個人的なメモ


子供の頃は、難しいことを学んで、難しい本を読めば、世界の全てが分かるのだと思っていた。僕は知りたかった。ある程度歳を重ねたとき、難解な本を読んだところで、世界が分かる訳ではないと思った。最終的なところは、誰も分からない。自分の生の意味や、何故世界が存在するのかということについて、誰も知らないみたいだ。

だから僕自身でよく考えて、解き明かすしかないのだと思った。訳も分からない自信があった。中学に行かなくなっても、高校に行かなくなっても、大学に行かなくなっても、何かに自分が近付いているのだ、という感触はあった。それが二十歳頃から、ぷつんと途切れた。実家で引き籠もっている内に、僕は自己嫌悪に負けてしまった。話し相手は、ほとんどいなくて、父から働け働けと、毎日何時間も説教された。

読書は本当に大事だと思うけれど、読書だけでは、答えに近付けない。自分で書いて、思考している間だけ、遠い、予感に満ちた世界に行ける。なのに僕は書けなくなった。考えたいという衝動も消えてしまった。死ぬことしか考えられなくなった。自殺未遂ばかりしている内に、心身は衰え、立っているだけでも疲れるようになった。今はかなり元気になって、買い物にも行けるほどに回復したけれど、立ちくらみはいつもけっこうひどい。椅子から立ち上がると、1分間くらい、目の前が紫色に見える。

何かが足りない気がする。命とは何なのか。答えに近付いている感触を得たい。生活的な苦しみを死んだ理由にされるのは嫌だ。ちゃんと分かってから死にたい。僕には、言葉と感情しか無い。

情報が命を得る瞬間を知りたい。自分が何故いるのか知りたい。脳科学には答えは無いと思う。脳があるとして、じゃあ何故物質に過ぎない脳が、意識や心を持つのか? 脳が全てだ、というのも、一種の信仰に過ぎない。

デカルト松果体に心が宿る、と言った。今は前頭葉扁桃体に心がある、と言う。でもそれは、楽しいときには笑う、という程度の意味だと思う。楽しいときには扁桃体シナプスが発火する。楽しさと発火は並行している。その発火が何処から来たのか、誰も知らない。何もかもが無から現れたとして、無が何処から来たのか、誰も知らない。

仏教では全てが無だと言い、キリスト教では、全ては神が作った、と言う。でも、無や神が何処から来たのか、そして僕が何処から来たのか、それは何処にも書いていない。何故か、そうなっているからそうなっていているのであって、考えたって仕方がない、生きている今を良くしていくだけだ、と言うのも尤もだと思うけれど、それだけでは何かが足りない。

数学には前提がある。前提が何処から来たのかは分からない。科学にも、例えば重力定数があるけれど、重力が永遠に、必ず同じ力を持っている保証は無いし、それは観察によって、今までそうであったから、これからもそうだろう、という経験論でしかない。(「全体の調和」というものを持ち出す人もいるし、僕にしたって、宇宙が本当に調和しているのなら、どんなにいいだろうと思う。けれど、「人間が生まれた」というただひとつのことを取っても、十分宇宙が不調和であることの根拠になる気がする。靴の擦り減り方だって、右と左では大分違う。調和の中に溶けて行けたならな。と書きつつも、僕は多分、調和というものを信じているのだろう、と感じる。いや、願っていると言った方がいいかもしれない。)



最初から好きなものよりは、好きになろうとして好きになったものの方が、もしかしたら多いかも知れない。馴染みの無いものを急に好きになるのが難しいからと言って、一見して興味が持てないものをすぐに放り出していたのでは、自分の世界はなかなか拡がらない。

本は、読まなくても本棚に並べてるだけでもいいと思う。

僕は国民性とか、日本人の血、とかいうものを信じていない。大昔の日本人の感覚や記憶を、今の僕が覚えている訳が無いと思う。



昔、中学校に行かなくなったとき、それでも毎日律儀に制服を着ていたことを思い出す。一応、行くつもりはある、という体裁は守らなきゃいけないような気がして。今は僕は引き籠もりだけど、だからと言ってずっと同じパジャマだとか、カップ焼きそばだけを食べてむくむく太るとか、見栄も外聞も捨てたような生き方をすると、まずいんじゃないか、という強迫観念がある。

少しは社会のことを知りたいと思って、新聞を買ってきたけれど、大抵の新聞記事は、文章が良くなくて、あまり読まない方がいい気がした。悪文は悪文で、読んでいれば文章の勉強にはなると思うけれど。

本当はもっと外に出たいと思うけど、行く場所が無い。今よりずっとひどい、鬱の数年間の間に、僕はひどく疲れやすくなった。鬱状態になると、何も目に付かなくなってしまう。鬱の間は、床にへばり付いた嘔吐の跡を、数年間ほったらかしにしていた。掃除をしたり、歯を磨いたりするのは、これからも生きていく人が計画的に行うことだ。僕は自分には、もう回復の見込みは無いと思っていた。

今は、出来ればもっと生きたいと思っている。ほんの時々、楽しさや面白さの影みたいなのを感じる。音楽や読書が好きだ、と言える。手も震えない。もしかしたら、生きていたら、楽しい時間が戻ってくるのではないか?、という期待がある。

自分を悪くしてしまいたくない。空虚感や疲労と、文字通り格闘している。とんちんかんな努力かもしれないけれど、例えばハンドソープを買って、こまめに手を洗ったりとか、いい匂いのシャンプーとボディソープを買ったりとか。手をよく洗うおかげで、最近買った本は、すぐには手垢で汚れない。ゆっくりゆっくり古びていくのが好きだ。手をあまり洗わずにいると、本が少し嫌な汚れ方をする。

世捨て人にはなりたくない、という気持ちがこのところ湧いてきて、もっと頭が良くなりたいとか、格好良くなりたいとか、人に好かれたいと思ったりする。ひたすらな世捨て人の方がいいのだろうか? でも浮世離れすることが怖い。理念の上では、格好付けたいなんて、馬鹿馬鹿しい。でも、身なりも何もどうでもいいとしか思えなくなったとき、何かが消えるような気がしてならない。

あるいは、世俗的な心を一切無くすことは、もしかしたら本当に正しいのかもしれない。でも僕は、格好付けたいという気持ちがとても好きだ。そして、今この瞬間の自分の感情や鼓動を感じていたい。
心から笑いたい。笑う暇も無いほど楽しくいたい。死ぬ前に、墓参りしたい人が何人かいる。ずっと、寂しさを感じていたい。