日記、Loscilを聴きながら

11月12日(土)、
 未明。街が寝静まってからの時間が好きだ。デスクライトの明かり。ディスプレイの四角い光。キャレットの点滅するエディタ。白いスピーカーから流れる音楽。僕は僕だけの世界を、必要最小限の物たちで温かく組み立てていく。キーボードをぱたぱた叩いている。ペリエと煙草があれば、他には特に何も要らない。

 本当に少しずつ、少しずつ、調子を取り戻してきた。

 夜。音楽を大音量で流している。

 

11月13日(日)、
 胸の奥が凝るような、その凝った部分ががたがた震えるような、椅子に座っていれば椅子から転げ落ちそうになるような、とても不安定な気分。
 身体が揺れている。物音に対して張り詰めている。

 Loscilを聴いている。彼の音楽は、エレクトロニカなのに、いつも悲しげだ。まるで終わってしまった地球を悼んでいるかのように。弦楽器の音に混じって、微かに虫の音が聞こえる。音楽をミュートにしたら、虫はリアルの世界で鳴いていた。窓の外から。虫たちは、彼らの季節がもう終わりを迎えたことを知っているように、儚く鳴いている。そう聞こえるだけかもしれないけれど。冬に鳴くものは、何だって寂しい。冷たい空気に濾されて、遠い車の音さえ寂しい。多分、この頃、日暮れがとても早いから。
 空を写真に撮りたい。インスタントカメラで。世界が滅びていく過程を、一日一日、記録していきたい。優しさと宇宙が両立する場所で。

 自分がどんな不安や恐怖と闘っているのか、自力で知ることはとても難しい。不安はただの、脳の問題だ、と簡単に片付けることも出来る。向精神薬にも様々な種類のものがあって、それに頼ることも出来る。でも、僕が欲しいのは、楽になるための、自殺以外の方法だ。薬を飲まなくても、いつかは訪れるはずの、感動に満ちた世界。
 けれどその情景は、僕の中で、いつも病院の屋上から見る風景だ。見下ろす静かな街に夕陽が射して、僕はギターを持っているけど、いっこうに弾かない。何だかそこが僕の最終地点のような気がする。誰もいない。傍にある冷たいギター。見下ろす街を照らす最後の夕陽。悲しくて、とびきり美しい、現代的な、終わりの風景。

 言葉は無力ではないと思う。いろんな国の言葉がある。そして、どの国にも属さない言葉がある。心の中に。謂わば、言葉になる前の言葉。言葉は形を取りたがっている。いろいろな言葉が、そして生まれる。言葉の起源、バベルの塔以前の言葉を探したって、見付かりっこない。だって、言葉の始まりは言語学者本人の、僕たちの、ひとりひとりの中に、既に、いつだってあるものだから。泣いている自分。冷たい廃倉庫のような場所に、ひとつだけの花が咲いている。廃墟の中で迷子になって、泣いている子供が、誰の中にもいるはず。花を見つけ出して欲しい。(その願いが、つまり書くことなのだろうか?)
 花を見つけたとき、僕たちはそこが廃墟ではないことを知る。見いだすのは、深く深く、満ち足りた海。その、明るい底の方に、僕たちは生きている。彷徨う人の形が僕なのではなく、花を探していた僕は、ほんとうは花が僕自身で、僕は自分自身を探していたんじゃないかと思う。海の底に咲いている、白い花。
 それよりも、もっともっと深い場所があるのだろうか? たとえば、宇宙の果て。銀河や原子の語る物語。知らないけれど、何かもっと、あるんじゃないかな、と思う。きっと見られるだろう。きっと知ることが出来る。
 とは言っても、僕は古びた廃墟の屋上で、人間のまま、個人のまま、ギターも弾かずに、息を引き取るような気がするんだけど。それは、何もかも知った後の、僕の感傷的な姿なのだろうか? 許容なのだろうか? 離別なのだろうか? いいんだ。全て(?)を知っても、知らなくても。

 ……人の温かさの中にいて、人たちは僕に良くしてくれる。怪訝そうな目も含めてね。でも、人たちの生活、人たちの愛情、善意、笑顔の全てが、暖かい世界、向こう側の風景に見えるときが、きっと来る。あなたにも。僕たち誰にだってきっと。自分の存在さえ疑われ始め、そして全ては宇宙の一部なのだと知る。一部が宇宙だと知る。あやふやに溶けつつある自意識の中で。そのとき君たちはみんな夕陽を夢見るようになる。そうして屋上へと上り始める。ひとりで、夕陽の中で。きっと来るよ。自分の生を知り、自分だけの物語を知るときが。全てだったんだって。生きていた世界が、全てだったと知って、あなたはきっと子供になり、大切なものを抱いて、屋上への扉を開く。ぱーっと世界を満たす夕陽の中で、あなたはきっと、最後の微笑を浮かべる。微笑み。やっぱりそれは、許容なんじゃないだろうか? 僕は、待っている。
 生きている。生きていることそれだけが、全てに満たされていることの証拠であると、時に思いながら。満たされていることそれだけが、僕の尊厳なのだと認めながら。……認められるのはたまになのだけれど、それでも。