日記

4月8日(木)、
朝、ひどく悪い気分だった。怯え、不安、恐怖。全て毒だ。でも僕はその毒を、時にどうしようもなく培養してしまうのを抑えられない。内側から神経が腐っていく。腐敗が僕の皮膚を突き破りそうな感覚。椅子にも座っていられない。眠剤を飲んで、布団の中で耐えている。その内眠りに就いて、嫌な夢を見て、朝は呆然とする。吐き気、下痢。朝起きたときが一番疲れている。また薬を飲んで、脳の中に少し残った健全な神経を叩き起こす。また内側から腐っていく感覚。

 

4月9日(金)、
ふと、何かを思い出しかける。

時を重ねて、胸中でばらばらになってしまった、この僕。

 

4月10日(土)、
何故、僕は「この僕」なのだろう? 何故、僕はこの時代に産まれ、この意識が「この僕」に宿っているのだろう? 他の誰でもなく。
……

 

4月12日(月)、
うまくやれないことの悲しみは本当だけど、うまくやれてしまうことの悲しみもあるのかもしれない。そつなく暮らして死んでいく。それなら悲しみに打ちひしがれて自殺する方がいい。大きな声を出して堂々と生きていけるのは、羨ましいことだけど、人前では干上がったような掠れ声しか出なくなる自分の弱さが、美しく思えて、ときどき愛おしくなる。

今までいろいろな薬を飲んできたけれど、ラミクタールという躁鬱の薬が、一番劇的に効いていて、多分、この薬が無かったら、すぐに僕は死んでしまうだろうと思う。この薬が効いていると、喉のつかえが取れる気がするし、血圧は下がるし、お腹もあんまり壊さない。随分と生きるのが楽になる。今すぐ死ななきゃどうしようもないような、切迫した希死念慮があまり起こらなくなる。いいことばかりだけど、ひとりきりでいて、ひっそりした感覚になりにくい。ラミクタールを飲む前は数年間リチウムを飲んでいたけど、リチウムは僕には全然合わなかった。手は震えるし、憂鬱は少しも収まらなかった。僕は「僕が僕」だという感覚から、長年遠ざかっていて、何を書いても、何処かから借りてきた言葉を並べているだけの気しかしない。心を忘れてしまったみたい。ケロイド状になった、心の表面。

 

4月13日(火)、
まるで自然みたいにいられるくらいなら、思いっ切り不自然な方がいい。ふてぶてしく当たり前の人間みたいに振る舞い続けることで、僕は一体どれだけの人を傷付けるだろう?

この頃カップ麺ばかり食べているので、ぼんやりしているのはそのせいかもしれないけど、栄養学を僕は信じていない。何を食べても同じ味になるくらいタバスコをかけている。タバスコは十数年、大好きで、ここ数年は、美味しいものを食べたいなんて思っていたけれど、何を食べてもタバスコの味がすることの安心感は、思い出してみると悪くない。

気持ち。傷口。
まばらに生える影。

 

4月14日(水)、
怠い。昨日の昼、カップ焼きそばを食べて、今日は豆腐を茹でて食べた。豆腐にはタバスコは合わなそうなので、醤油で食べた。

馬鹿にされない人間になりたかった。今でも完璧な人間になりたい。出ない声や、たどたどしいギターが、嫌でならない。でも、そのことに本当に思い悩んでいた10年前よりは、ある程度の歌は歌えるようになったし、ギターのリズムも掴みやすくなってきた。でも、そのことが逆に嫌になってきた。自信なんて無い。でも自信の無さも含めて、僕は僕として、総合的に完成されていくのかな、って思う。屹立するんじゃなくて、何か、歪んだ物体として。好きなものは断然好き、嫌いなものは嫌いだと感じられる状態でいたい。それさえあればいい。自己嫌悪も含めて、僕は僕のひ弱な身体に完結していく。音楽になりたい。言葉になりたい。自然でいたい。自然でいる、ということは、自分の不自然さを受け入れる、ということだ。

愛することで、愛を忘れてしまう。愛を継続するために嘘を吐かなければならないからだ。何もかも、純粋なままではいられない。妄想の方がずっと純粋だ。現実は妄想とは違うから、僕は創作をしたい。理想を描きたい。(頭が働けば。)現実なんて呼び習わされているものは、現実じゃないかもしれないじゃないか。現実をまざまざと切り取った場面を描くより、創作が現実を侵食していく方がいい。それだけの強度を、言葉に。

 

4月15日(木)、
朝、冷凍のパスタを食べる。午前中、全然元気が無かったのだけど、午後、力いっぱい歌っていたら、少し元気が出てきた。歌の力は大きい。

全然何も考えられない。自分が自分という気がしない。

 

4月16日(金)、
色の洪水。

ぼんやりと書いたメモ。
(詩とは、自分が自分であることを手放さないこと、それだけなのではないかと、この頃考える。誰にも本当には合わせられないし、心を通わせ合うことも、本当は出来ない。人は孤独だ。詩は何も、特別なものではないと思う。忘れてはならない感情を忘れないこと。孤独を生きている自分に飽きないこと。それが、僕の考える詩の心で、詩は哲学や批評にも通じるところがあると思うけれど、世界について書くとして、あくまで今の自分の心から見た世界についてだけしか書けない。それは詩だけじゃなくて、全ての創作、個人が描けることの全てだと思う。個人的感情の行き着くところが、自分にとっての世界の限界だ。それでいいのだと思う。個人の心や感情は、考えて分かる世界よりも、ずっとずっと広い。外界よりも内面に、世界があると思う。自分なりの見方が、人には新鮮だということもあり得るし、自分ひとりだけの大事な感覚だと思っていたことが、案外普遍的だったりする。何も書かなくても、作らなくても、大事な感情を忘れずにいることは出来るのに、それでも書かずにはいられないとしたら、それは人があまりに孤独だからだと思う。あまり寂しくない人が、寂寥感を気取っても、書き割り以上の深さは生まれない。苦しみや不安からは何も生まれない。透明な孤独が、少なくとも創作にとっては重要だと思う。人によって違うと思うのだけど、僕は詩は現実だと思っていて、小説はどちらかと言うと理想だと思う。詩は寂しいときに「寂しい」と書き、小説は寂しいときに、この世界の何処かに存在する慰めを求めて書くものだと思う。この世で生きていることの傷口や弱さや痛々しさが愛しい。僕は自己卑下によってもふてぶてしくなる自分が嫌だ。)
(本当は、特別な世界の見方なんて無いのだと思う。当たり前に見えている世界を、全く違う視点から見ることは出来るけれど、それは普段、悪い意味で自己を閉じ込めている意識や不安とは、別の角度から世界を見るということ。本当は何も悪いことなんて無く、世界を悪くしているのは自分の意識の作用に過ぎない、という自覚に拠るもの。)

自分が自分という感じ。自分をうまく表現したい、という気持ちがいまだに強くて、内面と外面の自分に齟齬を感じているのに、人は僕の外面だけを見て、僕を判断するしかないので、僕はいつも自分が嘘を吐いてばかりのような気がする。ここにいる自分。「この僕」を失いたくない。そして、失われるはずがない。うまく、そつなく人前で振る舞えた、と感じる程に、その後で暗い気分になる。それは僕じゃないから。でも、人に良く思われたいのも本当で、段々、自分に嘘を吐くことにも慣れてくる。内面の自分を感じていたいのに、外面ばかり気にしている自分に、良くも悪くも慣れてきてしまう。「人に嫌われてもいい」と、自分の外面に無頓着になるのも、何か違う。どんなに自分の言動に感情を込めようと努力しても、その努力は報われない。言動って、結局は今まで外から借りてきたものだし、日本語だって、ただ慣れてるというだけで、それは僕の感情そのものじゃない。自暴自棄に暴れ回るのも自分じゃない。

自分の人生に拘りがあるほどに、人生は寂しい。

内面と外面の一致は、多分あり得ると思うんだ。自分の心の海の中を、ふつふつと湧いてくる言葉がある。それをさっと掬い取ることも出来る。言葉そのものが自分の感情となるといい。

表現は一番フェイクでありリアル。生きることだって表現で、それは今まで自分が慣れてきたことの集積だ。でも、そうじゃない場合もある。自分が演技をしていることに自覚的で、そして自分の演技を常に自覚している場合。

内面に内容があるほどの人が努力しないことは考えにくい。いつか僕は、何もうまく出来ないことにもがいていたんじゃないのか? もがくだけの力も失ってしまったのか?

自分自身の演技に、自分が誤魔化されてしまう。情感たっぷりに演技すれば、簡単に泣くことだって出来る。でもその涙は僕じゃない。

自分の感情が溢れて仕方がないときほど、何もうまくいかなくて、うまく喋れなくて、人には怪訝な顔をされるものだと思う。けれど、後になってみれば、思い出されるのは、自分の感情を抑えきれなかった人のことばかりだと思う。

かと言って、感情に溺れるだけでは努力不足だ。海中でもがくのではなく、うまく泳げるよう努力するのでなければ。孤独だ、と叫んだって仕方ない。みんな孤独なのだから。誰かの孤独と触れ合える瞬間を信じること。寂しくても自暴自棄にならず、日々向上していくこと。

それにしても「良く思われたい」っていう気持ちは何なのだろう? 僕は良く思われたい。その気持ちは、何なのだろう?

3月に書いたメモ(2)

僕は一生結婚しないだろう。親になるのはいいかもしれない。やわらかい身体でやわらかい身体に触れ合うこと。でも僕の身体はとても硬くて、だからいつもふわふわとしたパジャマみたいな服を着ていたい。

奇数は男性的で、女性は偶数的だ。とすれば中性はどんな数だろう? 1だろうか? 0だろうか? それとも小数点付きや、無理数虚数だろうか? 作家を女性作家/男性作家と分けるのは気に食わない。みんな中性になってしまえばいいのだ。生硬で堅硬で精巧な文章が好きだ。自分で自分の色を見付けること。ひらがなを多用する女性作家は、やわらかさを意識していて、意図的に女らしくあろうとしているみたいで苦手だ。

やわらかさと鋭さ、赤・白・黒の原色系の言葉が好き、と言うか、その三色で音を作りたいし、言葉を書きたい。

自然な自分なんていない。

性別なんて無くなれ、と思いつつ、男性的/女性的、という概念が無くなってしまうのはつまらない。あくまで、自分は男性だ、とか女性だから、という固定観念に縛られるのが良くないのであって、性別自体があることは、良くも悪くもない。漢文は硬すぎるし、平仮名だ(ら)けの文章もまた、柔らか過ぎる。1100年前に『古今和歌集』が出るまで、公式な文章や、少し改まった文書は、漢文で書かれるのが倣いだった。古今集から30年ほど後に出た『土佐日記』でも、仮名混じり文は女が使うものという意識がまだ根強く残っていたらしく、著者(男)は、わざわざ女に扮して書いている。仮名交じり文を世間に広めた、という意味では、『古今和歌集』と『土佐日記』は画期的だったと思う。よく『万葉集』(平仮名が無かったので漢字(万葉仮名)だけを使って書かれた)は「ますらおぶり(男らしい)」と言われ、『古今和歌集』、『新古今和歌集』は「たおやめぶり(女らしい)」と言われる。「ますらおぶり」という言葉が使われるのは、大体「古今集以来の女々しい風潮を改めて、万葉の時代の男らしい文学を復興しなければならない」という文脈に於いて、という印象があるけれど、本居宣長なんかは「たおやめぶり」はあって然るべきだと言い、生涯の研究を『古事記』(全て漢字)と、仮名交じり文学である『源氏物語』の両方に、隔てなく捧げている。僕は「ますらおぶり」も「たおやめぶり」も好き、と言うか、その区別がいまいち分からない。漢詩が好きで、毎日のように『漢詩名句事典』を捲っているけれど、漢詩の作者はほぼ(有名どころは多分全て)男だけれど、だからと言って「男らしい」と思ったことはない。いわゆる男らしさ、という概念が、今の日本と、昔の中国では多分大分違うので、今の僕が読んでも、そこに男らしさを感じないだけかもしれないけれど。漢詩は壮大だ。ちょっと非科学的でさえあるけれど、本当に気分が悪いとき、薬を飲むより、漢詩を読む方が、ずっと胸のつかえが下りて、冷や汗がすっと引いて、不思議なくらい楽になれることがある。ただ、有限個数しかない漢字を5個やら7個ずつやら並べただけのもの、しかも元は中国語なのを無理矢理、返り点などを打って、日本語に仕立てたもの、が、何故こんなに美しいのか分からない。薬は脳に直接、物質的に作用するので、効くのは分かる気がするけれど、詩なんて本当、ただの情報で、それは質量を持たない、雲のようなものなのに、確かに僕の気分を変えるし、僕はそれを美しいと思う。感動するし、感じるし、安寧を感じたり、静けさや、深さや、喜びを感じる。音楽からもそれを感じるけれど、音楽にしたって、やはり物質的なものではなく、単なる空気の振動に過ぎないのに、何故か僕はそれに感動する。書くことの、完璧な、多分どんなドラッグよりも強い快感も、ときどき思い出しかけている。ともかく、今の僕は、日本語を読むことの喜びに、再び出逢おうとしている。漢字と仮名の混じり文は、本当に美しいと思う。英語やフランス語の字面も好きだし、26字のアルファベットを、僕は本当に愛しているけれど、やはり、日本語の文面の美しさには敵わない。これは、僕が日本人(日本びいき)だから、というのではなく、どこの国に住んでても、僕はやっぱり日本語を美しいと思っていたと思う。日本語は自由だし、表現の幅が拡いと思う。漢字も平仮名も、完璧に美しいと思うし、カタカナもなかなか、面白い。僕は自分では書を書かないけれど(筆が消耗品だと知って、興味が無くなった)、名筆と言われる書を眺めるのは好きで、自分でも、万年筆でなら、いい字を書いてみたい、と思う。西洋にもカリグラフィやタイポグラフィがあって、とても惹かれるし、自分でもやってみたいと思うけれど(ジョブズの美意識はカリグラフィによって磨かれたらしいし)、カリグラフィはどちらかと言うと技芸に属していて、対して書道は、まさに芸術だと思う。日本の書は、西洋の最高の絵にも匹敵する芸術だと思う。楷書も美しく、興味がある。YouTubeで、たまに、中国人と思われる人が、ボールペンなんかで美しい字を書いている動画があるけれど、それに対して、英語など外国語のコメントが数多く寄せられている。余程の漢字の専門書でもない限り載っていない、普段使いの漢字は、多く見積もって1万字くらいだろうけれど、それにしても膨大な数で、その1万の、ことごとくが美しい、って、何て奇跡なんだろう、と思う。そしてひらがなの美しさときたら、平安時代文人たちの美意識や美感が、本当に頭抜けていた、ということで、ありがたいことだな、と思う。もしひらがなが醜かったら、僕は日本語を、何の躊躇いもなく、あっさり捨てただろうな、と思う。漢字やひらがなや、アルファベットの美しさを思うとき、歴史って面白いと思う。よく、歴史とは戦争の歴史だ、と言われるけれど、時間をかけて美しいものが精製されてきた歴史だとも思う。中原中也だってニック・ドレイクだって、全部自分で創造したのではなくて、それまで長い歴史の中で培われてきた知識や道具を使って、そこに個性を込めて創作した。誰ひとりとして、0から物は作れない。だから、勉強や技術は、絶対に必要だ。勉強することや、技術を習練することだけを目的とすると本末転倒だけれど、練習や勉強を楽しんでやって、そこで吸収出来た物の上にしか、新しく物は作れない。

文体は、身に付けたキャラだ。洋服のようなもの。洋服が自然になるまで、自分にとってのセンスを磨き続けなければならない。敏感でなければならない。洋服が自然に自分の一部になり(人は裸では生きられない)、身に付けた洋服が、まるで自分の皮膚の一部と感じられるまで。そのとき人は、言葉をお仕着せや借り物ではなく、まるで自分の皮膚と同じように、自分の言葉で書くことが出来るだろう。書くことも着ることも、等しく文明だ。文明というのは、拡張された自然。本当に、字義通りの意味で「自然な自分」がいるとすれば、それは本能だけで裸で、欲求に忠実に獣のように生きることだろう。もう少し「自然な自分」の意味を拡張すれば、それは、常識を守りつつ、自分が自然に惹かれるものだけを好き、嫌いなものは嫌い、という態度を貫き通すことではなかろうか? 自分に嘘を吐かないこと。でも、ただごろごろして待っていて、好悪の感情がぱっと湧いてくるわけは無いし、洋服を注意深く、また自分の直観に拠って選ぶように、「好きになる」という行為であっても、それは自然発生的な感情ではないと思う。好きになるには、間断なく、もっともっと好きになり続ける為の努力をしなければ。服と同じ。服なんて何でもいい(つまり、言葉なんて何でもいい)という態度は論外だけれど、ただちょっと好きで着た服にはすぐ飽きる。注意深く、時には神経質に吟味するのでなくては、そうでなくては直観も衰える。言葉も同じ。何となく言葉を使ったり、ちょっと気の利いたことを言おうとしたり、好きだと言う本が実のところあんまり好きじゃなかったり、直観やパッションだけに頼って書こうと思っている内に、直観もパッションも萎えるばかりになってしまったり。僕は「神経質さ」を、人間の持つ、とても大切な美徳だと思っている。人間的な弱さを含めての、その人の総体なのだ。自分を捨てればいい、という心情は、ただの自堕落に繋がりやすい。洋服を着ない。言葉も話さない、というのならそれでもいい。たまには本当に、自分の感情や意識を確かに超えた、「悟り」の境地に行くのもいい。というか「悟る」ことは人間にとっての必然だと思う。問題は、悟りから生活に帰ってきたときに、まるで裸のように自由に、生活としての現実を過ごせるかどうかだ。完璧に自分に合った服を着て、自分に合った文体を手に入れること。それには、時間をかけた、繊細な、神経質な努力を必要とする。自分というキャラ(繰り返すけれど、それは洋服がそうであるように、自然なものではない)を綿密に作り、弱さは弱さとして受け入れ、個人的には、自分の物には完璧に拘り、そして自然に好きなものや人を、意識的に、いつまでも好きだと感じられるように、意志的に努力しなければならないと思う。想像し続けること。それは楽しい作業だ。でも神経質に過ぎたり、人から言われたいろんな要素を自分の個性にどんどん組み入れていくと、自分は自分ではなく、他者の言葉や、他人の価値観を組み合わせ、継ぎ接ぎにしたキメラのようになってしまう。流行しているファッションを、何の疑問も持たずに受け入れるように、自分のものだと思っている自分の考えも、単なる時代的な思想背景を疑いもせずに取り入れただけのものかもしれない。そしていつの時代も、価値観というものには、個人が含まれていなくて、人を内側から惨めな気分にしてしまう。あくまで拘ることだ。自分で選ぶこと。「好き」を発端にして、自分の「好き」を無くさぬよう、努力していかなくてはならない。

たまに精神的に鬱屈していて結ぼれているとき、憂鬱が続くとき、定期的にインド音楽が聴きたくなる。毎日は聴きたいとは思わないのだけど、何故か聴きたい日が来る。もう聴かないだろうと思って、アリ・アクバル・カーンのアルバムを、何度iPodから消して、また入れ直したか分からない。サロードの音が好きだ。インド音楽が好きというよりは。サロードは冷たくて弦の太いアコースティック・ギターのような音がする。シャーナイという小さめのトランペットというのか、チャルメラのような楽器も好きだと思ったけれど、音が濃厚すぎて、1時間も聴いていられない。ヴァイオリンの独奏曲を1時間も聴いていられないのと同じ道理だ。エレキギターはひんやりした音から、燃えたぎるような音まで出せて素敵だ。テレキャスターは温度が低めで、若干暗い音がする(でもテレキャスターって、本当に万能で、甘い音でジャズも弾けるし、アコースティック感のある、澄んだ音も出せるし、相当にヘビーな音も出せるし、弾き方や、ちょっとした調整や、アンプやエフェクターの使いようで、かなりノイジーな音も出る。実際に、テレキャスターを使っている有名なジャズ・ギタリストが何人もいるし、レッド・ツェッペリンの一番ハードな初期の音はテレキャスターだし、テレキャスターって、木の甘さから、金属の冷たさやざらつきまで、素材の持つ音を満遍なく発揮出来ているギターだと思う。ブルースやオールドスクールなロックに合う、枯れた音も得意だし、かと思えば最新のポップにも、透明感のあるテレキャスターの音がよく使われている。……と書いていたらテレキャスターを無性に弾きたくなったので、しばらく弾いてた。僕は一応、VOXのいいアンプを持ってはいるのだけど、音が大きすぎて殆ど使っていない。いつか真空管と、気が向けばスピーカーも交換してみて、使ってみようかと思っているのだけど。Bugera(ブゲラ)の可愛いアンプを使ってる。真空管とスピーカーを取り替えていて、アルニコ磁石を使ったジェンセンのスピーカーに換えたのはかなり良かったのだけど、JJ Electoronicの真空管は、少し音の温度が低めな気がする。エレクトロ・ハーモニクス真空管の方が、もう少しだけ温度が高くてジャンクな音がしていた気がする。今の音こそが最高にいいと感じることも多いのだけど。)テレキャスターサロードと音の性格が似ているかもしれない。アルバート・コリンズの弾くテレキャスターの音は氷のように冷たくて鋭い、と言われていて、『アイス・ピッキング』というアルバムを出しているくらいだ。そのアルバムのジャケットでは、テレキャスターを、切り出した氷に繋いでいて、氷の中で真空管が光っている。まさにそんな音だ。

3月に書いたメモ(1)

大きく息を吐く。何だっていいんだ、という超俗的で、反社会的かもしれない遺伝子が、僕の中で疼いている。僕は自由に生きていいんだ。もしかしたら、楽しく生きられるかもしれない。はみ出ててもいいし、変則的でもいい。人と人の間にある、言葉にならない優しさ。人を殺さないこと。物を盗んだりとか、悪いことをしないこと。本当のルールって、それくらいなものなんじゃないだろうか、と思う。分裂していていいんだ。僕は型に嵌まりたかった。型は、知っているに越したことはない。ギターには、みんなが一般的に使う、スタンダード・チューニングがある。スタンダード・チューニングを基本にして、ギターの技術は大体成り立っている。昔、僕は基本というものがどうしても信じられなかったので、殆ど変則チューニングにしか興味が無かった。それがいつしか、今度は変則チューニングにするのが不安になっていた。変則チューニングばかり使うソニック・ユースを聴いていると、軽く動揺したし、あまり一般的ではないギターを使っているギタリストのギターを聴くのでさえ苦痛になってきた。ホワイト・ストライプスのギターの音は、プラスチック製のギターの音なんだ、って思うと、何だか特別視してしまっていた。僕は昔、本当に型に嵌まれなくて、それは自由な思考が出来る、という意味ではなく、単に、言ってみれば頭が悪くて、自然な態度を身に付けることが異様に難しいと思っていた。基本、正しいとされていること、ルール、というものが信じられなかった。世界に、正しいことなんて、本当は何ひとつ無いんじゃないかと感じていた。よく、基本を熟知して、基本を忘れろ、と言ったり、いつも基本に立ち返るべきだ、と言われているけれど、簡単そうで、それは本当に難しい言葉だと思う。基本は要するに誰でも身に付けられることで、そこに個性は無い、と不安になる。基本から外れていると、自分を見失うし、自分が本当にまともなのかと不安になる。だから、最初はどうしても基本を軽視しがちだったり、自分に自信が無くなると、今度は基本に閉じこもって、そこから一歩も出られなくなってしまったりする。

消えていくんだ。消えていけるんだ、と思う。死や消失について考えると身体が軽くなる。世界全体が名前の無い深い森に包まれたように。ビル群は絶え間なく死んでいく。人間が死に絶えた世界を思う。電線から赤い電子の血が流れ出している。その中で灰色の僕は、死ぬことさえ出来ない。僕は死を知らない。知っていた気もするんだ。消えるなら、綺麗に消えていきたい。誰もいない空に掻き消えて行きたい。消えることは一番気持ちいいこと。僕が重量を保持し、存在していることが、苦しみの唯一の理由。文化の中で、誰も孤立出来ない。誰も、もう孤島に住むことは出来ない。

我々は宇宙に、世界に属しているのだろうか? 私たちは、地面に降り立つことができない。地面もまた、空なのだから。

生きていることは、不断に言葉と戦うことだ。自由に言葉を使うことは、自由に生きること。「壁」という一語が僕の脳で起こると、それは流れ出すことなく、腹痛のように僕の中に留まる。僕の煙った頭の中で、僕は何処にいるんだろう? 孤独。孤独とは足を持たないこと。少しずつ消えていくだけが至高。薬理作用で霞んだ頭で考える。僕が他人の中で生きていることは、他人と同じ地面に住み、他人と大抵同じものを美味しいと思い、ピントが合っていると思い合った世界で、同じ風に見えていると信じ合った世界で、「それは辛いね」とか「その服いいね」とか言い合っているだけのことで、でも、少し自分が信じている前提を疑ってみれば、本当はみんな白と黒との幽霊でしかない。思想だって前提あってのただの言葉だ。僕は、拠り所の無い言葉を書きたい。

最近、とても言葉が好きだ。言葉が長年怖かったのは何故だろう? 多分、言葉を完全に社会的ツールとして捉えてて、言葉に接するたびに社会的不安に囚われていたからだと思うんだけど、言葉にひんやりとした拡がりを感じる。ひっそりと訪れる夜の、静かな独り言みたいだと思う。膨大な数の本の並んだ書庫が欲しいと思ったりする。言葉の魅惑って何だろう? 何もかもを、出来うる限り、言葉で表現したいと思う。言葉を敵視したこともあった。言葉にしてしまうことが、世界を固定化し、狭めているのだと。でも、それは違っていた。言葉は、世界を拡げてくれる。言葉って、当たり前のように使っているから気付かないけれど、本当は何なのだか分からないものだ。分かったつもりになり過ぎていると、言葉は僕を拘束する。言葉から自由になろうと思っても、言葉は消えてくれない。完全な沈黙の中で生きるのでないかぎり、言葉を捨てたって、言葉が貧弱になって、言葉が面白くなくなって、そして生きていくことが面白くなくなるだけだ。

あくまで言葉を書くとは、言葉を書くことだ。自由に言葉を使うこと。日常的文脈に囚われずに。自由に書くこと。でも、多分、それがきっと、一番難しい。一日中、言葉と遊んでいたい。

何も要らない。身体だけあれば。身体だって本当は要らないかもしれない。

真理を知りたくて、同時に、人の心の、現代的な寂しさを感じていたい。

僕たちは皆、足場を持たない。特定の視座を持てない。

言葉は自然発生した生命のようなものではないと思う。音楽もそう。ある程度までは自然発生しただろうけれど、途中からは独立した道具として明確に意識され、論理的に人間の手が加えられ、発達してきたものだと思う。そのふたつがあるから面白いと思う。時には原始の言語で話すこと。時には洗練された現代の言葉を構築すること。混沌と調和の両方を味方とすること。

言葉ってとても限定されたことしか書けない、不自由な表現手段だ。古文なんかを読んでいるとそれが分かる。現代文は自由だと誰しも思うものかもしれないけれど、それは僕たちが現代文の中にきっちり嵌まって生きているからだ。而して現代文は自由だ。古文も自由。枠内。室内プールの中でも、私たちは大海で泳ぐように自由に游ぶことが出来る。美しい言葉。美しい音楽。それは限定の中に限界の無い宇宙があることを教えてくれる。漢詩なんて、それこそ有限個しか無い漢字を並べただけなのに、読んでいると、甘い、拡い、安らかな上古のせせらぎが、胸の内に流れ込んでくるのを感じる。僕は景色を見ても感動しない。でも景色について書かれた詩を読んで感動する。

薬理作用が程よくきまってくると、何だかこれで、何でもいいような気がしてくる。貰ったベンゾジアゼピン系の睡眠薬が100錠ほどあるので、ちびちび飲んでいる。少し過剰かもしれない。あとは音楽さえあれば完璧な世界だ。

ルールの無い世界。太古にはルールなんて無かった。宇宙は永遠に変わりはしない。変わるのは人間だけだ。

終わる。全ては終わる。

一度、言葉そのものを知りたいと思った。言葉の裏側を知りたいと思った。言葉の無い世界。音楽も絵も無かった世界。昔々のこと。それでも人は幸せだったと思う。現代は言葉に満ち溢れていて、音楽は街に途切れなく鳴っていて、家中の全ての物が、誰かによってデザインされている。僕は画集や写真集が好きだけれど、画集や写真集を見なくても、ネットサーフィンをしていれば、プロが撮った写真や、イラストがすぐさま目に入ってくるし、それに今まさに僕がお茶を飲んでいるマグも、白地にイチゴや、イチゴの葉っぱや花があしらわれていて、とても美しい。本は、本だというだけで、ひとつのアートだと思う。……人間は1万年前までは、文字を持たずに生活していた。日本では、仮名交じり文が一般的になったのは平安時代中期(900年頃)で、公的な文書が仮名交じり文で書かれたのは『古今和歌集(905年~912年頃)』が最初らしい。古今和歌集から30年後くらいに紀貫之によって書かれた『土佐日記(935年)』では、ひらがなで書くのは男らしくないと思ったのか、女が書いた、という体裁を採っている。今の日本語表記には、1120年くらいの歴史しか無い。ちなみにアルファベットが今の26文字になったのは、はっきりとした時期は定かではないけれど、大体500年ほど前のことらしい。日本語は、発音は嫌いだけれど、仮名交じり文は本当に美しいと思う。
もっと、音楽的に生きてみたいなあ。音楽は、言葉より先にあった。

言葉からリズムが失われてはいけない。それから遠くと繋がる可能性。

僕が書きたい言葉は、現代文ではないかもしれない。もちろん僕は現代人なので、現代文を書くのが自然だし、また、そうするつもりだけど、僕が文章の範とするのは、英語やフランス語の小説・詩、それから日本の古文、そしてまた、それらの訳文だ。現代文でも古いものは割と好きだ。中也の詩集は、やはり僕にとって原点にだし、多和田葉子さんの文章や、村上春樹の小説からも、とても大きな影響を受けている。多和田さんや村上春樹の小説は、まさに現在進行形の現代文だけど、既に古典の趣がある。ノーベル賞なんて、まさに、くだらない、文学からはかけ離れた場所にあるものだと思うけれど、半永久的に残る(あるいは残したい)言葉に賞が与えられるとするならば、今生きている日本人で、ノーベル文学賞を与えられそうなのは、多和田さんと村上春樹だけだと思う。僕は現代の日本語で書かれた小説ばかり、雑多に読んできて、多くの本は、今の僕の存在と分かちがたい。

真新しい本が手垢に汚れて古びていくのが好きだ。3年前に酔狂で買った『漢詩名句事典』が、今では段々好きになってきて、僕の大切な、宝物のひとつになっている。不思議なことなのだけど、自律神経がおかしくなって、暑いのか寒いのか分からず、気分が悪く冷や汗が流れるようなとき、漢詩を読むと汗がすーっと引く。お腹が軽くなってくる。どんな薬よりも漢詩が効くというのは不思議なことだ。薬が効くというのは、何となく分かる。

徒然草』で兼行は、人は40歳くらいで死ぬのがいい、と書いていた。かく言う兼行は70歳近くまで生きたらしいが。ひとつの目途として、40歳で、.357マグナム弾を5発装填出来るリヴォルヴァー(Ruger SP101)を買って、軽々と頭を撃ち抜きたい、と思っている。けれど、7年間は慌ただしく過ぎ去ってしまうだろう。人の脳髄は、そして心や魂は衰えない。知りたいのは真善美妙俗。それから、人の感情。喜怒哀楽愛悪。世界を知るのに、人を知るのに、7年では少な過ぎるだろう。50歳でも短過ぎるかもしれない。と言って、繰り返すけれど、早死にはまったく構わないんだ。早死にと言うには、もう既に長く生き過ぎた。僕は音楽と言葉を、そして世界を、人を愛している。もう少し、もっと、少しだけ、知りたい。100歳まで生きられれば、どんなに多くの勉強が出来るだろう。どんなに多くの仕事が出来て、創作が出来るだろう。人間の一生なんて短くて、浜辺の一粒の砂にも値しないのが、人のひとりの一生なのだろうけれど、それでも、生きて、仕事を通して、何かを達成することは、美しいことだと思う。自殺は、悲しいことだ。確かに世界は空虚だ。何の拠り所も無く、本当のところ、生きる意味なんてない(けれど、自殺する人は、少なくとも「死ねる」という可能性については、疑いを差し挟んでいない。自殺…死ねることを信じられることは、実は日常的な意識に根差している。本当に暗く、疑い深い心は、自分が死ぬということさえ信じられない。自殺を、苦悶からの解放だとは思えない。宇宙は苦悶に満ちていて、仮に自分が死んだとしても、苦悶の感情は消えないとしか思えない。暗い心にとって、自殺は憂鬱な時間、息苦しい眠りに就くことと、何ら変わらない)。「意味」というのは近世の発明だ。意味なんて無くていい。燃えて、そのまま死んでしまえばいいじゃないかと思う。

「意味」という言葉はいつ出来たのだろう? 万葉集を読んでいると、首を吊ったり、入水したりして死ぬ人が出てくる。いつから人類は自殺をしていたのだろう? 初めて自殺した人は誰なのだろう?

ノート

(……)
たしかに、心の底では、みんな同じなのかもしれない。もう少し浅いところに、静かな自分らしさがある。浅いところに、本当は神秘があるのかもしれない。だって、本当に普遍的な真実は、宇宙に満遍なく、当たり前に存在していて、真実と神が近しいなら、きっと、人間のつまらない個性こそが一番、神さまにとっても計り知れないものだろうから。海は美しいけどキュートじゃない。人間の身体は、ところどころで体温が違っていて、甘酸っぱいほどにキュートだ。不幸や苦しみは無くなって欲しいと同時に、無くなってしまったら寂しいような気持ちもする。それじゃまるで不幸を肯定しているみたいだけど、そうじゃなくて、不幸もまた、宇宙の星たちの中で、特に不思議な光として残るだろうし、不幸や苦しみこそが、いずれは最も希少な温度として、次の宇宙を産み出す唯一の力となるかもしれない。宇宙なんて本当は無い方がいいとしても、人間は存続を願う。存続こそが唯一の不幸の種なのだとしても、無くなって欲しくないものの存続を願う気持ちは、理不尽なくらい正しくて、もしかしたら、この宇宙で一番大きな力は、人たちの、祈りなのかもしれない。理不尽さ。愛すべきもの。神さまにはきっと理解出来ないもの。理不尽さが無ければ、きっと宇宙は死んでしまう。無が真実だというのは本当だと思う。でも、有って欲しいという気持ち。それは神にだって否定出来ない。訳の分からない愛おしさ、悲しさ。真理も何もかも内包して、しかもそれを超えるのは、結局は感情だけなんだ。理知や正しさに比べて、感情が間違っているなら、僕はずっと間違っていたい。

これから先、僕は今までの人生で一番、言葉に対して何かを感じられるようになるかも知れない。感受性が強くなる、というと大仰な感じがするのだけど、でも感受性、と言ってもいいかも知れない。長年、憂鬱で伏せっていたけれど、憂鬱を知った、というだけでも儲け物(?)かも知れない。音楽も、いろんな音楽が分かるようになってきた。分かる、というのは、聴いててすごく楽しい、という意味に於いてなんだけど。歳を取るのはいいことかも知れない。本当は、もう今頃には、長年使い込んだいい手をしているはずだったんだけど、何年もまともに指を使わなかったせいで、僕の手と指は、ふにゃふにゃしている。

15年前に谷川俊太郎の『詩集』と『谷川俊太郎詩集』と『谷川俊太郎詩集 続』という、どれも思潮社から出ている、辞書みたいに分厚い(『谷川俊太郎詩集 続』が一番分厚くて、900頁以上ある)本を買っていて、『詩集』は三度、全文を書き写したくらい好きで、もうぼろぼろの、僕が特に熟読した本のひとつなんだけど、あとの2冊は殆ど読んでなくて、ちっとも、いいと思ったことが無かった。それが、今読むと面白い。気になる本は、例え読まなくても本棚に並べておくのは、いいことかも知れない。

ただ、書く力は、全く戻ってこない。このまま、一生書けないのではないかと思うと、時々、死にたくなる。詩も書けない。散文も書けない。小説も書けない。

とてもとても個人的に生きたい。僕が僕であることを忘れたくない。病気になる前の自分を取り戻したい。疲れて、何もかもがどうでもよくなってしまいがちだ。生きることに、もう大分前から飽き飽きしているかも知れない。寂しい老人みたいに、早くお迎えが来ないかなんて思っている。僕は寂しい老人だ。優しい、貧しい、静かな気持ちになりたい。

知っている音楽だけを脳細胞に刻み込みたい。古い細胞は死んで、新しい細胞は音楽だけになる。

頭の中の7つの色。

本来の、多分、本来の、僕の厭らしい部分が戻ってきている。カラフルな音が、本当は、好き、なのかもしれない。言語的な人になることに、すごく憧れていた。モノクロの方がクールだと思っていた。実際思うのは、モノクロの方が普遍的だと思う。というのは、色には個人的な好き嫌いがあるけれど、つまり、僕の好きな色合いを、とても変だと思う人も、、、苦手だと思う人もいるけれど、例えば、赤・白・黒のモノトーンの組み合わせは、多分、好き嫌いには関係ないし、本当にずっと残り続けるのは、やっぱり色彩豊かなものじゃなくて、色合いの地味な、静かなものだと思うから。例えば、水には色がなく、それだから、誰でもそこに自分の色を投影することが出来るし、色は、網膜にはとても心地いいけれど、心の底の底の方は、モノクロであると、僕にはある程度、確信がある。自分の好きな色合い、自分の色を出すことを、かなり躊躇している。変だと思われるのが、病的と言っていいと思えるくらい、怖い。数に色を感じると思ったことは無いけれど、言葉と音楽には色と感触がある。モノクロが好きなのも本当のことだ。あまりに色に満ちている音楽や言葉は苦手で、……自分が作るものは、モノクロか、あるいはモノクロを基調にして淡い色が付いているか、あるいはくっきりとした、たまに尖った感じの、赤と白と黒で出来ていればいいな、と思う。完全なモノクロは、僕の心臓を殺してしまうかもしれない。赤は、プラスチックみたいな赤が好きで、金属的だったりラテックスみたいな赤は苦手だ。プラスチックの柔らかさが好き。僕は僕のテレキャスターの赤は好きで、ラッキーストライクの赤も好き。でも、テレキャスターの音は、有名なギターの中では、多分、一番モノクロだ。特に低音弦の灰色の氷のような音。テレキャスターがずっと人気であり続けているのは、ピックアップの切り換えや、弾き方やエフェクターによって、本来の音に、微妙な、嫌な癖の無い色合いを乗せることが出来るからだと思う。低音部から高音部にかけて、暗い水色から暖色に変化していくのも素敵だし、低音部は硬く、中音は膨らみがあって、高音には鋭さがある。ギターの中で、多分一番売れているストラトキャスターは、多彩な音が出せると思うけれど、音の感触は均一だ。エフェクターやアンプの設定次第ではどんな音でも出せるけれど、自分が出したい音を明確に意識していないと、無難にいい音しか出ない、実はとても難しいギターだと思う。テレキャスターは、デザインも、硬質さと丸みが可愛らしく融合していて、人工的で、それに比べるとストラトキャスターはまるで白い、太ったイカみたいに見える。

日本語の字面は大好きだ。英文の硬質さも好きだし、フランス語の、少し華美なところも好き。日本語の発音はずっと苦手だ。英語の音にすごく憧れてる。アニメなんかを見ていると、日本語の発音もすごく多彩でいいな、と思うけれど。会話で使われる英語は、少しぶっきらぼうに聞こえるけれど、英語の歌は個人的に、本当に完成された芸術だと思う。書き言葉としては日本語は最高だ。最近は、読書も出来るようになってきて、今月は特に日本の古典と英語の詩を読んでいる。

(……)
あまりに長い時間起きているので、目を瞑ると自分が何処にいるのか分からなくなる。今月の初日から、家の外壁の塗装やら、屋根の上の修善やらの業者の人が来ていて、朝から夕方まで、屋根の上で、ほとんど悪意を感じるくらいのけたたましい音で、ドリルで穴を空けていたり、何か金属をカンカン叩いていたり、それもずっと、和気藹々と大声で喋ったり怒ったりしながらなので、やかましいことこの上ない。窓のすぐ外に足場を作っていて、そこで何が言ったり、大きな声で笑ったり、ぶつぶつ言ったりしているのが、まるで部屋の中で喋っているように近く聞こえるし、どうしても話の内容が耳に入ってしまうので、気になるし、身の置き所もない感じで、気持ちが段々弱ってくると、二階の一室で引き籠もっている僕のことを、工事の人たちが何か不審に思っているんじゃないかと思ったりして、気の休まるときがない。ヘッドホンを付けていると、それでもかなり楽だけど、僕は昼間に眠る生活を続けていたので、日中眠くって仕方ないし、夜は習慣で目が覚めてしまって、睡眠がうまく取れずにいる。おまけに昨日は、網戸の補修をするからと言って、僕の部屋の網戸をふたつとも持って帰ってしまった。僕は煙草を吸うので、換気のためでもあるんだけど、どうも閉め切った部屋が苦手なので、真冬でも大抵、少し窓を開けている。網戸が無いと不便で、今は煙草を吸うときにだけ、開けて、すぐに閉めてる。どちらにしても、昼間の間は、窓を閉め切っていなきゃならないので、それも閉塞感があってつらい。……それでも、先月までの僕だったら、疲れ切って死にそうになっていただろうけれど、今少し元気なので、外の音に負けじとエレキギターを弾いたり、歌ったりして、たまに気を晴らしている。

日記

3月13日(土)、
……
虚無感。一日中ごろごろしていた。

 

3月14日(日)、
外国語の勉強がしたい。もっともっといい本が読みたい。日本語も、もっと習得したい。

 

3月15日(月)、
……

虚無感。生きていても仕方ないという気持ち。何にも出来なかった。

 

3月16日(火)、
今日も調子が悪かった。このところ、本当に、食べて寝る以外何にもしていない。いや、ゲームはしている。ニーア・リィンカネーションをiPodでちまちましている。とても面白い。美しいゲームだ。

 

3月17日(水)、
……

 

3月18日(木)、
……

 

3月19日(金)、
絶望的なくらい調子が悪い。

 

3月20日(土)、
やる気が出ない。情熱が湧いてこない。

 

3月21日(日)、
2、3日寝ていなくて、今日は午後の間ずっと寝ていた。

 

3月22日(月)、
夜明け前。この頃、憂鬱と怠さの中で考えていたことをメモ(『(温度)』)として書く。長い文章が書けない。

 

3月23日(火)、
夜中、少し調子がいい。

……

 

3月24日(水)、
……

 

3月25日(木)、
……

 

3月26日(金)、
自分が何者か思い出すと恥ずかしい。自然体でいることは、とても難しい。自然な自分が嫌で、今の自分を作ってきたからだ。14歳の頃からずっと死にたかったので、生きていたい自分は、自分の中で、ひどく遠くにいる気がする。13歳の頃から精神科の薬を飲んでいるので、薬なしで生きていける自分を、うまく想像出来ない。楽しいという気持ち、どきどきする感覚、情熱、達成感。何も思い出せない。外から与えられる刺激ではなく、自分で考えることや、想像することで喜びを感じたい。

 

3月27日(土)、
……

 

3月28日(日)、
……

 

3月29日(月)、
……

 

3月30日(火)、
……

 

3月31日(水)、
……

 

4月1日(木)、
人間の一生は、何て短いのだろう。僕は長い間、1960年代のイギリスに生きていたかった、と思っていた。今は60年前なんて、とても近い時期に思える。

 

4月2日(金)、
多くを感じなくていい。小さな自分を感じたい。相変わらずコーラとカップ麺と冷凍のパスタで栄養を摂っている。今朝はパスタを食べて、昼はカップヌードルを食べた。

何も感じない。何を読んでも何を聴いても、美しいとも懐かしいとも感じない。

夜はカップ焼きそばを食べた。

何にも面白く感じられない。情熱が湧いてこない。

宇宙は何故有るのか?、世界とは一体何なのか?、ということと、今生きて生活している僕は、矛盾無く統合出来るはずなんだ。人生とは壮大な旅だろう。3月の初めから、非常に停滞している。理由の分からない不安と恐怖に襲われている。一ヶ月近く、頭が働かずにいる。ずっと意識が霞みがかっていて。明日からは何か少しでも、書いたり、何かしたり出来たらいいんだけど。勉強や読書が楽しく感じられればいいのだけど。考えもちっとも纏まっていない。というかこの頃、ほとんど何も考えていなかった。頭が醒めていて欲しい。美しいことを感じたい。

メモ(温度)

顔色がぞっとするほど悪い。ここのところ殆ど書いてないし、何も読んでいないし、何も聴いていない。眠って、起きるととても憂鬱なので、あまり眠りたくない。爪が伸びている。

あまりに不規則な生活のせいか、それともろくなものを食べてないせいか、体調が悪い。コーラで栄養補給をして、カップ麺を食べている。本当は食べたくないのだけど、栄養不足で頭が重くなってくるので、仕方なく食べている。何かを書いてみても、文をうまく組み立てられないし、書いたものがいいのか悪いのか分からない。おそらく良くないのだと思う。お腹の調子はずっと悪くて、僕にしては珍しいことに、少し食べると胃が痛むし、吐き気がするので、キャベジンを飲んでいる。喋っていても、言葉が浮ついていて、声に抑揚がないのが自分でも分かるし、母と話していても、母がひどく退屈していると感じるので、すぐに部屋に戻って、ぼんやりしている。

真理よりも、古代の叡智よりも、個人的な温かさが欲しい。正しいことなんて要らない。奇跡も、神秘も宇宙も、既に存在しているものだ。数学や科学や心理学、あるいは哲学を学ぶことは、僕にとって、世界には温度が無いことを学ぶことだ。もしかしたら、数に温度を感じる人もいるのかもしれない。僕には、数は純粋で、冷たい。僕は冷たい純水には棲めないけれど、けれどある意味、世界の透明な冷たさを学ぶことは、生きることにとって、有用ではあるかもしれない。「有用さ」、道具、鋭利なナイフを身に付けるように。正しいことは正しいことで完結している。そして、正しいことは武器になり、そこに温度が無い限り、人の心の命を奪う。僕はそう思う。心の中の矛盾、人と人との間にある永遠の距離、それ故の神経質でよそよそしい優しさ、それらを、真理によって解決したいとは思わない。確固とした足場なんて、本当は存在しないんだ。真理に依存したとき、僕は僕にとって大切なものを失うと感じる。正しいことを説く人にはなりたくない。

冷たい真理を学ぶことは、ある意味では逆説的に、温かさへの渇望を取り戻すこと。正しいことを学び、そしてその正しさを捨てること。正しさや強さではなく、弱さを知りたい。理由ではなく、理由にならないこと。無意味かもしれないけれど、確かに意味があると感じること。それを知りたい。真理よりも微かな温度を。

日記

3月4日(木)、
午前2時、1時間半ほど眠った。妙な、嫌な感じのする夢を見た。

プラ(Plastic Tree)を聴いてる。……有村ってミックスヴォイスがあまり上手くないなあ、と思う。でも有村の声にはとても強い郷愁や、純粋さを感じる。僕は日本のバンド音楽はあまり、というかほぼ聴かないけれど、プラだけは長いこと、ずっと好きだ。

夜。午前中か昼に、もう少し睡眠を摂ろうと思っていたのに、考えるのが面白くて起きていた。ほとんど三日間、ずっと起きている。朝から、食欲が無くて、マンゴーの缶詰を食べただけだ。

 

3月5日(金)、
……

疲れ。憂鬱。心ここに無い感じ。

 

3月6日(土)、
憂鬱。体調の悪さ。お腹が気持ち悪いし、頭も重い。疲れを感じる。

 

3月7日(日)、
……

調子の悪い日だった。

 

3月8日(月)、
自殺のことを考えている。ずっと絶望感が巣くっているのを、見ない振りをしていても、絶望の音は、僕の精神の、ずっと通奏低音だ。その上でどんな明るい旋律が踊っても、不穏な不協和音は隠せない。

 

3月9日(火)、
……

 

3月10日(水)、
……

昨日と今日、暴力と失意の夢を見た。無知で無能とみんなに言われ、僕が暴れ回る夢だ。

 

3月11日(木)、
ここ数日あまり寝ていない。一日2時間くらいしか。起きていても気分が優れない。

 

3月12日(金)、
最近は読書が楽しめるけれど、あまり集中力は続かない。でも、段々たくさん読めるようになるだろうとは思う。今日は少し調子が良かった。またも、一昨日から寝ていない。今日、少し眠ったけれど、1時間で目が覚めてしまった。今まで考えてきたことが纏まりつつあると感じるのだけど、なかなかそれを言語化出来ない。明日は何か書くと思う。おやすみなさい。

プラスチックの破片

窮屈な寂しさ
心臓が絞り出されるような
ドラムの音に合わせて
銀色の血が体内で光るような

世界中がコードで繋がっていればいいのに
それとも私の血管がBluetooth
君の静脈に直接繋がっていればいいのに

雨を聴くと、私は雨になる
言葉が、君の天国を捕らえてくれればいい
私には、……地獄巡りしか残っていないとしても

一人きりの三階
一人きりの地上の奥
優しさの、ほとり

  一人きりでコップを眺めていると
  コップの世界が完成する

壮大な独り言
涙を身体中から流す
デスクとベッドがあればいい
この世は全部宇宙なんだから
この世は隅から隅まで
全部宇宙なんだから

  涙を世界中から流す
  世界中がcodeで繋がっている

ここは夕焼け? それとも朝焼け?
ただ枯れ葉を踏むリズムだけが聞こえる
樹々を通して街の光が見える
空気は青いような浅いような
色がして、枯れ葉を通して全てが見える

ドラムが聞こえる
ユーラシア大陸よりももっともっと北の、青い星から

  君はあるとき名前を忘れた料理を食べていた
  素材の味か、化学の味か
  おいしい、おいしい、と言いながら全部食べてしまった
  ……それってとても、私に似ている

故郷は、論理の屈折だった
人たちの会話の角を踏むとぱきぱき鳴った
クラリネットの音がブラックホールの色をして、森の中、膨らんでいくと
ギターの音がそれを裁断した

今でも私の地表には銀色の雨が降る
遠い家並みは海のよう
紙の本を漁りレコードを読む

(泣きたい
(噛みたい
(吐き出したい

夕暮れに光るビルの情景に落下して。
今、現在、眼前、この世界の星の下で、
ガラス張りの宇宙みたいに私たちは、どこまでも光のように拡がって、
とても遠くなっていく私たちは未来、
いつまでもどこまでも、未来みたいに見えるといいな。

どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも、
ポップチューンが流れ出していきますよう。
身体の震えが
止まらない、iPodを抱いて、光が止まらないうちに、
ああ、私の呼吸が君の静脈に数となって……

誰のことでも褒める君が、目を瞑って、
俯いたまま、夜に泣ける日が来ますように。
痩せた君に反発する季節の中で、
いつしか君が本当の笑みを得られますよう。

いつか私の手を握り返して。
遠い、遠い、宇宙の果ての、果て同士で。
君は、そこにいて。

君へ天国がもたらされますよう
この夜、……私に地獄しか無いとしても

メモ(断片)

「今ここ」に縛られているときと、「今ここ」に解き放たれているときがあって、「あ、関係ないんだ」と、急に気付くときがある。「今ここ」、僕がいる「今ここ」以外は、僕にとって関係ないんだと気付く。関係あると思っているのは、僕の止まらない思考だけで、僕が怖れている、不特定多数の人たちは、ここにはいない。友人たちや知人、僕に近しい、大切な人たちは、今、この夜の、遠いどこかで、きっと眠っている。ここにいる僕は、人知れず咲いている花や木と変わらない。僕は人間、動物、人形として、ここにいる。

書くのは苦しいことだろうか? 時に、それは苦しい。でも、考えてみればいい。全ては瞬き続ける粒で出来ている。あると思った瞬間、それは無い。全ては音楽。光る、音の粒。僕に出来ることは、普段、一所懸命、決めた勉強をやり続けること。技術を身に付けること。部屋を整理し、身体全体ひとつで生きること。

普段の苦しみや不安には意味があるのだと思う。不安や苦しみこそ得難いものなのだから。
全ては沈黙の中にいる。人間だけが喧噪の中にいる。
人形には感覚器官が無い。多分感情も無いだろう。それ故に人形の内面は何処までも静かで、豊かだろう。
たまには人形になってみること。あるいは石や花にでも。

ただ、石になったら、人になること。「高く悟りて、俗に帰るべし」だ。石になることが悟ることかは知らないけれど、

心を綺麗に整理せねば、と思う。いや、寧ろ、身体や物を整理しなくてはと思う。左から、右に、区画的に、綺麗に、整理する。

私は『新古今和歌集』が好きだ。それはとても記号的だからだ。今眼前にあるものや、生の感動のようなものを描いたものではない。万葉集は苦手だ。生々しいから。人が生きていて、生々しく感動するなんて、それが本気で、本心であるだけに嘘くさい。生(なま)の感動を、私は毛嫌いしているかもしれない。でも万葉集を記号として読むとけっこう面白かったりする。『古今和歌集』はどうか分からない。買った注釈書が少し良くなかったかもしれない。月は月、山はあくまで山であって、今眼前にある月ではなく、抽象的な、記号としての月を書いた感じ。それが私の体感にとても合っている。

一単語が他の一単語に溶け出していく。個物というものが本当は存在しないからこそ、私は個物が好きだ。全ての存在は溶け合っている。その中で私は個物を見いだして、それを愛す。

天国も、地獄も、本当は存在しない。ただ、指先に触れる、キーがあるだけ。全ての技術は無に帰する。無になることが出来れば、それ以上に技術は要らない。技術は常に磨いていなければならない。それだけはいつも肝に銘じていることだ。


焚き火の音がしている。いえ、それは私の頭の中で鳴っているのだろうか? 誰もいない場所で、何かを聴くというのは、不思議なことだ。聞こえているものが、まるで聞こえていないものの中間にあるみたいに思える。聴覚や視覚は、どんなに賑やかに感じられても、本当は物と同じくらい静かなのではなかろうか? 少なくとも脳の中に音は無い。

薬を飲まずに、僕は待っていた。あらゆる描写、言葉を収集することに、僕は時を費やしていた。僕は英語が出来ない。フランス語も出来ない。日本語だって怪しいものだ。でも、辞書を使ってそれらを読み解き、僕の脳に一行ごとにインプットしていくことは出来る。

僕の疑問はこうだ。仮に僕の精神に深いところがあるとすれば、そこには言葉はあるのか? 音楽はあるのか? それとも心の深層から浮かび上がる言葉? 泡のように音の粒が弾ける。(ぱち、ぱち)、私の世界を裏返してあなたに被せたい。

痛む心とか不安は何だろう? そんなもの、本当はどこにあるのだろう? 無いと言うこともまた出来ない。私はいつも私から逃げたい。それは嘘で、生きていく価値が無いのは、私ではなくて、私の人生の方だ。

パイプの音、コーヒーメーカーの音、(掃除機の音は嫌い)、洗濯機と乾燥機の音、電車の音、高速道路を車が走る音、遠いアフリカの音、お金の音、…音ってシンプルなのに鮮やかだ。

私は、ひとり、ここにいる。

何の不安も無くなって、僕の全力を出せればいい。僕の能力は分裂的で、数学的。

水の音がする。それも錯覚だろうか?

デスクと椅子
、ラップトップ
、パイプのベッド
、立ち並ぶ書庫
iPod&ヘッドホン&スピーカー
、CDプレーヤーとCD棚、、、アンプ、
、レコードプレーヤーとレコード棚
、ギター、ギターアンプ、、、ピアノ。少し大きめの絵が描きたい。

右から、左まで、世界を揃えていく。

メモ(小説についてなど)

よく人間には意識の階層がある、と言われているけれど、僕は自分の中に、大きく分けて、俗の意識と、内面的な(その一番底は無の)意識のふたつがある、と感じている。意識の底には、全くの無が拡がっている、ということが、段々本当らしく思えるようになってきた。(そこでも私は、ファズの効いたギターが鳴っていて欲しい。私はそういう人間だ。)意識の内側にいると、俗世間や、そこでの混戦した、嘔吐物みたいな悩みが、みんな錯覚みたいに感じられてくる。世俗を切り捨ててはいけない。夜の無人の遊園施設で踊るみたいに。内面(無の領域)と、世俗の両方に跨がった表現(創作)が出来ればいいと、いつも思う。音楽で私が好きなのは、ロック、エレクトロニカ、あとはジャズやクラシック、ブルース。リズム。そこには、情景と、人間の息吹とストーリーがある。そこにポップさが無ければ片手落ちだ。

僕は世俗の意識にいい加減疲れ果てて、隠遁する気でいた期間もあったのだけど、内面だけに興味を持っている間は、(その間、病気がひどくて)身体や脳が情報を受け付けない、ということもあったけど、本を読んだり、音楽を聴いたりして、一体自分に何の足しになるのだろう、と考えてもいて、今思えば、その間は、まるで自分が高尚な人間ででもあるみたいに思ってた。個人的に、ポップな音楽が聴けなくなったり、詩や小説が読めなくなると僕は危ない。内面的な救済だけを考えているとき、下手に悟りめいたものを得てしまったら、人を殺すことは、人を救うことだ、という、明らかに間違ったレトリックにもすっぽり嵌まってしまったのではないかと思う。少なくともそれを否定出来なかった。自分の内面に直接関係のありそうな本だけを読んで、瞑想状態に入るためにディープな音楽を聴いて。そうしてあくまで僕の場合は、間違いなく危険な方向に進んでしまってたと思う。

僕は小説が書きたい。でも僕は経験したことしか書けない。僕は本当に経験に乏しい。今は言葉を目一杯好きになって、分裂した数学みたいに英語とフランス語を学んで。昼の街を歩いて。夜の街を歩いて。イギリスに行って。小説はそれから書くのでもいいかもしれないと思う。

小説は「思い」だけでは書けない。「高く悟りて、俗に帰るべし」という言葉が好きで、よく書いているので、そこからの牽強付会気味だけど、小説には「軽み」が無くてはならないと思う。「軽み」は俗の中にいすぎても出来ない。「軽み」はもちろん「軽んじる」ということとは関係が無くて、……例えばそれは、現代というとても情報量の多い時代に、情報を避けたり、ネガティブに受け取るのではなく、情報の全てを前向きに受け容れて、その中を軽く泳ぐような感覚に連なると思う。感じる。現代性について、自分の立場から、あれこれ文句を言ったり、世俗の中で苦しんでいる自分(それはいつだって確かにいるものだけど)について書くのではなく、現代の現代性、世俗のこと、人たち、それらの全てが眩しいという感覚が、いつだって心の中には、確かにあると思う。刹那的に過ぎていく時間。それを完全に好意的に捉えることが出来ると思う。もちろん、小説は詩と違って、悪い人間、卑俗の固まりのような人間も出てくる。卑俗な人間は全く登場させない、という方法もあるのだけど、それでは世間について、全く偏った視点からしか描けない。悪や、苦痛、目を背けたいことについて書くこと(それは最悪なことに必ず、存在するのだから)。それはとても難しいことで、今の僕にとっての大きな課題だ。
……あと当然、技術力の問題もある。インプットが絶対的に足りない。頭の中で文字や言葉や物語が自然発生するくらいまで、情報を滅茶苦茶に取り入れなくては。

極端に言えば、人への愛情の為にだけ僕は生きているし、人からの愛情の為にだけ僕は生きている、という気さえする。人の中で死にたい。誰にも分かられなくても。

宇宙があって、宇宙の真理があって、でもそこにこの「僕」は含まれないし、「君」もまた含まれない。けれどそんな真理は、本当の真理ではない。心の宇宙にはもちろん、僕も君も含まれている。静かに、眠るように、夢見るように。

奇麗な声を出すのではなく、身体全体から声を出すこと。全身の細胞から。僕の世界全体から。

美しい言葉ではなく、僕の全てを込めた言葉が書きたい。

何にしろ、英語の習得は必須だ。英語に心を込められるようになりたい。日本語でもまだそれは難しいことだけれど。

いろいろなものを、手で撫でるのが好き。

卑俗の極みと、完全なる無の両方を知りたい。地獄と天国の両方を見たい。

何もしたくないとき、というのは、心が動かないんじゃなくて、寧ろ心が疲れているんだと思う。心は活動したがっている。