雑記8

もっとふわっと生きていたいとよく思う。ただ機械のように、キーボードをぱちぱち言わせていたい。虫が鳴いている。虫が鳴いていることは、孤独を倍加させる。秋の虫はもう死にかけている。僕はコンピューターになりたいと思うことがよくある。コンピューターはゼロの思考に浸っている。ただ雨が降っていて、雨が降っている。それだけ。ゼロ。「そこ」に何も意味付けをしない。意味付けをしないところからしか何も産まれないのではないかと思う。世界には、だって、何の意味も無いのだ。わくわくしていたい。ハイになりたい。ものすごく難しいことを考えていたい。世界に言葉を介在させること無く。しかも言葉を愛して。

人間ってとても偏っている。命に意味は無いし、私の生にも意味は無い。私は何もかもの中間領域に行きたい。常に終わりを感じていたい。終わりは、全てを含んでいるから。

青い空の味。口の中に甘く広がる。新しい音楽は好きだ。とても透明で。世界のあちら側を見せてくれる。時間を飛ばしてくれる。

暗闇の中から日常の光を見詰める。私の生はここで終わり。いつも思う。私の生はここで終わり。ピンク、青、黄色、白。カラフルな薬が私の脳を壊す。緩慢に。私は、私がいなくなる瞬間を待っている。死はとても気持ちがいい。ストーブの中で火が燃えている。日常はとても光に満ちていて、それらは配線でどこまでも繋ぎ合わされていて、宇宙はまた電波で満たされている。

今から、あと10年間くらい生きたいな、と思うときがある。何故なら今までの10年はとても辛かったから。無限みたいな10年を生きたい。毎日小さな死を体験していたい。本当は。でもまだ僕はそこまで行けない。死の領域に行けるようになってから10年くらい生きたいな、と贅沢なことを思う。

地味で美しいものだけを揃えて残しておきたいと思う。宇宙のように退屈なもの。私は、自然が嫌いだ。いや、好きなのか嫌いなのか分からない。自然は美しさに向かってはいない。音楽もまた、美しさにばかり向かっている訳ではないが、音楽には枠がある。枠があり同時に枠の外の外にまで拡がっている。12音階には相反する感情を抱いていて、それは数学的でとても美しいと同時に、音楽を非常に狭い領域に閉じ込めていると思う。歌はとても自由だ。ギターも。アフリカの音楽やインドの音楽を聴いている。それは西洋音楽とは成り立ちが違っていて、平気で14音階だとか、1オクターブを7分割したりする。アフリカの音楽にはそもそもリズムが主体で、歌の旋律なんて在って無いようなものなのも多い。

どうしても世界に入っていけないとき。ブルースの音源を聴くのは好きだ。でもブルースのミュージシャンの映像を見るのは、苦手なことが多い。彼らがいつも基本的に楽しそうだからだろうか? うまく世界に入れない。楽しそうな人たちがいっぱいいる場所にいたときの記憶は寂しい。ひとりになりたい。ひとりで大好きな音楽を聴いて、大好きな本を読んでいたかった。空気が揺れているのを感じる。空気は光の粒で満ちていて、それらの無限の連なり、無限の衝突で、空間は成り立っている。

僕の周りで物たちは、憂鬱に口を噤んで、僕には見えない方向に向かって俯いているみたいだ。僕と物たちの間には交流が無く、憂鬱さによって共有される何ものも無い。ときどき全てが幻想だったり、「空」だったり「無」だったりする方が当然のように思える。生活や物たちがあることが不思議で、妙なことだと思う。

ときどき、静寂が何よりの音楽に聞こえる。そしてまた、音楽が何よりの静寂に感じられる。

青いきらめき。青い温かさに満たされた部屋。

死ぬまでの間なのだから、時間なんていくらでもあると思う。いくら時間を無駄にしても、無駄な時間なんて一秒も無いのだ。一秒一秒は私にとって重要では無い。

人工物と一緒に死にたい。手触りとか、感覚とか、そういうものが好きだ。わずかな考えが、僕の頭の中を通り過ぎて行く。僕の頭はいつも忙しく働いていて、僕に大事なものを見せてくれない。ただ今の一秒が、生きていることの意味で満ちているといい。全ては音楽のように過ぎていく。そして音楽のように何処かに留まる。

私はとても左脳的な人間だ。難しい、複雑なこと、この世界の多次元的な座標、そういうことを考えられるとき、私はとても浮き浮きした気分になる。
恍惚の中に消えてしまいたい。

この夜が生ぬるい海水であるようなとき、私はとても生きやすい。

プラスチックの音が好きだ。子供の頃の密閉された記憶。それは決して蒸発しない。

本を感じることが好き。活字の中に心が吸い込まれて行くような。
何も知らないことの憂鬱。何も知らないことの、眠るような恍惚。何も知らないこと。ただ受け取ること。本の中には海がたゆたっている。

左右の指は快感を探し回っている。

『本』の世界。『活字』の世界。

いつも無知の地点、ゼロの地点に立ち戻ること。少年のように。

薬の瓶がとろりと光っている。僕の脳内もとろりとしていて、キーボードを打つ指だけが活発で骨張っている。読書には最適な気分。

この、わくわくする気持ちを、何に例えたらいいだろう?

僕は、昔からここにいる。僕自身を、探さなくてもいいんだ。

雑記7

ロボットに羞恥心は芽生えるのだろうか。言い間違いを検証して次の会話に備えるんじゃなくて、あんなこと言うべきではなかった、と思い悩んだりもするようになるのだろうか? 細かい間違いを嫌々引き摺りながら歩いて行くような生き方が、いつかロボットに理解出来るだろうか? 自分が生きていることが恥ずかしくて申し訳なくて、自分の存在があまりにつまらなくて死にたくなるような気持ち。
英語のテキストの表紙の青が眼に染みる。最近、英語を勉強し始めた。フランス語も。それは目的あってのことじゃなくて、単純に日本語で考えるより、英語に触れている方が楽だからだ。ひとりでいるとき。解放されていく。脳という自閉的な機械。

この街も変わっていく。僕も変わっていく。何もかも、そのままでいられるものなんて無い。今生きている自分を感じる。僕が生きていて、僕が生きてきた記憶がある。僕という存在の変えられない過去。どうやっても自然には出来なかった。それが僕の個性だとしたら、それはとても悲しいことだ。何をやっても誉められなかった。それが僕の長所なのだとしたら。

眼の前の物に言葉を与えることが出来ない。写真に撮れば僕の見ている物がひとに伝わるのではないかと思っていた。でも言葉は、多分、伝達出来ないことを通して、ひとに何かを伝えられると思う。僕は寂しくて、僕という孤独な世界から、何か、言葉や楽器を通して、ひとの世界に何かを伝えたいと思っていた。対話がしたかった。寂しさを、言葉にしたかった。僕は僕の苦しみを伝えたい?
土を見た。蟻がいなかった。蟻なんてもう世界中何処を探したっていないのかもしれない。いろいろな僕を感じる。いろいろな場所に僕はいた。たったひとりきりの世界に。そしてそれに名前を与えることが出来ない。ひとつひとつのものたちが愛おしい。空の透明度に惹き付けられるように。それぞれに名前があるのか。でもその名前は孤独な僕の世界の、僕と物との出会いを表してはくれない。内向的な方が豊かな世界を味わえるのだろうか? 「これはペンです」と言う。けれどそれで相手に伝わるペンはおそらく、僕が今持っているこのペンではない。(そして僕はこの気持ちを大事にしている。)

何も疑わないこと。ひとりで、ひとりで、ひとりきりでいること。自分のままでいないと、死ぬことも出来ない。自分という無価値な存在。でも僕にとって僕の世界は、僕の全てだった。それはとても哀しく、美しく、いつも花びらのように愛おしい世界。僕は僕じゃないものだけが生きているみたいだ。僕は集団ではない。誰も僕を理解しない。僕にも僕が分からない。僕にも誰も分からない。僕は僕の構築してきた世界。そしてここは僕じゃないもので満ちている。

僕の過去は僕の未来。僕の未来は傷ついた過去。届かない世界がいい。届かない世界についてなら描ける。(例えば、永遠に届き得ない他人について。)本当は言葉でなんか世界は構築されていない。誰も助けられないなら、言葉なんて必要ない。

お酒は要らない。僕は僕の麻薬で酔うから。僕はコーラと眠剤と煙草があればいい。何に使うでもないフォールディング・ナイフを持っている。僕は書庫が欲しい。思考はとてもカラフルだ。

どこに僕の魂はあるのだろう? 僕ひとりの世界に地名は存在しない。地名。それはまるで、魔法のスペルのように思える。

本の匂い、粘土のような。
壁は10月の雨模様。

僕は普段とても浅いところに住んでいる。

世界は透明だ。そこには本来何も無い。世界には無限の見え方がある。

音楽と本が無いと生きられない。人がいないと生きている意味が無い。

ゆっくりと回復を待つしかないんだ。人生は短い。それでも急がないこと。秋は空が高くて、温かい数字が空に浮いているような。

日記(とても個人的になれそう)

10月25日(土)、
一昨日の朝から昨日の午後まで友人が来ていた。ひたすらだらだらして煙草をひとり二箱以上も吸って、栓のない話をひたすら続けながら、明るい内はメタルをがんがん聴いたりして、夜が更けてからはヴェルヴェット・アンダーグラウンドをひたすら聴いていた。レディオヘッドニック・ドレイクなども聴いた。ビールをふたりでがぶがぶ飲んだ。のんびりしていて非常に愉快だった。

そう言えば、昨日友人がいるときにVOXのアンプが届いたので、ヴォリュームを絞って少しだけ弾いたら、素晴らしい音がした。友人も「小音量でもいい音だ」と言ってくれた。

三日前、生きられるか自信が無かったのが嘘みたいに、生きるのが楽しくなっている。

最近僕は「小人閑居して不善を為す」を地で行っていたなあ、と思った。凡人が引き籠もっていたって悪人になるだけだ(気が狂うだけだ)、という程度の意味の言葉だ。楽しいことなんて何も無い、と思っていたけれど、友人と一緒にいて、僕は本当に楽しかった。宝物のような時間を過ごせた。彼が生きていてくれる限り、僕は大丈夫だと思った。

僕には辿り着きたい場所がある。ずっと行けなかった場所。行けるかも知れないと思った。哲学を学ぶことではなく、ただ人間であることによって。理不尽な、弱い存在であることによって。ひょっとしたら、僕くらい幸運な、幸福な人間はいないかもしれない。ただ生きている、生きてきた自分を取り戻しつつあって、ただ単に僕であることが、僕には何にも代えがたい、大切なことに思える。友人とはもう26年くらいの付き合いだ。同じ団地で生まれ育ったので。でも小学校の頃は、遊び仲間ではあっても、そこまで親しい訳じゃなかった。友人と多分一番親しかった子と、僕もまたとても親しくて、でもその子を間に挟んで、僕と友人とはその頃はあまり話をしなかった。14歳のとき、フリースクールで再会してからは、僕が大学に行くまで、それから大学を一年で止めて帰ってきてからも、友人にはほぼ毎日会っていた。それで、いろんな場所に行った。僕は腕を切りまくったり、ODしまくったり、自殺未遂をしまくったり、持ち物や僕の痕跡を考え得る限り処分したり、彼の家に女の子を連れ込んだり、大体のときものすごくハイだったり、めちゃくちゃだったと思うんだけど、友人に対する尊敬みたいな心は、いっときも失ったことは無いと思う。そんな湿っぽい言葉は、一度も、彼には言わないと思うけれど、ブログにこっそり書くくらいは、多分許されることなんじゃないかな、と思って書く。何だか世界が滑らかに見える。僕は僕なんだ、って思う。僕が僕の頭の中をいくら探しても、僕は見付からなかった。僕の存在は、僕の中にではなく、僕と人との間柄の中にあるんじゃないか、とこの頃の僕らしからぬことを思って、それはつまり、彼が僕の名前を呼んでくれる、その中に、僕がいる、と思ったから。

生きているのが嬉しい。僕自身の気持ちにすとんと落ち着いている感じがする。とても個人的になれそうな気がする。

日記

10月20日(火)、
寝苦しい一夜を過ごした。気がかりな夢ばかり見た気がする。朝、11時過ぎに、もそもそ起きてきて、明太子と一切れの半分の奈良漬けでご飯を食べる。胃が硬くなってる。そろそろ髪を切りに行かないとな、と思う。もう一年くらい髪を切っていない。

夜、元気が出ない。また家で焼き肉を食べて、ビールと梅酒を飲む。

 

10月21日(水)、
何にもしたくない。

悲しくて空虚な感じが続いていたけれど、夜明け前に少し楽になる。

夜。昨日の朝からずっと起きている。夕方に病院に行って、帰ってきてコンビニのおでんを食べたらへとへとで、死にたいなと思った。懈怠感が頭の中にも身体にも溜まっていて、でも、そうか死ぬんだな、と思ったら少し気が晴れる感じがした。身辺整理をして、遺書を書いて、と考えるのも、何だか心が浮き立つ感じで。それで、もういいかな、二週間分も薬があるから、好きなだけ飲んでしまおうかな、と思って、何となくiPhoneを見たら、友人からメールが来てて、急に気が変わってしまった。何だかにまにましてしまって、俺は、そうだな、あれだな、人間が好きだな、とかこの頃の僕にしてはたいへん奇妙な考えが浮かんで、友人からの無骨な感じのメールを読み返して、もう少しだけ生きよう、とかとても変なことを考え出して、心がひどく軽くなった。心って、何て簡単な造りをしているんだろう。

ちなみに、死のうと思って少し文章を書き始めてた。↓

死のうかな、と思う。ウィルスが流行っている間は、葬式も行われないから、死後のことまで恥ずかしく思わずに済む。葬式の時に顔写真が必須みたいになったのはいつの頃からだろう? 昔見た『八月のクリスマス』という韓国の静かな映画で、主人公の写真館経営者の男が、死期を悟って、律儀にも自分の葬式のために(だと思う)自画像を淡々と撮っていたシーンが、とても印象に残っている。ルー・リードの、死ぬ直前の、おそらく自分で撮った顔写真も、死がとても穏やかであることを伝えてくれるような、それ故にもう少しだけ生きていようかと、見ていて勇気づけられるような、やわらかな、力強い表情で写っていて、後に遺った人たちが、自然に、ちょっと隣の部屋に移るだけのルー・リードを見送れるような感じの、とてもいい写真だったと思う。ただの老いぼれた爺さんになって、みんなに、少し手を振る感じで死ねればいいのにな、と思う。速やかに忘れ去られたいな、と思うし、同時に、僕のことが、あまり悲惨な思い出として、誰の胸にも残らなければいいな、と思う。

↑、ということを書いてた。人全般が好きな訳じゃ全然無いし、そもそも人間一般のことなんて何のことやら分からないけれど、僕にはそういや好きな音楽家もいるし、好きな詩人も、作家もいる。これまで会ったことがなくても好きな人がいるし、もう会わないかもしれないけど好きな人がいる。という異様に前向きな気持ち。愛情とか、そういうものじゃないと思う。もっと、自分勝手な感情だと思う。僕が生きていて、好きな人たちが生きていて(あるいは死んでいて)、僕がたまたま生きているこの宇宙がとても好きだ、という感触。

宇宙の真理を知りたい、という気持ちもある。そして同時に中也が好きな気持ちも、ニック・ドレイクがすごく好きな気持ちもあって、そして生きていることの一秒一秒が、親しみに満ちている感覚もあって、でもそういう気持ちや感覚は、僕はすぐ忘れてしまう。

でも、やっぱり自信は無いんだ。僕は、生きていけるのだろうか?

生きていけるのかな。

日記

10月15日(木)、
朝、少しベッドに横になっても、浅い眠りしか訪れない。昨日からほとんど眠れずに、起きて、音楽を聴いている。

 

10月16日(金)、
……

ずっとぼんやりしていた。

 

10月17日(土)、
ミンガスの音楽が、やっぱり美しい。

未明(AM3:30)、やや憂鬱。でも、不安じゃないし、集中力は少し戻ってきた。

朝、うまく眠れなかった。辛い気分でいる。

昼、何もかもが大儀で億劫だ。

少しのことで動揺してしまう。Marshallのアンプがどうにも使いにくいので、半日迷って、前から欲しかったVOXのアンプを注文した。白くて格好いい。でも、ちょうど同じ時間に、少し早く注文した人がいて、品切れになりました、とメールが来た。それでとても地に足が付かないような状態になって、薬を、明日の分まで飲んでしまった。

午後6時前くらいからか、ネットが止まっていた。この頃ネットは殆ど見ないので、その点では何も困らないのだけど、iPodの整理をしようと思っていたところだったので、例えば、iPodでダウンロードしたアルバムって、よく発売年の表記が間違っているので、それを直そうと思っていたのだけど、ネットが使えないとiTunesで表記を直しても、iPodに反映されないし、それに発売年は、ネットで調べないと、正確には分からないことが多い。うまく行かないなあ、と思って、また少し精神が散漫になった。

夜、昨日から寝ていない。そして今日、何をするでもなく、ずっとミンガスを聴いていた。

 

10月18日(日)、
今日も何もしなかった。抑鬱状態と空虚感。何も楽しくない。詩のようなものを書いては消す。

 

10月19日(月)、
眠ろう眠ろう、と思いながら、結局朝まで起きていた。

楽器屋さんからメールが来てて、VOXの白いアンプは取り寄せでも手に入らないとのこと。白いアンプが赤いギターと合ってて、すごく美しい組み合わせになると思っていたのに、残念だ。白が無いなら、これもまた限定カラーの、真っ黒のにしようと思って、また半日くらい迷って、Amazonで注文した。最後の一台だったけど、今回はちゃんと買えたようだ。黒もなかなか可愛い。白よりいいかもしれない。

外に出ると緊張するし、何もうまく喋れない。とても疲れていて、顔色がおそろしく悪いのが分かる。手が土気色をしている。部屋の中に引き籠もっているときだけ、あるときには強気になれる。元気が無いと、外に出るのがとても辛い。

家に帰ってきて、最後の安定剤を飲む。これでもう、明後日の通院日まで薬が無い。

憂鬱だし卑屈だけれど、読書は不思議に楽しい。ここ数年間に買った100冊くらいの本は、一応全部読んだのだけれど、面白いと思えた試しが一度も無かった。今は、ちらりと目を通すだけで面白い。どうやって読めばつまらなく読めるのか分からない。つまらなく読んでみようと、出来るだけ意識を虚ろにしてみようと思うのだけど、読むと自動的に面白い。読書を毎日続けていれば、書けるようになる時もそう遠くないかもしれない。昔、僕は本がつまらない、とか、読書をしない、と言う人の気持ちが分からなかった。今は、嫌というほど分かる。読書は、一度楽しくなると、生活の一部になる。最近……一ヶ月前にミンガスを聴いてからだと思う……音楽もまた、僕の生活に欠かせないものになっている。脳が回復してきているのだろうか? 内気になるのも大変だ。精神が本当に弱ると、孤独にさえなれない。読書は、唯一、目が覚めたままで夢を見られる方法かもしれない。……村上春樹が、習慣的に読書をする人は10人に1人くらいで、その割合は昔も今も未来的にも変わらないだろう、ということを書いていたと思う。読書をしたいのに、出来ない、という人も一定数いると思う。どれくらいの割合かは分からないけれど。もともと体質的に、読書なんか必要としない人も、かなりの割合でいると思う。本か音楽、あるいはその両方が無ければ呼吸が出来ない人もいるだろうし、それなのに本や音楽を身体が受け付けなくなったせいで、呼吸が出来ないままの生を余儀なくされている人もいると思う。僕は、言葉と音楽が無いと生きられない。と、言いつつ、言葉と音楽を拒絶したまま、もしくは拒絶されたまま、けっこう長いこと生きては来られた。魂が窒息したって、身体が死にはしない。僕にはあと、書くことが無いと生きられない、と思う。心の奥の奥が暗闇に閉ざされて冷えたままだ。活字が少しずつ眼の底から心の底に沈んで、僕の心の中心の熱量を少しずつ上げてくれるだろう。心が発火して、脳がショートして、言語が弾けるまで。ブログを読み返してみると、一年前より、僕は大分良くなっている、と自分では思う。書いた言葉は、辛いときの、そのときは自覚できない辛さまで、新鮮に保ってくれている。僕は内向的になれるだろう。ついこの間まで、部屋にいることさえ不安だった気がする。何かの気配(具体的ではない。父や母が部屋に入ってくることも確かに恐れてはいたけれど)にずっと怯えていた。今は、孤独になれるようになってきた。ひとりの時間。とても馴染み深い。このまま、音楽と言葉に浸り続けることの不安はあるけれど、少しの間はそのことも免除されていて欲しいな。特に自分の自責の念から。父は見守っていてくれるし、母は読書が好きで、小説を書きたいとこの頃言っている。母とよく小説の話をするけれど、これからは僕は、心から好きな本について話せそうな気がする。このまま、活字との親密な距離が続いていてくれればいいけれど。僕は非常に幸福な人間だと、今は感じる。

不眠と抑鬱は相変わらずで、疲労感も常にある。けれど、死のうとは思わない。昨日まで、いや、今日の昼まで、死にたい気持ちはあったのだけど。外はやっぱり怖い。VOXのアンプが届くのが楽しみだ。

日記

10月13日(火)、
何度も聴いている内に、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番が大好きになった。

夜中、アコースティック・ギターの弦を張り替えた。所要時間は25分。けっこうかかってる。10分くらいで交換できたらいいんだけど。
Martinの、1930年代の弦を現代風にアレンジした、という一風変わった弦を張った。モネルという聞いたことの無い金属を使っているらしい。1930年代のブルースの、枯れた、乾いた音を想像していたのだけど、びっくりするほど澄んで瑞々しい音が出て、すごくいい意味で期待を裏切られた。この弦はとてもいい。最初から落ち着いた音色だし、低音は金属音が抑えられてて、高音は透き通るような、今まで聴いたことが無いほど抜けのいい音がする。それから、一音弾いたときに他の弦が共鳴する音が、とても美しい。全然濁りの無い音。全然変わり種の弦じゃないと思った。これまで何種類か弦を試した中で、今のところ一番気に入った。値段が少し高めなのが難だけど、サウンドハウスのレビューには、弦が古くなるとまた違う音色が楽しめる、と書いている人もいた。長く使えるといいんだけど。まめにクリーナーを使って弦を拭こう。昔の弦、というと、押さえづらくて、硬い音、というイメージがあったのだけど、正反対だった。たまたま、僕のギターに合っているだけかもしれないのだけど。お勧めです。

iPodの中の曲が13000曲にまで増えている。節操が無い。

感じる心身が欲しい。大分音楽と言葉を感じられるようになってきた。

何もかも悪くなって、この身体、この僕なんて早く死ねばいいと思う。思ってしまう。
気分の落ち込みは相変わらず。

夜、また外で焼き肉をする予定だったのだけど、風が吹いていたので、家の中でホットプレートで肉を焼いて食べた。七輪で焼くほどじゃないけれど、美味しかった。

 

10月14日(水)、
抑鬱感が続いている。静かに静かに過ごしていたい。

生きることが無意味に思えて仕方が無い。無意味の何処から意味が出てくるのだろう? 何も感じない。

静かな静かな、石のような暇。静脈。

アンドラーシュ・シフの弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番がとてもいい。ずっと苦手な曲だったけれど、今はベートーヴェンの曲の中でも最高に好きな曲のひとつだ。それからやっぱりシューベルトのピアノ・ソナタ第21番が好きだ。このふたつの曲は、最近のアンドラーシュ・シフの主要なレパートリーになっているみたいで、両方を通して弾いているコンサートの動画があった。2年前のコンサートらしい。↓


András Schiff plays Schubert and Beethoven at the Foundation Louis Vuitton

ベーゼンドルファーのピアノを選んでいるところもとても好きだ。

とは言っても、コンサートやコンサートの録音よりは、やっぱりスタジオ録音の方が、何というか、形而上的な楽しみ方が出来て好きだな。つまりそこに人間の生身の肉体を感じない、という方が好きだ。……人が弾いている、と思うと、間違えるんじゃないかと緊張してしまうし、それに、うまくパフォーマンスの空気に入れなくて、自分がここにいるのが場違いなような感じがしてしまう。

ベートーヴェン弦楽四重奏をずっとアルバン・ベルク・カルテットの演奏で聴いていたのだけど、何かが違うような気がして、次に伝説的なカルテットである、ブッシュ・カルテットで聴いてみたのだけど、演奏が少しばかり古くて、多分素晴らしい演奏なのだろうけれど、聞きづらいので、他にいいカルテットは無いか、探してみた。いろいろ聴いてみたけれど、まだ僕はそんなにカルテットの演奏の良し悪しが分からないので、取り敢えず何となく気に入ったエマーソン弦楽四重奏団を聴いてみることにした。

音楽はとてもいい。けれど、他に何もする気が起こらない。ヘッドホンを外すと、生きていることが無意味だという気持ちがどっと湧いてくる。でも、ベートーヴェンの音楽は、とても、とても美しい。

日記

10月7日(水)、
昨日の朝からずっと起きている。すごく神経質になっている気がする。でも長年のノイローゼは昨日と今日で脱したのではないか、という気がする。予感というか。

 

10月8日(木)、
朝、9時に起きる。昨夜は大分早く寝た。

一日中、何もせずにぼーっとしていた。抑鬱感がひどい。

 

10月9日(金)、
昨日からずっと寝ていて、今朝3時頃に起きる。

正午、朝から何も出来ていない。ひたすら音楽を聴いている。主にバッハとベートーヴェンピアノ曲ベートーヴェン交響曲や協奏曲にはまだ馴染めないけれど、聴いてみている。聴いている内に、いろんなクラシックの曲に親しみを感じるようになってきた。

午後3時、シューベルトを聴いている。初期から晩年までのピアノ・ソナタ。晩年と言っても31歳で死んでいるので、シューベルトの活動期間は主に12年間だけらしい。12年間才能を発揮できたら、十分な仕事が出来るだろうけれど。

いろいろなクラシックの作曲家を聴いてはみたけれど、基本的には僕は、今はバッハとベートーヴェンシューベルトばかり聴いている。ベートーヴェンシューベルトって、シューベルトの方が大分後の人かと思っていたら、ベートーヴェンが亡くなった翌年にシューベルトが亡くなっているんだ。

午後8時半、憂鬱だ。何をどうしても軽い憂鬱が晴れない。

 

10月10日(土)、
今日も頭があまり働かなかった。抑鬱感は幾分まし。

iPodの中身がまた12500曲にもなっていた。半年くらい前に15000曲近くになっていて、煩雑なので、たしか3ヶ月くらい前には8000曲くらいまで減らしたはずなのだけど。気になったらどんどんダウンロードしてしまう。

頭を悩ませるいろいろのこと。

憂鬱は憂鬱だけれど、3、4日前から、世界の見方が変わった気がする。どう変わったか、まだうまく言葉に出来ない。数日間、言葉がまともに出てこない。ベートーヴェンかバッハを聴いているときに、ふと音楽は音楽の世界として独立している、と感じて、現実とは何だろう?、ととても不思議な気分になった。音楽の世界にとても深く入れるようになったのは、19日前にミンガスを聴き始めてからだ。

 

10月11日(日)、
音楽には音楽の現実があると数日前に感じた。音楽の現実から見ると、いつも見ている現実は架空だ。

一日中、憂鬱で動けなかった。大抵ベッドの上にいて、本を開いては閉じ、ノートにメモ書きをして過ごした。

 

10月12日(月)、
それにしてもチャールズ・ミンガスはどうしてこんなに素晴らしいのだろう。『Charles Mingus Presents Charles Mingus』というアルバムは、たった4人(ベース、ドラム、サックス、トランペット)で演奏しているのに、ミンガスの深い世界観が余すことなく表現されていると感じる。美しい。

またもや一日中憂鬱だった。どうしたことだろう?

雑記4

学校の白い帰り道を思う。

柔らかい、遠い、憧れ。詩にはずっと憧れている。言葉にずっと、届かない愛情を抱いている。

焼却場が好きだ。形あるものが崩れて塵となることに限りない愛おしさを感じる。大量のゴミをかき混ぜる、巨大なUFOキャッチャーのようなものを操縦する人になりたい。

自分なんてものは幻想なのだから、全部軽く捨ててしまえばいい。

自分が把握できる物だけを暫定的に所有すること。

僕は「何が出来るか」「結果として何が創れるか」ということに関してはあまり興味が無いのかもしれない。もちろん、全然興味が無い訳じゃない。でも、自分が無になる過程の方が好きだ。自分が無になったときにだけ、僕は本当に何かが出来るし、何かが創れるような気がする。

僕は、精神が健康であるときには、何かをじろじろみたり、疑ってみたりすることを一切やめてしまうし、何がどうあっても、ただ生きているだけでいい、ということが自明のことに思える。不信感や不安について、書く必要が無くなってしまう。

哲学書は、僕が本格的に病む前には、大学生の時に西田幾多郎の『善の研究』を読んだ程度だろうか。純粋持続が最上の時間だ、ということを西田さんは言っていて、その比喩として、熟練した演奏家の境地を挙げていたので、それなら哲学をやるより、文学や音楽を一生懸命やった方がいいなと思った。子供っぽい考えなのかな?

普遍的に美しい音楽なんて無いと思う。バッハの音楽だって、普遍的に美しいのではなく、バッハの個性が美しいのだと思う。そしてその個性は、音楽の世界の中にあるのであって、彼の伝記の中にあるのではない。

僕は求道者であるよりは、感傷家であると思う。

演奏の中に僕が消えていく。その瞬間がたまらなく好きだ。

精神の調子が悪いとき、頭が重いときに無理に考えごとをしていると、人間であることがつまらなくなってくる。大層なことを考えているつもりで、厭世的になってくる。段々眼の前のものが見えなくなってくる。音楽を聴けない(聴いても楽しくない)ときや、本を読んでも面白くないときは、大体碌なことが考えられない。音楽も本も人間が作ったもので、人間が作ったものに限りない愛着を覚えるときには、精神は健康だと思うのだけど、そうじゃないときは、まず殆どの場合、休んだ方がいいと思う。

声は素敵な楽器だと思う。自分に手と声が与えられていることは、本当に本当に有り難いことだ。手は楽器そのものではないけれど、楽器に命を与えられる。手を使って、書くことも出来る。書くこともまた演奏だ。道具、例えばギターやピアノや、キーボードやペンは、身体を拡張する。自由になれるし、泳げる。道具は、ある程度以上熟達しなければ、持つと逆に不自由なものだ。自由を感じられる程度に、道具をしっかりと身に着けること。しっかりと手入れしておくこと。

自分が最終的に天国に行くのか、地獄に行くのか、そんなことは知らない。今出来ることを精一杯やること。ただそれだけだ。

数日間、死について考えている。僕は何故、眼に見えるものや、価値や情報なんかに気分を左右されるのだろう?

ビートルズは世界だ。それからヴェルヴェット・アンダーグラウンドも世界だ。ニック・ドレイクは世界というよりは風景だろうか。木陰でギターを弾く、美しい指を持った、長身の青年。

本を読むこと。静かで、どきどきする、遠い感情。

ミンガスも、本当に素晴らしい、ミンガスの世界。

感じること。世界に入っていくこと。

快感の発作が起こるたびに記憶が消える。私は世界に没入していく。それだけでいい。

私は軽い軽い軽い存在。重い重い重い存在。重力のミックス。

全ての人にヘッドホンと、光と音に満ちたサウンドルームがあるべきだ。(そうすれば争いなんて無くなる。)

欠落を愛情として。

感じる、って一体何だろう?、とよく考える。静かな気持ちって一体何だろう?、とよく考える。それは、脳の作用? 違うと思う。何故か、僕は脳が気持ちの出所、と言う考えにずっと抵抗を感じている。

アニー・フィッシャーのピアノは、聴きやすい方ではないと思うんだけど、聴いていると彼女の息吹に触れられそうな気がする。

風と雲とが産み出す音。

日本語と英語とフランス語で、脳の使う場所(世界)が違う。

疲れたらすぐに仮眠をとること。

世界を整然と整理していく。

文学も音楽も、細かな点に拘ることが大切だ。

様々な見方。音楽の世界、としての世界の見方。あるいは経済的。あるいは感情的。あるいは数学の世界、としての世界。ひとつの事象に対しても、多次元的な、多分無限の見方がある。けれど、人間は多分まだ、有限の、数えられるほどの、世界の見方しか手に入れていないし、普通僕が生きているのは、人の感情や、感情的な言葉に色塗られた世界だ。言葉の世界は、言葉の世界で、独立している、と思う。「生活世界」は、何て複雑なんだろう、と思う。音楽の世界は純粋だ。数学の世界も(僕はそこには入ったことがないけれど)おそらくとても純粋。いろいろな純粋な世界、あるいは世界の見方があって、言葉の世界だって、本来はとても純粋。言葉は、いろいろな次元の世界(あるいは世界の見方)を統合することが出来る。そういう言葉の使い方は、とても楽しい。人の思惑や、疑念や嫌らしさを言葉にするのではなく。

生活世界も、決して悪いものではないんだと思う。ただそこが世界の全てだと思ってしまうと、世界は無限に窮屈になってしまう。世界には幾つかの(原理的には無限だけれど、少なくとも今現在の人間にとっては有限の、幾つかの)見方があって、全く同じ事柄であっても、幾つかの見方(多層的もしくは多次元的な見方)があって、それぞれの見方の中で、さらにいろいろな考え方がある。ひとつの見方とひとつの考え方だけだと、ひとつの事柄はただのひとつの、固定された(つまらない)事実としてしか見られない。いろいろな考え方が出来ると、世界は平面的な拡がりを持つけれど、幾つかの見方を持つとき、世界はとても立体的か、それ以上の次元のものとなる。多くの次元を持つ空間の中を、行き来し、泳ぎ、そしてそれらを繋ぎ合わせることが、僕の感情(あるいは僕の脳)には出来る。多次元的な世界を統合し、それを表現することが言語的な創造なのではないかと思う。表現手段は何でもいいけれど、僕にとっては、言葉が一番面白い。様々な次元・要素を縦横無尽に、自由に繋ぐことが出来るからだ。総合アートとしての言葉。本には、ひとつの、多次元的な世界が含まれている。僕は本(特に文学)が本当に好きだ。

幾つかの世界の見方。幾つかの世界がある。全部で幾つあるのかは分からない。経済的な見方(世界)もあるだろうし、生活的・常識的な見方(世界)もあるだろう。音楽の世界は実在することを、この間初めて実感して、僕は世界の多次元性について考えるようになった。「音楽の世界」は存在していて、そこはとても純粋だ。数学の世界もあると思う。チェスの世界だってやはりあると思うんだ。チェスの世界は将棋の世界とは、また違うだろう。世界には、いろんな見方がある。いろんな世界がある。

僕はいくつかの要素を取り入れた表現をしたいのかもしれない。言葉もそうだし、音楽も例えば、レコードとして創作する場合、アートワークも非常に大事になってくるし、ヴォーカルの入った音楽なら、文学的要素も非常に重要だ。音楽もまた、総合的なアートたり得る。音楽自体にもともと、楽譜に書かれた情報(旋律、和音、リズム)と共に音色(楽器の選択)や演奏、などと言った、幾つかの要素が含まれている。コンピューターを使ったり、偶然性を取り入れたりも出来るし、実験音楽や、前衛的な即興演奏もある。ライヴやレコーディングの過程でも、多くの要素が絡んでくる。

世界そのものがひとつの多次元的なアートなのだ、という見方もあると思う。数学は数学の世界で完結していて、それは素晴らしいことだし、さっき言ったこととは違うみたいだけれど、音楽は音楽の世界として、言葉は言葉の世界として、それぞれ閉じている。それぞれが全く違う次元にある、全く別の世界だ、と言い切ることも出来る。しかもなおかつ、それらは全て同じ世界にある。

雑記6

マイルズ・デイヴィスジョン・コルトレーンのラスト・ツアー(1960年)の音源を聴いている。マイルズの演奏はいつも通り味があって素晴らしいのだけど、コルトレーンの演奏が神がかっている。実際、コルトレーンは、1957年の7月、30歳のときに神の啓示を受けたらしいんだけど、その前後では、別人のように演奏の質が違う。啓示を受ける前に、マイルズと録音した『リラクシン』もたいへんな名盤で、僕は大好きなのだけど、一曲目から、コルトレーンの演奏は迷っているようで、あんまり良くないと思う。人間味があってなかなかいいんだけど。『リラクシン』を含めた4枚(他は『クッキン』『ワーキン』『スティーミン』)は、啓示を受ける前のコルトレーンの堪能出来て、今聴くと啓示を受ける前から、コルトレーンは十分に良いプレーヤーであることが分かる。けどやはり演奏には波がある、と感じる。昔はサックスの演奏なんてどれも同じに聞こえてたんだけど、今は、いい演奏はいい演奏だと、まあまあ分かる。いい音楽を聴いているといい音楽が分かるようになる、とは言えないだろうけれど、いろいろ聴いていていると、今まで分からなかった音楽が分かる(というか楽しめる)ようになってくるみたいだ。それは本当に嬉しいこと。歳を取るのもいいことだな、と思う。僕は10歳にもなってからやっと音楽ばかりを聴くようになって、特に20歳頃からは、意識して、分からない音楽でも、積極的に聴くようになった。その後23歳から8、9年ほど、音楽がほぼ全く聴けない期間を挟んで、32歳からぼちぼち聴けるようになって、やっとここ1ヶ月ほど、また昔のように音楽にどっぷりと嵌まり始めた。いい音楽が分かるようになった、というよりは、自分の好きな音楽が急速に分かるようになってきてる、という感じがする。音楽の世界に深く入るには、ひとつひとつの音楽に集中して、意識的に聴くのがいいと思うし、多分、意識的に音楽の幅を拡げていくことも大切だと思う。いきなりクラシックを聴いて感動できる人は、おそらくあまりいないと思う。取り敢えず聴いてみている内に、段々クラシックの面白さが分かるようになってくるのが普通だと思う。

僕は軽い軽い存在になりたい。ボブ・ディランジョン・レノンのようなハイ・バリトンで歌いたい。美しい、内向的な低音域(D2~B3のあたり)と、豊かな中音域(C4~A4のあたり)で歌いたい。中音域は、狭い音域だけど、ヴォーカルの個性が一番出やすいと思う。ボブ・ディランの歌唱法を意識すると割と全ての音域をすんなり歌える。低音域で美しく歌うことは難しくて、低音域が魅力のあるヴォーカリストが、やはり優れたヴォーカリストだと思う。僕は物憂い、ブルーな低音で、いつか歌えたらいいと思う。高音域(B4~F#5の辺り)は基本的に、僕はファルセットかシャウトでしか歌えない(この音域を楽に歌える歌手もたくさん存在する)。G5以上になると急に、声帯に無理がかかるので、多分滅多に使わないし、A5以上は無理した裏声でも出ない(つまりTKの歌はどんなにがんばっても歌えない)。けれど、これは僕の才能だと思うのだけど、シャウトでだとF6(『夜の女王のアリア』の最高音)くらいまで出せる。アクセントとして使うのはいいかもしれない。低音だとD2が、僕が無理なく歌える最低音だけど、まあ、これ以上低い声を要求される曲は、滅多に存在しないし、ちょうどギターをドロップDチューニングにしたときの最低音と同じ音程なので、ギターとの相性もいいと思う。(ちなみにRadioheadの歌の最低音はE2(『I Will』)で、これは普通のチューニングのギターの最低音と同じ音程。)C2の音も出るけれど、かなり喉の調子がいいとき以外は、多分、マイクがほとんど拾わないくらいの、小さな声しか出ない。ニック・ドレイクの『ピンク・ムーン』の最低音がD2で、ただしニックはほとんど発声できていない。僕はそれ以下の音もG1くらいまでは出せなくはない。ただし、殆どノイズ音みたいな声しか出ない。ジョン・レノンの(録音での)ヴォーカルでの最低音はB1だと言われていて、これは相当低い。ポールの最低音はA1とさらに低いのだけど、これも囁き声のような感じ。クラシックのバス歌手には、天性なのか、練習の成果なのか、G1という常人にはとても音にならない声を、浪々と歌える人も存在するらしい。驚異的だ。

僕はギターを弾いていたいし、ピアノを弾いていたい。歌っていたい。コントラバスは弾けたらいいなあ。チェロにも憧れ続けるだろう。サックスも吹けたらいいなと思う。トランペットは、聴くのは大好きだけど、多分吹かないと思う。いろんな楽器に憧れている。

そこにある具体的なものに対して、抽象的な言葉しか使えない、とはどういうことだろう?

欠落を持病として生きていくしかないんだ。欠落も含めて、完全な僕なのだから。

哲学書を読んでも哲学は分からないのかもしれない。小説や、詩を読む方がいいと思う。

それにしても東プレの変荷重のキーボードはいい。最初使ったときには感触に慣れなくて、処分するつもりで2年間放置していたのだけど、慣れると今までのキーボードの中で一番自由にキーを叩ける。3000万回叩いても壊れない、というけれど、本当だろうか? 昔使っていた安いキーボードは1年も使うと壊れてた。3000万回だと、一日20000回叩くとしても1500日、4年以上も保つ。新しいモデルが欲しいから、もっと早く壊れてもいいんだけど。

たくさん書いていたらタイピングが速くなるかなと思っていたんだけど、半年ほど、全然速くなっていない。『寿司打』の最速記録は5ヶ月間更新されないままだ。精神があるモードに入ると、すごく速くなるんだけど。僕は何としても、10年前の自分より高い能力を手に入れたいのだけど、ここ数年間でタイピング速度がおそろしく遅くなっていて、今やっと、一番速いときの80%ほどの速度でキーが打てる程度だ。『寿司打』で1000回打てるまでは、自信は完全に回復されないのかな? そうでもない気もするけど。ともかく書きたいことに指が付いていかないのが、とてももどかしい。

光に満ちて、光に溶け合う。それが世界だ。

今日が最後の日だと思って生きること。

どう精一杯やっても出来ないこと。それが僕の個性だ。

誉められないところ。それが僕の長所だ。

狭く、深い道を行くこと。

世界を整然と整理していく。眼が悪くなっても、耳が悪くなってもいい。私は40歳までには死んでもいいから。でも、今のこの浅い感情のままでは死にたくはない。死ぬこと自体は全然嫌なことではないけれど。(「生きていたい」という不思議な気持ち。)

生活の世界に嵌まってはいけない。世界は宇宙だ。

宇宙には拡がりなんて無い。言葉と音楽が宇宙だ。

ボブ・ディランが弾くアコースティック・ギターも最近とても好きだ。おそらくGibsonのJ-45の音。ジョン・レノンの弾くGibsonのJ-160eの音もかなり好きだ。そもそもギターの音が大好きになったきっかけがジョンの弾くJ-160eの音だ。それからジョンの弾くエレキギター(主にエピフォン・カジノ)もものすごく格好いい。

僕は軽い軽い存在になりたい。ボブ・ディランジョン・レノンのようなハイ・バリトンで歌いたい。ボブ・ディランの、特に初期のアルバム(4枚…特に最初の1枚を除く3枚)は、ディランのアコースティック・ギターによる弾き語りが主体で、とても地味だと思っていた。でも今は、ディランの弾くギターに陶酔感さえ覚える。おそらく全てGibsonのJ-45の音。それからエレキギターを導入してからのディランの弾く、主にストラトキャスターによるリズム・ギターもとても好きだ。ディランを聴いていると、ディランの声と歌詞と、ディランの弾くギターだけで、他には何も要らないような気がしてくる。

この頃、ブログには音楽のことばかり上げているけれど、もっとずっと抽象的なこと、例えば自分の世界観についてのことも同じくらい書いてる。ただ、「自分の考え」というものに、今、とても疑いを抱いている。多分、英語を勉強し始めたからだと思うのだけど、当たり前だけど、英語だと世界についても、自分についても、殆ど考えられない。失語症のようになる。そしてその失語が気持ちいい。日本語だと、自分で考えているつもりで、実は見知った言葉をうまく並べているだけじゃないかと思ってしまう。僕にとって日本語には嫌な感情がべったり染みついていて、日本語で考えている(と思っている)限り、慣れた、暗い思考のループから逃れることは難しいのではないか、と思う。自分にとって、慣れた言葉を並べ立てている限り、散文も、詩も、まともには、本当は書けないんじゃないか、と思う。頭の中は、本当は言葉よりずっと自由だ。(数日経って、日本語を使うことが良くないとは全く思わなくなった。)

エイプリルに(2)

薬を噛んで、私はこの身体から流れ出していく。
助けなら何でも良かった。
別にあなたじゃなくても良かった。
でも、薬も効かなくなって、音楽も鳴らなくなったとき、
あなたは、私にきっと会いに来てくれる。

全てが私を悪化させる。
新しい音楽が必要だ。
「生」とか「死」とかって、本当、大したことじゃないんだよ。

赤いピアノでレの音を弾く。
白い鳥が降りてきて私の肩に止まる。
多くの季節が溜まったままの私の身体。

世界は、
多面的と言うより多次元的。
あるいは口に触れる全てが世界。
あるいは世界はアップル社に買い取られた。
あるいは私は全ての木々に弦を張って歩く。
あるいは私の中に君がいて、君の中に私がいる。
「愛」とは星の裏で、裁縫遊びをする子供たち。

  二時半に起きる。
  ベルが鳴る。
  エイプリルはクラックの世界から、
  車輪のゴムチューブみたいに起き出してくる。

  ジューサーから顔を上げると、
  赤い雲が窓の外を、
  膨らんだ傷口みたいに横切っていく。
  食器棚の中で皿が回り始めて、
  僕は画面のこちら側で、
  彼女の涙を無感情に数えている。

世界は明るい過去。
ガラスの中で宇宙を見ている。
本当、死とか生とか大したことじゃないんだよ。
神さまだけが知っていて、私は知らないこと。
私の左脳の中には図書館があって、
その頁の狭間にあなたはいる。

言葉とは手付かずの屋上。
その鎖にあなたは跨がって、何度も何度も何度も何度も飛び降りようとする。

授業中に失神して、私は外にいた。
空の中で私の身体は砂だった。

音楽を壁に貼る。
それが世界中の牢獄を水浸しにしてくれるよう祈る。
薬が切れかけてきて、何も良くなくて、
私は何度もあなたの肩を揺すぶろうと
願う。

世界なんて切れ端でいいから。

  夜が増える。
  夜が増える。

夜が増えていく。