日記、思ったこと

10月15日(土)、
 少し遠くの図書館に行って、小説を借りてきた。陽だまりは懐かしく澄んでいた。小説からは、少しレモンの匂いがした。
(小雨の朝とは違う昼の光や、少し遠くに来たという身体の浮遊感とか、風が染みることとか、今また空に浮かんでいる月の遠さとか、夜の滲み具合とか、そう言うものが、単に今、頭の中に書き込まれている情報なのだとは思えない。)
 カーテンを開けたままの部屋に帰宅したら、とろとろと部屋に流れ込んでくる夕闇に、異様な既視感を覚えた。心の引っ掛かりにぼんやりしている内に、すぐに部屋が暗くなってしまった。心の中に、何かちかりと光るものがある。何にも思い出せないことに、虚しさと孤独さと、少しの安らぎを感じながら、やっと電気を付ける。

 さっさとカーテンを閉めて電気を付けてしまうことが、健康な生き方なのだろうか? 僕には無駄な行動や感情が多い。詩や小説でさえ、無駄な感情の羅列にしか見えないことがある。でもその無駄さが秘やかに好きだったりする。サクランボより、サクランボの枝の方に親近感を覚えたりする。
 僕が健康的になったら、実用書以外はあっさりとみんな捨てちゃうだろうか? 無駄なこと、言語化に苦労することばかり考えては、ひとり悩んでいる。何か素敵なことを書こうとしては、ひとりきりで、ぼんやりしてしまう。書けないことに落胆する。僕はネガティブな連鎖を抜けられないだけなのだろうか?
 感情を簡単にコントロール出来るロボットの脳には、僕の大部分が理解できないかもしれない。僕は、たとえ間違いだらけであれ、思い悩むことをやめない。何故?

 何故、わざわざ悩むのだろう? 僕は常に何かを想像しているけれど、それは現実的な利益には繋がらないし、どんなに強く正確に想像しても、僕の想像と他人の想像するものは全然違っていて、共通の見解を得ることはまず不可能だ。でも、僕はそういう、無駄でしか無いことを、何故かとても大事に思っていて、詩や小説が大好きだ。
「詩なんかが何の役に立つのか」と訊かれたら「役には立ちません」と即答できるけど「でも……」とは言いたくなる。「でも……」の先は言えない。けれど僕は完全にひとりではない。詩や小説は毎日たくさんの人によって、書かれ続けているのだから。

 目の前のちょっとしたものを愛しいと思う。例えば、文庫本のロゴマークなど。

 カメラは、人間よりも余程正確に、完璧に風景を記録出来るけれど、カメラは多分、何も感じてない。もし、脳の中の映像記憶を、そのままメモリに移せたとしたら、十年前に見た風景だって鮮明に思い返せる。便利だ。
 けれど、古びた記憶の懐かしさ、その風景を食い入るように見詰める、昔よりずっと老いてしまった眼のひたむきさは、メモリの中には無い。
 そのひたむきさだけが、僕の根拠なんじゃないだろうか?

 借りてきた多和田葉子さんの本。読みながら、活字の連なりが今日一日の終わりを織りなしていくような感覚。僕は宇宙にほどけていく。読書ノートだけが、今夜の僕の生存を、無愛想に、きっちりと、そして、永続的に保証してくれるだろう。
 読書ノートを読み返す眼の中に、僕は生存している。他人にとっては、何の価値も無いノートだけど。

 星のように、僕は生きている。意味もなく。けれど光を発しながら。