日記(通院の日)

1月25日(木)、
 全てを愛したいな。全てを丸ごと。自分の周りに幸せでぼんやりした空間を作ることではなくて(そうしたいと思うことは、多分堕落か、老化なのだと思う)、全てをみんな愛すること、それが僕の望むこと。
 僕はきっと、人に会わなければならない、もっと。だってそうしなければ、人が好き、な感覚を忘れてしまうから。薄れてしまうから。
 僕は精神の病気だ。とても心の異常な部分に苛まれている。何もかもが怖い日々が続いて、人と交わることも、外に一歩出ることも、ほとんど出来なくなっていた。幻覚や躁状態や、それよりもずっと長い鬱状態の中で、自分なりの隔絶されたシェルターを作ろうと、叶わない努力(みたいなもの)を続けていた。まず自分が楽にならなければ。楽、を探していた。
 けれど僕は今、楽なんて無くても、それか楽なんてずっと後回しでもいいと思っている。それよりも愛したい。楽ではない場所かもしれないけれど、愛することの先に、楽しい場所も、きっとあるはずだから。

 それにしても、ああ、何でこうも自信が無いのだろうと思う。

 午後は病院に行ってきた。空気に触れる神経から、内面までがぴりぴり震えるくらい緊張した。血圧は217あった。何なんだ、この今まさに人を殺してしまったみたいな緊張は、と思いながら「いつも高いんです」と、看護師さんに笑って言った。すぐ、「あ、いや、いつもじゃないんですけど、安静時は120くらいなんですけど」と口をついて出そうになって、まごまごしている内に、何か誤魔化しているみたいな気になってきて、謝りそうになって、取り敢えず、服が背丈に合っているか気にしている人みたいな動きをしていたら、「次は採血ですよ」と言われたので、「あ、はい」と答えた。
 誰も僕の挙動不審なんか気にしていないらしくて、だから落ち着けばいいのに、と思っても、何か失敗して、周りの人たちの手はずを狂わせるんじゃないかと感じる。十分自分はまともだ、と思考しても、思考が感情に追いつかない。何も変なことなんか起こらない。看護師さんの手はアルコールを多く触っているからか、少し乾いていて、僕の手よりもずっと寒そうだった。血を抜かれながら、長年病院に通っているのに、看護師さんの名前を誰ひとり覚えていない、と気付いて、名札を見たけれど、待合室の椅子に戻るときには、その名前のことを全然覚えてなくて、自分が馬鹿なんじゃないかと思った。主治医の先生の名前以外は、まるで思い出せない。覚えようとは、毎回思うのだ。待合室の窓から、大きな木が見えて、冬なのに枯れていないんだな、と思った。自分の血のことには何の興味も持てない。
 時計の針の音が気になってしまう診察室で、主治医の先生に、僕が書いた文章を読んでもらった。その場で読んでもらえたのは嬉しくて、けれど恥ずかしくて、先生が僕の文章をじっと読んでいるのを意識すると落ち着かないので、壁の時計ばかり見ていた。本当は針の音はそんなに大きくなかったのかもしれない。その後、やたらと喉が渇いて、覚えているはずの自動販売機の場所まで歩いていったら、見事に迷ってしまって、いつの間にかスタッフさんの事務室(?)みたいなところの前に来ていたり、中央に液晶テレビの置かれている薄暗い広間のようなところに三回も戻ってきてしまって、テレビの前に立っている人と、三回すれ違ってしまった。トイレに行き着いたので、洗面台の前に立って、自分の顔を見たら、大丈夫、怪しい人ではない、と思えたけど、あまりそれが自分に見えなくて、とても怯えている、疲れた病気の人に見えた。
 乳酸菌飲料を無事に買えて、その冷たさを片手に感じていると、自分が少し社会生活をしているような、ほんの少しの安心感を覚えた。

 ディスプレイの明度が脳を落ち着かせる。帰ってきて、レディオヘッドを聴きながら、これを書いている。病院ではニック・ドレイクR.E.M.を聴いていた。さっき家で血圧を測ってみたら150に下がっていた。心拍数は65。まあまあというところだ。少しは安心しているのかな? 分からない。

 来週、デイケアというものを見学することになった。よくは分からないのだけど、大人のフリースクールのような場所なのだろうか? フリースクールには通っていたことがある。精神的な孤児みたいな不登校生たちが、寂しさを通して、寂しい連帯感を保っているような、けれど悪くない場所だった。デイケアもそれに似て、社会と寄り添うようには生きていけない、途方に暮れた人たちが、もしかしたらそこでだけは、自分の存在理由のようなものを感じられるような、人との関係性を、寂しくても少しだけ保てるような場所なのだろうか?、それとも、どうなんだろう……。「さあみんなでダンスをして仲良くなりましょう」みたいな、今までの薄暗い僕の実情とは違う、明るすぎる場所だったらどうしよう、とか、逆に俯いた人たちが、何か諦めているような表情で、みんな仕方なくそこにいて、生きていても関わっていても仕方が無い、という雰囲気で、誰も他人に無関心だったりしたらどうしよう、それとも淡々と、めいめいが席について職業訓練(想像も付かない)を、黙々と行っているような、外で内職をするような場所なのだろうか?、とか、要らない想像をしては、少し不安になっている。
 デイケアの担当の方(自己紹介されたにも関わらず、名前を忘れてしまった)に、月間プログラム、というのを見せてもらいながら、「なるほど」「そうなんですね」と答えながらも、『アルコールミーティング』というのが、飲み会ではなく禁酒のための集団カウンセリングのようなものなのだと気付いたり(がっかりはしなかった)、プログラムの書かれた紙にポケモンの絵などが描かれているのが気になったりしていて、けれどゆっくり説明して頂けたので、僕は担当の方の目を見たり、プログラムに目を落としたりしながら、悪いところではなさそうだし、それにともかく、このまま引き籠もっているのはまずいと思っていた矢先でもあるし、と何となく「見学だけでも行かねば」という方に、心の針が落ち着いた。「金曜日がやっぱり一番若い人が多いですね」と言われて、その金曜日の欄には『節分イベント』と書かれていて、怖いな、と思ったのだけど、「じゃあ、金曜日にします」と答えた。若さと年齢はまるで関係ないと思う。僕は自分がどちらかと言うと年寄りじみたメンタル……世をすねている感じというのだろうか……を持っていると思うので、「若い」ってどういう感じなんだろう?、僕には分からないかもしれない、と一瞬不安混じりの興味を持った。そして後悔みたいな、何かが始まる前の、微かにひりひりするような怖れと不安で、胸の奥がきしんだ。