メモ(入院中につらつらと考えていたこと)

 随分長いこと、論理的に物事を考えようと苦労してきた。まだもう少し、出来れば論理的に、出来れば常識的に、考えられればいいんだけど……。

 この世界には、内側と外側があると考えてしまっていた。でも実際には違う。僕の外に見えるものを、全て内側と言い換えても構わない。あるいは、僕自身が外側にいるのだと考えてもいい。

 今、「僕が考えている」と思っている。でもそれを、より正確に表現するならば「考えている」だけが存在している。「僕」というものは何処にも無い。

 僕は、本に書かれた存在かもしれない。あるいは封筒の中の、誰かが一晩掛けて命懸けで書いた手紙、それが僕なのかもしれない。言葉に命を感じることがよくある。だから僕自身もまた、言葉に書かれた命なのだとしてもおかしくない。言葉は文字の組み合わせだけれど、そこに心を感じる。僕自身もまた、ただの組み合わせで、しかも同時に心を持つ存在だ。そこに違いはある?

 僕は、数ある構成物、つまりこの宇宙全体に存在する全ての物質の、ただの一部なのではない。何故なら、よく考えてみたら、僕と、僕以外の全ての物たちの間に、境界線なんて引かれていないからだ。僕という個体には名前がある。その名前は、例えば住民票にきちんと記載されている。でも、僕という個体とは何か、厳密に考えると、答えが出ない。「僕」という単語が、正確には何を指しているのか分からない。
 風の音がして、何かを思い出す。何か、大切なものを。いろんな思いや考え、感情が僕を通過していく。雨の音が好きだ。もしかしたら雨の音や匂いが大嫌いな人も存在するかもしれない。「雨」と「好き」と「嫌い」、それらは別々のものだろうか? 交錯すらしないもの? もし、世界に名前や言葉がひとつも無いとしたらどうだろう? 雨にも好きにも嫌いにも名前が無い。仮に雨を「……」と表現する。好きも嫌いも「……」と表現する。世界には「……」以外何も存在しない。宇宙も僕も「……」でしかない。「世界」の全てが「……」であるならば。「僕は今、キーボードで日本語を書いている」も「……」で、「ヘッドホンで菅野よう子を聴いている」も「……」。「僕がいる」も「僕はいない」も「……」。……、そんな世界を想像出来ませんか?

 「……」から言葉が産まれ、「……」から音楽が産まれ、「……」から物質が産まれ、「……」から空間が産まれ、「……」から時間が産まれる。「……」に「全て」という名前を付けたとき、「……」から「全て」が産まれる。名付けられた後の世界、つまり言葉の世界に、僕は住んでいる。既に出来上がった「世界」に、「僕」は生きている。ある程度楽しく、ある程度悲しく、ある程度幸せで、ある程度不幸な僕がここにいる、と僕は思っている、と僕は思っている、と僕は思っている、……。でも全てが「……」なのだと、想像することも出来る。「……」だけがあると感じるとき、僕は最高に楽しい。何故なら、全ては「……」に付けられた名前に過ぎないから、「僕」も「キーボード」も「世界」も本当は「……」なのであり、「僕」は、イコール「全て」でもあり得るからだ。名前が変わるだけ。つまり言葉の組み合わせが変わるだけ。言葉は全てを産む。言葉は全てを変化させる。言葉は美しくて、可愛くて、愛おしいもの、それ以上でもそれ以下でも、何ものでもない。過ぎゆく時間、夜中の時間、玄関のドアを開ければ拡がる明け方の空、街、あるいはディスプレイに映るカラフルなものたち、それらがみな美しくないって誰が言える? あるいは美しいと感じることが、そのまま美しいということを、誰が否定できる?

 「……」が全てであるという持論を敷衍するならば、脳が言葉を作る、というのは嘘で、言葉が脳を作っている。僕の中に言葉があるのではなく、寧ろ、言葉の中に僕が住んでいる。脳は、言葉で出来た世界を、切り分けて整理する器官であり、脳には決して「……」は見えない。一時的な脳死状態に陥らなければ、「……」は決して感じられない。でも、ずっと脳死だと、もちろん生きられない。脳のオン/オフが切り替えられたら理想だと思う。
 スイッチを切られたくないロボットみたいに、脳は死ぬことを極度に怖れている。
 ところで、「……」と、「言葉で出来たこの世界」は、その二通りだけあるのではなくて、その間に、かなりいくつもの段階があると思う。魂とか心とかは、言葉より、もう少し深いところにある。言葉が言葉になる前の段階だ。「……」は一番深いところにあるとも言えるし、一番表面にあるとも言えると思う。「……」は「全て」でもあるから、「……」を感じられるときには、全てを見られるのだけど、「……」は、言葉を少しずつ減らしていった先にあるのではなく、寧ろ言葉のど真ん中にいるときに、ふとそこにいる、という感じで分かるものだと思う。「……」から、あらゆるものが産まれる。物理学で言えば、ビッグバン以前の宇宙のようなもの。そこには宇宙は無いし、「宇宙は無い」も無い。「……」から、言葉によって産まれる全て。それは、本当に全ての全てで、言葉になる以前の言葉さえ、やはり言葉によって産まれる。それくらいの広い意味で、僕はここでは「言葉」という単語を使っている。全てを産み出す、魔法のスペルとしての言葉。魔術や神ではなく、言葉こそが全ての創造主だと思ったりもする。同時に、そこから創造された全てのものたちもまた、言葉だと思っている。
 「……」を僕は愛している。同時に「言葉」も、すごく愛している。「愛」とは例えば、ある何か/誰かを、他とは違う、不可侵で価値あるものとして、尊重することだと思う。そして、自分自身を絶対に手放さないことだと思う。そして「言葉」によって産まれたものたちを、出来る限り細部まで、よく観察したり、よく感じることだと思う。言葉を愛すること。それが、言葉の前提としての、言葉になる前の言葉を感じるための、一番の近道だと思う。さらにその前提としての「……」には、言葉になる前の言葉をも受け入れ、愛することによってしか、辿り着けないんじゃないかと思う。
 何故なら愛とは、完璧に自分自身でありながら、同時に自分以外のものを知りたいと願うことであり、また愛とは、他の何かや誰かのことを深く感じようと意識し、その存続を祈ることだからだ。自分をほったらかしにしていては、何処にも行けない。でも逆に、自分にだけ拘って、自分以外を蔑ろにしていたら、自分が最初に滅びる。自分と他人は、文字通りの意味で繋がっている。何処にも境界線は無い。……