甘い甘い部屋の中。
遠い遠い、森の外れで、石鹸水のような
雨を浴びていたこと。
今はただ黒いキーボードをタイピングする
指先以外何にも感じない。

静かな静かな、まるで沈黙のような声を聴く。
空のリボンが僕を呼ぶ。
「チャンスはあるんだよ」と言う声がそれに続く。

……
父がいなくなってから、雑草だらけの家に住んでいた。
放っておいた草が、凍り付き、そして次に芽吹くこと、
そんなことも有名になってしまっていた。

エイフェックス・ツイン、永遠に(改稿)

 沙恵は絶望しながら踊っていた。煙草を吸いながら。エイフェックス・ツインの暴力的に鮮やかな、白い花のような音楽が拡がる。絶望は居心地がいい。絶望は人を強くするかも知れない。どうなってもいい。どうせ何も出来ないのだから。沙絵は人のいない世界に入り浸っている。何かが気になるのは、人との間に希望があるときだけ。
 ウォークマンを操作して音楽をオービタルに替える。海の表面に漂う光の霧のような音楽。……もし、私に音楽が作れたらどうだろう? 沙恵は考える。ツマミを回したり、ギターを弾いたり、画面上のシーケンサーに音の出るカラフルなバーを配置したりする。きっと楽しいことだろう、と思う。
 沙恵は先週、三十歳を迎えた。三十歳。ただ単純に生きているだけでは許されない歳を迎えてしまったのか、と彼女は思う。ううん、いや、新しい人生の始まりとして、これほどいい年齢もない、とも思う。けれど、すぐにやりたいことは何も無かった。これから出来ればいいことは山ほどあったけれど。
 誕生日の日、彼女が得たものは、十年来付き合っていた恋人との別れだった。それだけだった。
「プレゼントは?」
沙恵は笑って言う。
「ああ、うん」
 それが、彼の最後の言葉だった。彼は、沙恵に電話をしながら、沙恵の家に来る途中、近道である裏道を通り、そして暴漢に襲われて死んだ。
 その日から沙恵は、毎日、あまり食べず、水だけを飲み、角砂糖を少し食べ、ひたすらに音楽を聴いている。葬式には行かなかった。音楽を聴いて、踊った。他には、何もすることが思い浮かばなかった。ただひたすらに音楽を聴き、踊っていた。もう、彼女の人生には、先というものが無かった。沙恵の住む家は、結婚までの仮住まいとして、親からお金を出してもらって住んでいたのだけど、もう結婚の宛のなくなった今では(今はまだ親は何も言ってこないが)、早晩この家を出なくてはならないだろう。実家に帰る? そこに未来は無いように思えた。
 沙恵はパジャマのような普段着のような、シンプルなワンピース姿で、昼も夜も同じ格好で過ごしていた。髪を長く伸ばしていて良かったと思った。踊りの装飾品として、彼女が身に着けているのは胸元辺りまである長い髪の毛と、いつか彼がくれた白い腕時計だけだ。
 許されるなら、彼女にはやりたいことがあった。三十歳。まだまだ若い。若すぎる、と彼女は思う。人生を終えるには。
 このまま、死ぬのかな、と彼女は思う。と言って死ぬ宛ては無い。
 デスクの上に置いておいたシートから睡眠薬を二錠取り出して、グラスに入った水と一緒に飲む。部屋の中には、デスクの上にも、床の上にも本が散らばっている。本はもう、彼女にとって何の意味も持たない。心配して家を訪れてくれる人がいないことも優しかった。彼女は心置きなく、人のいない領域にいられた。そうしていると、まだ彼が生きていることが当たり前のことのように感じられた。
 オウテカに音楽を替える。エレクトロニカのミュージシャンたちは、確かな時間を知っている。人間が普段生きている(と思っている)のではない時間。そのことに沙恵は気付いていた。薬を飲んで、踊っていればその「時間」が訪れるのだった。

 彼……Yと呼ぶことにしよう……に出会ったのは十年前、フリースクールでだった。フリースクールと言っても、そこは頭のちょっといかれた子供から大人たちまでが集まる場所で、病院と連携していて、何だろう、デイケアの若年層版みたいなところだった。朝、皆が集まると、めいめいのカードにスタンプを押して、それから一日中、特にすることもなく、突発的に始まるゲームを楽しんだり、読書をしたりした。私はその頃は読書も好きではなかったし、だからいつも音楽を聴いていた。まだタッチパネルではなかった頃のiPodに、やっぱり今と同じ、エレクトロニカを入れて聴いていた。私に異常があったのか、無かったのか、とにかく何も食べなかったのだけど、それで健康に支障は感じなかったし、自傷はしていたけれど、殆ど興味半分でカッターナイフで皮膚の表面を少し傷つけていた程度だった。その程度でも、両親は慌てふためいていて、私は申し訳なく思った。Yくらいたくさん切っていたら、うちの親なら卒倒していたんじゃないか。彼は何が悩みだったのか、大学を休学していて、休学しているのにいつも勉強をしていた。泣きそうな顔をして。
「勉強が楽しくないの?」
とあるとき私は訊いた。
 彼は咄嗟に何かを隠すような姿勢を取って、またそうしたことを恥ずかしく思うように、左手を軽く上げ、上げた手の持っていき場所に迷って、耳の辺りの猫っ毛を摘んだりした。それから、
「何?」
と私の顔を見ずに言った。言ってから私の顔を少し見上げた。
「いや、勉強してるの好きじゃないの? 何か辛そうだな、と思って」
 彼は何か今小口径のピストルで頭を撃たれでもしたみたいに大仰に目を見開いて、
「ああ、うん、そうだね。楽しくないね」
と言った。
 彼の書いているノートを見ると、意外にもあまり上手くない(味がある)走り書きの文字で、日本語なのにカタカナの多い謎の文章が書かれていた。
「法律?」
「いや、経済」
「ふうん」
 特に話が弾むことはなく、「じゃあ」と言おうとすると、彼が、
「気になってたんだけど、エイフェックス・ツインだね」
と言った。
「ん?」
「いや、ヘッドホン。今音が漏れてる」
「分かったの?」
「ドラムで分かった」
 私は馬鹿みたいだけど非常に嬉しくなって、急に彼に親近感を抱いた。それで、「ありがとう」というのも変だな、ともじもじしていると、
「つまりさ、良くない傾向だと思うのだけど、ある女の子がいたとするね。俺は近付き方がいつも分からないんだ。その女の子がエイフェックス・ツインを聴いていたとするね。すると、僕は何か、何かなあ、人間と人間の間に普段は立ちふさがっているドアが開いたような気がするんだ。エイフェックス・ツインを聴く女の子って、一体どんな話をするんだろう、ってね。急いでコンタクトを取らなければならないような気がする。でもね、普通そんな機会ってあまり無いから。ごめん。だから君にも何か話題を用意出来ない自分を情けなく思っているんだけど、君と話してみたいとは思った訳なんだ。ええと……」
と、彼は早口になったり言い淀んだりしながら、何か要領を得ないことを言った。
「要するに?」
「要するに、ああ、それにはいろんな答え方がある」
「一番先に思い付くのは?」
「一番は良くないよ。三番目くらいがいい」
「一番は?」
「一番は、こういう言葉がある。初対面の女の子がエイフェックス・ツインを聴いていると、僕はその子と結婚したくなっちゃうんだ、って。いや、俺の言葉じゃないよ。一番目を正直に言ったまでだよ」
「は?」
 私のYに対する好感は、会話の気流に上っていって、よく見えなくなってしまった。こいつは絶対変なやつだ、近付かないでおこう。でもその時から私の中では生きている人間の「時間」が流れ始めた。そして、私は一時的にうまく踊れなくなった。

 Yとは何となく一緒に動物園に行った。彼がどうしても最初には動物園に行きたい、と言ったからだ。彼が行きたいと行ったのに、彼は象しか見なかった。だから沙恵はひとりで九官鳥やシロクマや猿山を見て回った。でも彼はかなり満足そうだった。彼の理屈によれば、象だけでも本当に見るには一時間はかかるらしい。そう言われてみると、沙恵は自分が何かを見て、そして何も見てきてはいないような気がした。
 Yはしょっちゅう「世界が分からない。世界に触れられない」と言っていた。「でも、死ぬときになれば、絶対に……」とも言っていた。でも彼の死のイメージは、おそらくベッドの上で徐々に迎える死だろう。自分の死を意識すれば、何かが分かるかも知れない。暴漢に襲われ、コンクリートに頭を叩き付けられて死ぬ瞬間、彼には何か分かっただろうか?
 沙恵は再び踊っている。眠るように。
「生きることは、もっと、もっと本当は、シンプルだったはずなのにね」
 沙恵は誰にともなく呟く。彼女はスピーカーのスイッチを切って、ヘッドホンを着ける。それから椅子に座り……あり得べきはずだった人生の、可能性について思いを馳せる。
 踊り疲れたけれど、汗は掻いていない。自分が本当に疲れているのかも分からない。泣きたくなるような一瞬を飲み込み、沙恵は引き出しに入っていた風邪薬を十錠、まだグラスに残っていた水で飲む。唐突に彼女は、単純な生きる「時間」の成り立ちが、この世界に具現化された姿を、目蓋の向こうに垣間見る。
 シンプルであること。
 シンプルであること。
 シンプルであること。
 彼が死ぬまでは思いつきもしなかった。彼女は古いパソコンを出してきて、電源を入れる。ワードパッドを開き、白紙の画面と、点滅するキャレットを見る。私が欲していたもの。私が手に入れたかったものは、これかも知れない。それからインターネットの楽器屋で、マルチトラックレコーダーと作曲用ソフトの値段を調べる。思っていたより安い。それからチープなドラムマシン。彼女は、日々、刻々と老いていく。三十歳。白い歳だ。それから、クローゼットから古いアコースティック・ギターを取りだしてきて、ヘッドホンを外し、Dの音を一音鳴らす。これなのかも知れない。違うかも知れない。
 人が生きていない世界で、唯一人との繋がりを得られる営為。私には、声が必要なのかも知れない。
 沙恵は冷蔵庫のところへ行き、久々にビールを出してくる。飲みかけて、迷って、風邪薬と一緒に飲むことにする。十錠。もうすぐ朝が来るだろう。朝が来れば彼女は……もう踊れないかも知れない……いや、本当は十年だって踊れるだろう。けれど彼女はこの世の辺境から、何かを届けたかった。そんな思いはこの間まで、彼女は全く持ち合わせていなかった。話なら、Yがみんな聞いてくれた。けれど、彼は、そう、……踊っているとき、彼は確固として私の世界に存在している、……けれどもう、彼は、私の話を聞いてはくれない。話し相手が欲しいんじゃない。私が私の時間を過ごすために、破綻無く私が私であるために、私は何かを発しなくてはならない。もう、彼と二人だけの世界には、いられないのだから。踊りだけで、十分なのに、私は何なのだろう? 強情なのだろうか? 私は、届けたい。今世界の端っこにいる私は、そうではない、世界の、人間の世界の中にいる、多分孤独な人たちに、何かを届けたい。いや、それは、誰かの為、ではない。私の存在の確立の為なのだ。
 シンプルに。
 シンプルに。
 シンプルに生きること。
 それからまた、ビールで風邪薬を十錠飲む。身体の表面が逆立つようにひりひりしてくる。それが心地いい。三十歳。今までの十年間、彼女は取り立てては、本当に何もしてこなかった。殆ど何も書いたことがないし、絵も描かない、音楽は、ギルドの安いギターを買って、少し弾き語りめいたことをして、すぐにやめたし、パソコンもインターネット以外では全然活用してなかった。Yと会ってから、踊ることもしなくなっていた。けれど三十歳になり、彼女は何か、何か表現出来るものが欲しいと思った。音楽でも、文章でも、絵画でも。今から始めるのに、遅いということがあるだろうか。それは全然無いだろう、と彼女は思った。「書きたい」と生まれて始めて思った。音楽をやりたい、とも。それは、彼女がまざまざと辺境の空気の中に、今立っているからだった。
 それから、とにかく踊りたかった。誰に見せる訳でもない。私が消えるために。喪失するために。それは必要なことだった。エレクトロニカや、いろんな音楽の中に埋没すること。音楽そのものになること。人間的な時間とは違う「時間」を感じること。大切なことだ。そしてまた、その「時間」を届けたい、という思いがすぐに湧いてきた。音楽を作りたい、書きたい、と彼女は強く思った。
 Yは、私が会って十年間、いろんなことを熱心に行っていた。一度ギターを始めると、ひとりでブルースのセッションが出来るくらいにまで上達したし、絵もとても上手に描いた。文章も非常に文学的な文章を、流れるように書くことが出来た。彼は何にでも才能があった。私と出会って一年後、彼は復学し、かなりの成績で卒業した。学業の傍ら、TOEFLTOEICの勉強をしていて、それもかなりの高得点を取った。簿記の一級なんかも取っていた。勉強熱心だった。24歳から東京のIT企業で働き始め、私はそれに付いて行くように、東京のアパートを借りた。親のお金で借りたのだけど。彼は高収入で、将来はまさに安泰、という感じだったのだけど、彼自身はアーティストになりたがっていた。夜遅く帰ってくると、ギターを小さな音で弾き、歌い(彼は本当にいい声をしていた)、それを録音したり、物語や詩を書くのが好きで、それから彼自身は自分の作風を嫌っていたけれど、たくさんの絵を描いていた。私も、彼はアーティストになるべきだ、と思っていた。
 けれど、彼は死んだ。……また、ビールで風邪薬を十錠飲む。それからまた十錠。目を瞑る。再びスピーカーの電源を入れ、エイフェックス・ツインの音楽を流す。頭が朦朧としてくる。沙恵は毛布にくるまって、ベッドに横になる。明日になればYから電話がかかってくるだろう。私が彼のことを死んだと思い込んでいたことなんて、笑い話になるだろう。
「そう、死んだんだけど……」
「死んだんだけど?」
「俺は花屋に行っていたんだ」
「何それ? ふつう花畑でしょう?」
「そう。なあ沙恵。花畑に行きたいと思ったんだ」
「私と? 死ぬのはやだよ」
「死なない死なない。どう、踊りは楽しかった?」
「うん」
「俺も楽しかった。沙恵と一緒だとね」
「そう? そんなこというの初めてじゃない?」
「そうでもないさ。……エイフェックス・ツイン聴いてるの? 久しぶりだね」
「うん。流しっぱなしにしてた」
「ドラムで分かったよ」
「そう」
「うん。じゃあ、またね……」
「また……」
「これからは一緒にいるから……」
 沙恵は毛布にくるまって眠っている。その顔からは微笑と涙の両方がこぼれる。何もかもが良くなっていくだろう。私にはやりたいことが山ほどあって、Yがいて。花畑にはまだ早い季節だけど、彼は一番いい日に花畑に連れて行ってくれるだろう。そして本当はひとりで来たかったような、自分だけが来たかったのに、私にも付き合わせて申し訳ないような、あくまで照れ隠しをするような表情をするだろう。私は今は世界の端っこにいるけれど、でも不幸じゃないよ。ねえ。何もかも、明日になれば、きっと……。

音色

心。
心よりも色彩。
色彩よりも音色。

音楽が私を覚えている。
私の脳よりずっと。

透明で暗く、川のような、そして無音の記憶。
(言葉で風を凍らせたい。)
(夜の透明に溶け込んでしまいたい。)

雲の消失点、
私が求めているのは新鮮な空気、
肋骨がふわりと肺臓を包んでいる。
お腹の底まで空気を吸いたい。
それは煙草の煙でもいいし、今生きてる感じ、
街の光の断片がきらきらと浮いた空気でもいい。
けれど今私は森の傍に住んでいて、とても湿った空気を、
吸っては吸っては歌にして吐き出している。

この世界の光の音を聞き届けたい。

烏が鳴いている。空に滲むような声で。
空が泣いてるみたいに。

口頭では決して言えない、人たちの心の中身。
目は逸らしつつ、互いの言葉だけはよく吟味して、咀嚼して、
空間には丁度いい重さの、そして触れられないお互いへの好意が、
いつも浮かんでいる。
私たちはいつか空間のその柔らかさを好きでいたと思う。
言葉に真摯であり続けるしかない私たちは。

「好き」に向き合えないとき。
喉の奥に灰色の冷たさがあるとき。
ばっさりと、命を捨ててしまいたいとき。

全ての景色が、永久に飛び去ってゆく意識を抱えたまま。
私はこの世に定住したくなってしまった。
まじまじと、去りゆくだけのこの場所を、
心ゆくまで見詰めるために。

没にしたメモ

 『生きていくことのメモ』を書いていて、削った部分です。削った部分の方が多いです。捨ててしまうのも勿体ないので、ここに上げておきます。


 人が本当に求めているのは、物だとか名誉だとかあれこれよりも、無と、人との繋がりの、ふたつだけなんじゃないだろうか。窓ひとつ無い、鉄格子とトイレとコンクリートの壁だけの独房でこそ、人は落ち着けるような気がする。人がいっぱいいればそれでいいという訳じゃない。満員電車に四六時中いたら、狂ってしまう。誰にも邪魔されないスペース。少なくとも僕はその場所をずっと求めている。それから、誰かとふたりで、それとも何人かで、子供みたいに笑い合うこと。そのこともずっと、すごく強く求めている。
 僕には親友がいて、十代の頃は、本当に、毎日毎日毎日、彼と一緒にいた。自分の家にいた日よりも、彼の部屋で寝泊まりした日の方が多いかもしれないし、彼もまた、ときどき僕の部屋で寝泊まりしていた。僕と彼との間には、好意の膜みたいなものがあって、それを破って近付き過ぎないように、お互いにずっと注意を払い続けてきたと思う。「幸せだ」と言った瞬間に幸せが壊れるように、「俺たち友達だよな」と言った瞬間に友情は傷付く。大体、一緒にいることに、わざわざ名前を付ける必要なんて無い。多分、彼がいるから、僕は安心してひとりでいられる。会って仲を確認し合わなきゃ崩れてしまう間柄ではないからだ。誰でもきっと、自分なりの独房を持っている。そこには誰も招待してはいけない。個人的なスペースを失うと、常に演技してなければならなくなる。そして僕には、とても多くの人が、常に演技をしているように見える。自分じゃない誰かの振りをし続けているように見える。そういう人とは笑い合えない。笑顔も嘘くさい人といると、死にたくなる。もっとひどいのは、自分自身が演技をしている自覚はあるのに、どうやってそれをやめたらいいのか分からない時があることだ。

 広々とした夕暮れの銀河をガラスの中に閉じ込める。

 枯れ木の、ひとつひとつの名前を知りたい。僕はアニメを見て、笑って、優しくなりたい。ねえ、いつか死ぬ。そんなことは心から知っている。でも、死ぬから人生は暇つぶしだなんて言う人は、大事な、とても大事な感情を忘れている。例えば、「どんなに努力しても、結局は全て失うのですよ」と言う人がいるとして、その人は、失われるものには価値が無い、という、とても社会的な既成概念に囚われている。多分、そういう人は読書をしない。一瞬一瞬が大事だから、僕たちは努力するんじゃないかな。人間の世界が好きだから詩や小説を読む訳で、いっぱい好きになって、それで死ねば、それでいいんじゃないだろうか。
 小説や詩がとても好きだ。とても、くだらないからこそ。僕は富も名誉も称賛も、本当にくだらないと思っている。きゅんとする気持ちが大事だと思う。どんなに歳を取っても。生きることって美しいよ。多分僕たちは、美しさを知るために生まれてきた。多分それだけだ。
 何もうまく感じられなくなって、生きる意味とか真理とかに逃げ始めたら危険だ。真理とか、そんなものが無いとは言えない。意味も真理もあると思う。でもそれは偉そうな人が言った偉そうな言葉を鵜呑みにすることでは得られない。

 僕たちはみんないつかは空っぽになるし、いつかは死ぬ。僕はいつ死んでもいいと思っている。人は本当にあれこれ考える。そして少し幸せになったり、すごく不幸になったりする。そうして気苦労を重ねたあげく、最終的にはみんな空っぽになって死ぬ。空っぽであることの素晴らしい万全感の中で死んだり、何もかも失ったという絶望の中で死んだりする。空っぽって、ものすごい快感なんだ。本来は生きていることは快感だ。「自分」というものは、別に確固として存在している訳じゃない。自分とか自分の身体なんていう、世界との境界線、枠は存在しない。自分で勝手に、世界と「自分」との間に線を引いているだけだ。その線の内側は絶望的に狭くて苦しい。宇宙はただ何の意味も無くあって、そこはすごい快感に満ちているけれど、「自分」は生きる意味を求めるし、そんな意味なんていくらこじつけても、絶対に手に入るはずが無い。「私は幸せになりたい」と多くの人が言うけれど、「私」と言っている時点でとても有限で薄っぺらな存在なので、絶対に幸せにはなれない。幸せとは自分という枠が無いことだ。だからお酒とか薬で自意識が曖昧になると、人は少し幸せの余韻みたいなものを感じる。

 何も知らずに音楽に溶けていけるのが好き。クラシックには溶けていけないけれど、いろんな場所に行ける。ウォークマンがひとつあれば、私たちは生きながらにして死ねるし、いくつもの世界にいくらでも行ける。ガラスの森を漂うような。バッハはロックぽいなと思う。『ブランデンブルク協奏曲』は、やたら気持ちいいし、グレン・グールドが弾くバッハの曲は、ピアノなのにギター並に快感に満ちている。
 金色のウォークマンから伸びる、金色のケーブル。金の服を着たいとは思わないけれど、金色は好きだ。見ていて落ち着く。赤と同じくらい。生きているって感じがする。メイプルリーフ金貨がずっと欲しくて、資産価値とか、人に見せびらかすとか、どうでもいいんだけど、ぴかぴか光って重量感のある金貨をただ手で転がしているだけで、うっとり出来るだろうなと思う。
 ヘッドホンは脳と音楽をコネクトするプラグ。ケーブルを通して、私はウォークマンと、その中の音楽データに繋がっていて、時空を超えて、音楽そのものにも、ミュージシャンとも繋がっている。隔絶は何処にも存在しない。テクノロジーと魔法は補い合う。音楽はテレパシーだ。本もまたテレパシーであるように。もし録音技術が確立していなかったら、僕は音楽の無い生活を余儀なくされる。
 僕の脳ではなく、音楽が僕のことを覚えていてくれる。

 今この瞬間、生きてること。

 空っぽってすごく幸せなんだ。僕が忌み嫌うことは、絶望したまま死ぬことだ。それでも死んだ後はみんな幸せなんだと思う。何故なら、もう自分がいないから、自分の痛みや悩みに苦しむことも完全に無くなるから。僕は悲観的であるとも言えるし、すごく楽観的でもある。いつ死んでもいいと思っているし、でも生きている内は、出来る限りこの世界を好きでいたい。最高の気持ち良さは、死んでも得られるし、生きてる間は、自分が消えて、自分以外の全てを好きなときに得られると思う。自分という枠なんて存在しない。自分という、世界との境界線は多くの場合、自分の思考や身体によって規定されていると思うのだけど、思考も身体も消し去ってしまえば、僕は世界に満たされる。あるいは世界が僕に満たされる。それほどの快感って、多分他に無いと思う。
 僕はずっと逃げ道を探している。自分が辛いから、苦しいから、っていう言い訳が、誰にでも通ると思っている。言い訳が通じない人からは離れる。苦しいし、苦しくない振りをしている。けっこう苦しかった。周りからの期待も大きかった。
 僕は十二歳の頃に、生きる意味が分からなくなって、幸せを求めて、嫌な言葉からは徹底的に逃げた。僕には本当の本当に、読み書きと音楽以外、何も無かった。小さな、ひとつひとつのものが好きだった。死ねばいいんだといつも思っていた。けれど本当は、誰かとくすくす笑い合えたら、それでいいと思う。昔からずっとそればかり求めていたと思う。遂にその瞬間は得られなかったんだけど、でも今も生きている理由があるとすれば、とてもプライベートな空間で、誰かと笑い合えたらな、ということ。それだけだ。
 人間の世界に生きてて、人間以外に何を求めるというのだろう? 快感なんてくだらない。そんなのひとりで勝手に得られる。人との関係以外の全てのものは、ひとりきりでも手に入るんだ。

 加湿器がそろそろ必要なくなってきた。そう思っていたら、薬局の待合室のテレビでは、空気が非常に乾燥しています、といっていた。昔僕は、粘膜がすごく弱くて、毎年中耳炎と喉の腫れに悩まされて、耳鼻科に通っていた。二十五歳頃から、命が本当にどうでもよくなって、煙草をがんがん吸い始めたせいか、喉や耳の炎症がぴたりと治まった。喫煙はいくつかの致命的な病気を予防するらしくて、花粉症にもいいと聞いたことがある。



 世界中の雨の音を集めたい。ひとつひとつを瓶に入れて、古びた木の棚に並べたい。

 人生は、おそらく一回きりではない。もし一回であったとして、それは永遠だと思う。無が有になり、有がまた無になるなんてナンセンスだ。今、この瞬間もまた無なのだという方が、よっぽど納得出来る。

 現実とは何か。現実とは思い込みだ。良くも悪くも。思い込みが無ければ現実は無い。もちろん全てはあるのだけど、現実は無い。どうしてもあるのは感情、喜怒哀楽、愛らしい人形のような人々、眼に映る街の光、自分の中の広大な世界、感覚、カラフルなイラストの数々、そしてもちろん音楽と、全ての言葉たち、それくらいだ。僕の中には果てしない街がある。僕「たち」と言うとき、もう既に、僕以外の人々が、僕と同じように生きている、という思い込みが入っている。
 人が人形だと言うのは悪いことのようでもあるけれど、僕は人形を愛している。人形と人間を分け隔てるものは何も無い。人形を愛することは倒錯的? 人間を愛することは倒錯的ではないのに?

 本当に本当に存在するものは何だろう? この世界がみんな嘘でも構わない。嘘だからって信じてはいけない理由にはならない。アニメの世界は明らかに嘘なのに、とても魅力的だ。自分が信じたいものだけを信じればいい。この世界は混沌みたいなものだから、形ある、自分が信じられるものを持たなければ、生きてはいけない。何にも執着しなければ、無の境地を知って悟りを開いた禅僧みたいになってしまう。禅僧でもいいんだけど、僕は、何かが特別に好き、という感覚がとても好きだ。悟りなんて死んだら開けるんだから、生きてる内は思い切り執着して、貪欲で感情的で衝動的でいればいい。悟りなんて仏像にでも永遠に開かせていればよくて、仏像はたまに見るだけでいい。
 本当に存在するものは一切無い。この世界が作りものでも、少なくともこの世界を作った何ものかは存在する、と昔は考えていた。でもその「創造主」みたいなものだって、本当に実在するかは分からない。それもまた作りものかもしれないからだ。創造主の創造主の創造主の……と何処まで遡っても、これこそが本物、というものには辿り着かない。要するには、「何かが絶対に有る」か「何にも無い」かは、信念の問題でしかない。そして僕は、何にも無いと思う。何にも無いけど、すごく綺麗。それでいいと思う。

 何が真実かなんて決まっていない。様々な思想があることと、様々な気質があることは、同じようなものだ。真の思想や宗教なんて無い。もし唯一正しい思想/宗教があると信じ込んでしまったら、端的に言って面白くない。ひとつの考えを採用した途端に、そこで考えがストップしてしまって、せっかくの無限の世界を、小さな有限の場所に閉じ込めてしまう。それはつまらない以上に、間違っていると思う。排他的になって、他の考えを持つ人たちとの衝突が絶えなくなってしまう。

 例えば本居宣長は、何処までも確かに「物」が実在すると信じた人で、物を深く感じる(「物のあはれ」を知る)ことが、他の何よりも大切だと説き続けた人だ。僕は小林秀雄の『本居宣長』を読んだだけで、宣長自身の著作を実際に読んだ訳ではないけれど、「物のあはれ」という言葉/考えには深く共鳴できる。宣長はまた、言葉の命を信じた人だ。物や言葉、そして特に桜(山桜、葉桜)を一生愛し続けた人だ。僕もまたソメイヨシノなんかより、山桜の方がよほど美しいと思っている。
 「感じる」というのは、ものすごく孤独な作業だ。みんなと一緒にあれこれ言いながら、感じることは出来ないし、みんなで一緒に何かを愛することも出来ない。「物のあはれ」を知る、というのは、個別の物を深く心で感じることであると同時に、個人としての自分自身、つまりは孤独を深く感じることでもあると思う。
 僕は物がとても好きだ。(好きな物について列挙していたんだけど、切りが無いので削除した。)何にも無いことと、一つ一つの物たちがとても美しいことには、何の矛盾も無いと思う。それから言葉が生きていること、音楽が生きていること。「無」には全ての生命が含まれていると思う。「無」は非常にカラフルだ。
 僕は「ひとり」を感じる時間がとても好きだ。詩を読むときに、一番「ひとり」を感じる。小説や音楽の中に感じることもある。けれどやっぱり詩が一番だ。中原中也の詩、それから最近では西脇順三郎の詩、彼らの全詩集は僕にとって宝物で、僕が僕自身の場所に戻るのに、不可欠なものだ。宝物は、生きてれば、少しずつ増えていくだろう。外国語の詩集もそこに含まれるようになるかもしれない。



 時々「あ、狂う」と感じるときがある。急にすとんと落ち込んで、何日もベッドから起き上がる理由も意欲も無くて、自分が空っぽに感じることもある。

 でも、ときどき訪れる、何も気にならなくなる時間。何ものにも代えがたい時間が、僕にはある。脳波がゼロに近付くほど楽しくなれると、僕は思っている。脳が死に近付くほど楽しい。痛みと重さの無い身体に、眼と、耳と、指先だけがある。言葉と音楽と、透明な視界だけがある。絵はあまり糧にならないけれど、イラストは大好きだ。
 脳波については碌に調べてないけれど、β波が日常で、α波がリラックスで、θ波がとてもゆっくりした、生と死の中間の波で、さらにゆっくりになると、どちらかと言うと脳死に近い意識になると思う。死の味を知ることが、生の中で最高の経験だと信じている。
 何故なら生きながらにして死を知ることは、自分が死なないことを知ることだからだ。僕は、すごいリラックスを、θの森、と秘かに呼んでいる。以前はもっと死に近付けた。ある種の訓練によって、段々、脳波を死に近付けることが出来る。その訓練はものすごく簡単で、部屋を真っ暗にして、大好きな音楽を聴いて、意識を外界からシャットアウトするだけでいい。好きな音楽は、静謐に近い。静寂と音楽は等価だ。自分が本当に好きな音楽に限るけれど。
 プルーストはコルク張りの暗い防音室で『失われた時を求めて』を書いた。バロウズはヘロインで、おそらく限りなく脳の働きを抑えて『ネイキッド・ランチ』を書いたし、スティーヴン・キングガンズ・アンド・ローゼズメタリカなどの激しいロックを、爆音で流しながら、すごく落ち着いて書いているらしい(ただこれは2000年の本に書かれていたことなので、今はおそらく違う音楽を聴いていると思う)。エレキギターほど心の静けさに近い楽器ってある? ギターがうるさいのは表面上のことで、それは荒波のようなもの。少しギターの音の底に潜れば、深海がある。ロックを聴きながら眠りに就いた経験のある人なら分かるはず。
 β波は活動的だけど、不安や苛々を伴っていると思う(繰り返すけれど、僕は脳波についての正確な知識を持っていない)。いつもβ波状態だと、死にたくなる。でもβ波はβ波で、重要なのだと思う。いや、そうでもないのかな? 何にしろ、普段の僕は神経質だ。激しく混乱していて、てんかんで倒れたり、倒れそうな状態が続くこともある。
 みんながθの森の中に入れたら、平和だろうな、と思う。みんな多分、自分というものに困っていると思うから。
 ほんの少し前まで、僕は、音楽を聴くことではリラックス出来たけれど、ギターやピアノを自分で演奏していても、それほど楽しくなかった。うるさいだけの演奏しか出来なかったからだ。シンセサイザーを弾いていると、少しリラックス出来た。音そのものが瞑想的だからだ。歌うことで自分の世界に入れた時期もある。長年、僕は単純に演奏の才能が無いのだと思っていた。けれど最近になって、表面的な意識よりも深い場所で楽器を演奏出来るようになったと思う。

 心の中はこんなにも深く、安らぎに満ちているのに。僕は普段、本当に神経質だ。外の世界の脅威にまみれている。見えるもの、聞こえるもの、そして頭の中の考えの数々が現実なのだと信じ込んでいる。プラトンの「洞窟の比喩」では、一般的に人々は洞窟の壁に映った影だけを現実と信じ込んで生きている、と説明されている。まったくその通りだと思う。

 苛々していて何にも集中できないときは、はっきり言って僕はひどく自堕落だ。煙草を吸って、処方薬を飲むけれど、あまり効果は無い。何をしていいやら分からず、あたふたしている内に時間が過ぎてしまう。



 手指の滑らかさ。

 身体という枷から解き放たれたとき、意識は無限に拡がっていく。もちろん身体は身体で、この世で生きて生活するのに、とても大事だけれど、身体に意識を閉じ込める必要はない。「僕の意識」から「僕の」を切り離せたらいい。そうして意識だけがある。僕はここにいない。「(僕がいなくて)意識だけがある状態」の中に、本当の僕がいると思う。あれこれ「僕」について考えている僕ではなく。意識が全てと溶け合う時間/状態。そこに本来の、束縛されない僕がいる。
(泳ぐように。クジラのように。踊るように。詩人の翼は泳ぐためにある。地上では不器用にしか歩けないけれど、永遠の海を自由に泳ぎ回れるペンギンのように。僕と僕以外の境界線が無くなるまで。永遠の海にダイブしたい。)

 普段、僕は僕の意識を、この怯えて強張った身体の中に閉じ込めている。不安の中に自分を押し込めている。そして「僕」が本当は何かなんて全然分かっていないのに、延々「僕は」「僕は」「僕は」という、狭い思考の中でぐるぐるしている。

 誰もが眠る真夜中、僕の部屋は限りなく宇宙に近付いていく。音楽の中で。自分と外界との境界が薄らいでいく。身体の内と外の区別が曖昧になる。僕の内面が外界へと拡がっていく。外の世界が僕の内へと溶け込んできて、内側と外側が引っくり返る。全ては混ざり合う。いつか全てはイコールで結ばれるだろう。世界全体と自分自身は正しく等価になるだろう。
 音楽やイラストや言葉の中で、意識が溶けて形を失っていく感覚がとても好きだ。

 ヘッドホンを愛している。
 嘘の光たち。LEDがとても好き。

 光と影が世界を作っている。――何らかの形で、世界に身を捧げられたら、他には何も要らない。世界を知ることは、世界の表面的なあれこれを知ることではなく、世界に潜ることだから。何もかもを知らなくてもいい。ひとつだけ、世界に潜るためのツールがあればいい。

 何処までも拡がりゆく意識と、限界のある、世界との境界線としての身体。世界と自分との間には、本当は境界線なんて存在しない。(Where is the line with you?)同時に世界から孤立した、身体によって他と差別化された「この僕」もまた、確固として存在しているように思える。たとえそれが錯覚であっても。名前とナンバーを与えられた「僕」という存在。
 僕と世界は同じものだけれど、普段生活している僕は、戸籍に登録された、ただの社会的な一個人だ。少なくとも戸籍名も住所も忘れてしまったら、社会での生活が困難になるどころか、脳に欠陥があると見なされて、病院から出られないかもしれない。本来名前の無い「全て」としての僕と、本名に拘束された、うだつの上がらない「個人」としての僕。両者は矛盾するようでも、両立させなければ、うまくは生きていけない。ただのちっぽけな「社会の中の個人」として僕を生きるのは、とても息苦しいことだし、自分は「全て」なんだ、っていつも誰彼になく宣言していたら変人になってしまう。

 僕にはペンネームが必要だ。「由比良倖」は本名ではない。けれど市役所の書類に書かれた名前が、絶対に本名だなんて、誰が決めたのだろう? 僕は「由比良倖」として生きている時間の方が長いと思う。
 「由比良倖」という名前には、宇宙よりも、掛け替えのない小さな優しさが含まれていて、とても好きな名前だ。小さな幸せが、宇宙の真理より好きだ。宇宙とか悟りとか、ともすれば僕は空疎な真理にばかり興味を持ってしまうので、悲しいくらいの、切ないくらいの、小さくて親しみのある感情を忘れたくなくて、僕はこの名前を、自分のメインの名前に選んだ。
 「由比良(ゆひら)」というのは、もちろん穂村弘さんの「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ」という短歌から採っていて、僕はこの歌の情景が滅茶苦茶好きだ。美しくて柔らかくて、優しいと思う。一応説明すると、この歌の女の子は「雪だ」と言いたいのだけど、体温計をくわえてるから「ゆひら」としか発音できなくて、そしてさわぐ女の子を眺めている作者の視線が、温かくて、でもちょっと冷めていて、でも、僕は何より「ゆひら」の発音がものすごく可愛いと思っていて、人にそう呼ばれたら素敵だと思った。生活の中のひとつひとつの小さな情景ほど素敵なものが、この宇宙にあるだろうか?
 ちなみに「由比良倖」の「倖」は、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.の書いた『たったひとつの冴えたやり方』というSF小説で、宇宙の果てに旅立ったまま行方不明になった「コー」という登場人物から採っていて、単に外国でも発音しやすそうだから付けた。それだけで、「倖」という単語に、幸せという意味があることは考えてもなくて、単に字面がいいと思って選んだ。でも今は「倖」という字は気に入っている。人の幸せ、という一番大切なことを忘れずに済むからだ。

 「由比良倖」としての僕は、世界の全てとしての僕と、ちっぽけな個人としての僕の、両方に跨がって生きている。宇宙であることと個人であること、その両者の接点、プラグ、ミーディアム、それが「由比良倖」としての僕であるといい。世界と個人、名前の無い全てと、名前によって限定された僕。キャラクター性。名前を失うことと、名前の付いた個人として生きることは、どちらも同じくらい大切なことだ。全てを感じつつ、生活の中での、ちっぽけな感情/感覚も大切にすること。その両方を同時に感じて生きることに、僕は美しさを感じる。

 日常会話だけで、本当に大切なものを伝え合うことは、本当に難しい。だから創作があるのだと思う。

 僕は僕から自由になりたい。だから夜中、僕から僕が溶け出していく時間を待っている。(2024年の)2月にリリースされたCanのライヴ盤を聴いている。気持ちいい。テクノも気持ちいいし、インドのシタール(ギターに似た弦楽器)の音は、とても瞑想的で、ああ、もうヘッドホンの中の、この空間さえあればいいな、と思うのだけど、すぐにまたギターの音に戻ってきてしまう。エレキギターアコースティックギターも、等しく好き。
 最近、青葉市子さんの音楽に嵌まっているので、クラシックギターの音も好きになってきた。彼女の歌の殆どは、クラシックギターの弾き語りだ。彼女はデビュー前に買ったヤマハのミニクラシックギターを、もう15年以上も使い続けているらしい。普通のギターより一回り小さくて、可愛らしい音がする。彼女にあやかって、僕もミニクラシックギターを買った。どっしりした音というより、流れるような幻想的な音がする。
 ミニクラシックギターを演奏している内に、ギター全般の演奏がまた好きになって、今はけっこう忙しく、アコースティックギターエレキギターも弾いている。演奏することにストレスを感じなくなった。演奏にならなくても、一音一音が特別なものに思える。
 ギターを演奏していると、指先を通して、身体の領域を、音楽の領域まで拡げることが出来る。まるで心がギターに憑依するよう。ミニクラシックギターはとても抱きやすいので、身体との一体感を感じやすい。



 いつもいつもいつも不安を抱えている。ひとりでいてもひとりになれない。僕はほとんど絶望している。死にたいと思い続けている。ただ、また書けるかもしれないという希望にだけ縋って、自殺の決行を先延ばしにしている。実際のところ僕は、いつ死んでもいい。本当に、今すぐ背後から銃で頭を撃ち抜かれてもいい。満足だ。けれど僕はしぶとい。他の何をしても、おそらく多分、書くことほどの満足を得ることは出来ないのだから、脇目も振らず、書いて、書いて、また書ける楽しさを取り戻してやろうと思っている。20年掛かっても、30年掛かってもいい。

 遠い場所が好き。ひとりきりの部屋で。私さえも関係ない場所。陶酔ではなく覚醒。でも滅茶苦茶気持ちよくて、これ以上なく楽しい場所。何の不安も恐怖も無い場所。私さえもいない場所。
 だって、この宇宙には本当は私はいない。要するに私は、私がイメージする「私」が壊れるのが怖いのだ。私が私を「私」という一人称に閉じ込めなければ、私なんて存在しないし、怖いことなんて何ひとつ無い。

 書きたいな、と思い続けている。書くことは、完全に安心できる場所を得ることだ。自分だけの小部屋で、普段の自分から解放されて、宇宙に行くこと。それが書くことの全てだ。普段決して得られない、心からの満足を得ること。

 以前、……もう13年も前のこと……、世界で一番楽しいことはふたつあった。書くことと、音楽を聴くことだ。音楽を聴きながら書くこと以上に楽しいことは存在しないと信じていた。……それなのに僕は、長い長い間、音楽をまともに聴けなくて、全く書けずにいた。言葉が、心の底の生命の海から、雪の花のように浮かび上がってくる、、、あるいは端的に、僕はいなくて、僕の身体は無くて、キーを叩く指先と、ディスプレイに浮かび上がる日本語だけがある。ヘッドホンの中の音楽に、何もかもが溶けてしまって。誰もかもが何もかもを許し合えるような、地球最後の平和の中にいるみたいな、完璧に平穏な時間を、僕は毎日過ごせていた(特に真夜中の静謐の中で)。
 ずっと、書いている振りをしている。書くのが楽しかった頃の(もう殆ど見えなくなってしまった)記憶を辿りながら、あの頃の自分を模倣すれば、ひょっとしたら、……という儚い希望を感じて、でも次の瞬間には、もう二度と幸せなときは訪れないのだと思って、全身の神経から力が抜けていく。心が干上がっていく。……もちろん泣けもしない。

 さて、最近のこと。僕に「最高の瞬間」、つまり本当の「楽しい」が、再びやって来るのか、あまり自信が持てなくなっている。正確に言えば、憂鬱や退屈や苛々や、もう何にも考えたくない時間、辛さや暗闇に慣れてしまった。あまりにも長い間独房にいると、外の世界の記憶が段々薄れていって、自由って何なのか、もう分からなくなってしまう。生きて、独房の中で死ぬのだという諦観に疲れ切って、放っておいても屍のようになってしまう。どうして『ショーシャンクの空に』の主人公は、20年間も諦めず、脱獄のための穴を掘り続けることが出来たのだろう? 20年も経ったら、外の世界は縁遠く、まるで前世の記憶のようになってしまって、独房の中が世界の全てだとしか考えられなくなるのが普通だと思う。
 僕は僕自身の牢獄の中にいる。自由って何なのか、自由に泳げるって、書けるって何なのか、ほぼ完全に近く、忘れかけている。つまらない精神を抱えた人間(つまり僕)ほど、多趣味になる。ちょうど囚人が、希望の無い四角い灰色の中で、時間潰しの技術にだけは、年々長けていくように。諦念や不安から気を逸らすためだけの技術。
 まだ、20年は経っていない。あと7年ある。僕は事実よりもフィクションに力を貰うことが多い。フィクションはリアルだから。それに現実とは「リアル」というお墨付きを与えられたフィクションであり、そのお墨付きを与えるのは不特定多数の人々で、僕は個人的に、人々の過半数悲観主義者だと思っている。つまり現実とは、悲観主義的な視点から見られた、世界の一側面に過ぎないと思う。創作家は、何よりも「楽しい」を知っている人でなければ始まらないと思う。だから僕は「楽しい」を知っている創作家の言葉を信じていて、「世知辛い世の中だ」なんて言い合って頷き合っているような、いわゆる馴れ合いの現実を、一切放棄してしまいたいと思っている。何にしろ、「辛い」とか「怠い」とか言い合っている世界に、僕の目指すものは存在しない。

 話がずれてしまった。最近のこと。言葉が滅茶苦茶好きなのは、昔から相変わらずだ。ここ三週間ほど、英語がきらびやかなくらい好きで、『不思議の国のアリス』を英語で読んでいる。はっきり言って、英語版の方が、ものすごく面白い。オーディオブックでも、毎日『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の朗読を聴いている。日本語だと、くだらない話だと思っていたのに、英語だと、心の底の小さな扉を開けて、ずぅっと前から開かれていたお茶会に顔を出せる感じがする。そこでは本当に生々しく、言葉の魔法を感じられる。言葉は魔法。うん。テレパシーだと思う。だって、僕は今こう書いている。そして、あなたはこれを読み、きっと、僕の心の大事な部分を感じてくれる。

 そしてギターをすごくたくさん弾いている。毎日こんなに弾いていたら数年後にはプロになれるんじゃないかと思うほど。



 時間が過ぎていく。時間とは何だろう?

 自分のことも、何も考えずに消えていければいいのに。

 見えるってすごいことだよね。見えるって何だろう? この景色は、何故見えているのだろう?

 机の上に、多和田葉子さんの本を積み上げている。多和田さんの本は、全部で16冊持っている。まだ買っていない本が数冊あるはず。多和田さんの本は、どれも宝物だ。活字って、宝になるんだなあって思う。

 ビートルズの濡れた世界。

 想像することが大事。と言うより妄想すること。強い妄想は現実になる。

 四月の水はクロロホルムのようにとても冷たい。長い髪のように。喉仏が清水になったような。生きていて、真実なんかよりずっと大事なことがあると分かってきた。僕にとっては陶器よりもプラスチックが大事だし、油絵の具よりもアクリルの方が大事だし、鉛筆よりもコンピューターの方が大事。
 哀愁よりも血が大事だし、雨の日の夜中のコンビニとか、点滅する信号機の黄色が濡れたアスファルトに反射していたりとか、信じられるのは水、木材、紙、カラフル。日本に生まれて良かったなと思うのは唯一、日本語っていう、面白い言語を特に苦労せず身に付けられたことだけだ。あとはアニメやイラストが大好きだけれど、それは外国にいても手に入るものだし、日本の音楽は殆ど聴かない。でも多分、もし僕がイギリス生まれだったら、日本語を勉強していただろうなと思う。
 別に新しいものを節操なく好きな訳じゃなくて、今僕は、3週間前に買ったミニクラシックギターを抱きかかえたままで書いている。(時代に合わせて生きるほど、自尊心は暗い欠片みたいになっていく。)ものを新しく好きになる必要は無いと思うけれど、人は好きにならなくちゃ死ぬ。
 僕がまずものすごく好きな人は、中原中也ニック・ドレイクグレン・グールドだ。ニックかグールドの音楽を流しながら、中也の詩集を抱いて死のうと昔から決めている。何年か前にはグールドの『ゴルトベルク変奏曲』を流しながら手首を切ったし、この間はニックの『ピンクムーン』を流しながら、お茶碗一杯分の薬をウォッカで飲んだ。きちんと中也の詩集を抱えて。
 ゴッホとかゲーテとか、偉い人はいるけれど、実質今僕が生きているのは、米山舞さんのイラスト集に、宇宙を塗り替えられるくらいの生命力を貰っているからだ。だから、神さまや仏さまよりも、十字架や大仏よりも、イラストのカラフルな生命力の方が、僕には断然大事だ。
 廃墟の底のプールサイド、靴底のガラス、とっくに壊れて、しかし尚も回り続ける室外機。僕は今、眼鏡を掛けている。眼鏡以外のアクセサリーは一切付けていない。
 好きなもの。ギター、ピアノ、コンピューター、手と指、ウクレレ、詩や小説、紙の本、イラスト集、ウォークマンとヘッドホン、あとスピーカーくらいが、今僕の部屋の中にあるものの全てだ。
 酸っぱいようなギターの音。ザ・スミスを聴いている。……

 身体が音楽モードに入っているときは、文学モードにうまく入れない。例えば、長時間ギターやピアノを弾いたり、歌ったりした後は、書こうにも、すぐには言葉が出てこない。身体をゆっくり文学モードに切り替えていく必要がある。音楽を聴きながら言葉を書くことは出来る。というか寧ろ音楽を聴きながらじゃないと書けない。
 音楽を聴くことと、書くことは似ていて、両方とも心の海の底に潜っていく感覚、あるいは身体が世界に溶けていくような感覚を伴っていて、とても気持ちいい。僕は、パソコンで書くことは演奏だと思っていて、愛用のキーボードを9本の指でリズミカルに叩く(タイピングには右手の親指を使わない)ことは、音楽の即興演奏と同じだと思う。
 おそらく、いずれ音楽モードと文学モードは、僕の中で統合されると思う。つまりギターを弾くことと、書くことを、同じ精神状態で行えるようになると思う。僕の中には広大な音楽回路と文学回路があるけれど、演奏回路はほとんど備わっていない。日本語回路はある程度あるけれど、英語回路やフランス語回路はほぼ無いのも同然だ。
 身体の中にいろんな回路を作って、それらを統合できたら楽しいだろうな。新しい研究によると、脳だけじゃなくて、身体の様々な場所に思考回路があるのだそうだ。多分、身体全体が思考しているのだと思う。そして僕の血管には音楽と言葉が流れている。そんな風に想像すると、身体がとても愛おしくなる。

生きていくことのメモ


 僕は考え方が段々に変わってきている。人間関係で嫌な思いをすることは殆ど無くなったけれど、やはり両親と一緒に暮らすのは、肩身が狭い。
 親とは諍いを起こしたくない。でも、僕にはやっぱり両親が、感情任せで生きている子供のままだとしか思えないことが多い。僕が偉そうなことを言えたものではないけど、しかし両親ともにほとんどいつもスマートフォンを弄っていて、生き甲斐と言えば孫の成長くらいで、いつ死んでもいいと言いながら、食費にだけはお金を掛けて、あとはしょうもない小言を言い合って、母は月一くらいで家出と称して旅行に行ったりしている。

 正直言うと、両親といると、自分が馬鹿になった気がするし、馬鹿な振りをしていないと両親の機嫌を損ねそうで面倒くさい。心底くだらない話に機嫌良く相槌を打ったり、父と母の仲をかなり苦労して取り持っていると、自分が馬鹿なホストか何かにでもなったような気がする。ずるずる親に甘えていて、独り立ちするための努力もしていない僕自身のことも嫌になる。

 一月に入院して痛感したのだけど、僕はおそらく人にもっと会わないと駄目になる。そして尚かつ、人と演技抜きで関われたらいいと思っている。デイケアには、二度予約して、二度とも行けなかった。小学生みたいな言い訳だけど、当日になって下痢が止まらなくて、緊張でふらふらするし、とても行けるような状態じゃなかった。服やカバンを買って、髪も切って、準備をするまではデイケアに行くのが楽しみなくらいだったのに、いざ行くとなると、恐ろしくなった。

 やっぱり僕にとっては、普段の生活で、どうしても伝えられないことがあるから、文学に惹かれるのだと思う。詩や小説の中では、正直に、ときには大胆にさえなれるから。
 人と全然上手く話せないことも、人と余裕を持って付き合えることも、両方とも等しく辛いことなのではないかと思う。どちらかと言うと人付き合いが苦手な方が、本当に言いたかったことがたくさんあるから、文学には向いている。表面的な付き合いで満足してしまったら、もう書くことなんて残っていないから。
 もし、書いていて、もうこれが書けたら死んでも構わないと思えるものが書けたら本望だ。と言って、書いて死ぬ訳ではないけれど。引き籠もりの卑屈なたわごとなど、もう書きたくない。
 要するには、人は人に会いたい生きものなのだと思う。例えば、小さな子供は、たまたま砂場で隣り合った子供同士が、無言のままで自然に仲良くなって、一緒に砂で山や川を作ったりする。そういう素朴な出会いとか、言葉抜きで仲良くなる、ということは、大人にはとても難しい。大人は孤独だと思う。でも、文学でなら、それは可能なんじゃないか、と思っている。例えば僕は、もう随分昔に死んだ、詩人の中原中也が本当に好きで、まるで親友のように思っている。ニック・ドレイクにしてもそうだ。現実の生活ではまず起こりえないような、人との繋がりが、文学や音楽の中では可能になる。ゴッホポロックの絵を実際に見たときもそうだった。絵の美しさに感動したと言うよりはずっと、絵の前に佇んで、絵を見て、僕は大袈裟かもしれないけど、仲間意識のようなものを感じた。ゴッホポロックも孤独で、僕も孤独だ。普段の生活で、孤独な人同士が出会える可能性は、ほとんど無い。でも、言葉や音楽や絵を介して、人と人とは出会うことが出来ると思う。

 人が好きで、好きであることを伝えたくて、一緒にいることはとても素敵なことだろう。けれど、人との関係性はすぐに、お互いに嫌われないようにと、微妙に嘘や誤魔化しの入ったものとなっていく。お互いに本心を隠し合って、相手に好かれようとか、嫌われたくないとか、お互いに策を練り始めたら、段々人付き合いは辛くなる。自分は優しくしてあげたのに、相手からの見返りは少なかったと思ったり、お互い相手の意見に合わせたりしていると、お互いの本当の気持ちが、どんどん分からなくなる。不自然な会話は、結局は仲を引き裂いてしまうし、段々心が冷え切ってくる。それどころか、初めに期待していたのとは違う関係性に絶望的になり、割に合わない気持ちを抱き、遂にはお互いに憎悪を抱き始めるようになる。無視さえし始める。そのくせ、相手が自分に構ってくれないと焦り、嫉妬を抱き、お互いの心が離れそうになっては急いで取り繕い合うという、危なっかしい関係が出来上がる。そこで、さて、改めて正直になろうとしても、もはや苛立ちしか残っていないから、相手に苛立ちをぶつけたり、非難し合ったりすることが正直な姿なのだという、とんでもない勘違いが起こる。そもそも最初に求め合っていたのは、心から仲良くなりたかった、という気持ちだけのはずなのに。つまりは、事の発端から、大人って言うのは多くの場合、自分を偽っていて、どんどん偽りのループに嵌まっていくのに、しかもそのことに自分自身気付かない。自分は一生懸命誠実だと思いがちだ。そのため、最初に求めていたのとは、ほど遠い場所に運ばれているのに、それを相手のせいだと思う。正直さの欠如は悪夢を産む。しかし自分の気持ちをぐっと抑えて相手に合わせることが、美徳だとか、いいことだと思えてしまうから、ややこしい。嫌われるのが怖いだけで、ちょこちょこ吐いてきた嘘が蓄積して、後戻り出来なくなったのに、なおも自分は悪くないと思う。まあ、この世に、悪意を持って人に接する人はあまりいないだろう。それなのに、人と人との関係性は、大抵悪くなる。
 正直であることが肝心だ。結局、嫌われるものは嫌われる。嘘を吐いて好かれても、早晩破局する。自分自身であること、自分を偽らないこと、それは難しいことだけど、それこそが一番大切なことなんじゃないかと、今の僕は強く思っている。優しさと誤魔化しは、全然違うものだ。そんな簡単なことが、この歳になるまで分からなかった。この頃ようやく、やっとのことで分かってきた。



 音楽の中に飛行機が見える。光の中にいるみたい。明るい、甘い、青さ。
 石造りの池のあった山間の祖父母の家を思い出す。ヘッドホンの中で一年が過ぎる。

 大人って孤独だよね。孤独すぎるから、文学や音楽があるのだと思う。真理も見付けたいけれど。
 生きているということは、今地球上に生きている七十億人だか、それ以上の人に会える可能性があるということ。言葉は、日本語なら主に日本人の一億三千万人くらいの人にしか伝わらないから、少し寂しい。言葉だけじゃなく、あらゆる表現手段は、ある種の文脈や文化の枠組みの中で作られるものだから、完璧に人類全体に伝わる芸術は存在しない。
 書くのは何かを伝えるためでもあるけれど、自分がきちんと生き切るためにも、僕は書いている。絵に自分を託せる人もいる。ポップな絵は今生きていることの実感をくれるから好きだ。過去の時代を羨ましく思ったことは無いし、未来は何処にも存在しない。
 熱帯魚を飼おうかな、って思ってる。昔からずっと飼いたいと思っていたけれど、お金も無かったし、たまには旅行にも行っていたから、飼うのは難しかった。でも今は僕は引き籠もっていて、何処にも行く予定が無い。水槽を買うお金くらいはある。ただ、すぐに飽きて、餌やりも怠ってしまう危険性はあるけれど。
 おそらく、生きたとしても残り数年の命だ。僕はおそらく何も書けないだろう、とよく思う。決して楽しくなれないし、喜びも得られないだろうと思う。何もかもを失った。あと失えるものと言えば、自分の命くらいなものだ。長い年月、心は冷め切っている。

 生きている実感。本当の喜びが欲しい。

 音楽から「何か」を、また少しだけ感じられるようになった。夢の欠片。眠って見る夢は悪夢が多くて、だから僕は起きている方が好きだ。昔は、好きな音楽を聴いていれば、自然に素晴らしい気持ちになれるのが当然だと思っていた。脳の病気は僕の世界をことごとく奪ってしまうけれど、自殺願望だとか不安だとかは別にどうでもよくて、音楽が聴けなくなったことと、本を読めないことと、書けないことが辛かった。
 別に常識に毒されたままでもいいんだと思う。ありきたりで不安で疲れた人間でいてもいい。気が触れたようなところが少しでも残っていれば、それは正常ということ。

 生きているって、どういうことだろう? 多分、感じること。宇宙でただひとりきりで、いちどきりの自分を、真っ白なくらい、強く。この宇宙は一度きりの永遠。笑っていられる、日常の中で。

 何故、生きることや、物に執着するのか? 全ては消えるし、もともと無いものなのに。優しさ、白さ、個人的であること。きゅんとすること。思い込みの深さ。宇宙の広大さは、ひとりきりの小さな部屋のためにあるのだと思う。そして宇宙の全ては、ひとりでいたり、誰かといて、泣いたり微笑んだりすることのためにあるんだと思う。それから存在したり非在したりする全て、沈黙や、嘘や、嘘でもとても綺麗なものたち、一瞬ごとの永遠たち。海辺や、ぴかぴか光る街。好きな人や、嫌いな人たち。お互いに触れ合うことの無い、数十億の人たち。死は、……そんなもの音楽が軽々と飛び越えられる。個人的見解と、感傷と、感覚と、感情があれば、それが僕にとっての全て。結局は生きてることは、そして世界は、感情論が全てだと思う。
 だから、例えば宇宙的な視点で見れば、人を殺したって、それは何と言うことのない物質的な出来事だけれど、でも殺人は悲しいことだと思う。加害者もまた、被害者だというのは、本当だと思う。自分や自分の世界を、好きだと思えないことほど、悲しいことってある?



 結局、僕は音楽と本と画集があるから生きられる。つまり、人がいるから。自然なんてあっても無くてもいい。音楽はいろいろ聴いてて、本は詩集と小説を読んでて、画集は主にイラストを見てる。哲学の本もかなりの時間読んだし、いっぱい考えたけれど、それで生きたくはならなかった。アインシュタインも「死ぬとはモーツァルトが聴けなくなることだ」と言っていたけれど、死は置いておくとしても、生きていることは音楽が聴けるということだと思う。ポップな音楽もロックもジャズもクラシックも何もかも、みんな音楽としては等価だ。最初にとてつもなく好きな曲やアルバムに出会って、そこから「好き」の網が拡がっていくように、新しい音楽を理解しながら、いろいろと好きになって行ければいい。身体の、細胞の中に、個人的な音楽回路が出来上がっていく。僕は僕の中にある音楽回路がとても好きだ。

 「人間が好き」と断言出来ないことは危ういことだろうか? だって嫌いな人もいる。嫌いと言うか、理解し合えなかったり、すごく苦手な人はたくさんいる。多分、究極には、人なら誰でも好きになれると思うのだけど。人の好き嫌いって、表面的な振る舞いの齟齬から起こるものでしかないから。僕は自分を、どちらかと言うと悪人的なメンタリティの持ち主だと思っている。けれど自分が正しいとか、自分に才能があるとか思ったことは、多分一度も無い。僕よりすごい人は本当にいっぱいいる。僕は自己愛に陥ることが多いけれど、自己愛よりも他人を好きでいる方が、自分にとってもすごく楽なことは知っている。

 死にたくなると殺伐として、音楽も頭に入ってこない。それでも生きていたくなるのは音楽があるからで、自殺願望は一時間で終わったり、数十日も、時には数年も続くけれど、結局は、音楽を聴きたいから、生きることに戻ってくる。死にたいときも、ほぼ一日も欠かさず、日本語を書いてはいるけれど、それは習性のようなもの。僕は書く生きものだ。

 「生きる意味」なんて考えると、意味は無い。喜びの無い時に喜びについて考えても、喜びなんて無意味な錯覚にしか思えない。感動も忘我も自分からは隔たれた、遠いものだとしか感じられないとき、生きることは苦痛で、生存なんて無駄だとしか思えない。後悔と、もう何もかもが手遅れだという思いしか見当たらない。

 何も手に入らない。誰にもなれないし、何処にも届かない。でも、願いは叶うかもしれない。誰かと、心から笑い合いたい。もう、誰かと泣くのはご免だ。泣いていると、まるで僕が僕じゃないような気がする。記憶の中で誰かと繋がれた気がしたら、その日は一日、それだけでいい。

 あなたはあなたが好きですか? 全てを全肯定できますか?

 僕が、僕を捨てられるかが問題。そして何より、僕が僕自身でいることが大事。そのふたつは矛盾するようだけど、僕が僕を捨てたとき、僕は本当の僕を感じられる。それは誰にでも当て嵌まる、普遍的なことなんじゃないかと思う。

 昼には昼の、夜中には夜中の楽しさがあって、両方が無ければ、僕はバランスを取れないのかもしれない。毎日毎日きちんと、昼と夜が交互に、律儀にやって来る。ずっと真夜中ならいいのにと思いはするけれど、ときどきはやっぱり明るい時間も好きだと感じることがある。
 この間「ずっと真夜中でいいのに。(ZUTOMAYO)」のライヴをYouTubeで見ていたら、彼ら自身のコメントに、「爆音推奨です。そこから更に2デシ上げましょう」と書かれていて、好感を持った。格好いいコメントだ。デシベルってよく知らないんだけど、僕もスピーカーで音楽を聴くときは、大音量で気持ちいい音量にして聴いていて、うるさいくらいが、生きてる感じがする。



 私が言っているのなんて、ただの言葉に過ぎなくて、英語やフランス語だって、ただの言葉に過ぎなくて。言葉……、でも音楽は未知に繋がっていて、大抵は言葉にならない場所に繋がっているのだけど……。芸術家……、画家とか音楽家とか詩人とかは、きっと特別な場所にいるのではなくて、寧ろ芸術家以外の、ほとんど全ての人たちが特別な世界に住んでいるのだと思う。生きていることがものすごく特別で、死は普遍だ。何故なら私たちにとっては、全てが借り物に過ぎないからだ。借り物を事実だとか、自分だとか、自分の物だと言えるのは、結局生きている内だけ。全てが借り物でしかないと感じられたときは、楽だし、気持ちいい。なのに人は好きこのんで苦痛に執着する。苦痛って、とても愛らしいから。

 何も考えないための暗い部屋が欲しい。全ての人が、毎日一時間、何も考えない時間を持てたらいいのに。それで社会が変わらないとしても。別に幸せが増える訳ではなく、それどころか自殺者が増えるとしても。確実に世界は面白い場所になるよ。
 ギターアンプとか電気ピアノとかいろいろなシンセサイザーとか、それからきらきら光っているディスプレイなどが所狭しと置かれた狭い部屋が欲しい。窓は無い防音室。ジミ・ヘンドリックスも「全ての人に、サウンドと光に溢れた部屋が与えられればいい」という意味のことを言っていたと思う。本当にそうだ。それは平和の第一歩だ。
 私はいつも怯えてて、いつも何のやる気も無い。引き籠もりなので運動不足だけれど、運動の必要を感じていない。自然に触れ合うのも退屈だ。

 何も残らないとき、私は満たされている。

 快感よりも、陶酔よりも、完璧な心の静けさが大事。快感を追い求めても、いつも何故か、多くは得られない。完璧な静謐の中に、結局は、一番大きな快感がある。今を生きている感触が大事。

……
今ここにいる私は、私ですらない。仮にもし、自分がどうでもよくなったなら。私が本当に、ここにいないなら。何もかもが私に関係無いなら。何も感じることが無いならば。何も無い私を維持出来たなら。

あらゆる匂いは揮発し、拡がっていく。だから私は香水を買う。

もし私が無だったら。私がただの病気でしかなかったなら。

あらゆるものを気にするのをやめた。神経質なのは仕方が無い。記憶喪失のまま一生を過ごせたなら。ディスプレイの上に記名できたなら。無でいられる時間を延ばせたら、笑ったり、怒ったりしながら、いつも眼をぱっちり開けていられたら。

やわらかい電気オルガンの音に懐かしさを感じる。小学生の頃歩いた、湖のある枯れた林のような。七十年も昔のアメリカの人が弾いたものなのに、あまりそういうのは関係無い。何もかもを置いて、私は死ぬ。

時間が波打っているみたいだ。言葉は記号に過ぎないのに、小説を読むと内面の、何ものにも代えがたい経験になるのは何故だろう?

ひとりの部屋、ひとりの時間、ひとりきりの祈りの時間が欲しい。

「寒くない?」
「いいえ、寒くない。」

……




『補遺』(没にした部分の抜き書き)

 哀愁よりも血が大事。

 廃墟の底のプールサイド、靴底のガラス、とっくに壊れて、しかし尚も回り続ける室外機。僕は今、眼鏡を掛けている。眼鏡以外のアクセサリーは一切付けていない。
 好きなもの。ギター、ピアノ、コンピューター、手と指、ウクレレ、詩や小説、紙の本、イラスト集、ウォークマンとヘッドホン、あとスピーカーくらいが、今僕の部屋の中にあるものの全てだ。
 酸っぱいようなギターの音。ザ・スミスを聴いている。……

 四月の水はクロロホルムのようにとても冷たい。長い髪のように。生きていて、真実なんかよりずっと大事なことがあると分かってきた。僕にとっては陶器よりもプラスチックが大事だし、油絵の具よりもアクリルの方が大事だし、鉛筆よりもコンピューターの方が大事。
 雨の日の夜中のコンビニとか、点滅する信号機の黄色が濡れたアスファルトに反射していたりとか、信じられるのは水、木材、紙、カラフル。日本に生まれて良かったなと思うのは唯一、日本語っていう、面白い言語を特に苦労せず身に付けられたことだけだ。

 僕には親友がいて、十代の頃は、本当に、毎日毎日毎日、彼と一緒にいた。自分の家にいた日よりも、彼の部屋で寝泊まりした日の方が多いかもしれないし、彼もまた、ときどき僕の部屋で寝泊まりしていた。僕と彼との間には、好意の膜みたいなものがあって、それを破って近付き過ぎないように、お互いにずっと注意を払い続けてきたと思う。「幸せだ」と言った瞬間に幸せが壊れるように、「俺たち友達だよな」と言った瞬間に友情は傷付く。大体、一緒にいることに、わざわざ名前を付ける必要なんて無い。多分、彼がいるから、僕は安心してひとりでいられる。会って仲を確認し合わなきゃ崩れてしまう間柄ではないからだ。誰でもきっと、自分なりの独房を持っている。そこには誰も招待してはいけない。個人的なスペースを失うと、常に演技してなければならなくなる。そして僕には、とても多くの人が、常に演技をしているように見える。自分じゃない誰かの振りをし続けているように見える。そういう人とは笑い合えない。笑顔も嘘くさい人といると、死にたくなる。もっとひどいのは、自分自身が演技をしている自覚はあるのに、どうやってそれをやめたらいいのか分からない時があることだ。

 広々とした夕暮れの銀河をガラスの中に閉じ込める。

 枯れ木の、ひとつひとつの名前を知りたい。僕はアニメを見て、笑って、優しくなりたい。ねえ、いつか死ぬ。そんなことは心から知っている。でも、死ぬから人生は暇つぶしだなんて言う人は、大事な、とても大事な感情を忘れている。例えば、「どんなに努力しても、結局は全て失うのですよ」と言う人がいるとして、その人は、失われるものには価値が無い、という、とても社会的な既成概念に囚われている。多分、そういう人は読書をしない。一瞬一瞬が大事だから、僕たちは努力するんじゃないかな。人間の世界が好きだから詩や小説を読む訳で、いっぱい好きになって、それで死ねば、それでいいんじゃないだろうか。
 小説や詩がとても好きだ。とても、くだらないからこそ。僕は富も名誉も称賛も、本当にくだらないと思っている。きゅんとする気持ちが大事だと思う。どんなに歳を取っても。生きることって美しいよ。多分僕たちは、美しさを知るために生まれてきた。多分それだけだ。
 何もうまく感じられなくなって、生きる意味とか真理とかに逃げ始めたら危険だ。真理とか、そんなものが無いとは言えない。意味も真理もあると思う。でもそれは偉そうな人が言った偉そうな言葉を鵜呑みにすることでは得られない。

 今この瞬間、生きてること。

 世界中の雨の音を集めたい。ひとつひとつを瓶に入れて、古びた木の棚に並べたい。

 「感じる」というのは、ものすごく孤独な作業だ。みんなと一緒にあれこれ言いながら、感じることは出来ないし、みんなで一緒に何かを愛することも出来ない。「物のあはれ」を知る、というのは、個別の物を深く心で感じることであると同時に、個人としての自分自身、つまりは孤独を深く感じることでもあると思う。

 僕は「ひとり」を感じる時間がとても好きだ。詩を読むときに、一番「ひとり」を感じる。小説や音楽の中に感じることもある。けれどやっぱり詩が一番だ。

 手指の滑らかさ。

 誰もが眠る真夜中、僕の部屋は限りなく宇宙に近付いていく。音楽の中で。自分と外界との境界が薄らいでいく。身体の内と外の区別が曖昧になる。僕の内面が外界へと拡がっていく。外の世界が僕の内へと溶け込んできて、内側と外側が引っくり返る。全ては混ざり合う。いつか全てはイコールで結ばれるだろう。世界全体と自分自身は正しく等価になるだろう。
 音楽やイラストや言葉の中で、意識が溶けて形を失っていく感覚がとても好きだ。

 ヘッドホンを愛している。
 嘘の光たち。LEDがとても好き。

 時間が過ぎていく。時間とは何だろう?

 自分のことも、何も考えずに消えていければいいのに。

 見えるってすごいことだよね。見えるって何だろう? この景色は、何故見えているのだろう?

 机の上に、多和田葉子さんの本を積み上げている。多和田さんの本は、全部で16冊持っている。まだ買っていない本が数冊あるはず。多和田さんの本は、どれも宝物だ。活字って、宝になるんだなあって思う。

 ビートルズの濡れた世界。

 想像することが大事。

 身体の中にいろんな回路を作って、それらを統合できたら楽しいだろうな。新しい研究によると、脳だけじゃなくて、身体の様々な場所に思考回路があるのだそうだ。多分、身体全体が思考しているのだと思う。そして僕の血管には音楽と言葉が流れている。そんな風に想像すると、身体がとても愛おしくなる。

空白の歌(『null』改稿)



雨に濡れた日傘を差して歩いていると、情緒がぐんぐん押し寄せてくるようです。街でも孤独になれるイヤホンは、私の防護壁にして武器です。私はひとりでなければ決して生きられない。あらゆる場所に孤独のスペースが無ければ私は窒息してしまうでしょう。
部屋に近付くと、段々生温かいゼリーに包まれていく私の身体。知らない方が良かったことはとても多いけれど、けれど私は魚から少しも進化していない。いまだに背骨と心臓だけが私の本質です。蝶だとか花だとか、知ったことではありません。何にでもなれそうな気がします。当然私は何もかもなのだから。
武器としての言葉が欲しいです。早く、早く、再び私は私の底に行きたいのです。社会に出て行けない私は、私の底の底にしか生の方向性を見出せない。けれどそこには、底には全ての生者と死者がいて、私は、人は、そんなに自分自身だけで出来上がっている訳ではないと知るのです。
誰よりも遠い場所へ。そして悲しい。悲しみの鈍い……鉄錆で出来た花のような。感情のままに行く先を決めて、けれど感情には最終地点があります。人と会ったあと泣きたくなるのは、人の名残が身体にあるから。無感覚さを立て直すための他人。けれど彼らに頼ってはいけない。永遠が私の身体をさらってゆくまで……神さまにも困ったものです、私に生活を与えながら、私が生活をなげうった時にだけ、天国を見せてくれるのだから……私はヘッドホンに籠もります。……私は私がいなくなる瞬間だけを求めています。会いたいな、という気持ちを、優しく、温かく抱きながら。泣きたくなって、歌いたくなって、また震えの中で目が覚めるまで。




風向き次第で、理由なんてどんどん変わる。
生きてる理由も、死にゆく理由も。
搾りたてのオリーブオイルみたいに、
空気はいつも揺れていて、
私が私である理由は、ただ、
お気に入りの黒い靴のおかげだったりする。


アメリカ大陸をつるつるに磨き上げるように、
ソフトクリームを両手に持つように、
十二本の鉛筆をふたりで分け合うように。
生活は「今」というアトリエ。


不安や動悸こそが恩恵なのだと、
命が尽き、全てが冬になるとき、
あなたは何か、多分風に似たものを感じる。


不安の無い世界で会いましょう。
私はギターの地図を持っていて、
あなたはピアノの地図を持っている。
部屋はとても四角くて、そこに白い陽が差して、
ガラスのような心拍を、
私たちはふたりで見詰め合っている。


ギターが一音ずつ揺れている。
脳/細胞に共鳴する酸素。
ただ光る波としての私を勝手に見ててもいいし、
誰も見てなくても平気。
宇宙の光や星の粒と、同じ呟きを、
手のひらの窪みに載せて。


少し楽しくて、全て繋がっているのはどうしてなんだろうと脳裏でテレパシーみたいに、私の心/身が交信し合っている。
多分、誰かと一緒にくすくす笑い合えたら、最後の瞬間はそれだけでいい。
不完全なデータを残してきたけれど、最後はきっと笑顔で塗りつぶせる。
そして消えるんだ。


私たちはみな、誰もいない場所に住んでいる。
けれどちょっと大人になって、今日の祖母に「おめでとう」なんて言ってみたら?




全ての人は深海なので、人は人に簡単に溺れてしまう。
浅瀬だけを見て、通り過ぎてしまうことも出来るのですが。
私は深海です。深海で出会いましょう。


言葉にならない程美しい文章が、出てこないのです。
少しだけ睡眠薬の冷たい味がします。
リリカルで、赤くて、甘くて、白い味。
自分の身体を受け入れることが出来ないなら、
詩と小説を書くしかないんだ。
睡眠薬で身体と世界を曖昧にして。
私みたいにね。


静かで冷たい、ガラスの匂いに泣きたくなる。
私は今、ここにいる。お腹の奥の孤独感は、
私が生きている証。
新しいアルコールで拭かれたような春、
心持ち乾いた空気、
ヘッドホンから流れる音が、
全身を満たしていく。世界の色が変わる。
……いつかの前世、全ては雨漏りだった。


そう、私はギターの地図を持っている。


人恋しくて、冷えた街にシロップを垂らしながら歩く。
ガラス張りの電車、その沿線住民となる。
全ての人がガラス越しに過ぎ去っていく。
有刺鉄線に張り付いて死ぬか、それともウォークマンの電源を求めて、永遠に彷徨い歩くか。
どちらも同じことかもしれないけれど。


あらゆる人は、沈みゆく都市を持っている。
岩場や寂しい季節を持っている。
私たちは、海底で笑い合いましょう。
死にゆく人たちを見て、海を弔い合いましょう。


《私は私の墓を見付けました。》という
《私は睡眠薬を飲みました。》という
そんな簡単な言葉さえ出てこないのです。
私はいつでも起きています。
私の墓を見せることが出来たなら、あなたは花を、
孤独の言葉を供えてくれますか?


私は「私」という言葉から自由になりたいだけ。
誰よりも孤独でいたいだけ。
静かに、ひとりでいたいだけ。
それが私の願い。全てが死に絶えていく世界で、
今、全ては生きているのだから。

私は、全てを見ていたいだけ。




放課後の水道、ガラスの廊下。
個人は個人として世界を持っているので、それ故に孤独で、
それ故に誰かと繋がれるけれど、
僕は先ほどから、セイコーのデジタル時計の温度表示を見ている。
ここは、僕の世界だから。
完璧主義や拘りって、脳の何処にあるのだろう?
僕が僕に拘らないならば、僕が僕である必要は無いし、
僕が僕に拘っても、結局は死ぬ。
身体全体じゃなくて宇宙全体で。
だから、多分溺れることだけが肝心なんだ。
死後も溺れ続ける海を見付けることだけが。


ずーっとビリー・アイリッシュの歌を聴いていて、
彼女の歌の中でなら死ねると久しぶりに思いました。
一ヶ月後に、彼女の新しいアルバムが出るので、
一ヶ月寿命が延びた、と思います。
僕は冷たい人間です。この家ではなくて人生が僕の家だと感じます。
この辺りには薄暗い図書館が無くて寂しいです。

痛みが欲しい。世界中の白い部屋が真っ赤に染まるまで。
もうそこから動かなくて、
そこで死んでもいいと思えるまで、ここに留まる訳にはいかないのです。

傷付いて、傷付いて、骨さえも削げ落ちて、
僕が僕でなくなるその瞬間まで、……
そして雨が降り、僕の名前を溶かすでしょう。
名前が最初に溶け切って、最後に僕の命が、僕の命として、
それでもやっぱり自分って分からなくて、世界に
まじまじと見とれて、遊びたくて、孤独も寂しさもあって、
自分を受け入れなくて、弱くて強くて、強くて弱くて、
自信の無い僕のままで、ただ詩と小説を書いていると思うのです。


私は今、社会と繋がっている。コンセントと繋がっている。ケーブルのずっと先には、原子力発電所があって、青い核融合炉があって、私はそこから感情を供給している。
感情が溢れ出しては涸れ、溢れ出してはまた涸れる。
シューベルトを聴いてると200年前と繋がっているし、バッハを聴いてると300年前と繋がっているので、歴史なんてみんなドット絵のヴァーチャルで、そしてみんな嘘みたいに花の比喩みたいに感じる。

本当と嘘の区別って知ってる? その境目が無くなったとき、あなたは本当に生きてるし、私のいる本当の場所が分かる。何故ならそこには孤独があるし、この世の原理や輪廻からは外れるけれど、そこには純粋な感情だけがあるから。誰も私の好きな世界を壊せない。祈りが根拠となる場所に、私はひとりで佇んでいる。あなたもひとりでいるとき、私とあなたは、きっと本当の意味で繋がれるよ。何故なら嘘も本当も生も死も無いとき、何の境目も存在しない場所にはただ、孤独だけがあるから。


どこまでが存在で、どこからが非在なのか、私には分からない。
誰も大人にはなりたくないし、老人になりたくないし、少女のままではいたくない。
どこまでが私で、どこからが私ではないのか、私は変化そのものなので、分からない。
全てが私だし、全ては私ではない。時によって、私はいないし、時々私はいすぎる。
そして私は地球の裏側にいる。見慣れた景色からはすごく遠い。
塩辛い空気を吸って、触ることも出来ない人たちと、見慣れない景色の中にいて、
これはゲームじゃないんだ、と確認して、そして一生泣けないと思う。
言葉を書いて、そしてそれを読んで貰える環境の中でしか、私は泣けない。


(心によって出来た結晶たち。)
雪の結晶のように歌いたい。


私には数なんてもう、何の意味も無い。
ヤマハのスピーカーが溺れてる。
窮屈になることって人間くさいけれど、
生き死にを気にしないとき、人は人に好かれるのだって。
雨の音を聴きながら、私は何万年も前に見付けた答えを思い出として、
電光掲示板の下や、廃墟の街で、
そこが私にとっての、人類最後の場所ならいいなと思う。

null(2)


全ての人は深海なので、人は人に簡単に溺れてしまう。
浅瀬だけを見て、通り過ぎてしまうことも出来るのですが。
私は深海です。深海で出会いましょう。


私には数なんてもう、何の意味も無い。
ヤマハのスピーカーが溺れてる。
窮屈になることって人間くさいけれど、
生き死にを気にしないとき、人は人に好かれるのだって。
雨の音を聴きながら、私は何万年も前に見付けた答えを思い出として、
電光掲示板の下や、廃墟の街で、
そこが私にとっての、人類最後の場所ならいいなと思う。


言葉にならない程美しい文章が、出てこないのです。
少しだけ睡眠薬の冷たい味がします。
リリカルで、赤くて、甘くて、白い味。
自分の身体を受け入れることが出来ないなら、
詩と小説を書くしかないんだ。
睡眠薬で身体と世界を曖昧にして。
私みたいにね。


静かで冷たい、ガラスの匂いに泣きたくなる。
私は今、ここにいる。お腹の奥の孤独感は、
私が生きている証だ。
新しいアルコールで拭かれたような春、
心持ち乾いた空気、
ソニーのヘッドホンから流れる音が、
全身を満たしていく。世界の色が変わる。
いつかの前世、全ては雨漏りだった。


放課後の水道、ガラスの廊下。
個人は個人として世界を持っているので、それ故に孤独で、
それ故に誰かと繋がれるけれど、
僕は先ほどから、セイコーのデジタル時計の温度表示を見ている。
ここは、僕の世界だから。
完璧主義や拘りって、脳の何処にあるのだろう?
僕が僕に拘らないならば、僕が僕である必要は無いし、
僕が僕に拘っても、結局は死ぬ。
身体全体じゃなくて宇宙全体で。
だから、多分溺れることだけが肝心なんだ。
死後も溺れ続ける海を見付けることだけが。


そう、私はギターの地図を持っている。


人恋しくて、冷えた街にシロップを垂らしながら歩く。
ガラス張りの電車、その沿線住民となる。
全ての人がガラス越しに過ぎ去っていく。
有刺鉄線に張り付いて死ぬか、それともウォークマンの電源を求めて、永遠に彷徨い歩くか。
どちらも同じことかもしれないけれど。

私は今、社会と繋がっている。コンセントと繋がっている。ケーブルのずっと先には、原子力発電所があって、青い核融合炉があって、私はそこから感情を供給している。
感情が溢れ出しては涸れ、溢れ出してはまた涸れる。
シューベルトを聴いてると200年前と繋がっているし、バッハを聴いてると300年前と繋がっているので、歴史なんてみんなドット絵のヴァーチャルで、そしてみんな嘘みたいに花の比喩みたいに感じる。

本当と嘘の区別って知ってる? その境目が無くなったとき、あなたは本当に生きてるし、私のいる本当の場所が分かる。何故ならそこには孤独があるし、この世の原理や輪廻からは外れるけれど、そこには純粋な感情だけがあるから。誰も私の好きな世界を壊せない。祈りが根拠となる場所に、私はひとりで佇んでいる。あなたもひとりでいるとき、私とあなたは、きっと本当の意味で繋がれるよ。何故なら嘘も本当も生も死も無いとき、何の境目も存在しない場所にはただ、孤独だけがあるから。


どこまでが存在で、どこからが非在なのか、私には分からない。
誰も大人にはなりたくないし、老人になりたくないし、少女のままではいたくない。
どこまでが私で、どこからが私ではないのか、私は変化そのものなので、分からない。
全てが私だし、全ては私ではない。時によって、私はいないし、時々私はいすぎる。
そして私は地球の裏側にいる。見慣れた景色からはすごく遠い。
塩辛い空気を吸って、触ることも出来ない人たちと、見慣れない景色の中にいて、
これはゲームじゃないんだ、と確認して、そして一生泣けないと思う。
言葉を書いて、そしてそれを読んで貰える環境の中でしか、私は泣けない。


あらゆる人は、沈みゆく都市を持っている。
岩場や寂しい季節を持っている。
だから私たちは、浅瀬で笑い合いましょう。
死にゆく人たちを見て、海を弔い合いましょう。
私は私が許せないほど私が好きですが、
他人を見ていると引きずり込まれて足が竦みます。

空が好きです。
そこには全ての危険が集約されているから。
言葉は羽です。飛ぶためではなく泳ぐための。
ところが言葉は言葉の無い場所にあるのです。
言葉の無い言葉の先で、言葉を見付けるでしょう。
孤独の冷たさを、私の墓に供えるために。
墓はきっと、私の底にあるのでしょう。

《私は私の墓を見付けました。》という
《私は睡眠薬を飲みました。》という
こんな簡単な言葉さえ出てこないのです。
私はいつでも起きています。
私の墓を見せることが出来たなら、あなたは花を、
孤独の言葉を供えてくれますか?


ずーっとビリー・アイリッシュの歌を聴いていて、
彼女の歌の中でなら死ねると久しぶりに思いました。
一ヶ月後に、彼女の新しいアルバムが出るので、
一ヶ月寿命が延びた、と思います。
僕は冷たい人間ですが、この家ではなくて人生が僕の家だと感じます。
この辺りには薄暗い図書館が無くて寂しいです。

痛みが欲しい。世界中の白い部屋が真っ赤に染まるまで。
もうそこから動かなくて、
そこで死んでもいいと思えるまで、ここに留まる訳にはいかないのです。

null(1)


風向き次第で、理由なんてどんどん変わる。
生きてる理由も、死にゆく理由も。
搾りたてのオリーブオイルみたいに、
空気はいつも揺れていて、
私が私である理由は、ただ、
お気に入りの黒い靴のおかげだったりする。


アメリカ大陸をつるつるに磨き上げるように、
ソフトクリームを両手に持つように、
12本の鉛筆をふたりで分け合うように。
生活は「今」というアトリエ。


不安や動悸こそが恩恵なのだと、
命が尽き、全てが冬になるとき、
あなたは何か、多分風に似たものを感じる。


(心によって出来た結晶たち。)
雪の結晶のように歌いたい。


不安の無い世界で会いましょう。
私はギターの地図を持っていて、
あなたはピアノの地図を持っている。
部屋はとても四角くて、そこに白い陽が差して、
ガラスのような心拍を、
私たちはふたりで見詰め合っている。


ギターが一音ずつ揺れている。
脳/細胞に共鳴する酸素。
ただ光る波としての私を勝手に見ててもいいし、
誰も見てなくても平気。
宇宙の光や星の粒と、同じ呟きを、
手のひらの窪みに載せて。


少し楽しくて、全て繋がっているのはどうしてなんだろうと脳裏でテレパシーみたいに、僕の心/身が交信し合っている。
多分、誰かと一緒にくすくす笑い合えたら、最後の瞬間はそれだけでいいんだ。
不完全なデータを残してきたけれど、最後はきっと笑顔で塗りつぶせる。
そして消えるんだ。


私たちはみな、誰もいない場所に住んでいる。
けれどちょっと大人になって、今日の祖母に「おめでとう」なんて言ってみたら?

(18:57)

高校生の頃 よく聴いていたEDM。

何も かも覚えている。

notebookは、窓・緑の風景――風……
私は繋がりが欲しい、道に
あなたの街の道路に、立ちすくみたい
時計は針で手首に留めた 急に
サイレンが聞こえない 躁 神経は冷たい
ドライアイスみたいに 心 もうみんな気化して いて どう
も こうも 乾いた異物の明るい未来
   //
汚れた部屋 指を 私の指輪を
一時間も回している すてきな部屋、何も無い部屋
悲観の煙草を吸う 退屈な涙みたい
壁であなたは笑っている 笑っている
ねえ世界は美しいね こんなに……

目ばかり開けて 鏡みたいな夜しか見えない
死んだら私の顔も美しくなるだろう

明かりを消して 私の図書館へ行く
一冊一冊 背表紙を撫でていく
分厚い本を取り出して
椅子に座って抱いたまま
私は青く
死につつある

空間を愛せるまで

あ、ちょっと森のような。
配水管の白さに陽が当たってて。
理想なんて価値が無くて、
死んだら私、衛星になって、
永遠に、街を見下ろしてていいですか?

赤いフレームの眼鏡を掛けて、
冷たい海を、青く傷付いて、
生命線の泉を、ガラスの裸で、
ひとり愛してていいですか?

春の世界を見下ろしながら、
血の雨が降るまで、
ギターを弾いてていいですか?

夜が全て、夢見のいい眠りに染まるまで。
夜の住民たちが、甘い大気を、
たっぷりと食べられて、彼らの満ち足りた身体が、
音楽へと、溶けていけるまで。

空を見下ろし、血を吐くまで歌って、
指先から血が流れるまで、
ギターを弾いていたいです。

それが、私の願い。
眼に映る活字の世界。
そうっと、ディスプレイに手を伸ばす。
腕と空気の境目も無く、空間には座標が無く。

プログラミングされた世界でも愛おしい。
街を見下ろし、私は私の消滅と、
血の濡れた温度を感じたいです。

生きてる間、私は個体で、
がむしゃらに絶望のパズルを迷うのでしょう。

死んだ私は、また眼となり、映る世界をただ聴いて、
人たちの不幸と生活の中にある、
無限の愛しい命の種を震わせながら、
祈りそのもののとなるのでしょう。

ノイズ、全てはノイズです。
ぱっちりと目覚めた夢の中で、
過去も未来も永遠も、生も死も無く、
私は今、私を許してていいですか?

消えていく、消えていく。
全ては、元あったように。
私もまた永遠に、
身を沈めてていいですか?

全てが元あったように。
死後の永遠に、
身体を溶かし尽くしてていいですか?



森の冷たい手前で、とてもとても若かったこと。
私は身勝手な私の底に、ひとり沈み込んでいく。
ガラスの地球儀に、×印を付けていくみたいに。

ガス室みたいなベッドで、
ひとり、ビル風を浴びています。
アスファルトの透明さを危ぶみながら。

ちょうど手のひらに乗るサイズで、
歌は溢れています。


私は、危うさを、
とても愛しているのです。
好きな人に好かれないから、
この世は地獄ですが……。
結局は、
地球とは幽霊であり、そして沈黙なのです。


寂しくて、自分のことが分からない女の子の秋、
冷たい森のようなこの気持ち、
あたりまえ、で溶けてしまう、壁の前、
風にカーテンが膨らんでいる雨の路、

心の帰り道と、安心できる家。
私が私を受け入れられる家。

誰にも変だと思われない、
誰もに必要とされる、酸素になれるような、

……ひとりぼっちで私を愛せる、
部屋をください。