メモ2(草稿1)


 大人になると、ちょっと変わった価値観を持てるようになるから面白い。自分で自分の目標を設定して、自分を変えていく能力を持てるようになる。
 僕は子供ではなくなったけれど、未だに大きな遊園地の中は、楽しくても同時に怖くて、片手には風船を握りしめて、もう一方の手は誰かにぎゅっと握っていて欲しい。温かいような、冷たいような、乾いたような、湿ったような手。ときどき手を振り払って夢中で走り回っては、急に、はっとして、寂しくなっても、周りを見渡せば、すぐに見付かる、ちゃんといつもいてくれる誰か。
 でも、僕は大人なので、仕方がない。怖いので、喫煙室に入って、薬を飲んでいる。サバンナとかで、子どものライオンたちがじゃれ合っているのを、立派な大人のライオンが、悠々と見ていたりする。お父さんライオンは、とても大きくて強いから、子ども達は、何の心配も要らない。
 人間の世界では、お父さんはお父さんで怯えているし、子どもは子どもで、お父さんに怯えていたりする。僕は僕自身で、父からは離れて生きていかなければならない。天の父も聖母も、僕にはいなくて、ぽつんと、一時間も二時間もピアノを夢中で弾いたりしては、急に「何て僕はピアノが下手なんだ!」と思って、蓋をぱたんと閉じて、泣けるなら泣きたいと思うけれど、泣かずに、何てげんなりする世界だろう、と思う。

 でも、希望はある。僕は子供の時より、知識や思考力がある。想像力もある。自分の考えを自分で検証し、判断する能力もある。何より言語力がある。得たものも多い。うじうじしているだけが能じゃない。ザ・スミスの歌でモリッシーが「君の隣で、ふたりで死ねたなら、喜びと栄光は僕のものだ」と歌っていて、その通りだと思うけれど、モリッシーは死んでいない。僕も死んでない。辛くて悲しいなら、それを吐き出せるし、キーボードをがしがし叩くことも出来る。泣いていいんだって、自分に言える。人にも言える。大人であることはいいことだと言うしかない。子供には、もう戻れないのだから。
 理論とか理屈とか、知ったことじゃないと言いたいけれど、使えるなら何だって活用すればいい。泣いていい場所を自分で作ることも出来る。大人の、すごい技術を持った大工さんが、この部屋を作ってくれたし、このキーボードを作ってくれた。理論や論理的思考ではなく、もっとシンプルに、自分を感じることで幸せになりましょう、という言葉は、一時しのぎのパッチのようなものだ。自然との一体感も大切だとは思うけれど、自然の中では僕はきっと、あっという間に死ぬ。



 楽しいことがあって、いくらでも楽しいことが出来ることは、僕にとって最高に嬉しいことだ。僕が意識的に出来ることは僅かで、僕は、自分はとても運がいいと思い込んでいるけれど、それは信念じゃなく、実際に運が良かったから、事実としてそう言っているだけだ。「運がいいと思い込めば、運が良くなります」という言葉には懐疑的だ。何故なら僕は、辛いときには、僕ほど苦しくて、不幸で不運な人間は、まず居ないだろうと感じていたからだ。それでも、一番辛い時期は過ぎた、と思う。また辛くなったら、不幸だ、苦しい、と自分の運命を呪うだろう。
 今も別に、極楽という訳ではない。「楽しい」とか「幸せ」という言葉を、自分のこととして発することが出来るのか、曖昧なところだ。

 不幸なときは、周りの人、今まで出会った人全てが、何処かしら、全体的に悪い人のように思える。かと言って、自分のことは全部自分のせいにしてしまうと、ダメージが大きすぎて生きられない。爆弾が落ちてきて、何もかもを粉々にしてしまったようで、爆弾以上の破壊力を持つ他人の言動が、僕の全てを破壊したような。もちろん、それは僕のせいじゃない、と考え、自分は犠牲者なのだから、と孤独な戦いを挑む。でも敵は分からない。

 たまに気分が良くなったように思えて、母に「もう何も後悔しない」と宣言すると、母は「たまには後悔してもいいんじゃない?」と返答するので、訳が分からなくなる。別にどちらが正しい訳でも、どちらが間違っている訳でもない、と夜中になってやっと思う。
 「何もかも風景のように、判断しないこと」とパソコンで書いて、でも風景は殺伐としていて、判断しなければ飲まれるか、馬鹿だと思われるか、とまた考え始める。
 そして「考えること自体をやめる」と考える。考えるのをやめるのにはどうしたらいいかと考えて、「環境を変えること」と考えても、変わるものではないから、「変わるまで待つ?」と考えて、「日本語で考えている訳だから、日本語をやめる?」と日本語で考え、「英語で考えよう」と思い、今までに書いた膨大な量の日本語を捨てようと思って、読み返していると「意外といいことを書いている」と感じて、また書き始める。「駄目だ、全部捨てなければ」と、いい加減疲れてきて、決心して、そうすると何もかもが急に大事な物に思えてきて、「自分を捨てる方が早い」、と思い、そうだ「無」だ、と思い、母や友人に「全ては無だ」と言いかけて、「無に何を話しかけているんだ?」と思って、取り敢えず「無」は棚上げして、でも有るのもしんどいので、「有と無の中間に曖昧なフィールドがあって、言語がそれを実体化する……」と考え始めるけれど、あまり根気が無いので、「いや、昔はそんなことを考えなくてもうまく行っていたはずだし、楽しかった」と思い返し、「要するには「僕」が生きている実感なんだ」と思い、でも疲れてて、疲れ以外に実感なんて無いので、野菜ジュースで朝鮮人参とサプリメントを飲んで、「いや、身体というか、脳の疲れだ」と思い、ベッドに横になるけれど、段々辛くて悲しくなってくるので、ザ・スミスを聴こうと思って、そうか、答えは音楽なんだギターを弾こう、いいギターが欲しい、ギターを調整しなきゃ、ギターの練習が苦しい、僕は駄目だけど原因は両親?、誰のせいでもない不運なだけだ、けど少しずつ良くなっている気がする、人参のおかげ?、ラミクタールのおかげ?、人のおかげ?、何処かに良くなったポイントがあるはずで、ポイントを繰り返すことでの改善を、いや僕自身には僕自身を良くしようという意識は無かった訳だから、無意識にアクセス、……意識と無意識の間には無数の段階があって無意識から枝分かれしたイメージが無数にあって、その中には不安も恐怖もある、つまりは「全て」だ、無であり全て!、無ではあるけれど全てがあるならばその二つの重ね合わせが現実であって全ての複雑さの中に完全な単純があり単純の中に無限の複雑があり、……でも現実は変わらないアフリカには飢えている人がいる、無であり全てでありしかも現実的な効果があること、文学?、僕は今これを書いていてあなたは今これを読んでいる、もともと全ては無であり有であり全てだったけれどそれだけでは何も存在出来ない相互に認知し合う意識が無ければ、そうなると考えるべきことは相互に認知し合うための効果的な方法だけで、短絡的な感情の交換ではない、感情のぶつけ合いではなく全体的な受容の方法、地道で地味な方法しか残らないかもしれない、十年かかって一枚の紙を抄くとか、そしてその紙を十年間見続けるとか、伝達とは受容であり受容とは伝達、つまり受け取ろうと努力することは伝えることと同じであり伝えようと努力することは受け取ることと同じ、真理は既にあるから後は実践するだけ、……中断、



 選挙前でもないのに、政治家の街宣車が外を走っている。週に一度くらいは僕の家の前を過ぎていくのだけど、「前向きに政治を変えていきます」と言っているのを聴くと、立派だなと思って、何となく窓を閉めてしまう。長生きしたとして、僕にそんな言葉を発することの出来る日が来るのだろうか? 政治家になるつもりはないけれど、今この瞬間からでも、前向きに生きていくことは出来るのに。出来る? でも、多分出来る、と思う。そう考えていないと、本当に何ひとつ出来なくなる。取り敢えずは、僕自身に、僕をほんの少しだけでも変える能力があることを前提にしないと、環境とか周りの人に期待しては、そしてそれ以上に自分にいきなり過剰な能力を期待しては、全部期待外れだと思って絶望している内に、すぐに寿命が尽きてしまう。環境がどうしようもなくて、僕自身もどうしようもないなら、状況は悪化する一方だ。一応、無理にでもそう考えてみる。

 曖昧な目標(数年以内にイギリスに移住したいとか)を立てては、何もせず、何もしない自分を嫌悪し、目標自体にも興味を失ってしまう。自己嫌悪だけはきちんと残る。「何もしなくても、今生きているだけで十分だ」という言葉には、何の力も無い。「僕には何ひとつ足りてない」という思いの声の方が、ずっと大きく、それはほとんど信念に近いから。
 何か楽になるヒントとか、根本的な、苦痛の解決法があるんじゃないかと思って、井筒俊彦さんの、主に東洋哲学についての本を七冊買って、よく分からないながらも、古本屋では買い取りを拒否されそうなくらいぼろっちくなるまで読んで、ひとつだけ思ったのは、結局のところ、何はともあれ、ごちゃごちゃした思考を、一秒でもいいから止めないと、何も変わらない、ということだ。不安を、他の考えやイメージで上塗りしようとしても、「僕は海を自由に泳いでいるペンギンみたいなもの」、「でも泳いでいるつもりで、ただ流されて、流れに飲まれて、ただもがいているだけでは?」という反論が、ほぼ自動的に浮かんでしまう。何しろ、今現在苦しくてもがいているのだから、後者の方が実感が伴っていて、説得力がある。

 精神の病気は治したいし、病人のままで一生暮らすか、おそらく自殺する、と思いつつ、同時に生き続けるのは、もう嫌だ。そう思う動機は、「このままずるずる生きていたら、いい加減誰からも愛想を尽かされてしまうだろう」というネガティブなものだけど、僕は急には変われるものではないと思うし、他人は変えられないし、好かれようと努力して、お世辞とかを言いまくっても、鬱陶しがられると思うから、動機を行動に短絡的に移すことは逆効果だ。他の辛い人と同情し合うことも出来るけれど、その場合、相手が辛いままでいることを望まなければならないから、お互いに辛くし合って、どちらかが嫌になって離れるか、何にしろ破綻し、自滅するだろう。楽しく心中出来たとしても、それは最初に望んでいたこととは違うから、何処かしら心残りなんじゃないかと思う。お互いに相手の孤独を望み合うことが、楽しいとは思えない。楽しくなりたいことだけは、僕の中で揺るぎないことだ。

 今こうやって書いている間、もし楽しくなれなければ、多分一生楽しくなれない。状況次第で楽しかったり楽しくなかったりする場合、一生楽しい状況を求めてうろうろしなければならないし、僕にはそんな体力も気力も、少なくとも今は無い。コーラを飲んで煙草を吸っている。ときどき薬を飲んでいる。それらの悪い習慣(?)をやめれば、楽しくなれる、と言われても、大体そう言っている人が、あまり楽しくなさそうだから、信じられない。天の邪鬼かもしれないけれど、幸せになる方法を広めたがる人は、幸せでなければならないという強迫観念があるんじゃないかと疑ってしまう。ネガティブなものを避けるのではなくて、ネガティブなものへの嫌悪感自体をどうにかする方がいいと思う。もし僕が恒常的に幸せになれたとして、それでドストエフスキーとか太宰治とかジョイ・ディヴィジョンに興味を無くすのは絶対嫌だし、自分の中の暗さも、ある意味好きだから。それに飲まれるのは嫌だとしても。それに、痛みや暗い感情を持つ人に「そんなものは捨てればいいのです」と言っても、何の効果も無いことは知っている。僕自身がそうだから。
 真理があるとして、見付けた真理とか、完璧な正論を(自分が見付けた結果としての)結果論として教えても反発しか起こらないから、どちらかと言うと僕は僕自身に対しても、痛みや暗さと慣れ親しむ為のプロセスを重視した方がいいと思う。つまり、病気の人に対して「健康とはこういうものです」と言っても全然効果は無い。致命的な病気なら、それを取り除き、治らない病気なら、それと共存するための道筋を考えた方が得策だと思う。

 「全ては無だ」とか「全ては無意味な思い込みで、ただの概念なのです」という正論は、たしかに正しいと思うけれど、あまり文学的な言葉じゃなくて、伝達性には乏しい。自分が辛いときに「色即是空」と唱えまくっても、自分が馬鹿に思えるだけで、辛さに更なる不安がプラスされることは、経験的に実証済みだ。十年くらい「南無阿弥陀仏」だけを言い続けたら、何かしら変わるかもしれないけど、僕は書くことや、新しい音楽や本を、好きで居続けたいので、十年も費やせないし、三日でも嫌だ。多分、耐えられない。