのを一日に何時間も抱えている妹の体力には驚く。

夜は疲れ切ってしまって、晩ご飯では僕はほんの少ししか喋らなかった。デザートにゆずシャーベットを食べようと思ったら、甥にほぼ全て食べられてしまった。こんなにアイスばかり食べさせていいものか、後になってから悩む。でも、あげない、と言ったら泣いちゃうし、困ったものだ。あまり甘やかさないように気を付けよう。

とても眠たい。これほど眠いのは本当に久しぶりな気がする。

メモ

25歳の夏から、もう8年間、僕は実家でほぼ引き籠もっている。2年前に障害者年金を貰うまでは、本当に僕はゴミのようだった。現金な話だけど、お金って、本当に精神の安定のために大きな役割を演じる。それからその頃から飲み始めた、躁鬱の薬であるラミクタールも、僕の悄気きって、死ぬことしか考えられない精神を、少し緩めてくれたと思う。僕は鬱病の薬に効果を感じたことがない。僕は昔かなりの躁だった、と周りの人は口を揃えて言う。でも、それは多分、いい気になれる程度に、人生にかなり満足していられたからでもあったと思う。生きて、ふとした光景を眩しく感じること、書いて、書きまくって満足すること。音楽は僕の世界を光で満たしてくれていた。でも、そんな全てが完璧に感じられる、良い意味での躁状態には、23歳以降、一度も入ったことがない。楽しくても、それは肉の表面だけで、笑っているのも顔の筋肉だけで、骨や心の随は、いつも冷たく、冷え切っている。

鬱状態は特に朝がひどい。毎朝、起きたってどうせ、空虚で不安で、それでいて重苦しい、割れてしまった風船みたいに惨めな一日が待っているだけだと思う。死にたい気持ちがあって、でも死ねるほどの衝動は無い(自殺にはある程度の元気が要ると思う)。だから、本当にしばしば、僕は朝、起き上がらずに寝逃げする。眠れなければ睡眠薬を飲んででも。でも、昼と夜は、比較的ましだ。一日中暗い気分で、焦燥感ばかりの日もかなり多いけれど、この頃は大体三日に一日くらいは、まあまあ元気な日がある。読書も勉強も、ほんの少しずつだけど、また出来るようにはなってきた。それに何の意味があるのか分からない日も、とても多いとは言え。

苦しみはある。間違いなくあって、僕は何ゆえの苦しみにか、いつも参っている。今は夜で、夏の虫が鳴いているのか微かに聞こえる。何故あんなにも遠い声で鳴くのだろう? 僕は苦しみから逃れようと、僕なりに努力してきた。でも毎日、特に朝には、もう駄目なんじゃないか、と思う。今の僕は半分しか生きていない。

雨は降っていない。ここにあるのはクーラーの音。空気清浄機と扇風機の音。キーを打つ音。スピーカーから流れてくるエイフェックス・ツイン。それだけだ。……そう書いていたら、たまたま、雨が降ってきた。

、、、

ガラスの雪、何もかもを求めていた頃、

壁で魚釣りをする。

床に落ちた水滴。
明るい強さ。赤い叫び。

この身体はしなやかであって欲しいし、無駄な肉は要らない。

光をしっかりと吸い込んだ綿雲。

薬はある意味では確かに効いていて、おそらく医者の言う通りに薬を飲んでいれば、自殺の可能性は大幅に減ると思う。訳の分からない感情や衝動性が、かなり抑えられるから。でも薬は、脳の働きを抑えはするけれど、活性化は多分させない。良くも悪くも激しい感情が、フラットになると思う。確かに僕は、14歳のとき、自殺願望が強過ぎて、一秒だって、もう生きられないような気分が続いていたので、病院に、本当に強く、助けを求めていた。本当に、文字通りの意味で、病院に駆け込んだら、初診の方は予約がどうの、と言われたので、今まさに死にたくて堪らない僕と、ぼんやり待合室に座っている、退屈そうな患者たちを見て、完全に頭に来てしまって、ナースステーションでひとしきり喚いて(「急患を救えない病院なんて病院じゃない!」とか)、それから初診でもすぐに診察してくれる、という病院を見付けて、しばらくの間、そこに通った。薬を本当に大量に出された。僕はちょっといかれてたので、ほとんど遊ぶ為に薬を使っていたけれど。ともかく遊ぶにしろ何にしろ、薬で死にたさを抑えることが、ある程度出来たので、僕は生き長らえることが出来た、と今でも思っている。いつもすぐに死ぬ気でいたけれど。

(生活が、僕にとっては脅威だ。多分、ひとりでいられるなら、薬抜きで、誰よりも健康にいられる。本当に病気の人は、とても少ないのではないかと思う。単に自分の個性と、生活とが合わないのを、薬で無理に合わせていることが多い気がする。)

僕に出されている薬は、全て、脳の働きを抑制させるタイプの薬だ。昔は元気になるタイプの薬も出されていたけれど、躁鬱と診断されてからは、躁転の危険性があるということで、ひたすら感情と感覚を鈍磨させる薬しか処方されていない。一時的にはそれでもいいと思う。今すぐ死ななければならないような自殺衝動はきつい。でもずっと自分の感情や感覚を感じられずにいたら、自分がもうまるで死んでいるようにしか思えない。

メモ(全てが全てに溶け合って)

……最近『古今和歌集』『新古今和歌集』の世界観が好きだ。月は月、花は花、と固定された世界観の中で、けれども月は月であり、花ではない、という絶対的な区別が微妙にぼやかされている。それが第一に好きな理由。もうひとつは、第一の理由と重なるかもだけど、「鳥」にしても「海」にしても、それは「鳥とはこういうもの」という狭い観念からは、遠ざけられた「鳥」として、それは描かれている。月の影(光。昔は光のことを影と言ったらしい)は水に溶け、花の色は空に溶け、それぞれの単語が淡く溶け合い、全ては全てに溶け合う、全てが均一な、とてもフラットな感覚が、『古今和歌集』に始まり『新古今和歌集』で完成された世界観の、基底にあると思っていて、それは全然古めかしくなく、ポップどころかSF的でさえ、あると感じることがある。例えば『ニューロマンサー』では、サイバー世界に「フリップ」したとき「青い味がした」と書かれていて、それは共感覚的描写として、とても優れていると思うけれど、日本っていうのは、というか日本の美意識には、もう千年も前から、共感覚の感覚が含まれている。「色は匂えど」と、桃の花が眼にきらきらと映えると共に、ピンク色の匂いがする世界だし、「色即是空」の精神は、単語に表された一つ一つの「もの」が、消失するぎりぎりのところ(非常に遠目)で描かれているところに、現れているのではないか、と思う。平安から比べると大分新しいけれど、例えば中也の『ひとつのメルヘン』では、蝶が石に落とす影について「淡い、それでいてくっきりとした」と書かれている。現実にはあり得ない光景だけれど、感覚的には非常にリアリティがあって、それは、有る、と同時に無い、色即是空の世界観にとても近いのではないか、と僕は思ってる。実例を挙げることがなかなか出来ないけれど、全体を通して、そういう「遠目」の、全てが溶け合う領域こそが美しい、という独特の美意識で『古今和歌集』『新古今和歌集』は貫かれている、と僕は思う。よく、平安の美意識は「眺め」の意識だ、と言われるらしい。今書いていることは井筒俊彦さんが、日本人の持つ世界観の特色として、2、3ページだけ、おまけのように書いていたことを、僕なりに、接ぎ木して、引き延ばして書いているのだけど。折口信夫は、その「眺め」について、「性的にぼんやりした気分」と解釈していたらしい(と井筒さんは書いていた)。つまりそれは、外界の認識の仕方を意識的に変えるのではなく、自分の気分をとろりと、マリファナを吸ったような気分にさせて、現実感を稀薄にする、という感じなのだろうか(大分違う気もするけど、折口信夫の解釈だと、平安時代の人は、内面をうっとりさせることが最上で、外の世界にはあまり関心を持たなかった、ということになるような気がする)。井筒さんは、それに対して、「眺め」とは、事物を遠く見て、その本質(例えば花には「花でしかない」という花の本質がある)をぼやかせることによって、花が花でしかなく月は月でしかない、何もかもが規定されて決まり切った、窮屈な世界から脱却することなのではないか、ということを書いていた(これも、僕が井筒さんの解釈をうまく汲み取れているか、甚だ自信が無い)。……万葉集では、どの歌も、見たまんま書かれている。今見た情景の、そのままの、強い感動が描かれている、とされている。それはそれで立派だと思うけれど、僕はどうにも生々しい情景描写や感情表現が苦手だ。「田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」という万葉集の名歌がある。田子の浦が何処かは知らないけれど、とにかく、寒い海(?)に出てみれば、山頂の真っ白な、立派な富士山が見えた、という強い感動が表されている、というのはよく分かる。でも、この歌の細部が変更されて載っている『新古今和歌集』の「田子の浦に打ち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」の方が、田子の浦も富士山も遠く見られていて、田子の浦には、実際には出ていない、という感じがするし、第一に(これが一番の改悪とされることが多いらしいのだけど)船の上から「雪が降りつつ」つまり富士の山頂に降っている雪が見えるはずがないのだけど、しずしずと雪の降る山頂と、しんとした船上の情景が、ふうわりと遠くから混ざり合っていて、とても優美な感じがする。現在でも、小説なんかが「リアリティが無い」と批判されていることが多い気がするのだけど、いつもリアルの渦中に生きていて、小説の中でもリアルを求めるなんて、何かつまらないと思う。全てが、遠く、溶け合っている世界。それは、それに、フィクションの中だけに存在するものでもないと思う。一種の、現実にも通用する、世界の美しい見方だと思う。全ての場所に虹が架かる。雨の後に晴れが来て、そのとき空に架かる虹だけが、虹じゃない。全ては、虹になって溶けていってしまうのだと思う。そして僕はそれの方がずっと現実だと思う。

日記

7月22日(木)、
自分の時間の感覚をなかなか取り戻せない。小さな子供は、圧倒的な力で、僕の住んでいる世界観を、強引に狂わせてしまう。それが少し快感ではあっても、僕は僕で、自分の時間をきちんと持っていないと、潰れてしまう。

午前1時、どうにも眠れないので、隣の部屋からごそごそスーファミを持ち出してきて、ドラクエ6をしてる。もう何十回プレイしたか分からないけれど、未だにわくわくする。僕の中では、スーファミのソフトの中では、ドラクエ6FF6が双璧で、クロノトリガーロマサガ2にもまあまあはまったけれど、いつまでも飽きない、という点ではドラクエ6が最高だと思う。あと大好きだったのは半熟英雄2とライブアライブライブアライブは殆ど忘れてるので、もう一回やってみようかな。FF6の音楽は、確かに格好いいんだけど、あまり耳に残っていない。ドラクエ5ドラクエ6の音楽は別格にキャッチーだし、同じすぎやまこういちが作曲している半熟英雄2の音楽も素晴らしい。

ドラクエをしていると、疲れが段々取れてきて、意識がいつものモードにチューニングし直される気がする。本当はニーア・オートマタがやりたいんだけど、プレステ4の値段が、Amazonでは、中古でさえも高騰していて、とても買えない。どこか、ハードオフででも安く売っているといいんだけど。

スーファミで遊んでいた当時、父には数本しかソフトを買ってもらえなかったけれど、それもその筈で、その頃はソフトが一本1万円なんてざらだったのだ。泣いてねだっていたけど、今考えると1万円のソフトをほいほい買えるはずもない。子供の頃の僕は、働いている親はお金をわんさか持っていると思っていたんだけど、今考えると申し訳ない。殆どのソフトは従兄弟のお兄さんに貰った(というか借りたのを未だに返してない感じかもしれない)。後は、中古で何本か買った程度。RPGが特に好きで、有名どころをちょこちょこ買っていた。春休みに、それまでそれほど仲がいい訳ではなかった友達と、毎日ロマサガ2で遊んでいたのもいい思い出だ。その友達は、ちょっといじめっ子で、今僕ととても親しく付き合ってて、メールを送り合ったり、たまに会っている友人Mをよく泣かせてたような記憶がある。その頃友人Mは小さくて眼鏡をかけていて、泣き虫だった気がするのだけど、その頃の彼の印象はあまり残っていない。4年のブランクがあって、フリースクールで再会した友人Mはとても大人びていて、とても魅力的な少年になっていた。思春期前後って、良くも悪くも、内面的に大きく変化するみたいだ。

夜中、どん兵衛のきつねうどんを食べる。これで昼過ぎまでお腹が保てばいいけれど。心身の疲れが取れないので、甥に出くわすことを、少し警戒している。

このところひぐらしがよく鳴いている。今は夜明け直前。ひぐらしって、もっと秋近くになってから鳴くようなイメージがあったんだけど、アニメの『ひぐらし』の舞台は6月だし、存外早くから鳴いてるんだな。でも、僕には、ひぐらしと言えば、やっぱり晩夏のイメージだ。夏の終わりを惜しむように鳴いているような、寂しい、とても日本的な鳴き声。

朝6時、元気があまり出ない。寝てないんだから当然だけど。また少しお腹が空いたので、シーチキンを一缶、タバスコをかけて食べる。まあまあ食べている割には、体重がまた減ってきてる。このまま甥と毎日遊んでいたら、60kgなんて簡単に切りそうだ。数日間遊んだだけなのに、もう贅肉が落ちてきて、筋肉が少ししっかりしてきた。あと、でも少しやつれてきたかも。ぐったりしていて、微妙に、動く気力が無い。

午前中、2時間ほど眠る。顔色が異様なくらいいい。この間まで土気色をしてざらざらして潤いを欠いていた顔に、少し赤みが差している。精神的には少し意識がぶれているんだけど、身体的には、僕は今すごく元気みたいだ。

午前10時頃、午前中いっぱい甥の相手をする覚悟で一階に降りていったら、甥は寝てて拍子抜けした。キュウリの漬物でご飯を二杯食べる。

ちょうど正午まで、90分ほど眠る。

しばらく読書して、今度は英語の勉強をしようと、一階に降りていって、甥の前で英文を朗読してみた。怖がるかと思ったら、一文読む度にきゃっきゃと笑ってて、すごく意外だった。どうやら、聞き慣れない英語の発音が面白いらしい。しかし、甥が笑うのに気を取られて、僕は全く英文が頭に入ってこないので、また、疲れる隠れん坊などをしてた。僕は少し寝不足なので、段々立ちくらみがしてきたけど、甥もまたよろよろし始めたので、カーペットの上でごろごろ転がって遊んだ。毒でも飲んだみたいに、僕が唐突に死んだふりをすると、どうも面白いらしい、ということを発見した。

夕方にはまた外出。2年近く、ほぼ外出しなかった僕が一週間に2度も外出したのは驚異的なことだ。食料品店に行っただけだけど、レジに到着する頃には、情報量の多さに、混乱しそうになっていた。帰ってきて、自室に戻ると、何故かぐるぐるするような多幸感に巻き込まれる。

晩ご飯は天ぷらだったのだけど、ビールを飲みながら甥と走り回っていたので、酔った気がしない。

夜、僕は疲れると蕁麻疹が出るのだけど、そんなことすっかり忘れていた。シャワーを浴びていると、お腹や足にいっぱい蕁麻疹が出ていたので、これは結構疲れてるな、と思った。何故かお腹にばかり蕁麻疹が出るので、服を着ていると分からない。特に痒くもなく、ただピンク色に斑点が出来ている。何となくなんだけど、これは僕の体の自然な反応じゃなくて、身体の免疫力か何かが低下すると、薬の副作用が強く出るのではないかと思う。薬を飲んでいなかった時期は、蕁麻疹なんてちっとも出なかったからだ。

どうも形而上学的なことが全く考えられない。夜は思いっ切りひとりになりたい。全てに名前の無い場所に行きたい。何もかもがどうだっていい世界に行きたい。

日記

7月20日(火)、
午前3時、昨日とても疲れたはずなのに、神経が昂ぶっていて眠れない。お腹が空いたのでカップヌードルとご飯を食べる。それから、仕方がないので読書をしている。穏やかで、やわらかな砂地に、ゆっくり着地するような眠りを得られないだろうか?

朝7時、3時間くらいしか寝ていないはずなのに、たくさん眠った感じがして不思議だ。幸い、筋肉痛にはならなかったみたいだ。それとも明日、身体が痛くなるのだろうか? 一昨日からほぼ眠っていなくて、つまり昨日は一日徹夜したまま過ごしていたのだけど、それほど疲れは感じない。

いつも、多かれ少なかれ、人生に対する諦めを持っている。すぐに「どうせ」と思ってしまう。でも、全てが興味深く思える朝があって、今朝がその朝だ。活字が好きだ。僕は変わらなければならない。もちろん中身の底まで変わることはない。でも表面的な変化の集積が、その内、僕の内面をもう少し穏やかにしてくれるだろうと思う。

朝8時、卵焼きとみりん干しと奈良漬けとご飯を食べる。食べている内に、とても眠くなってきたのだけど、甥が起きてとことこ歩いてきて、机の下に隠れたので、僕も机の下に潜った。甥は机の下が少し好きらしくて、僕が見付けてやると喜ぶのだけど、食べながら机の下に潜ったり出たりするのはなかなか骨が折れる。しかも何度かそれを繰り返していると、甥は満足したのか飽きたのか、急に椅子に座って、チーズを黙々と食べ始める。僕はもそもそと机の下から出てきて、またご飯を食べるのだけど、甥がちらちらこちらを見て、「おいしい?」と訊くので、幾度も「うん、おいしい」と答えなくてはならなくて、落ち着いて食べられない。嫌な気はしないし、僕は疲れたら自分の部屋にそそくさと戻れるので、楽なものなのだけど。

昼間、2時間ほど眠る。思っていた通り、太股に久々の筋肉痛を感じる。健康的な痛みで、なかなか快い。

夜は焼き肉を食べて、ビールをたくさん飲んでしまう。

 

7月21日(水)、
表面の優しさと内面の悲しさって、関係のないものだ。

ひぐらしのなく頃に卒』を見ている。妹がかなり好きだったアニメのリメイク、というか新シリーズ。登場人物の声がほぼ変わってなくてすごい。富竹さんだけ、えらく老けてる。せっかくなので台所で読み書き勉強をしながら、ノートパソコンで『ひぐらし』を見ようと思ったのだけど、甥は特に『ひぐらし』には興味ないみたいだったので、試しにアンパンマンを見せたら、アンパンマンの登場するシーンだけ、ディスプレイを指さして「あんぱんまん」と言う。でも、アンパンマンにもすぐ興味を失ったので、また、ハードなかくれんぼをしてた。一階には大きなL字型のソファー(二人が十分寝転がれる)があるのだけど、ひたすらその周りを走って、僕がソファの端っこから顔を出すと甥がとても喜ぶ、という遊び。僕が立って走ると、ソファの上から頭が見えてしまうから、僕はうまくソファに隠れるように、ずっと中腰になって走っていて、クーラーを付けた部屋で汗がぽとぽと髪から滴り落ちてきて、死ぬかと思った。ほんの少し気分転換に一階に降りたつもりなのに、3時間以上も、甥を見ている他、ほぼ何も出来なくて、『ひぐらし』を見るどころじゃなかったし、読書も全く出来なかった。くたくたに疲れた。こんな、一日中走り回る、10kgもある生き物を一日中見ている妹は、本気ですごいと思った。妹はアニメが好きなのだけど、最近は全く見てないと言う。妹は疲れた様子も、嫌になった様子も少しも見せずに、ずっと甥に気を配っている。まあ、僕同様に、僕と一緒に遊んでいると甥も相当くたくたになるみたいなので、夜はよく眠ってくれるみたいで、それは少し良かった。僕は自分の時間がすぐ恋しくなって、また少し夜型に近付いてる。昼間起きていると、また甥の相手をしなきゃな、とネガティブに考えてしまって、夜遅くまで起きて、ひとりの時間を堪能してる。何故かは知らないけれど、眠ると、本当に怖い、幽霊系の悪夢を見る。ちょっと不眠気味かもしれない。朝型、少し眠って、朝食は、甥が起きる前に食べて、それからまた少し眠り、甥がお昼寝をする頃を見計らって、昼ご飯を食べている。ちょっと狡いかもしれない。

思うんだけど、小さい子が、例えばマラカスとかに興味を持って、真面目な顔をして、少し振ってみたりしてるときは、あんまり、甲高い声で「えらいねー」とか言わない方がいいことも多い気がする。集中している、同じ空気の中に入った方がいい気がする。というか、僕はテンションを上げるのがとても苦手だし、甥が空のティッシュの箱とか牛乳パックを持ってきたときは、黙々と折り畳んだりして、ぺったんこになったら、「うむ」とか「うん」とか言ってるだけなのだけど、甥が集中して、僕の手つきを見ているのは、何となく分かるような気がする。その空気を壊さないようにしていると、何となく少し親密になれるような気がしないでもない。僕に子供の心が分かるなんてこと、全然思わないけれど。多分、いろんな付き合い方があるというだけで。僕自身は昔、べたべた触ってくる大人が苦手で仕方が無かった。

それにしても疲れた。いつもの自分の調子が戻って来ない。薬を飲んでも煙草を吸っても、心ここにあらず、という感じがする。音楽を聴いても、本を読んでも、少し自分が遠い。少しだけ眠ろう。調子が戻ってくるといいのだけど。

日記

7月18日(日)、
朝からお腹が痛くて食欲が無い。午後5時頃まで、お茶だけ飲んで、読書と書きものをして過ごす。

夕方と夜はたくさん食べる。ビールをまあまあ飲む。

 

7月19日(月)、
ここ数日、僕の中で、美しい、穏やかな変化が訪れた気がする。妹と甥が来て、気持ちが外に少し開けたのも、理由のひとつかもしれない。自分の文章を段々書けるようになってきた気がする。それにつれて過去の僕の文章が、今の気持ちにあまり合わなくなってきたので、ネットに上げた文章や、詩や小説の多くを削除したいと思っている。すっきり、透明に、シンプルに過ごしていたい。

1歳のちょこちょこ動き回る赤ん坊と一緒にいると、話が通じないというのは、いくら可愛くても、少しうんざりしちゃうことだなと思う。構って欲しいのかと思うと、すぐにぷいっと他のことに興味が移ったりする。大人との関係と同じくらい気を遣う。あまり無視していると機嫌を損ねるので、赤ん坊と一緒にいると、読書になんかとても集中できたものじゃない。僕の母は、僕が1歳のときには、産まれたばかりの僕の弟もいて、誰も手伝ってくれる人もなくて、ノイローゼになりかけたと言っていたけれど、僕だったら、ひとりの時間が無いと、本当に気が狂って、自殺したくなるだろうと思う。何せ、ずーっと一緒にいて、機嫌をとり続けないといけないのだ。

朝早く、カップ焼きそばとパック入りのご飯を食べる。両方で800kclも摂れる。
昼はレトルトのハヤシライスを食べる。夜はモスバーガーに行って、スパイシーなハンバーガーを食べて、シェイクを飲む。なかなかにジャンクだ。

甥っ子はすっかり僕を遊び仲間として認定しているみたいだ。僕が直立していると目線の高さが違いすぎると思って、2時間くらいずっと中腰で追いかけっこなんかをしてたら、あまりにハードで、普段運動不足の僕の何処にこんな体力があるのかと自分で驚くんだけど、甥もこんなに走ったことはないらしくて、最後にはよろよろしていた。僕はよろよろしていないので、少し勝ったと思った。しかし、明日は筋肉痛になっているかもしれない。

ろくなTシャツを持っていなかったのでTシャツを3枚買った。それにしても眠い。小説を書いてる。まあまあうまくいきそう。読書がとても面白い。