日記(通院の日)

1月25日(木)、
 全てを愛したいな。全てを丸ごと。自分の周りに幸せでぼんやりした空間を作ることではなくて(そうしたいと思うことは、多分堕落か、老化なのだと思う)、全てをみんな愛すること、それが僕の望むこと。
 僕はきっと、人に会わなければならない、もっと。だってそうしなければ、人が好き、な感覚を忘れてしまうから。薄れてしまうから。
 僕は精神の病気だ。とても心の異常な部分に苛まれている。何もかもが怖い日々が続いて、人と交わることも、外に一歩出ることも、ほとんど出来なくなっていた。幻覚や躁状態や、それよりもずっと長い鬱状態の中で、自分なりの隔絶されたシェルターを作ろうと、叶わない努力(みたいなもの)を続けていた。まず自分が楽にならなければ。楽、を探していた。
 けれど僕は今、楽なんて無くても、それか楽なんてずっと後回しでもいいと思っている。それよりも愛したい。楽ではない場所かもしれないけれど、愛することの先に、楽しい場所も、きっとあるはずだから。

 それにしても、ああ、何でこうも自信が無いのだろうと思う。

 午後は病院に行ってきた。空気に触れる神経から、内面までがぴりぴり震えるくらい緊張した。血圧は217あった。何なんだ、この今まさに人を殺してしまったみたいな緊張は、と思いながら「いつも高いんです」と、看護師さんに笑って言った。すぐ、「あ、いや、いつもじゃないんですけど、安静時は120くらいなんですけど」と口をついて出そうになって、まごまごしている内に、何か誤魔化しているみたいな気になってきて、謝りそうになって、取り敢えず、服が背丈に合っているか気にしている人みたいな動きをしていたら、「次は採血ですよ」と言われたので、「あ、はい」と答えた。
 誰も僕の挙動不審なんか気にしていないらしくて、だから落ち着けばいいのに、と思っても、何か失敗して、周りの人たちの手はずを狂わせるんじゃないかと感じる。十分自分はまともだ、と思考しても、思考が感情に追いつかない。何も変なことなんか起こらない。看護師さんの手はアルコールを多く触っているからか、少し乾いていて、僕の手よりもずっと寒そうだった。血を抜かれながら、長年病院に通っているのに、看護師さんの名前を誰ひとり覚えていない、と気付いて、名札を見たけれど、待合室の椅子に戻るときには、その名前のことを全然覚えてなくて、自分が馬鹿なんじゃないかと思った。主治医の先生の名前以外は、まるで思い出せない。覚えようとは、毎回思うのだ。待合室の窓から、大きな木が見えて、冬なのに枯れていないんだな、と思った。自分の血のことには何の興味も持てない。
 時計の針の音が気になってしまう診察室で、主治医の先生に、僕が書いた文章を読んでもらった。その場で読んでもらえたのは嬉しくて、けれど恥ずかしくて、先生が僕の文章をじっと読んでいるのを意識すると落ち着かないので、壁の時計ばかり見ていた。本当は針の音はそんなに大きくなかったのかもしれない。その後、やたらと喉が渇いて、覚えているはずの自動販売機の場所まで歩いていったら、見事に迷ってしまって、いつの間にかスタッフさんの事務室(?)みたいなところの前に来ていたり、中央に液晶テレビの置かれている薄暗い広間のようなところに三回も戻ってきてしまって、テレビの前に立っている人と、三回すれ違ってしまった。トイレに行き着いたので、洗面台の前に立って、自分の顔を見たら、大丈夫、怪しい人ではない、と思えたけど、あまりそれが自分に見えなくて、とても怯えている、疲れた病気の人に見えた。
 乳酸菌飲料を無事に買えて、その冷たさを片手に感じていると、自分が少し社会生活をしているような、ほんの少しの安心感を覚えた。

 ディスプレイの明度が脳を落ち着かせる。帰ってきて、レディオヘッドを聴きながら、これを書いている。病院ではニック・ドレイクR.E.M.を聴いていた。さっき家で血圧を測ってみたら150に下がっていた。心拍数は65。まあまあというところだ。少しは安心しているのかな? 分からない。

 来週、デイケアというものを見学することになった。よくは分からないのだけど、大人のフリースクールのような場所なのだろうか? フリースクールには通っていたことがある。精神的な孤児みたいな不登校生たちが、寂しさを通して、寂しい連帯感を保っているような、けれど悪くない場所だった。デイケアもそれに似て、社会と寄り添うようには生きていけない、途方に暮れた人たちが、もしかしたらそこでだけは、自分の存在理由のようなものを感じられるような、人との関係性を、寂しくても少しだけ保てるような場所なのだろうか?、それとも、どうなんだろう……。「さあみんなでダンスをして仲良くなりましょう」みたいな、今までの薄暗い僕の実情とは違う、明るすぎる場所だったらどうしよう、とか、逆に俯いた人たちが、何か諦めているような表情で、みんな仕方なくそこにいて、生きていても関わっていても仕方が無い、という雰囲気で、誰も他人に無関心だったりしたらどうしよう、それとも淡々と、めいめいが席について職業訓練(想像も付かない)を、黙々と行っているような、外で内職をするような場所なのだろうか?、とか、要らない想像をしては、少し不安になっている。
 デイケアの担当の方(自己紹介されたにも関わらず、名前を忘れてしまった)に、月間プログラム、というのを見せてもらいながら、「なるほど」「そうなんですね」と答えながらも、『アルコールミーティング』というのが、飲み会ではなく禁酒のための集団カウンセリングのようなものなのだと気付いたり(がっかりはしなかった)、プログラムの書かれた紙にポケモンの絵などが描かれているのが気になったりしていて、けれどゆっくり説明して頂けたので、僕は担当の方の目を見たり、プログラムに目を落としたりしながら、悪いところではなさそうだし、それにともかく、このまま引き籠もっているのはまずいと思っていた矢先でもあるし、と何となく「見学だけでも行かねば」という方に、心の針が落ち着いた。「金曜日がやっぱり一番若い人が多いですね」と言われて、その金曜日の欄には『節分イベント』と書かれていて、怖いな、と思ったのだけど、「じゃあ、金曜日にします」と答えた。若さと年齢はまるで関係ないと思う。僕は自分がどちらかと言うと年寄りじみたメンタル……世をすねている感じというのだろうか……を持っていると思うので、「若い」ってどういう感じなんだろう?、僕には分からないかもしれない、と一瞬不安混じりの興味を持った。そして後悔みたいな、何かが始まる前の、微かにひりひりするような怖れと不安で、胸の奥がきしんだ。

メモ(入院中につらつらと考えていたこと)

 随分長いこと、論理的に物事を考えようと苦労してきた。まだもう少し、出来れば論理的に、出来れば常識的に、考えられればいいんだけど……。

 この世界には、内側と外側があると考えてしまっていた。でも実際には違う。僕の外に見えるものを、全て内側と言い換えても構わない。あるいは、僕自身が外側にいるのだと考えてもいい。

 今、「僕が考えている」と思っている。でもそれを、より正確に表現するならば「考えている」だけが存在している。「僕」というものは何処にも無い。

 僕は、本に書かれた存在かもしれない。あるいは封筒の中の、誰かが一晩掛けて命懸けで書いた手紙、それが僕なのかもしれない。言葉に命を感じることがよくある。だから僕自身もまた、言葉に書かれた命なのだとしてもおかしくない。言葉は文字の組み合わせだけれど、そこに心を感じる。僕自身もまた、ただの組み合わせで、しかも同時に心を持つ存在だ。そこに違いはある?

 僕は、数ある構成物、つまりこの宇宙全体に存在する全ての物質の、ただの一部なのではない。何故なら、よく考えてみたら、僕と、僕以外の全ての物たちの間に、境界線なんて引かれていないからだ。僕という個体には名前がある。その名前は、例えば住民票にきちんと記載されている。でも、僕という個体とは何か、厳密に考えると、答えが出ない。「僕」という単語が、正確には何を指しているのか分からない。
 風の音がして、何かを思い出す。何か、大切なものを。いろんな思いや考え、感情が僕を通過していく。雨の音が好きだ。もしかしたら雨の音や匂いが大嫌いな人も存在するかもしれない。「雨」と「好き」と「嫌い」、それらは別々のものだろうか? 交錯すらしないもの? もし、世界に名前や言葉がひとつも無いとしたらどうだろう? 雨にも好きにも嫌いにも名前が無い。仮に雨を「……」と表現する。好きも嫌いも「……」と表現する。世界には「……」以外何も存在しない。宇宙も僕も「……」でしかない。「世界」の全てが「……」であるならば。「僕は今、キーボードで日本語を書いている」も「……」で、「ヘッドホンで菅野よう子を聴いている」も「……」。「僕がいる」も「僕はいない」も「……」。……、そんな世界を想像出来ませんか?

 「……」から言葉が産まれ、「……」から音楽が産まれ、「……」から物質が産まれ、「……」から空間が産まれ、「……」から時間が産まれる。「……」に「全て」という名前を付けたとき、「……」から「全て」が産まれる。名付けられた後の世界、つまり言葉の世界に、僕は住んでいる。既に出来上がった「世界」に、「僕」は生きている。ある程度楽しく、ある程度悲しく、ある程度幸せで、ある程度不幸な僕がここにいる、と僕は思っている、と僕は思っている、と僕は思っている、……。でも全てが「……」なのだと、想像することも出来る。「……」だけがあると感じるとき、僕は最高に楽しい。何故なら、全ては「……」に付けられた名前に過ぎないから、「僕」も「キーボード」も「世界」も本当は「……」なのであり、「僕」は、イコール「全て」でもあり得るからだ。名前が変わるだけ。つまり言葉の組み合わせが変わるだけ。言葉は全てを産む。言葉は全てを変化させる。言葉は美しくて、可愛くて、愛おしいもの、それ以上でもそれ以下でも、何ものでもない。過ぎゆく時間、夜中の時間、玄関のドアを開ければ拡がる明け方の空、街、あるいはディスプレイに映るカラフルなものたち、それらがみな美しくないって誰が言える? あるいは美しいと感じることが、そのまま美しいということを、誰が否定できる?

 「……」が全てであるという持論を敷衍するならば、脳が言葉を作る、というのは嘘で、言葉が脳を作っている。僕の中に言葉があるのではなく、寧ろ、言葉の中に僕が住んでいる。脳は、言葉で出来た世界を、切り分けて整理する器官であり、脳には決して「……」は見えない。一時的な脳死状態に陥らなければ、「……」は決して感じられない。でも、ずっと脳死だと、もちろん生きられない。脳のオン/オフが切り替えられたら理想だと思う。
 スイッチを切られたくないロボットみたいに、脳は死ぬことを極度に怖れている。
 ところで、「……」と、「言葉で出来たこの世界」は、その二通りだけあるのではなくて、その間に、かなりいくつもの段階があると思う。魂とか心とかは、言葉より、もう少し深いところにある。言葉が言葉になる前の段階だ。「……」は一番深いところにあるとも言えるし、一番表面にあるとも言えると思う。「……」は「全て」でもあるから、「……」を感じられるときには、全てを見られるのだけど、「……」は、言葉を少しずつ減らしていった先にあるのではなく、寧ろ言葉のど真ん中にいるときに、ふとそこにいる、という感じで分かるものだと思う。「……」から、あらゆるものが産まれる。物理学で言えば、ビッグバン以前の宇宙のようなもの。そこには宇宙は無いし、「宇宙は無い」も無い。「……」から、言葉によって産まれる全て。それは、本当に全ての全てで、言葉になる以前の言葉さえ、やはり言葉によって産まれる。それくらいの広い意味で、僕はここでは「言葉」という単語を使っている。全てを産み出す、魔法のスペルとしての言葉。魔術や神ではなく、言葉こそが全ての創造主だと思ったりもする。同時に、そこから創造された全てのものたちもまた、言葉だと思っている。
 「……」を僕は愛している。同時に「言葉」も、すごく愛している。「愛」とは例えば、ある何か/誰かを、他とは違う、不可侵で価値あるものとして、尊重することだと思う。そして、自分自身を絶対に手放さないことだと思う。そして「言葉」によって産まれたものたちを、出来る限り細部まで、よく観察したり、よく感じることだと思う。言葉を愛すること。それが、言葉の前提としての、言葉になる前の言葉を感じるための、一番の近道だと思う。さらにその前提としての「……」には、言葉になる前の言葉をも受け入れ、愛することによってしか、辿り着けないんじゃないかと思う。
 何故なら愛とは、完璧に自分自身でありながら、同時に自分以外のものを知りたいと願うことであり、また愛とは、他の何かや誰かのことを深く感じようと意識し、その存続を祈ることだからだ。自分をほったらかしにしていては、何処にも行けない。でも逆に、自分にだけ拘って、自分以外を蔑ろにしていたら、自分が最初に滅びる。自分と他人は、文字通りの意味で繋がっている。何処にも境界線は無い。……

日記(入院と退院のこと)

1月23日、
 昨日まで五日間、入院していた。自殺に失敗して病院に搬送されたのだ。二日間意識を失っていた。目が覚めてからは、死にたいという切羽詰まった気持ちが消えてしまっていて、何だか何もかもに寛容になれるような不思議な気持ちでいた。会う人ごとに懐かしさを感じるみたいだった。でも、何処となく計算高くもあって、もう十分元気だと医者にアピールしつつ、元気さを強調し過ぎて、焦っているとか、躁状態だと思われない程度に、自分をコントロールすることも出来るだろう、と考えたりもした。本当に有り難いことに、譫妄状態が晴れると、自分が、いつも以上に正気だと感じられた。だから、医者の先生にも、僕がもう狂っても、歪んでもいないことを、話せば十分伝えられるだろうと思った。先生にも、初めて会う看護師の方たちにも、親しみというか、旧知の仲であるような、好感みたいなものを感じられて仕方なかった。
 ただ、薬を大量に飲んで死のうとしたので、血液検査の結果が剣呑で、食肉置き場の跡みたいな、鉄製ベッドがひとつの部屋で、三日間ひたすら薬と煙草(と多分お酒)からの急速な離脱症状に耐えているのは、寒い寒い道を、汗をいっぱい掻きながら、裸足で延々歩いているような、かなり辛い作業だった。心の中で歩くのをやめると何かが壊れて、叫ぶか何かしてしまいそうな感じもあって、そういうときは自分が嫌な感じもした。

 夜、8時に睡眠薬を一錠だけ貰って、部屋が消灯されて、それから朝食までの12時間が残酷で、何年もあるように思えて、腕時計の針を見たり、常夜灯を見詰めたりしながら、世界の果てで、人知れず生死の中間で苦痛を彷徨っている永遠に孤独な人たちの仲間入りをしているんだなあ、と人ごとみたいに思った。バロウズの小説かエッセイで、収監されたドラッグ中毒者が、ドラッグの欠乏感に「ひたすら耐える」という何でも無いことを、身を以て学ぶ場面が、たしかあった。
 「耐える」以外、何ひとつ選択肢が無い状態に身を置くと、絶望でも拷問でもない、まるで自分自身からも閉め出されたような特有の孤独感だけが、生きる感覚の全てになる。気を緩めると狂いそうで、ますます精神を張り詰めさせると、時計の針の動きは意地悪いみたいに遅くなる。こんな夜にも、平和に眠っている人たちがいる、ということが、遠い遠いおとぎ話みたいに思える。僕は絶対に眠れないことが分かっている。そんな風にして、丸二晩を過ごした。昼間は、元気な振りをすることに集中していると、点滴や採血や診察や食事で、時間が細かく分割されるので、多少は時間が早く過ぎる。それに何より、昼間は音楽が聴けた。ヘッドホンの中は、僕のいつもの住み家だ。愛する音楽たち。食事は吐き気との戦いだったけれど。

 これがあと一晩続いたら自分を保てないと思って、せめて退院の目途だけでも付けて欲しいと、昨日、昼食を胃に無理矢理押し込んだ後、主治医の先生に直談判しに行こうかと立ったり座ったりしていたら、急に看護師さんが入ってきて、「退院許可が出ました」と、唐突に、何でも無いみたいに、今すぐ帰っていいという風に、僕の少ない荷物の入った段ボールを、でんと床に置いたので、本当に気が抜けて、嬉しくて嬉しくてならなくなった。
 冷静に考えてみると、家に帰ったからって眠れる訳ではないのだけど、そして実際今、眠ってない訳だけど、どんなに夜が長くても、パソコン(ワープロ機能)と音楽があれば、僕は殆ど無敵の状態になれる、僕の通常の時間軸に戻れる、と、眠れない夜に、情けないことだけれど、つくづく何百回も、そう思った。状況次第で簡単に折れてしまう自分の精神を情けなく思うけれど、真夜中、ずっと音楽が付き添っていてくれる、ということが嬉しい。僕は数年間、音楽さえも恐怖の雑音でしかなかった時期があった。
 その(看護師さんが入ってきた)瞬間にすぅっと楽になって、点滴を受けていると、ひんやりした海にぷかぷか浮いているみたいな、この世には自由しか存在しないみたいな、地球も何もかも、自由の海に浮いているみたいな、素晴らしい万全感に包まれた。この世界に素晴らしくないものなんて、ひとつも無いように思えた。

 入院中、昼間は、ベッドの上に中原中也の『全詩歌集』とノートとウォークマンだけを拡げて、ひとりで音楽と言葉の世界に耳を澄ませていた。周りの声や物音や人たちから、自分が乖離していて、時々、僕には社会的な役割が無いことが心細くなったのだけど、その心細さがまた、中也の詩の気持ちと不思議にシンクロして、こんなにふたりきりで中也と語り合えたのは、そう言えば本当に久しぶりだと感じた。まだ友達もいなかった、大学の入学前のアパートで感じたような気持ち。中也が確かに生きている世界に、自分もまた、存在しているということ。

 入院の何日か前から、薬を抜いていた。急に薬を抜くと、感情が真っ白になる。自分のコントロールが出来なくなってしまって、気持ちの中の穏やかな着地点を見失って、訳もなく怒りが湧いてきてしまう。周りの誰もが、生きている人間に見えない。動いているだけ。僕も含めて? 「大人になれば分かる」とみんな言ったけれど、何にも分からなかった。僕は大人になって、ただ疲れただけだ、とどす黒く、苛々したりさえする。
 不安を突き抜けた所にある、白いような心細さ。もやもやした灰色のように無感情でいるか、かと思うと孤独で痛いような気持ちになったりする。何故バランスの取れた感情を保てないのだろう? 今年は穏やかに、懐かしい気分で生きていこうと一応は決めた。でも、気分は自力では変えられないこともある。具体的に毎日継続しようと考えたことは、今のところきちんと続けられているから、気分に関係なく、義務的に行えることを目標にした方がいいみたいだと、律儀に考えたりしていた。けれど、それすらも自力では続けられないと思うほど自信が無くて、今年は正月からずるずると毎日お酒を飲んでしまっていた。
 安らいでいるのではなくて、ただ怠くて動きたくないだけの状態が何ヶ月も、何年も続いたりする。そしてそれはきっと薬のせいで、薬を抜けば何か変わるかも、とあまり根拠も無く考えた。でも薬をやめたらやめたで、急に身体が戦闘モードに入って、自分が何をしでかすか分からなくなったりする。そして溜めておいた薬を一度に飲んでしまった。

 僕が敬愛するニック・ドレイクも処方薬の過剰摂取で死んだ。死にたかったのか、何かを変えたかっただけなのか、分からない。僕にもニックにも、多分誰にも分からない。
 手のひらにいっぱいの錠剤をウォッカで飲み下してから、次に目覚めるまで、丸二日間の記憶が飛んでいる。まるで自分が新たな世界に移送されたかのような。医者が僕の名前を大声で何度も呼んでいたと思うけど、それも朧気で、気付くとベッドの上に、当たり前のようにいた。尿道からカテーテルを抜かれたときの気持ち悪さを覚えているような気もする。ぬめぬめした悪夢のような時間が、あったような気もする。何にも無いような気もする。二日間の間、僕は何処にいたのだろう? その間の、断片的で取り留めのない感覚や思考が、残っているような感じもする。半分だけおかしくて、同時に完全に正常、という世界に、これまでずっと生きてきたような。一面的には、世界は完全に継ぎ接ぎだけれど、継ぎ接ぎなりに世界は完結している。出鱈目な継ぎ接ぎや、僕の自分勝手な継ぎ接ぎ。それぞれの継ぎ接ぎの一部一部が、でも、今こうやって遠くから眺めていると、けっこう美しいな、とか、妙なことを考えていたと思う。
 言葉……。「言葉」っていう単語はとても美しい。ということを、繰り返し脈絡もなく考えていた。

 

1月24日、
 誰からも好かれないことではなく、誰も好きになれないことが、本当の絶望だと思う。

 彼らは僕に語りかけている。オレンジ色の空に賛辞を送る。けれど多分、空は賛辞の言葉を知らない。僕は空っぽで、空っぽだからどんな破綻も受け入れられる。
 僕は滅びゆくのだと思う。疲れて傷だらけの皮膚と、壊れかけた内臓。血圧はすごく高く(200くらいは普通)、それなのに顔には血の気が無い。一日に一度は、動悸が起こるようになった。ギターの音がとても好きで、古い音楽が好きだ。
 僕は滅んでしまうのだと思うけれど、でもそれは何だか、どうでもいいことに思える。世界は僕を超えていく。愛していたいな。好きでいたいな。その願いだけが叶えばいい。

ネイビーブルー

兎みたいな。季節感と、昔の記憶。
子供の頃は、RPGをしていると、
数学の秘密に触れているみたいだった。

ΦとかΠとかrとか。
数々のばらばらと、藻の色をして浮かぶ、
谷底の集合論、ドット、悲しい数列……。

ノートに、深い海へのダイヴィングを感じる。
妹がまだ小さかったときの話。
肺の中の、強烈に懐かしい感じ。

風に、私は、薄い緑の未来を感じる。
神さまよりも、ずっと元気な風圧。
どこまでも、悲しい思い出が迫ってきて。

私は鳥の群れに「素朴を取り繕わないで」って呟いた。

オルゴール


誰も私を知らない。
誰も私を買えないし、
私はどこにも売っていない。
私は、甘えている?
私は、小さな小さな私の国で、
冷たい風の匂いを感じている。

例えばそれは本の中に。
例えばそれはピアノの中に。
自然なんて滅茶苦茶だけれど、
私とあなたの自然は違うけれど、
私は自分の森を知って、街を知って、
私の心臓の、針の冷たさを知った。

ひとりきりであれるなら、
ひとりきりの冬の道で死ぬことは美しいこと。
私は本を読む。そして書く。とても小さな、私の時間。
これは私の小さな世界。
『音楽』の(音楽の、…音楽の世界、、、。
私が私であることの小さな、小さな、小さな世界。

記憶をバラして、構築して、ワープすること。
それが言葉であるならば、
言葉はいつも懐かしい山地と、
未来の街の狭間にある?
田舎や街の淡い色彩を離れて、
私はモノクロに、現在だけを生きたい。

世界が暮れていくことを知っているから、
私は、いつだって詩を知っている。
生死が関係のない山奥の黄昏と、
錆びた線路の冷たさを知っている。
そしてまた、知ってるから知っているというだけの記憶や、
日本語や、郷愁に固執する私の心を、不純だと思いもする。

私の中には不思議な感情があって、
生きるということも死ぬことも、
生活がうまく行かなくて、このまま多分遊んでは暮らせず、
野垂れ死ぬか働くか決めなければならない時が近いことも、どうでも良くなって、
私の生活の不可避な現状なんて、死んで避ければいいと思う時がある。
世界が美しくて、それは私の中でだけで構わなくて、
私の内側の美しさが、私の外の美しさの根拠なのだと思いながら。

詩や小説が、紙の上で美しいと思うことは、自分勝手な感情だけれど、
そして感情は時間の経過につれ消えるものであるけれど、
詩や小説はあらゆる自分勝手な世界を含み、含み続ける。
でも紙の上には依然として印刷された言葉が並ぶだけだろうし、
それだから私の心が遠ければ遠いほど、
もうため息を吐くだけで私の生は十分なのだと思う。



この小さな街で、
小さな呼吸をする。
標本のように。

曇り空の中を、
紙工場の側の橋まで自転車を走らせて、
流れる川と澱みを見ていた。
中州には丈の高い草が生えていた。
その川に携帯電話を投げ捨てたこともある。

大学図書館までニック・ドレイクを口ずさみながら歩いた。
誰とも会わず、誰とも話さない。
僕は死ぬ気でいた。それは今も変わらず。
そう思えば、僕の生にも僕なりの価値がある気がする。

小さな街で、小さな呼吸をする。
それだけでいいと思いもするし、
このまま暮れていく生をあまりに空しいと思いもする。

誰にも会わず、標本のように。
ただ息をして、部屋の周りにあるものを、
いちいち確認していれば、それでいい気もするんだ。



私は音楽の中で死ぬ。
死ぬから、ゆえに生きている。
エレキギターの黄色の中で目を開けたまま、
私は束の間、死を泳ぐ。

私は消えるんだ。
今日、私は消えるということが、はっきり分かった。
だから、愛しいものが愛しいということも、
愛しいものが悲しいということも分かった。
何故、死ぬまで生きるのか、
やっぱり私には分からない。
けれど死ぬことが喜びと恩恵の固まりであることは分かる。

今、私が考えているということは、
私が確かに存在しているということの証拠だけれど、
私は消失が愛おしい。

私が生活の中にいないとき、
それでも生活の中に言葉という形を残せることは不思議だ。
距離なんて、そんなものは無い。
私はもう、心なんて信じない。
心を弄べる可能性を信じない。



真っ赤なギターを持って、私は山に登る。
そこから世界を見下ろして、
スリーコードで人類を救うんだ。
私は宇宙。大きな空白。

私は私を捨てるための箱を探している。
無感覚な容積のためのゴミ箱。
沈黙していたい。
頭の芯まで。
みんなみんな捨ててしまえたら、
私は天国に心地よく迎え入れられるだろうか?

少しずつ貯めていくんじゃなくて、
部屋の中も、心の中も、頭の中も、
どんどんどんどん捨てていく。
私をどんどん失っていく。
そのことが気持ちいいんだ。
私は私に属する「あらゆる」を失っていく。

私たちは回り続けるオルゴールのようなもの。

いつか、こんな冬の日に、私も死んでしまうのでしょうか。



星から光が落ちてきて、
背骨の奥から、
僕を光で満たしてしまう。
髪の毛の揺れる音がする。

――身体が軽い。

嬉しいことと悲しいことの区別も付かないまま。
電子音楽が小さく流れていて、
すぐに消えちゃうものたちだけが、
永遠の在りかを僕に教えてくれる。

一切が消える。終わるから、
生きていける。



僕は醜いものを嫌悪する気持ちがあった。
今はどうだ?

つまらないものの全てが美しいような気持ちで、静かに息をしていれば、
屋根の上には雨が降り、目蓋の上は青く霞んで、
嫌悪は何も感じることのない僕ら全ての、街の解体工事のようだ。

それはいつまでも続く疲れの、日々の全ての発掘作業のようで、また
針を無くした方位磁針の、ピアニストのいないピアノの
花の香りを求めるような、絶対的な尺度を探す人たちが、
左の腕に爪を立て、笑みを求めて泣くような、泣くこともまた
演じることであるような、

――爪を立て、
爪を立て、本当の痛みを知って死にたくて、知りたくて、
美しいものを求める感情よりも、死ぬときに最後に残る感情は、
透明な赤い赤い血を、日々の全ての嘘くさい言葉を捨てた文字たちを
赤く染まった指先で一文字一文字書くことだから、それでもそれを
黒く黒く染めて残したいといつか願った僕たちだから、
嘘じゃない感情が青ざめて、結果的には嘘になっても、
嘘じゃない心はいつも、意識の中に、嫌悪の中に、疲れの中に
冷たく冷たく残っているはず。

そう願う僕もまた日常の中で疲れて嘘を吐き、意地悪で、痛みを恐れ、
混乱し、自分を忘れ、僕は自分を取り戻したいとか自殺とか言いながら、
日々や未来や他人の意味や、命や傷を侮っていて、
綺麗なものを欲しがっては嘆いて、他人よりいいとか悪いとか気にしてて、
嘆きも段々平坦になり、求めるものは表面的で、結局は
楽になりたい気持ちばかりで、それも段々無くなって、
性欲も睡眠欲も、食欲も生命欲も、物欲も金銭欲も、あるようで無いようで、
空元気さえ無くなって、快感も安眠も無くなって、
疲れの中で、求めるものも人生の意味も何も全然分からなくて、
ただもじもじしたり、笑ったり、笑わせたり、茫然として、
死ぬまでに払わなければならない負債が貯まっていくのを、
他人のことのように感じて、それが自分のことと分かると、
自責の念と自分が何か分からない気持ちに逃げて、血を恐れ、
血を笑い、あざけりや、嘘じゃないけど、本当でもない
呪いみたいな人生を捨てたいし、捨てたくないし、
要するに生きるとは何なのか分からなかった昔より、
ずっと不安で疲れて逃げたいだけなのに、孤独な振りを続けてて、
迷信深くなってしまって、優しいだとか、丁寧だとか言われるけれど、
人に何かを言われたときは微かに僕を感じるけれど、
それでも自分は、本当はそうではないと否定することでしか
自己主張できなくて、人に言われるままになるのはやっぱり嫌で、
でも人と話さなければ本当に空っぽになりそうで、
薬を飲んで、薬をあるだけ飲んでもどうせ死ねないと思ったら、
何もかも捨ててしまってきっぱりと死ぬべきだと思うけれど、
何をするにも疲れてて、僕はただ死を先送りすることでしか生きてない。

けれど、それでも残り続けていて、何ひとつ傷付くことのない沈黙と無音が、
僕に寄り添うときがきて、僕は歌を感じるだろうし、歌の中に
季節を感じ、笑みを感じるだろう。

祈り疲れて死ぬまでの束の間、呼吸と太陽を混同するまでに混乱し、
音楽が固形の原子となって、僕はそれをがりがりと食べてしまう。
そして、僕は僕以外の全てとして、ゼロから永遠へと生き返って、
大きくもなく小さくもなく、不幸でも幸福でもない光と影の人形として、
永遠に緻密に空白の言葉を、真っ赤な言葉で描き続けるだろう。
それが僕の救いであり、眠らずに祈り続ける脳や背骨が疲労して、
僕の命が折れたとき、僕は生き返ると信じている。

みな疲れているけれど、生きている時点で愛し合っている。
自殺も含めて生であって、生だけが世界なのだと、死んだ後でも気付かないまま、
産まれ変わり、産まれ変わり、僕がいて誰かがいて他人がいて、全てがあって、
生き返っても、生き返っても、有限の生を心配しながら、無作為に出鱈目に、
演じ続け、嘘を吐いて、自殺を試みて、大袈裟になって、貪欲になって、堕落して、
それ以上衰える力も無いくらい弱り切って、人はみんな躁鬱で分裂してて、
偏執的なドラマが繰り返されて、死につつあって、渇望してて空白で、
そんな世界の中でも、生きていて、それゆえに沈黙を破ってしまうということは、
良くも悪くも、それは愛ゆえに、なのだと思う。

誰もが沈黙するとき、本当の安らぎが訪れて、ああこれが世界なんだな、
って全ての人々が帰途に就くとき、それでも僕は寂しさを抱え続けていたい。

詩や小説、街の甍やLEDの光、ヘッドホンに包まれて、空腹で馬鹿みたいで、
音楽が好きで、ギターが好きで、ピアノや季節や赤色が好きで、
ディスプレイやプラスチックが好きで、カラフルとモノクロが好きで、
……生きているんじゃなくて死に損なっているだけだといくら言われようとも、
部屋の中で昨日と同じ毎日を、見送り続けるだけなのだとしても、
それでもきっと、寂しさを抱えている限り、
僕はひとりぼっちではないのだと思う。



離れて見ればみんな美しい。
人は意識の世界で楽しくなろうとがんばるけれど、
節度が人を駄目にする。
疲れて、疲れて、血を吐くまで、疲れればいい。
係累……流れて僕を青で包む。
鋭い透明な赤を感じるまで、
疲れて、疲れて、血を吐くまで生き永らえて、
……青とも黄とも共に死ねない。

いつしか黒を望んだ僕は、そろそろ赤に帰るときだ。
嘘じゃない心はいつも意識の底に、
赤く鋭くやわらかく、透明に眠ってるはず。
雨がやんでも僕の心は灰色だけど、四角い窓の向こうには、
赤い夕陽の残り香が迫り、溢れる気配がする。

人それぞれの血管に赤く流れる運命を、
泣き笑いさえせずに僕は信じている。

僕は疲れて動けない。
遺書を書くみたいにキーを叩いていても、
何も感じることがなく。

ただ何もかもあるべき場所に収まって、静かに息を潜めてて、
エレキギターが流れてて、ギターと僕と部屋と言葉と
心拍が旅立つことを覚えてて、どろどろとした心の底でこの瞬間も、
いつか心に刻んだ文字が、僕をまた
孤独で嘘の無い世界へと、ピンクの月に照らされた彼方の地へと誘っていて、
……歩いてきたよ、泳いできたよ、僕だけが知っている過ぎ去る日々を、
だからもう、ここへ真っ赤な文字を刻みたい、
残酷な、酷薄な言葉が僕の心を殺すまでに、また。


夢から覚めて、
夢はすり切れた地図のようで、
私の肩は濡れていて、
口には微かな金属の味がした。

寒さの中で、夜は目を閉じる。
私はここに起きている。

釈然としない。



僕は三十六歳だ。
僕は何色にも染まらなかった。
風が吹いている。
風は、十九歳の頃と変わらず吹いている。

何日も、何日も。
トンボが透明に、乱れて飛んでいた。

誰とだって、知り合いな気がする。
誰とだって、別れた後の気がする。
僕は何ひとつ奪わなかった。
僕の世界は奪い尽くされて、
今ではトンボの、透明な目のようだ。



雨に吹かれて隣りの屋根も光っている。
戦争は常に遠い場所で起こる。
私は、私自身を眠る。
たとえ頭上で爆撃が起こっても、
私はそれを見ないし知らない。

甘いスミレが咲いている。
私はいつのまにか五十歳になるだろう。
私はいつのまにか八十歳になるだろう。
私はそれに気付かないだろう。

私の中から、言葉は出てくるだろう。
言葉は巡り、季節は巡り、世界は眠る。
まだ誰も訪れたことのない眠り。

みんなと知り合い、
みんなと別れた。

明かりを落として、
私は眠る。

太陽を忘れて
私を忘れて



頭の中の気配。
無言と沈黙が私を溶かす。

許しが世界に溶けていく。
すみずみ。

死とともに、
世界は進む。

音楽は眠る、
言葉は眠る、

世界……、

私は眠る、
包まれて。

さよなら。
もう、
水面も、
見えない。

冷たくなった身体の中で

地球が滅びるとき。
最後の雨に、最後の地が濡れるとき。
不安の種が、咲かないままに枯れるとき。
深い愛情や気遣いの全てが眠りに就くとき。

全てが過去形の中に固定されるとき。
キメラのような化石があちこちに積み重なって、
枯れた森のようになっている。
神さまは疑問形のまま空を満たしている。

冗談やナンセンスだけが、
着地することなく、風に溶けて、
空気を薄い紅色に染めている。
「明日は春」と言う人ももういない。

……、
死ぬことと、許し合うことの、
懐かしい匂いの中で、……

僕は産まれたくなかった。

メモ(音楽と心臓、日常)

 他人に向けて、自分を演じるのはやめた。

 音楽をヘッドホンで聴いている。聴いているのは脳ではなくて心臓だ。

 リズムやメロディや音色を、指先でなぞっていく。誰にも見せない恥じらいのようなものに、そっと寄り添う。毎日箱を開けては埃を払う。その箱を、僕は死後まで持って行くだろう。
 箱の中には虹が掛かっている。カラフルでモノクロな流れ。感情や、生活の中の喜怒哀楽。微かに遠い場所から、僕の心や身体へと降り注ぐ音の粒たち。細胞の中の海が震える。大好きな音楽たち。
 僕の身体も、意識も、感情も、みんな音楽で出来ている。音楽との親和性。消えてしまうことが僕の最終的な願い。終止符の無い永遠の音楽。あらゆる音楽は永遠の断片。好きな音楽もあれば、嫌いだったり、分からない音楽もある。
 僕の心身は見えない光で発光している。音楽はあり続ける。僕もまた音楽の一部。

 音楽の中には詩がある。死角の方へと音楽は拡がっていく。

 何も無くていい。音楽と、キーボードを打つ感触。それさえあれば。

 この世で一番面白いのは、詩と音楽だと思う。それから小説も。いつも目覚めていたい。そして、自分自身を離脱していたい。詩に永遠を感じること。それは、本当に素晴らしい体験だ。

 僕は、個人的には瞑想も運動もしない。幸せもいいけれど、不幸も不機嫌も憂鬱も、心の引き出しに、そっと仕舞っておきたい。ときどき取り出して、思い切り落ち込んだりしたい。

 オレンジの住み家。漢字のスペース。……

メモ(ひとりの時間/はじまり)

 ディスプレイの向こう側の壁に、ポロックの絵の複製を貼っている。落ち着いて座っていられないときや、動悸がするときなどに、僕はその絵を何となく見ている。

 ビル・エヴァンスのピアノには死の匂いがある。機械に過ぎないピアノが、心の音を奏でられることが、とても不思議だ。

 どんなにお金があっても、業績があっても、死んだら消える。いや、生きている内から、そんなものは、僕自身の人生にとって無意味だ。

 ――電子の文字盤に触れたい。何処かに繋がっているという感覚。暗闇の中でiPhoneiPadやタッチスクリーンに触れられるのはとてもいいこと。無愛想な画面が反応してくれることの温かさ。

 心が水ならいいと思う。水の流れや、氷の結晶は、いつも個性的で美しいから。水にはきっと意識なんて無いけれど、水は自分自身を使って、意識で考えるよりも、ずっと美しい形状を表現出来る。僕の思考では真似の出来ないこと。
 僕の細胞とディスプレイが、指先とキーボードを経て、繋がっている感じが好きだ。でも今は、脳で考えた言葉を、ただ機械的に打ち込んでいるだけだと感じる。僕の細胞は衰弱している。乾きに向かっている。脳がうるさい。痛みが欲しい。

 指先が自然に語り始めるまでは決して書かないこと。脳を使うのではなくて、指先が踊り出すように、自然に書けるのが理想。ピアニストがピアノを奏でるように。書くたびに永遠を感じたい。眼をしっかり開いたままで。

 僕の能力は、きっと脳の電源を切ったときに発揮される。脳には心は無い。そこには光の街があるだけ。そこを旅するのが心。脳は多分、もやもやしたことから、何らかの答えを導き出す能力を持っている。意識することは本当に大事。でも、意識に辿り着く前の、下の方にある領域は、もっと大事。

 本当は星はひとつしか無いのかもしれないし、物質はたったひとつしか存在しないのに、人間の眼がものすごい乱視だから、やたらたくさんの物が見えるだけかもしれない。現実は想像であり、想像は現実。

 ウォークマンを作ったのは僕じゃないし、ヘッドホンも、そこから流れてくるビートルズの歌も、僕が作ったものじゃない。だから独我論は信じない。

 泡、泡、泡、震える泡。
 西陽が当たる、音楽よりずっと強く、鮮明に。