(最近、気持ちにあまり余裕がありません。何かとても急いでいるような気がしています。)
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「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐうべき物もなく、うき世のものとも思われず」(本居宣長『玉かつま』)
最近、本居宣長が大好きだ。二年前に小林秀雄の『本居宣長』を新潮文庫で読んだときはまだ「ふーん」って感じだったんだけど。
僕はどちらかと言うと井筒俊彦さんの東洋哲学の本に嵌まっていて、全てが空とか無だとか、この世には本当には何も無いのだ、という考えを、すごく格好いいと思っていたので、宣長の言う、「たとえば、うれしかるべき事にあいて、うれしく思うは、そのうれしかるべき事の心をわきまえる故にうれしき也。又かなしかるべき事にあいて、かなしく思うは、そのかなしかるべきことの心をわきまえしる故にかなしき也。されば事にふれて、そのうれしくかなしき心のわきまえしるを、物のあわれをしるという也」とか、「たとえば、めでたき花を見、さやかなる月にむかいて、あわれと情(こころ)の感(うご)く、すなわち是、物のあわれをしる也」そして「物の心をしるは、すなわち物のあわれをしる也」という言葉を、いかにも素朴で、感情論的だな、としか捉えられず、……桜も月も、単なる視覚情報だよ、幻想に過ぎない、妄念だよ、無だよ、とか思ってた。
全てが溶け合う世界、溶け合って溶け合って、何ひとつ物の区別は無く、いずれ全ては混沌に帰してしまうという思想や、全ては畢竟平等であって、そしてどこまでもどこまでも物の本質を追っていくと、完全な無に帰結するという禅の思想の方が、どうにも宇宙の真実っぽくて、世界の真相がそこにあるとか思ってた。宣長みたいに「山桜が大好き!」からスタートする「物のあわれ」論には、ちっぽけな生活人的感情があるばかりで、感動はあっても、宇宙の真実は無いよな、と本気で思っていた。
けれど、最近思うんだ。僕がものすごく東洋哲学、あるいは真理を語っているっぽいスピリチュアルなことを学んだとしても、知識が増えるばかりで、自分自身の感覚や感情は稀薄になり、結局は「僕が生きてる」ってことを忘れてしまうんじゃないかって。僕はより正しい考えを得たかったの? つまり「僕自身」という存在を欠いた答えを。僕は僕自身が、考え、感じ、そして知りたかったんじゃないのか? 自分自身の感動や感情や感覚や、そして理性を総動員して、誰かが言った真理なんかじゃなく、自分自身の答え、僕が心から納得出来る、僕なりの答えを得たかったんじゃないか? 僕は、借り物の考えの継ぎ接ぎになんかなりたくない。無だとか空だとか、実感にないことを、さも真理であるかのように、自分の考えであるかのように振りかざしていたくない。僕は僕の実感だけを言葉にしたい。そして表現していたい。何故なら僕にとって、真実とは、つまり実在とは、ある思考法ではなくて、僕自身の心の表現以外にあり得ないからだ。もちろん、最終的な答えが、ある種の哲学や思想に辿り着く可能性もある。もしかしたら無や空に辿り着くかもしれない。でも、それが誰かが見付けた知識や、誰かが考え抜いた思想の上辺を、ただ借りてきたものであってはならない。あくまで、僕が僕の心で見付けなければならない。
僕の大きな目標のひとつはもちろん、もっともっとみんなに幸せになって欲しい、ということであって、仮に真実というものがあるとしても、ひとりで籠もって「真実、真実、真実、……」って考えていても、あれこれ上っ面の知識や思想を知っても、気分が暗くなるばかりで、多分一番大事な、心の中の光のようなものを無くしてしまうと思う。そのとき僕はきっと情熱を無くすだろう。僕と外の世界は繋がっている。外の世界を明るくすることは、少なくともそう心がけることは、僕自身の心を明るくすることでもあると思う。そして何がどうあれ、まず僕に心が無ければ、そして心の中に光が無ければ、何にも始まらない。何にも分かる訳がない。外の光さえ、感じる能力を失っていくだろう。世界は平坦な言葉や思考の集積になって、僕の目はもう、何ひとつ捉えることが出来ないだろう。
僕は決して、知識だけで生きている訳じゃない。第一、僕は僕の力で産まれてきた訳でも、自分の力だけで生きている訳でもない。普通に考えても、部屋の中にいてさえ、数多くの人たちが作った物の中で生きているのだし、日本語だって長い歴史の中で、人々の中で育まれ耕されてきたものだ。今これを書いている僕の身体だって、おそろしく沢山の、何億個とも知れない細胞がすごく頑張っていてくれて、それでやっと動いて生きている。僕は僕以外の無限に多くの物に囲まれているのであって、僕の考えや創造性なんて、その中の表面的な、本当に一部の一部の、無限小の部分に過ぎない。
さらに僕の考えや創造が借り物であった場合、僕はもう何にも無い、死体よりももっと死んだ存在にしかなれない。僕は無限小どころか、ゼロよりひどい、マイナスの存在にしかなれないだろう。虚無に囚われ、虚無の中へ消えてしまうだろう。本気で何かを好きになる能力を完全に失い、全てが死んで、その癖匿名的な知識をいっぱい抱えて、虚しくて、しかも自分が賢いと思ったりして、孤立し、絶望し、きっと確実に自殺するだろう。
一年間くらいだろうか、YouTubeで、何やら真理を語っている感じの動画を大量に見た。かなり嵌まっていたかもしれない。けれど僕は「眼の前のものを愛する」ことの実感や、僕自身が生きていることの生身の感覚の方がずっと大事だ、という感覚を失うことが出来なかったし、そういう動画を見るごとに、その感覚はどんどん捨てられないものになってきた。動画を見た瞬間だけ、何かを知った気になって、それが気持ちよかったんだけど、見終えるとすぐに虚しくなる。
「好きなものは好き。すごく好き」という気持ちを、単なる執着だと言って、捨て去ることがどうしても出来ないし、それが間違った気持ちだとは、どうしても思えない。だって好きなんだもの、という非論理的だけれども、率直な確信があって、その確信には軽やかさと爽やかさがある。「全てを手放しましょう」と言う人は多い。「本当に?」と思う。僕は間違っているかもしれない。ある観点(例えば仏教的な)から見ると、僕はまさにエゴ(業の深さ)の固まりだと思う。精神なんか全然安定していなくて、嬉しいときは嬉しくて、悲しいときは悲しくて、絶望するときは絶望するし、楽しいときもある。感情の変化が僕なんだと思う。絶望するならすればいいと思う。それが僕なら、仕方ないと思う。いずれ安定するかもしれないし、全然しないかもしれない。でも、自分を捨てたくなんかない。
僕は昔から中原中也がすごく好きだ。中也もやっぱり自分の実感だけを書いた人で、彼は世界や社会の構造をとても論理的に、かなりの部分まで考え抜きながらも、でもそれを自分の感情や創作には全然持ち込まなかったと思う。彼はあくまで「今生きている自分」に徹し続けたと思う。中也は思想や理念なんて書かない。僕は生きているひとりの人間としての中也が本当に好きだ。真理は知りたい。でももっと大事なのは、傷付いたことさえ、捨てたりしないことだ。生きたくもなり、死にたくもなる。心の平穏だけじゃなく、癒やしの中にも存在する痛みとか、静けさだけじゃなくて、混乱や心の分裂や、自分自身のどうしようもない感情とかを捨てないこと。そういうのって、とても、とても大事なことだと思う。
そう思っていると、僕は今、本居宣長が言っていた通りのことを考えているみたいだ、と思って、最近また急に宣長のことが気になってきて、もっと深く知りたいと思うようになって、新潮文庫の『本居宣長』は売ってしまったので、小林秀雄全集の『本居宣長』の巻を買って、読み始めている。前に読んだときより、かなりじっくり読んでいる。宣長や小林秀雄の書く言葉が、以前よりずっと染みてくる気がする。以前は、非常にバイアスの掛かった(宣長を軽んじるような)気持ちで読んでいたので、だから冷めてて、こんな人もいたんだ、とさして感心することもなく、ただ単に名著だから読んでおこうと、適当に斜め読みしたので、大事な部分をかなり読み落としていた。小林秀雄の文章は上手いので、そこにばかり感心していたし、面白かった記憶はあるんだけど、内容はほとんど忘れていた。『本居宣長』は小林秀雄が十二年かけて、それまで出版されていたいろいろな、宣長に関連する全ての本を読破して、宣長と関係の深かった当時の学者の文章も、当然何より宣長の原文も全部、誰よりも熟読して書いた(と小林秀雄本人が言っていた)作品なので、あんまり速く読んでしまうと、ほとんどの内容を取り落としてしまうと思う。
ニック・ドレイクを聴きながら書いている。全ては無かもしれない。でも、僕が今ニック・ドレイクを聴いている、この気持ちを「無」だとは言えない。僕が死んでも、ニックには残り続けて欲しいし、きっとどこかでニックの歌は、ずーっと残り続けていてくれる。そこはこの世界じゃないかもしれなくても、それでも、という気持ちが僕にとっての現実で、言ってみればそれだけが今の僕の真実。その真実に知識は答えてくれる? 心から好きなものが永遠にあって欲しいという気持ちを、とても大好きな気持ちを、僕にとって何より確かな気持ちを唯一の真実として生きて行きたいという感情を、思想とか理論に当て嵌めることなんて出来ない。本や動画で得た正しい(と言われている)知識を僕が語るとき、僕には欠けているものがある。それは個人的な訳の分からない感情だ。個人性を生きること。プライベートな自分をどこまでも大事にすること。宇宙の真理なんて、僕には知ったことじゃない。
だから本居宣長の、訳の分からない山桜への熱狂的な愛情を、今はとても正しいと思う。
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多くの人がきっと楽になりたいんだよね。苦痛や不安や恐怖や絶望なども、僕は必要なものだと思っている。けれどネガティブな感情ばかりで、楽しさや喜びが感じられないと、多分誰だって、遅かれ早かれ死にたくなる。YouTubeで「楽になる方法」とかって検索すると、僕にはあまり信じられないものから、役に立ちそうと思えるものまで、無尽蔵に、本当にいくらでも出てくる。登録者数が数十万人もいるようなチャンネルもあるし、再生回数が少なくても熱が入った動画を作っている人もいる。
しんどい人がそれだけ多いのだろうか。何も考えずに見られるような、リラックス出来る映像と音が流れるだけの動画や、聞き流すだけで楽になれると謳っている動画も、本当にいっぱいある。僕も一時期本当にしんどくて、音楽さえも聴けなくて、iPhoneで環境音(工場の音とか川の音とか)をたくさん聴けるアプリを購入して、毎日聞いていたことがある。母はときどき、護摩を焚いている映像を見ているし、弟は海外でかなりの激務に追われているらしいんだけど、彼は(今は知らないんだけど)疲れた夜にはYouTubeで焚き火の動画を延々と見ていたらしい。その気持ちは、僕にもすごく分かると思う。
「楽になれる」系の動画は、本当にめちゃくちゃある。(以下の羅列は僕の趣向が偏っていることを示すものかもしれないけれど)細胞が修復される周波数を含んだ音楽とか、見るだけで運気が上昇するとか、賢者の言葉とか、オーラがどうだとか、意識とか魂の次元(7次元まであるとか、11次元まであるとか)とか、アファメーションとか、ワンネスとか、マインドフルネスとか、チャネリングとか、集合的無意識とか共同体意識とか、ポジティブシンキングとか、科学的に解明された意識とか、波としての世界を脳がフーリエ変換によって解析しているとか、引き寄せとか宇宙銀行とか、パラレルワールドの中から望む未来を選択出来るとか、現実はヴァーチャルだとかゲームだとかホログラムだとか、超弦理論とか、ハイヤーセルフと接続する方法とか、潜在意識の開発とか、書くだけで人生が変わるとか、右脳を目覚めさせて自動思考(頭の中のお喋り)から解放されるとか、瞑想による精神や思考の浄化とか、誰でも悟れるとか、神がどうだとか、六道や陰陽五行説や地獄や輪廻や前世やカルマや陰陽やホメオスタシスや因果の法則とか、格物窮理とか、イデア界の頂点にある善のイデアとか、シンクロニシティとかバタフライエフェクトとか、神秘の数とか、アカシックレコードとか、魂や肉体の波動/振動数とか、気功や太極拳、気の流れ、ヨガ、丹田呼吸とか、身体を鍛えることで自信が付くとか、近くにいる人同士の精神の共鳴とか、ソウルメイトとか、量子力学や二重スリットがどうだとか、つまり観測された世界だけが存在するとか、あとは宗教とか、霊能力とかサイキックとか、第三・第四の眼とか、偶像崇拝とか、(自己)洗脳とか、一流アスリートのマインドとか、イメージトレーニングとか、ラッキーアイテムやパワーストーンやパワースポットとか、タロットとかオラクルカードとか、占いとか宇宙人とか、スターシードやライトワーカーとか、未来人や予言とか、陰謀(これは少し違うか)とか、エンパスの生き方とか、画面越しに良い気を送ってくれるとか、ユダヤ人の習慣とか、自分で頑張らずに全て宇宙に委ねようとか、望むものは既に無意識の中にあるとか、ポジティブな言葉を唱えましょうとか、自然と触れ合いましょうとか、樹木の言葉とか、感謝や愛の気持ちを感じて口にしましょうとか、断捨離とか、ともかく言語化することが大事だとか、脳が喜ぶ習慣とか、……本当に、ありとあらゆる「楽になる」ための動画がある。はっきり言って多過ぎて、あれこれ見てると、楽になるどころか疲れてしまう。そうしていろいろ見た結果、結局得ることは「いろいろ言ってる人がいるなあ」という感慨と空しさくらいだ。結論としては「結局自分のことは自分でどうにかしなければならない」ということだけ。
分からない。楽になるためにエゴを捨てる? 物を捨てる? そんな必要は無いと思う。全て、方法論は概念でしかないから、個人としての僕はそこには含まれない。
おそらくニック・ドレイクの音楽も含めて、地上に存在する殆ど全ての音楽は、ピアノの中央辺りのA(ラ)の音が440Hzになるように調律されているんだけど、440Hzは精神にも身体にもすごい悪いらしくて、432Hzこそが本当に心身に良い影響を及ぼす宇宙か何かの真理(?)の周波数なのだと主張している人も、それを信じている人も、かなりの数いるみたい。何しろ、大きな音楽サイトで、再生音源を440Hzと432Hzから選べるところさえあったし、432Hzを語っていて、多くの人に支持されているベストセラーの本もある。
YouTubeにも432Hzの音楽がいくらでもある。でも僕は、音楽をちゃんと聴けば、440Hzで心の底から混じりっ気無しの素晴らしい体験を得られることを知っているし、432Hzだろうが444Hzだろうが、いいものはいいと思う。ヘルツなんて気にしてたら、音楽を楽しめない。
けれど、楽になりたい一心で、根拠のない、でもとてもまことしやかな説を信じたい気持ちはすごく分かる気がする。「科学的根拠」という言葉に、よく分からないながら参ってしまうことも。疲れていると、本当に自分では何も考えられなくなるから。けれど、それっぽい説を頑なに信じている限り、決して本当には楽になれないと思う。なれたとしても、それは更なる思考停止の結果に過ぎないと思う。今の自分の実感だけは信じる、というスタンスで生きるのが、辛くても、でも一番幸せなんじゃないかと思う。人の言う知識で頭をいっぱいにしていたら、眼の前のものが見えない。個人的になることがとても大切だと思う。今の自分の感覚と感情を大事にすることだけ。自分に嘘を吐かないこと。それだけが、どんな幸福論よりも大事だと思う。
気になって仕方ないのに声を掛けられずじまいだった人や、今でも声を掛けられずにいる人がいる。でも、勇気を出して声を掛けて良かった、と思うこともけっこうある。人と仲良くなれたらいいと思う。でも、僕が人に及ぼせる影響の範囲は、とても限られている。結局僕は、ほとんどの場合、僕が好きなことを、ひとりでせっせとしているしか無いんじゃないかと思う。
とても辛い人に、辛さから抜けるための一般論を滔々と説いても仕方なくて、もしかしたらただ抱きしめるのがいい場合もあれば、それが逆効果になる場合もある。黙って一緒にいてあげるだけでいいこともあれば、黙って離れた方がいい場合もある。もしかしたら、僕は孤独にしかなれないかもしれない。けれど人への好意は失わずにいられたらいいと思う。
結局は、身に染みて何かを(あるいは全てを)好きだと思えなければ、世界をモノクロに、のっぺりさせてしまうと思う。
繰り返しが多くて、とても性急な文章になってしまった。今の感覚を忘れない内に書いておこうと、とても急いでいるので。
僕自身の歪んだ思考やスタンスを修正したい。モノクロになりかけている僕の世界が、カラフルな風景を取り戻してくれたらいいと思う。
僕がずっと、僕自身でいられますよう。