メモ2(草稿2)


 僕は23年間、精神の病気だったので、23年前の、いいところだけは取り戻そうと思う。同時に僕は沢山のことを知ったし、役に立つことは、いい歳をした大人として、何でも活用しようと思っている。

 僕は昔、市役所職員か、たこ焼き屋か、小説家になりたかったな、と思い出す。それか、編曲家になりたかった。ミュージシャンや作曲家よりも。せっかくいい曲が沢山あるのに、アレンジのせいで台無しになっている曲が多いと思ったからだ。何故、市役所職員や、たこ焼き屋になりたかったかと言うと、定時に家に帰れて、ある程度お金があれば、あとの時間は思いっ切り、好きなことに使えると思ったからだ。黙々と決められた仕事をするか、それとも一日中たこ焼きを焼くか。素晴らしいと思った。
 あと、職人にも憧れていた。特に何の職人になるとかは決めていなかったんだけど、例えば京都の老舗の扇子屋で、一日中扇子を作るとか。それで一生を過ごすのは楽しそうだって。数学者や理論物理学者もいいな、と思ったけれど、それは残念ながら、高校の二年生くらいから、数学に興味を無くしてしまったので、立ち消えになった。



 真夜中、Loscilを聴いている。真っ暗な部屋で。「僕が」「俺が」「私は」とうるさい僕の中の自意識が少しずつ宥められていく。昼間は読書をしている。夜中は自分をやめる。ゆったりとした、海洋生物のような意識。ああ、ロック、ブルース、ジャズ、エレクトロニカ、そして少しのクラシック、……何て気持ちいいんだろう。
 個人的であることはすごく大事。個人的でありたい。でも夜中には、自我の領域から、遠く離れてしまいたい。



 考えていると、時々、少しだけ自分の気持ちを鎮められる。電子の海の混沌の中で、安心して暮らせるプラスチックの家を建てたい。空っぽにされた囚人たち。僕の眼は全てを空っぽにしてしまう。明るくても、暗くてもいい。安心して過ごせるなら、何処でも。

 ウォークマンの金色の筐体から零れ落ちる音楽。デジタルの粒子として飛び回っている音たち。Blu-raymicroSDより、ビデオテープがいいという人たち。森の雫を舐めて生きる、透明な鹿たち。その森で純愛だけを求めて消えていく子供たち。

 「ひとつ」しか欲しくない。その、ひとつだけ。「すべて」はいらない。「すべて」は小さすぎて、薄すぎて、僕が消えてしまうから。でも、「ひとつ」は「すべて」でもある。言葉の選び方の問題。



 悲しみは続く。でも、悲しみの連鎖を、自分の中で解消しようと、少しだけ考えてみることも出来る。僕の親は、あまりいい親ではなかった、と別に恨みがましい訳でもなく、そう思う。でも、親のせいにするのは、どこかでやめなければならない。
 僕は、誰かが僕の全てを受け入れてくれないかと、ずっと思っているけれど、待ってても、多分、そんな人は現れない。自分で自分を受け入れず、他人も受け入れないのに、自分だけは他人から受け入れられようと思ってても、実現の可能性は低い。



 「僕は僕だ」という感覚は、とても大事だと思う。快感よりも、真理よりも、まず初めに大事で、そして最後まで持ち合わせていたい感覚。僕が僕であること。自尊心でさえない。その感覚は、とても確かで、とても静か。

 僕は産まれ付き、とてもマニアックな人間だと思う。左から、右へ、全てを片付けていく。



 最近、父と母が何か言い争っていても、まったく子供みたいだな、と思うくらいで、いちいち暗い気分にはならない。と書いているのは、今まさに、廊下のむこうで両親が、相も変わらず、何やら罵り合っているからだ。よく飽きないものだと思うし、どちらかが自殺する訳でもないから、傍観している。ストレスが溜まっているのは分かるし、でも、お互いを悪く言い合っても、本当に時間の無駄だとは思う。
 とは言っても、まるで冷静にいられるほど、僕も成長した訳ではないから、僕は僕で睡眠薬を飲んで、ヘッドホンを付けて、逃避しているのだけど。でも、自分のしたいことをせっせとしていないと、僕だって、すぐに歳を取るし、いつ死ぬやら分からない。罪悪感や自己嫌悪や憎しみや文句で、自分を潰してしまうのは馬鹿みたいだし、そんなんじゃ百歳まで生きたって、楽しい時間は訪れないだろう。

 生きていると、自分ではどうしようもなく、暗い気分になることが多い。テレビが減って、強制的に情報が耳に入ってくる機会が減った分、少しはましかもしれない。外に出るときは、出来るだけイヤホンを付けている。
 僕がコントロール出来ることは、あまり無いと思う。自分を変えることは、少しだけ出来るけれど、「これが僕だ」という、すんなりした感覚を逸れると苦痛だ。今は「好きなことは読書です」と普通に言える。日常的に本を読んでいるからだ。読書は、思い付く限り昔から好きだし、カタログやガイドブックや説明書を熟読するのが、とても好きだった。



 僕はずっと、自分を駄目な人間だと思ってきたけれど、最近は、そうでもないのかな?、と思う。どちらかと言うと駄目なんじゃないか、と思うことの方が多いけれど、それはさて置き。別に自分を軽蔑されても、嫌われても構わないと思い始めたのは、本当に、ここ最近のことだ。駄目な人間でも、いい人間でも、どちらでもよくて、そんなことは、他人が勝手に決めることだ、って。多分、一生掛かっても「僕はいい人間です」なんて言えないし、言いたくない。駄目な人間と言われた方が安心する気もする。
 僕は僕で、したいことを全力でやっていればいい。それは正論であって、実際には悩んでばかりだけど、一日の間に、一回くらいは、「どっちでもいいな」と思えないと、かなりしんどい。駄目だと思い続けていても、いい人間になりたいと思い続けてても、苦しい。



 この世はこの世であり、全ての別世界を含んでいる。ところで僕は紙が好きだ。活字が大好きで、写真集や画集の印刷が大好きだ。日本語は、そんなに好きじゃなかった。でも毎日、本当に毎日、日本語に触れていたら、好きにならざるを得ない。もし僕が外国人であっても、やっぱり日本語を魅力的に思ったかもしれない、と思うくらい。日本語の活字を作るのは、大変だっただろうな、と思うけれど、職人気質の人が、丁寧に作ってくれたのか、日本語の活字は美しいと思う。



 ある人たちは、トラウマがあると言い、またある人たちは、トラウマも過去も無いと言う。
 思うんだけど、愛のサイクルがあるとして、それはやっぱり自己愛からじゃなくて、自分以外の愛を見付けることから始まると思う。正直言って、こんな世界、どうだっていいんだけど、もし仮に、すごく好きで、本当に自分にとってはきらきらしている本が一冊あれば、世界はそれだけで、とても綺麗で、全てが無意味でも、世界とは「綺麗」だけは存在する場所になる。多分、それだけでもいいと思う。救いも教訓も無くても、意味も無く、綺麗なら。
 それは醜いかもしれない。残酷かもしれない。『オメラスから歩み去る人々』という小説みたいに、誰もが羨むユートピアは、ひとりの子どもの犠牲の上に成り立っているかもしれないし、ひとりどころじゃないかも。少なくとも花とか、自然とか動物はかなり犠牲にしている。全てが全て汚いのかも。僕を超えた場所はある。もちろんある。この身体が既に、僕を完全に超えている。けれど、僕個人はここにいて、非常に強いジレンマに悩んでいる。自分の幸せを最優先するのか、それとも人も、自然も、宇宙も神も、全部が救われた後に、最後に僕が幸せになるのか。両極端だけど、どこか適宜な位置で幸せに、っていうことは出来そうになくて、今すぐハッピーになるか、最後に幸せになるか、どちらかの気がする。
 「君の不幸は誰も幸せにしないよ」って一瞬で論破されそうだけど、別に不幸にはなりたくなくて、ただ単に個人性を維持したいだけで、そして個人であるということは、コミュニティとか、繋がりとか、宇宙とか神とか、いろいろなものとの一体感に自分を溶かし込むことを拒否することだ。普遍性を捨てること。繋がりつつ、普遍を求めつつ、しかも個人でいることも出来るけど、いつかは普遍や繋がりの中に消えることの誘惑に勝てなくなる。神さまは永遠に幾何学するとして、そして世界が黄金比とかで美しく成り立っているとして、じゃあ僕が個人として黄金比が好きかというと、そうでもない。誰が何と言おうと、誰もが美しいと認めざるを得ないものだけで世界が成り立っているのだとすれば、個人はどうしてあるのだろう? もし僕が「世界の真理はね……」と語り始めるとしたら、僕なんか要らないと思う。あまりに有り触れているから真理なのであって、別に僕が語る必要は無い。語る内容は一応真理であったとしても、それを語る動機は私的感情である人が多い気がする。
 僕は僕だ。間違いなく。「君は宇宙だ」と言われても否定しないけれど、でも宇宙じゃないよ、やっぱり、って思う。音が少しずれている方が好きだし、宇宙のエネルギーとか、愛の波動とか言われても、全然分からなくて、かと言って常識的に「人それぞれ」と言われるのも抵抗を感じて、どこかでは分かり合えるという、寂しい期待も持っていて、……そして考えても分からないから、ひたすら人を避けつつ、混乱を避け、好きな本とか音楽に籠もっている。個人に会いたい。選り好みしつつ、渇望して得た人間関係。運という言葉は、期待ではなく、渇望の先にある。
 「足るを知る」という言葉は簡単だ。今ある物を数えて、足りていると思うのではなく、数えることをやめればいいだけだから。簡単だ。けれど、自分の拘りを一切捨てる、ということは、しなくていい。性格まで喪失して、訳が分からなくなるから。休息の為の休息ではない。

 僕が僕を覚えていなくても、音楽や本が、僕を覚えている。健康食品なんか食べない。ジャンクフードが好きな訳じゃないけど、ジャンクという言葉は好きだ。バッハがいいというのはともかく、モーツァルトを全曲聴くくらいなら、ホワイト・ストライプスの9枚のアルバムを百回ずつ聴いた方がいい。ジャック・ホワイトは、僕のギターヒーローの、最初のひとり。というかジャック・ホワイトがいなかったら、僕はエレキギターを好きにならなかったと思う。バンドは基本、ヴォーカルが主役だと信じていたから。10歳の頃に、ジョン・レノンの弾くアコースティックギターを聴いて、こんなに格好いい音が存在するんだ、って驚いて、弾くならアコースティックギターだけだろうな、とずっと思っていた。
 ジャック・ホワイトはヴォーカルとしてももちろん唯一無二だ。でもギターが度を超して格好いいので、どうしてもギタリストのイメージがある。ホワイト・ストライプスのアルバムは、聴くたびに「ああこれが自分だ」と感じる。デジタルの世界の、外部記憶装置。

 AIが人間の能力を超えたとき、当然人間はAIによって、自分の中にもっと無尽蔵の能力があったことに気付かされるだろうし、そもそもの生存の価値は、別に能力の多寡には無いことに気付くと思う。

 僕は非常に若い頃、つまりひどい鬱状態になるまで、12年前までは、音楽が好きで好きで、でも好きなだけじゃなくて、出来ればコピーしたいし、歌いたいし、ギターを弾きたいし、そして、自分でも作れたら、と思っていた。今からなら出来るかもしれない。とにかく音楽を自分のものにしたかったので、一枚のアルバムを生真面目に、記録しながら100回ずつ聴いていた。どんなアルバムでも、100回聴けば、まず間違いなく好きになるし、自分の人生というか、自分の身体の一部になる。脳に回路が出来、皮質に皺が刻まれ、多分、身体中の組成を、少しだけ、もしかしたら全体的に、でも少しだけ、変換してしまうと思う。

 僕は、天真爛漫な天才より、すごく神経質で暗い天才の方が好きかもしれない。神経質で暗い人は、天真爛漫さも兼ね備えているけれど、天真爛漫さでいっぱいの人には、あまり神経質さや、心の暗さは分からないと思う。グレン・グールドは神経質そうで好きだ。ピアニストでは、他にはマルタ・アルゲリッチが好きで、今は内田光子の演奏もよく聴いている。内田光子さんは、非常に潔癖で、完璧主義で、過敏なくらいで、完全に完璧主義者だと思う。あまり聴かない(コンサートで多く活躍していたので、上質なスタジオ録音が少ないからだ)けれどミケランジェリもそう。



 音楽を信じてる。機械を信じてる。文学を信じてる。秩序や幾何学も美しいけれど、分裂的思考にも美しさはある。科学や思想もいいし、スピリチュアルも別に構わない。宗教も、哲学も。けれど、僕は言葉と音楽を信じてる。
 自分がどう思われようが構わない。考えたところで良く思われる訳ではないし。良い悪いの価値観は、自分と他人では違う。
 誰しもに天才的な部分がある。生きてるだけで天才を超えてる。だから別に自意識過剰でも、劣等感を持っていてもいいんだ。「幸せ」じゃない。幸せの更に向こうがあって、そこには「幸せ」も「幸福」さえもない。そんな言葉が存在しない場所。悪い言葉といい言葉の区別も無い。
 美しいも醜いも無い。「何にも無い」も無いし、「無」も無い。基本的にこの世界は戦争だ。いつも微笑んで「幸せ」と「愛」を広めようとする人もいれば、その微笑をぶん殴りたい人もいる。後者は議論の余地も無く悪と言われるけれど、悪を悪と決め付ける権利が善人にはあるのか、それは分からない。善は悪を怖れる。怖れは悪だと言いながらも。



 何をしても、何はともあれ幸せ。何故僕は不安なのか、と理由を探していたら、百歳まで生きたとしても見付からないだろう。何故骨を折ったのか、いくら考えたって、骨は治らない。僕はこう思っていた。信じていた訳ではないけれど。「したいことや、するべきことを、明日しようと思っていたら、一生しないだろう。今するべきだ」と。でも、したいことなんて無い。何をしても楽しくないから。
 想像の森に分け入って遊ぶのが好き。音楽が大好き。今この瞬間の楽しさの集積が未来なら、今聴いている音楽が、未来を満たしてくれるといいな。今、スピリチュアライズドを聴いてる。イギリスのオルタナティブ・ロック。僕が最も多く聴くジャンル。ジャンルには拘っていない。Wikipediaによれば、スピリチュアライズドは、ブライアン・ウィルソンビーチ・ボーイズ)と、フィル・スペクターの、ウォール・オブ・サウンド音の壁)に影響を受けているらしい。正確にはたしか、ブライアン・ウィルソンもまた、音で空間全体を塗りつぶすような、リヴァーブを多く使った、フィル・スペクターの、音作りに影響を受けたと、記憶しているのだけど。
 書くことは基本的に楽しくなってきた。文章力も、楽しさも集中力も、まだまだだけど。ギターを弾くことも素晴らしいし、最近買ったウクレレもぽろぽろといい音がする。エレキギターアコースティックギターも好き。



 すごく唐突みたいなのだけど、僕は基本的に、全ては大丈夫だと思っている。全て大丈夫な場所から産まれ、全て大丈夫な場所へと帰っていく。
 本当にしばしば、そして今も、僕は不安だけれど、不幸ではないと思っている。不安は生理的なもので、なかなか消せないけれど、自分の幸不幸は、自分で選べるからだ。本当のところ、根本的なところでは、僕は幸せなのだと思う。不安も、心も疲れも、大抵は、頭の中でごちゃごちゃ考えているから起こるのだと、大体分かってきた。
 ただし、頭の病気になるのは、考え過ぎることだけが原因ではないと思うし、頭の病気が重過ぎるときには、幸せを感じるのは無理だと思う。それは身体の病気や怪我や骨折と同じだ。脳も身体だし。脳の病気の人に「前向きになれ」と言うのは、脚の骨を折った人に「散歩しなさい」と言うくらい、無理な注文だ。骨折は、考え方や、栄養や運動では治らない。「気の持ちよう」という曖昧なものではなく、血液検査や、もっと効果的な薬で、脳の病気も早期発見出来て、治療出来るようになればいいと思う。

 脳の病気のときには、自分の回復を信じられない。自分の回復を信じられる能力があるときには、もう大分治りかけていると思う。それどころか、脳の病気の人は、わざわざ自分の病気を悪くする行動を取ってしまうことも多い。現在のところ、向精神薬には副作用も多いし、劇的な効果も期待出来ないけれど、ともかく決められた分量の薬を飲み、よく休み、死なずにいることだけが大事だと思う。でも、大人しくそれが出来るなら、やっぱりもう病気は半分くらいは治っていて、あとは時間の問題だと思うけれど、病気の人は、薬を飲まないかと思えばODし、休むことなく自分や他人を攻撃し、すぐ自殺しようとするものだと思う。僕自身がそうだったからだ。

 僕自身の病気のことは『メモ1』で少し触れたので、この文章で重ねて書きたいとは思わない。過去のことではなく、今考えていることや、出来ればもっと楽しいことが書きたい。(甘栗を食べながら書いてる。あんまり甘くない。)
 双極性障害躁鬱病)も、統合失調症も、罹患する原因のひとつは、脳の中の扁桃体という、感情を司る部分が肥大することであるらしくて、それなら感情豊かになれそうなものなのに、どういう訳か、恐怖の感情だけが延々止まらなくなるらしい。あまり詳しくないけれど、恐怖と戦うために、脳の他の部分も、とても忙しく働いているのだろうと思う。ゆっくり脳を休めることが不可能になる。
 逆に、例えば恋愛の渦中だとか、ものすごく集中している人の脳は、あまり働いていない、ということをYouTubeで、どこかの博士が言っていた。真偽のほどは分からないけれど、まあそうだろうな、とは思う。ごちゃごちゃ考えてたら、幸せにも、楽しい状態にもなれない。
 別に脳科学を信奉している訳ではないけれど、脳の働きを止めることが幸せに繋がるなら、つまりどんな年寄りでも幸せになれると思うし、何ひとつ達成しなくても、いくら自分が駄目な人間でも、何はともあれ、少なくとも幸せにだけは、誰であれ、なれる余地があるということにはなるのではないかと思う。脳の一部は、それでも忙しく働いていないと、絶対に幸せにはなれない、という可能性は、あまり嬉しくないので除外したい。

 頭の中には「嫌われたらどうしよう」と考え続ける回路があると思う。



 日本語を使っていることが、時々とてつもなく嫌になる。僕は13歳の半ば頃まで、日本語が嫌で堪らなかった。格好悪いし、不便な言葉だと思っていた。花や虫や魚や樹や、地名や化学物質などの名前を日本語で覚えるのが嫌で、一切覚える気が無かったし、今も出来れば覚えたくないと思っている。英語で覚えたい。日本語の名称って、べとべとしていて、生活感があるみたいで苦手だ。記号的な言葉が好き。ただ、日本語の方が便利なこともある。例えば音名は、C-D-E-……で覚えるよりもド-レ-ミ-……を使った方が覚えやすい。
 でも、ニ短調とか、嬰ハ長調とかは、どう考えてもFmとかC#と呼んだ方が便利で、未だに「嬰ト短調」とか「変ロ長調」は、頭の中で、えっと「G#m」と「Bb」か、と変換している。音名にイロハ……を使うのは、どう考えても不便だ。
 音の高さも、例えばエレキギターの音域を表すとき、日本語だと「ト音記号の下第3線のミから上第6線のミ」という、訳の分かりにくい言葉になるのに、英語を使うと「E2からE6までの4オクターブ」というだけでいい。
 僕はイギリスかぶれなので、個人的な日記の日付はイギリス表記(例えば9月29日金曜日なら「Fri 29 Sep」や「FR29/9」「FRI29SEP」)で書いたりする。中国では一般的に、月曜日を「星期一」と言うらしく、火曜日なら「星期二」だそうで、曜日が数で表せるって、スタイリッシュだと思う。日曜日だけは、「星期天」か「星期日」で、これも格好いい。日曜日も数字の方が合理的でシンプルだとは思うけれど。
 ドレミ……は便利だけど、音の名前をもっと無機質に覚えたいので、ギターを弾くときはドレミ……じゃなくてCDE……、で考えるようにしている。

 言葉は僕を不安にする。でも言葉はときどき僕を解放してくれる。詩は僕を解放してくれる。やっぱり中原中也の詩が一番に好きだ。宮澤賢治や朔太郎の詩も好きだけど、不安なときにはあまり読まない。
 それから、自分でも、好きになったのが意外だったんだけど、分厚い『漢詩名句辞典』という本を、疲れたときによく読んでいる。詩とは本来、気持ちを楽にするためにあったんだな、と思う。
 もちろん原詩を中国語では読めないから、日本語の書き下し文を読むのだけど、そうすると心が数秒間、時も場所も離れた、平和な場所に行けるような感じがする。現代語訳を読んでも、ちっとも面白くないのに、とても古い時代の書き下し文は、すんなりと心に馴染む。もちろん古い言葉が全部いいとは思わないけれど、古くから残っている言葉には、素晴らしいものが多いと思う。
 夏目漱石が『草枕』の中で、陶潜という人の漢詩を二行だけ挙げて「暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。(……)超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる」と書いていて、それは大袈裟ではないな、と思う。こういう詩句だ。
「菊を採る 東籬(とうり)の下(もと)
 悠然として南山を見る」
 直訳すると「東の垣根の傍で菊を手折る。悠然とした気持ちで南の山を見る」という、ただそれだけの詩だ。まるで面白くも何ともないような内容だけれど、何故かこの詩句を眺めていると、お腹の中が涼しく軽やかになってくるような、気持ちの良さを感じる。呼吸が楽になる。
 おそらくだけど、多くの人にとって、漢詩はつまらないものだと思う。僕も最近まで、全く興味が無かった。高校生の頃は、漢詩なんて馬鹿馬鹿しいし、古いから有り難がっているだけで、こんなの、本気で面白いと思う人が、果たしているのだろうか?、とまで考えていたと思う。完全に無視していた。
 今、僕が漢詩を読んで、面白いと思うから、高校生も是非漢詩を学ぶべきだ、とは少しも思わない。教育はとても大事だ、と大人が言いたくなる気持ちは分かる。でも、僕自身が、中学校も高校も大学も、本当に嫌で、教育をまるで受けようとしなかった人間だから、今のとても若い人たちに「学校には行きなさい」とは言えない。
 「若い頃に勉強していれば良かった。君たちも今勉強しないと、後で後悔するよ」という言葉も、説得力がまるで無い。若い頃には若い頃の現実があるのであって、将来後悔しないために生きている訳ではない。それに、後悔しているのなら、今すぐ勉強を始めればいいと思う。「鉄は熱いうちに打て」という言葉もあるけれど、若くても冷めている鉄もあれば、老人でも熱い心を持っている人はたくさんいる。鉄(心)はいつでも熱く出来る。



 僕は、何でもすぐに諦めてしまう。小学校以外は、中学も、高校も、予備校も、大学も、すぐやめてしまったんだけど、何故通えないのに高校や大学に進学したかというと、親は絶対進学以外許さなかったし、落ちたら死のうと思いつつ、勉強もせずにぶらぶらしていたら、何故か受かってしまったからだ。読書と音楽は、死ぬほど好きだったので、国語と英語だけは、やたら成績が良かった。で、大学をやめてからは、不安に簡単に負けてしまって、なかなか死ねずに、精神病を重くしたり、ましになったり、ずるずるしてて、で今に至る。
 高校をやめてからは、僕の文章や日記でよく書いている親友と一緒に勉強することもあったのだけど、例えば数学を始めると、僕は僕で数列に徹夜で嵌まり、彼は彼で因数分解がパズルみたいで面白いと言って、ふたりして難関大の問題まで全部解いてしまうと、飽きて寝て、もう数学はやらない、みたいな感じだった。それから、僕は英語や日本語の本をじゃんじゃん読んでいたし、彼はまた、評論家になれると思うくらい、歴史を極めてしまった。入試には合わないふたりが出来上がってしまった。でも国語と英語は、たまたま点数の割合が大きかったので、僕は大学に受かったけれど、彼は落ちた。
 何でも諦める性格が、全然駄目だとは思わない。諦めずに頑張りすぎて、心や身体を壊して、それこそ自殺や過労死をしてしまう人も多い。

 いつも幸せっていう訳にはいかないよな、と思う。いつも幸せ、と主張する人は、ライオンに喰われそうになっても、やっぱり幸せなのだろうか、とか、くだらないことを考えてしまう。「不安のメカニズム」とか言うけれど、不安の度合いには、とても個人差が大きい。不安でも一生懸命耐えるよりは、一度不安を完全に避けて、あるいは避けられないまでも、自分の不安を軽くする方法を、実際的に考えた方が、ずっといい。僕は今、割と冷静に、自分の精神を回復させるための、実際的な方法や考えを模索している。うまくいくかは分からないけれど。