未来が懐かしいこと

ディスプレイが好き。そしてディスプレイに明朝体を叩き付ける10本の指が好き。そして指先に血液を供給してくれる血管が好き。脳と指先を繋ぐ神経が好き。僕は僕の脳が好きだ。キーボードは僕の指の延長。指は僕の脳の延長、そして脳は心の延長。ディスプレイに映し出される日本語は、僕の心の正確な延長。

僕は奏でるために産まれた。身体なんて、音楽を顕在化させるための楽器に過ぎない。音楽が僕を揺さぶる。僕は音楽に身を任せるだけ。

言葉は、言った途端に過ぎ去ってしまって、結局は何も言えないので、もどかしさばかりが残る。けれど、言葉は好きだ。言葉はいつか、言葉に出来ない場所に辿り着ける。僕は書き続けたい。

身体はひとつの十分な表現。音楽でも、絵でも、やりたいことをやればいい。

他人にとっての僕は、ただの表面だ。僕に表せるのは表情や言葉だけ。いくら苦しみを訴えても、苦しみそのものが伝えられる訳じゃないし、また伝えたいとも思わない。一生懸命苦しむことで、僕は何を期待していたのだろう? 憐れんでもらいたかった? 僕は僕自身で、楽しくなる努力をしなければならない。生きている他人を認めない限り、僕もまた、生きた心を持った存在だとは認められない。

何にも気にならなくて、ぷくぷく浮いたような時間が続くことがある。まるで世界はひとつの海で、海のほか、何も無いような。僕は物質や現実が、完全には信じられない。科学も数学も大事だと思う。それに、それらはとても面白い。プログラミングとかも。でも、それらはあくまで仮定的なもの、という感情が拭えない。

人々が、苦しくても、生活や、生活的な感情に縋るのは、現実の外に放り出される恐怖を、みんな本能的に知っているからではないだろうか? 僕は、現実感を失う恐怖に耐えられない。僕は書き続けることに、安堵を覚え続けている。現実の外には行きたくない。僕は時々、現実を統合出来ないし、自分を統合出来ない。僕は、しつこく、僕の手指に拘る。痛みを覚えるほどに指を使い続けると、指が確かに現実だと信じられるようになってくる。それから僕は、物に固執する。自分の、良くない声にも固執している。自分の、表面的なデータをかき集めて、辛うじて僕という個体を保っている。

相変わらずジョイ・ディヴィジョンを聴きながら、真夜中、煙草を吸って起きている。デスクの上に揃えた10本の指は、書くためにとても便利だけれど、書いている間、両足にはすることが無くて、音楽に合わせてぺたぺた足踏みするくらいしか用途が無い。パソコンにもペダルがあって、有効に使えたら面白いのに。

坐っている自分を意識しなくなると、コックピットにいるような気分になる。大気圏を越えて、宇宙にも行ける。音楽を浴びていると、自分の身体が消失して、僕が消えて、世界には音楽だけがあるみたいだ。

脳は僕を何処までも連れて行ってくれる。全ての細部が美しくて、細部を見ているだけで、一日が終わってもいい。

人類は進化している。人は昔より幸せじゃなくなった、と言われることがあるけれど、いずれテクノロジーは人を幸せにするだろう。人と人とがダイレクトに繋がれる、意識のネットワークが開発されることによって。精神的には人間は退化したかも知れないけれど、いずれ物質的な進化が一段落すれば、人類全体の世界観が一変するような、精神的な進化の時期がやって来ると思う。世界観ががらっと変わって、悩みは一掃されるだろう。いずれ、身体は不要になるだろう。国境も年齢も性別も無くなり、宗教も無くなる。もっと正確に言えば、もともと国境や年齢や性別なんて存在しなかったことが共通認識となると思う。最終的には、個人という概念も必要なくなり、芸術も世界から消え失せるのではないかと思う。自分の内側と外側という概念が消え去り、大きさや空間という概念も、今とは全然違った風になると思う。現代では、人は概ね自分の身体のサイズを基準にして、物の大きさを測るので、ミジンコの世界や、銀河の意識を感じることは難しい。でも、いずれ人々が身体を捨てると、大きいも小さいも無くなるだろう。

皆が一斉に、肉体を放棄する必要はなくて、昔ながらに自分の身体で生きて、あくまで自分の個人性に拘る人もいていいし、信仰を守り抜く人がいてもいい。僕が望むのは、僕自身の消失だ。人同士を比較する、競争心などが、まる存在しない世界が、早く来ればいいと思う。