流れ行く(メモ)


スミスを聴いている。BOSEの白いスピーカーで。タイプライターが欲しい。僕の指先から紡ぎ出されていく言葉たち。指先はとてもアナログだから、アナログの書字機械の方が親和性が高いかもしれない。英語を書きたい。とても。フランス語も書けたらいい。世界がデジタルかアナログか、それは知らない。物理学では、宇宙は細かく見れば全てデジタルで、風景っていうのは超高性能のBlu-rayみたいなものの中に収められていて、そこから3Dディスプレイみたいなものに投影された、映像みたいなものらしいのだけど。細かい素粒子の転移によって世界は動いていて、あるいは動いているように見えて、ピクセルピクセルの中間点が無いのと同じように、光も物質も、とてもとても細かく見れば、最小単位から最小単位へ、ちかちかと点滅するように移動しているらしい。本質とか実質というのは無くて、全ては文字通りの意味で、世界というディスプレイ上に、映像として存在しているらしい。だったら何だ、って感じだけど。僕にとっては別に、地球が平たかろうが丸かろうがどうだっていいし、ここが世界の中心であろうが辺境であろうが関係ない。世界がアナログでもデジタルでも、僕には関係ない。僕は言葉が好きで、書いていたい。それだけ。



僕は経験論者で完璧主義者で、とても神経質な人間だと思う。僕が人間かどうか証明は出来ないけれど、僕は僕が人間であると、一応は定義する。一応は、というのは、そんな定義なんて無くても生きていけるし、僕が僕の思考や創造力(?)をフルに活かしているとき、僕は自分が人間であるという感じが全然しない。言葉や音楽に親しんでいると、個人としての人間を超えてしまうような体験は有り触れている。



スミスのメンバー、少なくともヴォーカルのモリッシーと、ギターのジョニー・マー菜食主義者らしく、『Meat is Murder』というアルバムまで出している。名盤だ。『Meat is Murder』は「食肉は殺人だ」という程度の意味だと思うのだけど、タイトル曲は、最初に不気味なエフェクトに混じって牛の低い鳴き声が入っていて、曲調も暗く、しかも長いのでちょっと苦手だ。僕は牛を食べる。牛肉は好物だと言ってもいい。殺して、食べる。システマティックに量産された食用牛を。牛たちに命があろうが知らない。僕は多分、のっぴきならなくなったら、人の肉だってむしゃむしゃ食べるだろう。

でも、食に過剰な興味を持つことは好きじゃない。はっきり言って、味なんてどうでもいい状態になりたくて、お金があれば、完全栄養食だけ淡々と摂取して生きていたい。点滴で全ての栄養を補給出来たら、どんなに素晴らしいだろう。食欲と性欲は嫌いだ。それが大事だと言う人は、それ以外の楽しみを知らないのだと思う。確かに、いろんな感覚に興味を持つことは大事だ。いろんな料理を心ゆくまで楽しむこと、……セックスだって、脳にいい刺激になるかもしれない。でも、そればかりが楽しい人生では得られないものがあると思う。言葉と音楽で得られる楽しみや快感の方が、セックスなんかよりずっと大きく永続的で、それは麻薬体験さえ超えていると思う。薬だけが楽しいような人生になったら嫌だ。僕は、書くこと、創造することの足しになるなら何だってしたい。いろいろ経験したい。けれど、薬やグルメやセックス自体が人生の目的になるくらいなら、死んだ方がいい。



「高く心を悟りて俗に帰るべし。」という芭蕉の言葉が大好きだ。ずっと、座右の銘にしたいくらい。普遍的な事柄について深く考えることは案外簡単で、そしてあんまり意味が無い。言葉を定義したり、厳密にすることは、言葉の拡がりを殺してしまうし、感情を殺してしまう。「悟る」っていうのは、僕の場合、全てを完全にフラットに感じることだ。自分の記憶や感情や意識も含めて。それは体験であり、言葉にはならない。言葉で考えると、必ず言葉に囚われる。そしてますます体験から遠ざかる。

フラットっていうのは、自分と世界の境界を無くすこと。何故なら境界なんて初めから無いものだからだ。そして、世界の細部と細部の境界も無くすこと。それもまた、無いものだからだ。

完全にフラットになって、内部も外部も無くなったなら、再び生活の感覚に立ち戻ること。フラットな感覚は気持ちいい。でも気持ち良さだけを目的とすると、自分が人であるという感覚を無くしてしまう。今生きている人、もう死んでしまった人の心を感じられなくなる。悟った自分を、他人より優れていると思ってしまう。生活を好きになること。まず人を、そして街や社会やテクノロジーを。世俗から完全に離れた生き方もあり得るけれど、それを選ぶなら、もう人とは関わってはいけない。人を、生きた人だと思わない人ほど、危険な人はいないから。……僕は10年間ほど、隠遁したいと思っていた。でも、僕は世捨て人には向いていない。人に好かれたいし、人を好きになりたい気持ちが強すぎる。人が好きな気持ちを捨てたら、僕の感情や感覚は確実に鈍磨する。山奥にひとりきりで住んで、それで清澄な心の拡がりを感じる人もいるかもしれない。でも、僕には無理そうだ。

僕は書きたいけれど、別に正しいことを書きたい訳じゃない。思考によって言葉を書いても、言葉は生きていない。感情で言葉を書きたい。感情は、今の社会や人たちを好きだと思うときにだけ湧いてくる。知識の羅列からは決して感情は湧いてこない。今生きている自分、そして他人を感じることが大事だ。

未来や、人間の世界の滅亡や、死についてもよく考える。多分、人類の意識は段々均一化されていく。現代は苛々の多い時代だけど、いずれは永遠の平和が訪れるだろう。そしてゆっくりと、とても明るく、光の中で、全ては終わるだろう。今はまだ、どうしても個人が個人であることの悲しみや苦しみというものが存在する。殆ど遍在する。
悲しみはとても得がたいものとして、世界に残り続けるだろう。未来の人にとっても、人間の次の知的生命体にとっても、宇宙人にとっても、もしかしたら宇宙全体にとっても、人間の個人の感情は特別なもので残り続けるだろうと思う。僕は完全にフラットになる。世界の全てを受け入れる。僕は僕の全てを完全に受け入れる。けれど同時に、ただの僕であり続ける。僕個人の感情に執拗に拘り続ける。

断捨離はしない。仏像みたいな頑なな悟りも要らない。僕は社会が好きだ。遠くから偏見無しに見れば、全ては綺麗だ。「綺麗」を書きたいし「綺麗」を伝えたい。



僕は社会的な価値基準に深く、深く囚われている。脳は不便で、とても不自由だ。

全ての傷、全ての痛み、全ての、悪意さえ包み込める、全てをまるでひとつの風景のように収められる視点がある。変性意識というより、寧ろ原始の意識。そういうとき、時計のデジタル表記は、本当に美しく見える。それはひとつの意識のあり方というより、ひとつの場所の感覚と言った方がいいかもしれない。その場所に、僕は十年間、一秒も行けてない。フラストレーションが溜まっている。もう絶対に行けないどころか、そういう場所があることさえ忘れていて、生活の中でもがいていた。言語力が足りないのだと思いながら。

誰でも、新しい本を読むとき、どこでもいい1ページをぱっと開いて、さっと眺めれば、大体自分に合う本か分かるものだと思う。それは、もしかしたら特に日本語の本の場合、顕著かもしれない。日本語は字面が複雑で美しいと思うけれど、眺めてぐっと惹き付けられる字面と、苦手と感じる字面がある。

哲学の本は大体に於いて厳めしいけれど、東洋哲学の本は、いいなと思った。東洋哲学が好きになったり、つまらなくなったりを繰り返していた。今、哲学は要らないなと思いつつ、東洋の、禅とか仏教の考え方は、正しいと思っている。神はいない。世界は無くて、同時に有る。感覚があるから、世界があって、自分がいる。身体の感覚を失うと、世界はただとろりと溶けた、ひとつの総体でしかない。世界は言葉や音楽のように流れている。流れはあるけれど、何か、が流れている訳じゃない。未来も過去も無いし、物質も無い。有るのはこの瞬間だけだ。瞬間なので、本当は何にも無い。何も無いけれど流れている。ゼロなのに「これはマグカップだ」と言葉にすることが出来る。それはとても美しい感覚だ。

一見意味の無い言葉たちが、異様に輝く。言葉たちは、動き、流れている。

感情的な表現には、それほどの感情が含まれてないと感じる。怒りや熱っぽさには、うるさい自己主張や焦りがある。本当に感情がある人の表情は、一見無表情に見える。本当に面白いとき、人は笑いも泣きもしない。ゲームに集中する表情とも、ハイになって虚空を見詰める表情とも違う。寧ろ退屈そうで、日常的な顔をしているものだ。老衰で死んだ人の表情のように。

大昔の人が、洞窟の最奥に絵を描いたのは、洞窟の奥という酸素の薄い環境では、意識が切り替わりやすかったからなのだそうだ。深呼吸したり、呼吸によるお腹の動きに意識を合わせることで瞑想状態に入りやすくなる、と言われることがあるけれど、僕が思うに陶酔状態での呼吸は浅い。僕は明確に瞑想状態に入ったことがあるけれど、そのときも呼吸を意識なんてしなかった。身体なんて無かった。意識が研ぎ澄まされたままで、呼吸も心拍も弱くなり、眼を開けたままで、海の底にゆっくりと沈んでいく感じがした。すごく遠い場所、歴史さえも無い場所に行ける。海の底では、悩みや言葉は、意識の別の側面にある。音楽さえも要らない。言葉も要らない。

僕には、どんなことでも、どうしても言葉にしたい欲求がある。言葉はとても狭い領域についてしか書けない。けれど、言葉で何かを指し示すことは出来る。言葉や音楽で行けるのは、海の浅瀬までだと思う。そこからは自らの力だけで、沈黙の海に潜らなければならない。海底とはおそらく原始人がいた場所。原始人は、音楽も言葉も持たなかった。彼らにはコミュニケーション手段さえ必要なかった。何故なら一人一人が、皆同じ場所にいると知っていたからだ。毛繕い程度で十分だった。

僕は読み書きが出来る。音楽がとても好き。音楽も、言葉も、本当は要らないのかもしれない。それは毒かもしれない。けれどそれは消滅するための毒だ。言葉や音楽を本当に極めたとき、社会は消え、何もかもが消える。そして原始から続く静けさだけが残ると思う。