メモ(詩について)

薬を飲むと、本当に気持ちが楽になります。前向きに計画的に生きていこうという気持ちになります。でも同時に自分の感情や、痛みや、共感覚が無くなります。共感覚とは、例えば、何かを触ったときに色を感じたり、……僕はどんな感覚にも色を感じることが多いのですが……、風景が音楽に聞こえたり、要するに、五感の区別が曖昧になった感じです。絵に匂いを感じたりとか……。特に、言葉に色を感じます。書くとき、単語を意味として並べていくのではなく、色合いや、音楽的な調和を意識して、言葉を紡ぎだしていく感じです。全ての単語には色、音色、触り心地や、匂い、もちろん味や、それから動きがあって、それを感じると、自分の感情を、描くように、歌うように、踊るように言葉にすることが出来ます。それを感じないとき(つまり薬が効いているとき)は、単に言葉を辞書的な、モノクロな意味としてしか捕らえていなくて、それだと正確には書けるのですが、意味以上のこと、……感情や、感覚、……は何も書けません。内容はあっても、何かどこか平坦な文章しか書けません。色合いの変化や音楽…音色や旋律や、リズム、触り心地や、匂いを感じて、それらが総動員された生命として、言葉を味わうことが出来るとき、僕は言葉ほど豊かな表現は、他に無いと感じます。……人は誰でも多かれ少なかれ、おそらく意識せずとも、言葉に色や匂いや、ともかく意味だけではない、いろんなものを感じています。だから、同じようなことが書かれていても、何故か惹かれる文章があったり、いいことが書かれているはずなのに、何故か、あまり美しく感じられない文章があったりするのだと思います。

詩は、特にそうです。詩は、意味(だけ)ではありません。それは、五感と感情で感じるものです。書かれていることの意味自体はともかくとして、詩には非常に多くの感覚(また感情)が含まれています。詩の音楽性(そもそも詩と歌は同じものでした)ということが言われるけれども、それは単に言葉のリズムがいいとか、語呂がいいということではなく、感情の流れがあることを言うのであって、七五調にすればいい、というような問題ではありません。リフレインやオノマトペなどのテクニックも、あってないようなものです。ところで、その「感情の流れ」を説明しろ、と言われても、それはひと口に説明できるようなものではなく、また、説明できるものなら、「感情の流れ」を表現する簡単なテクニックが存在することになり、感情が無くても「感情の流れ」が書ける、という妙なことになってしまう。そして、「感情の流れ」を感じなくても、そのテクニックに頼って詩を読んで、「この詩には感情の流れがあるから良い」と、簡単に点数が付けられることになってしまう。それでは、読んだことにはならない。あくまで、詩は自分で読んで、自分で感じるものです。自分の感覚と感情を総動員して、書かれた言葉を、そのままに感じること。それが全てです。……しかし、まさに、それこそが難しいということ。それを、僕はよく知っている。

心の底で、何か、うまく言えないけれど、でも明確な何か、きゅんとする何かを感じるということ。自分にとっていい作品(詩でも音楽でも絵でも何でも)に出会ったとき、自分が今まで知らなかった、あるいは形に出来なかった自分の感情に会える気がする。「何故この人はこんなに僕のことを知っているのだろう?」と、作者と実際にお会いするよりも、作品を通して、さらに深い部分で共鳴し合えた気がする。それはとても個人的で、寂しくて、カラフルな感触を伴っている。……人がいいと言う作品を、僕もまたいいと感じることは少ない。でも、それはもちろん、その人にとってとても大切な作品なのだから、僕が悪くは言えない。また、僕が本当に好きな作品が、人にとってはどうでもいい、ということが多くあって、でも僕が好きだ好きだと言っていたら、誰かが興味を持ってくれるかもしれないので、僕は割と自分が好きなものは、誰にでも強く推している(それがいいことか悪いことかはともかく)。

まだ、共感覚は、理解しやすい話題かもしれません。「共感覚があればいい」というのは、少し話を単純化し過ぎです。また、「感情の流れ」や、個人的な好き嫌い、だけで作品について語るのも、やはり創作についての、本当に大事なポイントを、ごっそり抜かしている、と感じます。僕は創作にとって……あくまで僕個人にとって……大事なポイントは、少なくとも四つあると思っていて、ひとつは共感覚で、ひとつは多即一、一即多、の感覚で、もうひとつは物ごとをどこまでもフラットに見て、社会でさえも美しいものとして捉えられる、個人的感情を超えた言語感覚です(あくまで個人的に、ですが、どんな創作をする場合でも、言語感覚は必須だと思っています)。何だって遠くから……個人的感情を抜いて……見れば美しいです。そして四つめは(三つめと矛盾するようですが)、あくまで自分自身の、個人的な感情を強く感じ、それを信じることです。借り物の物差しで物ごとを測らないこと。その四つが総合されたとき(言語表現に限らず)創作が可能になる、と個人的には思っています。でも、四つだけあれば、というのでは、やはり何か抜けているかもしれません。物ごとの基本的な心構えについては、どうも話を単純化しすぎると大事なポイントが抜けてしまうし、細かく書き過ぎると話のポイントがあやふやになってしまうみたいです。

必要不可欠ではないと思いますが、日本語で創作をする場合、何語でもいいので、外国語を習得することは、非常に役に立つと思います。日本語だけで思考し、日本語だけで書いていると、思考や文体が、使い慣れた日本語によって、固定化されてしまいがちだと思います。でも、個人的には、敢えて心得にしなくても、僕は英語とフランス語が好きだし、要するにひとつの思考に囚われなければいいわけであって、それは「個人的感情を超えた言語感覚」に含まれていると思います。

個人的には、僕が先ほど挙げた四つのポイントだけでは、何か足りないと思っています。もちろん、細かいことで、しかもどう考えても僕個人にしか適用できないようなポイントなら、幾らでも挙げられそうですが(それについては、自分宛に、秘かに書いているのですが)。

そしてもちろん、僕自身が創作を出来なければ、僕が書いた創作論は、空論ということになります。また、僕は創作論を書いているというよりは、ひとつの(僕の理想とする)世界観について書いている、という気もします。そのどちらにしても、僕は今、自分の状態が良くなっている(少なくとも悪くはなっていない)と感じていて、自信というか、希望を持っています。追々、僕自身が納得のいく創作(あるいは世界観)を、きちんと提示できるだろう、という気がしています。

でも、僕自身にとっては、僕が正しいかどうか、それを証明できるかどうか、ということは興味の無いことで、僕は個人的に、自分から解放されることを望んでいるだけです。それは同時に、僕が僕自身になることでもあるから。外的な基準を全く気にしないで我が道を行きたいとは全く思わないし、また外的な基準に合わせて自分を無化しようとも思わない。社会とはイマジネーションの構造体です。僕は社会に沈殿したイマジネーションを浮かび上がらせたいだけで、そこに僕自身というイマジネーションを新たに沈殿させたいわけじゃない。当然、社会を否定したいわけじゃないし、また肯定したいわけでもない。全てがたゆたう、あるべき状態を取り戻したい。