日記(心の中の空の空)

2月7日(火)、
 雨の音。

 僕の心に微かな火が灯るとき、僕は自分自身の呼吸を、とても懐かしく感じる。そして何故か、甘いパンのような匂いを感じる。それから幼い頃、保育園に携えていった、小さなアルミの弁当箱の蓋を開け閉めする音や、少年の頃、寂しい山道で吸った煙草の味を思い出す。その頃と同じ呼吸、同じ心拍が、今も僕の中で続いている。
 僕たちは、青い水の星に住んでいるのではなく、ひとりひとりが青い水の星なのだと思う。ふわりと、浮かぶような呼吸の中で、ひとりひとりが、澄んだ、大きな空を所有している。誰もが深海を持っている。そしてそれぞれの人の中に、その人だけの街がある。
 今僕は、本に囲まれた狭い部屋にいる。ふと匂いが鼻先を掠める。甘い、パンが発酵する時のような匂い。本の一冊一冊の背表紙が、ひそやかに、孤独を僕と共有している。

 言葉が好きで、音楽が好き。だから生きていられる。

 

2月8日(水)、
 僕は一体何に取り憑かれているのだろう? ただ焦りが極まっているだけなのだろうか? ギターを目一杯弾いて、英語の勉強をしていれば一日が終わってしまう。多分、焦っているのだろう。エレキギターの音が、ひりついた神経に染みてくる。フランス語はまだまだ入門したところなので、勉強していても呑気な感じがする。英語は結構読める。英語を無闇に読んでいると、感情の絡まりをも感じる。多和田葉子さんがドイツ語でも執筆していたり、最近ヴィム・ヴェンダースの映画を続けて見たりしたせいか、ドイツ語も面白そうだと思って、手を出してみたら、一番最初の‘sein’(英語で言うところの‘be’)の変化から難しすぎて(本気で覚えようとすれば30分くらいで覚えられるとは思うけれど、馴染みが無いので、うまく集中できない)、更に、発音が全くうまく出来なくて、ドイツ語の入り口にすら立てずにいる。フランス語は一応大学で半年間勉強したのと、数年間、時折ではあるけれど、テキストをぱらぱら読んでいたので、何となくではあるけれど親しみを感じるし、発音をそれなりに意識的に練習してきたので、多分だけど、一応フランス人に通じる程度には綺麗に発音できると思う。ドイツ語は今のところ、ドイツ人には、ドイツ語と認識してもらえるかどうかも分からないような、うにゃうにゃした寝言みたいな発音しか出来ない。テキストの音源を何度聴いても真似できない。でも、よく聴いて、口に出して、少しずつうまく言えるようになっていく過程は楽しいので、気長にやれば段々上達していくだろうと思う。ただ、ドイツ語の学習に対するモチベーションを保てるかは分からない。でもドイツ語のテキストを開いて、全く分からないという不安を感じた後に、英語やフランス語に触れると、ドイツ語との違いを感じて、余計に馴染み深さを感じて安心できる。
 もっと分かりたいと思っていたときには、日本語はとても新鮮だったけれど、あまりに当然に、日本語と付き合っていると、少し離れたくなってしまう。嫌いだからじゃない。自分の心と日本語の区別が曖昧になって、自分の心がよく分からなくなるような不安を感じるからだ。自分の心を言葉にしているのか、それとも慣れた言葉を繰り返しているのか分からなくなってくる。
 人との関係もそれに似ている。どきどきしながらひと言ひと言に思いを込めて、言葉を送り合う期間が過ぎると、お互いに慣れてしまって、会話の新鮮さは失われる。本当は自分の心も相手の心も常に新鮮なのに、ふたりの間で慣れた言葉遣いが定着すると、そこから逸脱することが極めて難しくなる。自分が本当に自分として生きているのか、それとも相手が期待する自分、または自分自身でキャラ付けした自分を実に自然に演じているのか、見分けが付かなくなってくる。人は、ときどき孤独になるのがいい。そして周りが期待する自分や、自分自身が「自分はこういう人間だ」と思い込んでいる自分から、意識的に離れるのがいいと思う。
(ここまで書いていたところで、病院に出かけて、帰宅してから、母と2時間半くらいお喋りしていた。)

 急に多幸感が押し寄せてきて、2時間半、淀みなく母に熱弁を振るってしまっていた。何もかも話し尽くしてしまった気がして、自室に戻ったときには、虚脱状態で、もう何ひとつ言葉が出てこなかった。でも多幸感だけは消えなかった。書くという作業は、僕の場合静かな気持ちでしか出来ないので、何も書けずにいる内に、身体の中で不安の種が少しむずむずし始めるのを感じた。

 仕方が無いから、僕が理由も無く、今好きなもの、それから昔から変わらず好きなものをノートに書き込んでいた。アウトドア用品が好きだったり、沢山の色が揃った色鉛筆が好きだったり、それから永遠と一瞬が一致する瞬間が好きだったりという抽象的なことも。

(また母に3時間くらい熱弁していた。)

 書いたことを思いだして喋るのは楽しいけれど、喋ってしまったことを改めて書くのは大儀なのは何故だろう? 心や魂と、脳は全然違うものだと思う、ということを話していた。例えば「心の中には高い高い空がある」という言葉を読んで、広々とした気持ちになること。それは脳の何処かの局所的な刺激に拠るものではない感じがする。脳にいいことだけをするのがいいなら、文学……詩や小説ってあんまり意味が無い。散歩に行ったとして、何となく石ころを蹴ったり、その石ころを拾って、手のひらに冷たさを感じたり、葉っぱの葉脈にじっと見とれたりすることとか。草原に寝転がっていると、地球の大きさを感じて、平衡感覚が失われてきて、そして身体がふわりと浮かぶような感じがするのをとても愛していたりだとか。それら全てが、単に脳にとって有用だからと言うのであれば、詩も自然も、何かに見とれることも、その内必要なくなるだろう。頭にチップでも埋め込んで、脳を刺激して、エンドルフィンを分泌させたり、詩を読むときに働く脳の箇所を、適格に刺激出来さえすれば、実際に詩を読んだりする必要も無くなる。でも、そうはならないだろう。脳にとってはおそらく意味の無い行動が、僕はとても好きだし、今この瞬間、言葉を通して感じる何かは、単純に脳を満足させたり、休息させたりするだけの何かではないと感じる。ひとつひとつの何もかもが愛しい。それは、言葉や、そして今この瞬間の世界と、出会えることが嬉しい、ということだと思う。脳の欲求を満足させることが、人間にとって一番大事なら、ドラッグや依存症が一番いいということになるし、本を読むなんていう迂遠な行為は、早晩時代遅れになるだろう。でも、おそらくそうはならない。本は脳の満足ではなく、心の満足のために読むものだと思うから。
 テレビと脳は似ているのではないかという話もした。テレビが壊れると変な画像が映ったり、何も映らなかったりする。でも、テレビの中に全ての映像がある、というのは明確に間違っている。同様に、脳の中に全ての感覚や意識や心がある、というのもおかしなものだと思う。科学者は、脳は物質だと認めながら、同時に脳に心があると言う。物質を、本当に複雑に組み立てて、ネットワークを作れば、そこに心が発生すると言う。確かに、脳が壊れると、心も壊れる。でもそれは、脳に心があることの根拠にはならない。心は、もっとずっと広いもので、脳は単にそれを受信しているだけではないだろうか? 詩人はしばしば、詩を自分の力で書いたのではなくて、ただ何かが降りてきただけだと言う。その方が本当なんじゃないだろうか? 単に脳がそう錯覚しているのではないと思う。
(もっと説得力のあることを喋っていたと思う(母に納得してもらうのはとても難しい)けど、うまく思い出せない。……魂と心を分けて考えて、結論だけ書くとすれば……、多分、魂は遍在していて、脳はそれを受信するだけ。受信された魂は、僕の心となる。心は個性的だ。そして心が自由であることが僕の喜びだ。心が自由であることと、心地よさとは違う。多分、僕は、気持ち良さ以上に、心を自由に出来るから、言葉と音楽が好きなのだと思う。魂は、僕の生死とは関係なく、そしてあらゆる物理学とか数式や観測だとかと関係なく存在していると思う。心の方は、僕の生死と関係があって、僕が死ぬと、僕の心も消えると思う。けれど、心は脳に収められるようなちっぽけなものじゃない。それは決まった大きさを持たない。心を無限に狭いところに閉じ込めることも出来るし、心を殺してしまうことさえ出来る。でも心は、本来は宇宙よりもずっとずっと広くて、無限に大きなものだ。他人の心もまた、宇宙以上に広いものであると、想像することが出来る。他人は、物質ではない。自分自身が物質ではないように。殺人がいいとか悪いとかは敢えて言わない。けれど、殺人は、ひとつの宇宙を抹消することと同じであるということを、常に念頭に置いておくことは大事だと思う。……などなど。早い内に、もっと筋道立てて、魂と心と脳の関係について、書いてみたいと思っている。ともかく、死ねば魂だけになり、遍在するものになるけれど、生きている間、大事なことは、心を自由に、そして生活を温かく保つことだと思う。自分の心を狭苦しくしないこと。他人の心を無限に想像すること。……好きなものが好き。……精進したい……。)