日々のこと、考えたこと

11月5日(土)、
 朝。不安だ。陽射しがぽかぽかして、子供らの声がする中で、僕は骨まで冷え切ったような気分でいる。身体じゃなくて、心がかじかんでいる。昼の光の中で分裂して、我を失いたいと思う。部屋の中は、中途半端に古びた、つまらなくて心に反する本の中みたいで、つまらないなりに楽しむということが出来ない。子供たちの顔にも、影が重なっていき、いずれ彼らは、影に覆われた、とても血色の悪い表情を浮かべるようになる。よく響く声も、高いのやら低いのやら分からない乾いた声と、嘘笑いに変わっていく。サイボーグや人体改造や脳内チップの時代が来ると言われているけれど、果たして僕は本当に女の子になれるんだろうか?
 それとも僕の趣味も変わり、鄙びた中年の男のまま半永久的に生きたくなるだろうか? 少し疲れた感じの、古書店の店主みたいな風貌のおじさんは悪くない。アニメなどでは、何故か古書店や骨董品店の店主は、老人ではなく中年の男で、しかも結構格好良く描かれている印象がある。ある意味孤高で、浮世離れしているからだろうか?
 何にしても、だ。サイボーグになるにしても何にしても、ギターは弾きたいし、歌いたくて、書きたい。才能や技術はプログラムでさっとインストール出来るとは思えないから、技術や知識だけあっても、それは工業ロボットや電子辞書と同じだから、才能みたいなものは、努力して深めなければならないんだと思う。心の問題は難しい。心の奥深くのことについては、科学ではまだまだ解明出来ないと言われている。心の底や、人の心が描く世界そのものを、定式化した人はいないからだ。そう言えば映画の『ブレードランナー』でも、人間とアンドロイドを区別するのに、心理テストみたいなのを用いていたことを思い出す。アンドロイドにタグを付けるなりすればいいのに、と思ったけれど、ロボットと人間との違いを、テストでしか分からない心理で分けていたのが面白い。

 昼。最近、言葉は頭で書くのではなく、あくまで指先と、指先を含めた身体全体で書くんだ、という感覚を思い出してきて嬉しい。書こうとして頓挫していた小説の続きを書いていて、まだ全然ではあるのだけど。書くことと演奏することはとても似ている。完璧に澄んで、研ぎ澄まされてて、かつ広々として、光に満ちた意識で書けたらいいと思う。
 書くことに関しては、誤解している人が多いと思う。自分がいて、書きたいことがあって、それを言葉に変換して書く、というプロセスが一般に信じられていると思うけれど、それではとても主観的で生活的なことしか書けない。言葉の外に、確固として確立された自分という主体なんていない。生活している自分が、自分の全てではない。もちろん、書いている人の主体性(性格)がよく感じられて、生活感のある文章も、それはそれで素敵だけれど。
 書きたいことを言語化する、という方式だと、書きたいことを完全に言語化することは不可能なので、書いた本人も、自分で満足出来る言葉を書けないだろうと思う。
 書きたいことは、思考や朧気なイメージより、ずっと深いところにある。「深いところ」というと曖昧だけれど、「こういうことを書きたい」と思ったときに「いや、でも本当はもっと何か」と頭の隅でちらっと光るような「何か」があって、誰しも、簡単に見付けられて、すぐに言語化出来るようなことは、本当に書きたいことではないのではないかと思う。思考や言語に移すことが不可能に思えて臆してしまうような、頭の隅のきらきらした「何か」を書きたいんじゃないかと思う。書いていて、初めて自分にも見えてくるもの。説明するよりもずっと、踊るように、泳ぐように書くこと。その先に見えてくる、自分自身さえ想像していなかった何か。書くことは聴くことにも似ている。普段は聞こえない、自分の心や、細胞の声に、耳を澄ますこと。
 とは言っても、口で言えば、「考えずに、ただ書け」という非常に単純明快なことなんだけど、それを実践するとなると、なかなか難しかったりする。

 夕方。雨戸を閉め切っていると、小さなLEDの電球にデスク周りだけが照らされた部屋は、薄明るいというより真空状態みたいに感じられる。宇宙の果てのポッドにいるみたいだ。午後四時までは雨戸を開けていたけれど、黄ばんだカーテン越しの陽光は、部屋を病室みたいに染めていた。
 雨戸を閉めるために窓を開けると、一瞬外の世界を見渡せたけれど、そこは空気が透明で、微生物さえもガラスになって風景に溶け込んでいるような、張り詰めた、まるで冷たい妖精でも出てきそうな情景に見えた。そこは僕の部屋とひと続きの世界には、まるで見えなかった。あまりに近くばかり見て暮らしているせいか、遠近感が咄嗟には戻って来なくて、空も道路も静止画みたいで、僕に対してとても排他的な感じがした。

 夜。夜が一番好きだ。

 

11月6日(日)、
 静止した、たった一つの世界。夜中、二日も眠らずにいて、疲れて何も感じなくなると、頭の中の、自分ではうまく静止できない場所で、悪夢が流れているような感じがする。悪夢が現実を、簡単に侵食してしまう時期があった。それは自分と、世界の奥底の繋がりみたいなものが切れて、孤立した自分の回路に、自分ひとり、組み込まれているような感覚だった。

 一度でも宇宙に行ったら、あるいは前人未踏の深海に潜ったら、それがどんな短い時間であっても、もう宇宙や深海を無いことには出来ない。それと同じことが心にもあって、一度心の底にあるものを、きちんとした意識で体験したなら、もう心の底を、無いことには出来ない。

 僕は積極的には、生きる意味を信じていない。自分をあまり信じていないのかもしれない。大体において僕は、社会的な自分や、生活的な自分や、人間としての自分、大人としての自分、男としての自分、なんてものの確立を忌避し続けてきた。僕にはスキルも全然無いし、教養も、すばらしい人格も、個人としての意見も、何ひとつ所有していない。太宰治が、自分には何ひとつ無いけれど、唯一、苦悩してきたことにだけは自信がある、ということを書いていて、馬鹿だなあと思った。太宰治は嫌いではなくて、全集さえ揃えているけれど。
 自己を確立したとき、確立された自己以外の、無限の自己が除外されてしまう気がしてならない。僕は誰でもあり得るのに、と。出来るだけ、拵えた自己に拘束されることを避けてきた。僕が持っているのは、僕の世界観だけだ。
 心、あるいは世界には、深いところと、浅いところがある。深いところには対立は無く全ては統一されていて、浅いところでは、全ては対立の中で、無限にばらばらに存在している。そして、深いところと浅いところ、どちらかひとつが本当の世界ということは無い。僕はあまり深いところにも、浅いところにも、ひとしく居続けることが出来ない。僕は、自分はペンギンなのだと思う。地上ではよたよた歩くことしか出来ない。でも、地上では他のペンギンと会話が出来て楽しい。そしてまた、僕はひとりきりで海を泳ぐのが大好きだ。深く潜り、浅瀬を泳ぎ、そしてまた陸に上がってくる。
(「詩人はペンギンだ」と書いた詩人がいて、僕はそれを本当に素敵な言葉だと思ったので、ずっと座右の銘みたいにしているのだけど、誰がそう書いたのか、すっかり忘れてしまった。……検索したら見付かった。カミングズの言葉で、正しくは「詩人はペンギンだ。その羽は、泳ぐためにある。(“A poet is a penguin—his wings are to swim with.”)」だった。長い間、僕は自分を、羽の折れたペンギンだと感じ続けてきた。)

 

11月7日(月)、
 書いていて少し気持ち良くなることが、最近、時々ある。昔は、書いてさえいれば、大抵ずっと気持ちが良くて、無敵の気分になれたものだけれど、長年、何故かその状態に入れなかった。一秒たりとも。

 何をしても楽しくなかった。ずっと、不安が黒っぽいアメーバみたいに心に寄生していて、それを引き剥がすのは無理なんじゃないかと思っていた。笑っていても、趣味に走ろうとしても、本当に、一秒も楽しくなかった。言葉と音楽が最高に楽しかった時期が懐かしくて、毎日毎日試行錯誤していた。

 僕は書くときは、昔から、ほぼ必ず音楽を聴いている。最近はよく、スピーカーで音楽を聴いている。昔、ヘッドホンよりもスピーカーの方が好きだと言っていたときの感覚も、少し思い出してきた。ヘッドホンはヘッドホンで大好きなんだけど。

 

11月8日(月)、
 僕の過去の記憶には、粘着質の紙テープがべたべたと貼られていて、しかもそのテープがあちこちで捩れたり、結び目を作ったり、こんがらがったりしている。記憶自体に張り付いていると言うよりは、寧ろ過去を振り返る僕の目に、テープがいっぱい絡み付いているような感じだ。
 今日は月が明るい。ジャクソン・ポロックは「自然とは私だ」と言った。僕もそう思う。自然とは僕だ。けれど同時にポロックは、自分は月の光や満ち欠けに大きく影響を受ける人間だとも言っていた。それも同感だ。月が明るい晩には、心の湖が澄む。テープのべたべたや括り目が一時的に解かれて、身体が軽くなる気がする。体液が透明になる気がする。

 ここ数日、僕は本当はとても宗教的な人間なのではないかと思い始めた。特定の宗教には入らないと思う。自然や物や、人間に対する、あるいは見えないものに対する、慈しみのような気持ちが、僕を生かし、また僕の世界を生かしているのではないかと思う。慈しみは言葉を産むし、そして言葉を旅するその旅路は必ず、僕が目指す、世界の彼方に連なっているだろうと思う。瞑想には興味が無い。マントラにも興味が無い。けれど祈りはある。
 小さな小さな人間的感傷が、結局は一番深くて、一番遠い何かへの唯一の道なのではないかと思う。何故そう感じるのか、理論立てて説明することは出来ないけれど。それは「人間とは何か?」という問いに対する答えと似ている気がする。矛盾も含めて、苦しみも痛みも含めて、全ては人間なのだ。人類に対する漠然とした愛ではなく、個人的な愛が全て。たとえばグレゴリオ聖歌を聴いてみると、それは神がかっていて、何か、心の中に反応する場所があるな、と感じるけれど、結局のところ僕個人にとっての全ては、聖歌ではなく、ニック・ドレイクの歌の先にあると思う。
 そして大切な誰かの手の温度、何気ない会話、微かな心のずれに胸が軋むこと、神経症的に震える、優しい笑み、寂しいこと、葉っぱが鳴ること、誰かとふたり、薄明かりの朝を迎えること。儚く、さり気なく流れていっては、心を疼かせる、様々な日常的な風景が、その何気なさゆえに、僕を遙かな場所に連れて行ってくれる気がする。

 普遍的な方向や方法なんか無い。自分の世界があるだけだ。自分なりに好きになり、自分なりに書くだけのこと。こうすれば間違いないという生き方は存在しない。
 古びて冷たいお城。ひび割れた外壁にはツタが這っていて、そこにはやっぱり明るい、冷たい月が昇るだろう。中庭の大きな枯れ木と、木の許の泉。僕の故郷はイギリスにあるような気がしてならない。イギリスのヒースの荒野が、たまらなく愛しい。あるいはフランスの郊外の、人気の無い古城を思う。湖上を思う。数百年の時を経た一室で、僕は紙片を糸で編んでいる。何かしら明るく、古めかしい数式が似合うような部屋。僕の故郷は欧州の果てにあるのではないだろうか? 季語や俳句や和歌の中には生きられない。
 詩はイギリスやフランスの風を運んでくる。フランスに憧れ続けた中原中也萩原朔太郎のことを思う。日本には、もう長くはいられない。


 言葉は、情報を記録して、伝えるだけのものではない。もし言葉が正確に、現実の写しでしかないならば、僕は言葉に興味を持たないだろう。蜂は言語を持つ。けれど言葉は持たない。花の蜜の方向や距離をどんなに正確に表せたとしても、蜂は歌わないし、パソコンの前で白紙のディスプレイを眺めながら、キーボードに手を置いて、何時間も茫然としていることの心許なさを知らない。言語は学問になるけど、言葉は学問にはならない。何故なら学問以前にあって、学問の根拠になるものが言葉だからだ。
 学問は言葉に近付くためにあるのであって、言葉が学問に寄与しているのではない。その逆で、学問が言葉に接近する為に寄与しているのだ。言葉に近付くためにあるもの。五感も感情も、みんなそう。何もかもを動員して、言葉に近付き、人は、言葉を探る。言葉に潜り、言葉を耕し、小さな生を言葉に沈める。言葉を掬う……。そしてやっと、不器用ながらに言葉を発する。詩や小説を書く。物語を紡ぎ、楽器を弾く。不器用さが言葉を、言葉から言葉を紡ぎ出す力にする。言葉そのものが同時に、言葉を生み出す力だということ。そして言葉は不器用さを中心に紡がれていく。個人にしか発することの出来ない全ての言葉。言葉の全て。それは全て。個人の生が全て。

 宇宙は言語で表せる。惑星の軌道や、星のきらめきについて。彼らは何も語らないけれど、とても大きな沈黙の言葉を抱えている。沈黙に耳を傾けること。沈黙の声を聴くこと。眼の前の壁だって、ディスプレイだって、常に無限の沈黙として、全てを語っているから、時々僕は、これら全ての沈黙に、僕という主体を溶かし切って、消えてしまいたいと思う。自失したい。それは、自分と、全てとの境界を完全に無くすことで、完璧に、完全に、気持ちいいことだから。
 でも、それ以上に、僕は言葉や音楽が好きな気持ちの方が強くて、ニックや中也のいる世界に戻ってくる。そして僕自身、書きたいし、欲を言えば、ギターを弾きたいし、歌いたいし、さらに欲を言えば、英語やフランス語を学びたい。ドイツ語にも、少し興味がある。そして僕はその欲を、とても頼もしく思う。同時に果てしなく哀しい光のように思う。欲を抱くって。生きていくって。人間の生って果てしない。
 僕は書きたくて、同時に、ディスプレイの果てしなさに溶けていきたい。音楽や言葉に溶けていきたい。

 書かれた言葉だけが言葉ではないけれど、書かれた言葉の方に、僕はより興味がある。そう思う程度に、僕は神経症的な現代の人間だ。身体や樹や音や万物のあらゆるものに詩を感じられる時代は終わった。少なくとも僕の中では。僕は鳥の声を聞いても虚しくなる。書かれた言葉が愛しい。音楽が愛しい。人工物が愛しい。ニック・ドレイクを聴いて、中也の詩を読んでいる。僕はとても偏っているけれど、人が好きだと思う。ひとつひとつを愛することは、全てを愛すること。それで全てが愛せたなら、僕は、自然を自然として、個別的にも愛せそうな気がする。
 けれど、僕はこれから一生花鳥風月や日本の四季や自然を愛せなくても構わない。愛せなくても愛しているようなものだし、人工物が大好きなら、それだけで一生を終えても別に構わないと思っている。

 

11月8日(火)、
 ぴりっとしてて甘い風が吹いて、朝になると冬の予感がする。昼間は暖かくて、まだ秋の続きに住んでいるんだなと思う。コートを脱いだり着たりしている。僕は部屋から出ることが極めて少ないので、季節の移り変わりは、風の匂いや温度から類推するしかない。

 今日はたまたま皆既月食が見られる日だった。相変わらず空は澄んでいて、本当にくっきりと、月の光が影に覆われていく様子が見えた。影になった部分も、ぼんやりと赤く光っていた。その内、月全体が淡く暗いピンク色になった。両親と、道路に並んで、それを見ていた。他に空を見上げている人は、近所には誰も見当たらなくて、みんな風情が無いなあ、ネットで見ているのかなと思ったけれど、時間ぴったりになって、向こうの家から、おじいさんが二人、道路に出てきた。近所の子供も、女の人も、誰も出てこなくて、おじいさんだけが空を見上げてたのは面白かった。老人は暇なんだろうか。でも変化していく様子が面白いのになと少し思った。月が段々に影になっていく過程には、何故かわくわくして、子供の頃の、プラネタリウムを見た感覚をふと思い出した。

 書きたいのに書けないときは、心の中の滑らかな流れに、じっと耳を澄ますような、そこに指を少し浸してみるような気分で、ただひたすら椅子に座って音楽を聴いている。最近、僕としてはかなり、すなわち一日に一冊以上、詩や小説を読んでいるけれど、自分では一行も書けない。書けないと虚ろになって、頭だけで、哲学的な思考に走ってしまう。

 存在が、解体されること。夢のように。たまにギターを弾きながら、そんなことばかり考えている。解体……、と言っても、哲学はよく分からなくて、いまだに、構造の解体とか言われても何なのか全然分からない。言語哲学というものがあって、言葉に関する学問なら書くことにも役に立つかもと思ってWikiで調べたけれど、全く何のことか分からなかった。
 言葉に関することで面白かったのは、井筒俊彦さんという人の、主に東洋哲学についての本と、特にそこに書かれていた真言宗の辺りについてのことだけだ。真言宗は文字通り真の言葉についての宗だということも知らなかった。言葉が何処まで遠く、深くまで行けるのか、表すことが出来るのか、と言うことについて、真言宗では、完璧な真理まで行ける、と言っているらしい。
 ロラン・バルトという人が、書くのは意味とか主張とかじゃない、頭ではなくて、存在全てを懸けて書くんだ、ということを言っていたらしくて(井筒さんの本で読んだ)、それはケルアックも似たことを言っていたなあ、とぼんやり思った。言ってみれば、考えがあって、それを書くんじゃなくて、書くという作業自体が考えや自分というものをどんどん開いて行くような感じ。それはすごく親しい考えで、白紙から書くのは(得意かは置いておいて)楽しい。書くという作業以前の何か、書きたい内容とか、自分の存在なんてあまり、僕は信じていない。演奏することと同じで、自分の主張みたいなものを一生懸命込めるのではなく、かと言って出鱈目でもなく、最低限の規則にだけ則って、あとは心を込めるだけで書くのがいいと思う。

 

11月9日(水)、
 昼。鹿が鳴いている。……

 朝から延々アニメばかり見ていた。

 

11月10日(木)、
 真夜中。やっぱり鹿が鳴いている。寂しい鳴き声。

 

11月11日(金)、
 昨日も一昨日も、考え得る限りのものぐさな生活をした。生活とも呼べないか。フランス語の詩集を開く。ろくに読めない。少し朗読してぱたんと閉じる。中也の詩集を開く。中也の詩は多くを暗記しているので、一頁開いては、眼を瞑り、頭の中で読む。ぱたんと閉じる。鹿でも鳴いてるかなと思う。耳を澄ませると全然鳴かない。何か書こうと思って、パソコンの方を見ても、電源を入れる気にならない。それが幸せな一日の過ごし方なのかは分からないけど、まあ悪い気はしない。でも、段々、このままじゃ頭も身体も腐っちゃうなと思う。小川洋子さんのエッセイ集を一冊読んだ。
 確かにここは山に近いけれど、一応は住宅地だ。鹿が街まで下りてきた話は聞かないから、鹿の声はよほど遠くから響くのだろうか? それともあれは鹿ではないのだろうか? 母は鹿の声なんて聞いたことないし、分からないと言っている。キジか何かかもしれない。あるいは近所の、鹿の真似の上手な人が、鳴き声を練習しているのかもしれない(鹿をおびき寄せて仕留めるため)。

 折に触れて孤独になることが出来たら、生きることは相当、楽になるだろうと思う。ひとりでいても、なかなかひとりの気持ちになれない。