羽化することのない痛み

 この頃は、多分軽躁状態だ。毎日が楽しい。けれど一抹の不安。
 今僕はふわふわ浮いていて、ほとんど喋り尽きるということがない。身近にいる母が僕のお喋りの一番の犠牲者になっている。僕は何時間でも喋る。意味は無くて、途切れない音と、滑らかで棘の多いリズムだけがある。台所には生活感ともったりしたにおいが堆積していて、僕は台所の主の母もまた停滞しているように思えて、時々腹が立つ。母は眠いくらいが気持ちよくて、あまり目覚めたくないと言いながら、ストーブの前から動かない。老人め、と思ったり、母の中でドーパミンは一体何処に行ってしまったんだ?、と思う。同じものを食べているのに、僕の感情だけにスピードがあって、眠さに閉じこもる母を、どんどん追い越してしまう。そういう僕が間違いなのかと思って、すぐに、つんとするくらいに泣きたくなって、本当に涙が流れてきそうで、僕は急いで笑う。
 急に、喋っている僕が何なのか分からなくなって、自分の目が泳ぐのが分かる。そしてそういう戸惑いの辺りに僕が本当はいるのかなと思っていると、幽霊みたいな女の子が、冷蔵庫の明かりに照らされている真夜中のイメージが見えて、母を相手にぺらぺらの言葉を並べている自分をとても虚しく思う。
 皮膚の粟立ち、また泣きたくなる、速度、太陽系の中でただひとり軌道がずれていく僕の感情。頭の中は真っ暗で、黙っていてもそれだけでいいような誰かと、果物、何かの果物の皮を剥いて、丁寧に切って、静かに食べたり、食べなかったりしたいなと思う。多分、寂しくなってて、僕には僕自身が、その寂しさに値しないように思えて、汚れた心と自分の言葉をグロテスクに眺めている。急に生活感が戻ってきて、ぽつんとした気分で、早足で僕は僕の世界へ、僕の部屋へ戻る。

 友人たちに会いたいとひどく思う。それから今までに会った全ての人たちと楽しい話がしたい。今、一番身近な友だちは本だ。沢山の本たち。窓を開けると、色の無い風景。固体でも液体でも、気体でもない、砂のような光が舞い降りてくる世界。中也の書いた『ひとつのメルヘン』では、透明な世界は美しいけれど、僕に見える風景はただ、僕の心が空に反映されて、全てはただ狂ったまま押し黙っているよう。自然というものにまったく興味が無かった学生時代の感覚を、ふと思い出す。
 大学は美しいポプラ並木や、図書館前の澄み切った人工の湖で有名で、誇らしげに、この景観が何かの賞を取ったとか、わざわざ看板を立てていたけれど、僕はその綺麗らしい景観を、全く覚えていない。覚えているのは夜だ。夜の構内の、誰もいない冷たい空気と電灯の光。一番素晴らしかったのは、完成したばかりのラグビー場の真ん中で、真夜中そこの芝生に転がって、芝の匂いや、夜空いっぱいの冷たさに全身で浸ったこと。夢のように懐かしい。ポプラの葉がどんな形なのかも、幹が真っ直ぐなのかも覚えていない。覚えているのは、抽象的で、あいまいで、けれどはっきりした夜の感覚だけだ
 僕が、授業が嫌いでもう嫌になったと、地元の友人にメールで書いたら、「君は自然が好きなんだろうと思う」と返ってきて、何故か、ああそうか、とすとんとした気持ちになった。地元の山や海が急に思い出された。僕の性格というのは、僕が決めるんじゃなくて、誰かからの嬉しいひと言を覚えていたり、はっとさせられたことに起因しているんじゃないだろうか、と思った。
 僕の性格は産まれ付きではなく、人に言われた嬉しい言葉の集積。例えば子供の頃「お前は本が好きだなあ」と言われて初めて、自分を本好きなのだと認識したり。僕も人には、「本が好きなんだ」と言い始める。
 今も別に僕は自然には興味が無い、と自分では思い続けているけど、「自然が好き」と友人に認識されている自分については嬉しい。少し屈折しているかもしれない。仮に「君は自然が嫌いなんだな」と返ってきてたら、その通りかもしれないけど、反発したと思う。

 雨の匂いがする。本当はアスファルトが濡れた匂いらしいけど、やっぱり雨らしい匂いだ。ゆっくりと夜の底に沈んでいきたい。明るすぎると、僕は急速に浮かび上がってしまうので、電灯の光は極力落としてある。
 この部屋の中に、僕の宝物だけがあればいいとよく思う。本当は全て無色なのだ、と科学者や哲学者は言う。じゃあこの赤は何だ、と思う。対象の表面が跳ね返す光の周波数、それがゆるやかだと、それは赤に見える。
 言葉の世界に逃げたいとよく思う。赤が周波数だとか、空の青は、大気の屈折率がどうの、なんて考えたくない。僕の言葉は今、干涸らびている。頭の中に苔が生えていて、その苔の下をちょろちょろと流れる水を、やっと指先で掬い出すようにして、言葉を書いている。
 言葉でしか表せないことがある。良し悪しは置いておいて、僕にしか書けない言葉があるはず。
 放課後の理科室みたいな、清潔な部屋が欲しい。白っぽくなったビーカーやシャーレが息をひそめているけれど、それは僕を脅かさないし、僕もそれを捨てようとしない。
 僕の過去は霞んでいる。ふやけた本みたいに。ある一日は隣の一日とくっつき、ずでんと湿った重苦しい塊となり、僕の脳内の過去の領域に鎮座している。僕はそれを開くことが出来ない。何にも分からない。毎日日記は書いてきたけれど、どの一日の記述を読んでも、それはここ数年の澱んだ、任意の一日という以外、僕に何の感興も、懐かしさも、何にも引き起こさない。
 暗い暗い、腐った殻からいつまでも出られないサナギのような生活。今になっては蝶にもなれない。

 白いスピーカーからシビル・ベイヤーの、憂鬱な空の下でぽつりぽつりと呟くような歌声と、遠い思い出を愛でるような、とても控えめなギターが流れている。最近、彼女の『Colour Green』というアルバムが大好きで、月夜を夢見るような世界に、すっかり引き込まれている。2006年にリリースされたアルバムだけど、録音されたのは1970年から1973年のことらしい。ニック・ドレイクの『Pink Moon』が出たのが1972年なので、ちょうど同じ時期にギターと声だけの、目立たない、でも世界中の孤独な人々に愛され続ける2枚のアルバムが録音されていたんだなあと思うと、50年の時間の経過なんてまるで幻想みたいに思える。僕は本当はこういう、ずーっと未来の人にも「今」を届けられるような音楽を作りたいんだと思う。言葉を書くとしても、未来に読む人が「いかにも昔だなあ」と思うようなものは書きたくない。
 多分、僕はまだ「今」だけを届けられる言葉を書いたことがない。心がしんとする。僕は中原中也の詩が好きだけど、彼の詩を「古典」として読んだことがない。ニック・ドレイクも中也も、まるで今生きている友だちみたいに感じていて、僕も出来れば、この呼吸と鼓動をいつまでも伝えられる音や言葉を紡げたら、と憧れるように思う。

 ひとりきりの夜中。ひどく感じやすくなってる。自己の消失・拡散とは逆のベクトルに向かって、僕は生存している。生きている自分を感じる。僕は宇宙になって、あらゆる光を発している。
 画集を見ていると、絵を描いた人や、本を作った人と、共通の意識を、自分が持っている感じがする。まるで、僕ひとりの為に作られたものか、それとも、まるで、僕が自分で、今この瞬間、これを、描いているような。