日記(少し調子がいい)

12月7日(土)、
 とにかく呼吸していよう。

 午前中は本当に何もせずに、だらだらごろごろと、寝たり起きたりして過ごす。

 午後は『イジらないで、長瀞さん』を24話、10時間くらい掛けて一気に見てしまう。長瀞さんにイジられまくるセンパイが、弱気でヘタレでどうしようもないんだけど、ときどき格好いいし、何より長瀞さんが可愛い。「長瀞」ってずっと「ながせ」って読むんだと思ってたんだけど「ながとろ」で、一太郎では普通に変換出来るし、多分実在する名字なんだと思う。いい名前だ。
 『長瀞さん』の作者のナナシさんって、昔ネットですごいエロい絵を描いてた774さんと同じ人らしくて、女の子の表情の上手さとか、とにかく画力の高いイラストを惜しげもなく公開していた方なんだけど(実は僕も見ていた)、そのときの数倍くらい長瀞さんの表情がエロい、、、と思う(ちなみに漫画は三巻まで読んだ。U-NEXTで無料だったので)。
 アニメっていいなあ。何かYouTubeとかで「メンタルの改善には、まず運動しましょう」と言っていても、面倒としか思えないんだけど、虚弱なセンパイが運動を頑張っているのを見ると、僕も頑張ろうかな、と自然に思えたりする。それにセンパイの、絵を描くことに対する一途な情熱と本気さには、長瀞さんじゃなくても、僕も惹かれてしまう。ただのヘタレが何故か一方的に美少女に好かれているんじゃなくて、センパイをどんどん好きになる長瀞さんの気持ちも分かる気がするから、センパイに対して畜生、とかは思わない。センパイが本当にどうしようもない奴だったら、ストーリーが不自然になって、見るのが嫌になっていたと思うんだけど、センパイも長瀞さんも正直すぎて不器用なので、ふたりとも頑張って、って応援したくなる。

 さて、うん、僕ももう少しだけ頑張ってみよう。

 

12月8日(日)、
 最近、二週間くらい、流しに食器が溜まっていたら、とりあえず洗っている。母の負担を減らしたい、という気持ちはゼロで、目の前に出来ることがあるなら、それをした方が楽しいと思い始めたから。
 この前、母が、胃が痛くなりそうなくらい自己嫌悪している、と言っていて、少し驚いたし、生きにくそうだなと思った。父に内臓を提供したくない自分は、とても悪い人間なんじゃないかと、悩んでいたそうだ。父はもう実際、かなり身体が悪い。僕はずっと前から、父には内臓をあげると言っているし、そんな簡単なことで父が元気で長生き出来るなら、いつでもどうぞって思ってる。善意も、恩を売る気も全然無い。僕の気持ちひとつで誰かの寿命が延びるなら、単に自分が嬉しいという、勝手な気持ちしかない。
 でも母は、父に内臓をあげたところで、それから父さんが私に良くしてくれるとは思わないし、あげるだけ損で、正直なところ2000万円くらいくれるなら、内臓をあげてもいい、でもそう思う私は悪人なんだろうか、と言っていた。僕はそうは思わない。母はとても自分を大事に思っている。僕は多分、自分を大事に思っていない。
 多分僕は、通りすがりの人が倒れて、今すぐ内臓の提供が必要だ、ってなったら、すぐあげちゃうだろうし、相手の人が僕を忘れてしまってもいい。僕もすぐ忘れるだろうから。全く善意じゃないんだ。僕は死にたがりで、あまり自分の身体を大事に思っていないという、それだけのこと。
 そんな僕が、役に立つのなら、とても嬉しいし、自己犠牲の気持ちも無い。それに、もし僕が内臓を必要としていたら、父も母も、あまり悩まずに僕に内臓をくれるかもしれない。くれないかもしれないけれど、そしたら他の誰かがくれるかもしれない。いくら僕がもう死んでもいいと言っても、父なら無理矢理にでも僕に内臓を貰ってくれと言いそうだし。
 そういう風に、世界は回り回って出来ている。持ちつ持たれつとか、お互い様とか、どちらかと言うと嫌な響きの言葉だと思っていたけれど、僕はいろんなものをいろんな人から貰って生きてきたのに、それに全然気付いてなかった、と最近気付いた。僕もまた、とても少ないかもしれないけれど、誰かに何かを渡せるかもしれない、と思う。僕は、僕以外の人たちの中で生きているわけだし、僕の内臓を、その循環の中に流してしまうのは、何だか世界の一部になれたみたいで、やっぱり嬉しい。要するに自己愛なんだろうなあって思う。世界は悪い場所かもしれないけど、とてもいい場所でもあると思っていたい。

 

12月9日(月)、
 病院の診察日だった。疲れた。一昨日の昼から、殆ど眠れていなくて、憂鬱の影が、どよんと覆い被さってくるような気分だったので、母に薬だけ貰ってきてもらおうかと、余程考えたのだけど、今日だけは身体を引きずってでも行こうと殊勝な心掛けをして、何とか通院を乗り切った。と言ってもいつも、母に車で送り迎えして貰っているのだけど。この頃「成長しなきゃ」と思っているけれど、あまり思い詰めると、自分に無理ばかり強いてしまう。「頑張る」と「無理に頑張る」は、正反対といっていいくらい違う。今日は無理の一歩手前だった。寝不足と憂鬱でふらふらした心身で、それでも外出できたことは、僕の中ではひとつの達成だったので、帰宅してからは少し心が楽になった。やっぱり緊張していたからか、病院では血圧が186あった。でも帰宅して測ってみると112に下がっていた。大きい波と小さい波はあっても、精神状態は回復に近付いているみたいだ。

 

12月10日(火)、
 朝からパソコンの調子が悪くて、特に画面のノイズがひどく、U-NEXTも見られないし、書きものも出来ないし、仕方ないから音楽を聴いて、読書をしていた。部屋の片付けもしなきゃな。
 何故か夜になってノイズがぴたりと収まる。『路傍のフジイ』という、最近話題になっているらしい漫画を読んでた。全然目立たなくて、会社でも軽く馬鹿にされてる四十歳のフジイさんが、実は秘かに幸せに暮らしている、という描写がいろんな人の視点から描かれるという短編読み切り型の漫画。もう四巻まで出てる。変人というか天然というか、馬鹿にされてることもあんまり気付いてなくて、淡々と小さな幸せを喜びながら、他人には自然に優しく生きているフジイさんは確かに格好いい。フジイさんと接した人々は、何故か心が楽になったり、自分にとって大事なことを思い出したりする。目立たないけど影響力は大きい人。案外と僕の理想の生き方かもしれない。斬新な漫画とまでは思わないけれど、まあみんなぎすぎすしてて、不幸な人が多くて、高望みしては自己嫌悪している人も多そうな社会の中で、自分の思いの通りに、人の評価も気にせず、真っ直ぐと生きているフジイさんは、キャラとしては新しいのかも。みんな多分、小さな幸せを忘れ気味だものね。ほんわかと読んでた。

 晩ご飯は鍋だった。鍋というか鍋物鍋物はあんまりおかずにならないので、そんなに好きじゃなかったんだけど、「金のごまだれ」をたっぷりかけて食べると、白菜でさえご飯のおかずになると知ってからは割と好きだ。具材を食べ終わった後には、残った汁でラーメンを茹でて食べるので、かなりお腹いっぱいになる。
 食べた後は、とりあえず食器や鍋などを全部洗った。その間、母はストーブの前でうとうとしていて、僕は僕が洗いたくて洗っている(というのは洗い物は精神の安定の為にとてもいいとYouTubeで言っていたから)し、手伝いのつもりも無いんだけど、以前よりは母の負担も減っているなら、それはそれでいいことなのかなと思う。でも、ソファに寝転がってiPhoneYouTubeを見ていた父が、ちらとこっちを見て「母さんが洗ってると思ったら違うんか」いい身分だみたいなことを言ったので、少しむっとした。母は母で買い物に行って、野菜も切って、鍋の用意も全部しているのだから、母の負担の方がずっと大きいのにって。僕が全部洗い終えると、父は機嫌良く僕に「ありがとうな」と言ったけれど、その言葉はもっともっと母に掛けるべきだと思って、少し嬉くて、同時に少し嫌な気になった。でも父にそれを言うと、何となく父を非難しているみたいになりそうだし、いや実際非難しているんだけど、話がややこしくなりそうだな、とか思って、僕はさっさと二階に上がってきてしまった。言えばよかった、と少し思う。

 水沢なおさんの詩集(『シー』)を読んでる。病院の待合室でも読んでた。滅茶苦茶かっこいい。「なんかよく分からないけれど、でも君が好き」という淡くて、強くて、透明で確かなもの、愛とは呼べないかもしれないけど、でも自然な優しさで満ちているような詩集。優しさは空っぽ。海のようなもの。受け入れもするし、拒むこともある。けれどただそこにある、透明な深さ。その中をたゆたう私たち自身が、また海でもある。現代詩って、冷たいと思う。この詩集もひんやりしているんだけど、読んでいると身体が軽くなる。生温かくなる手前で小さく微笑んでいるかのような温度感。好きだな、と思う。
 僕も詩を書きたい。もう少しだけ身体の温度を下げて、空っぽの中で小さく、でも確かに笑っていたい。微かでもいいから、消える前に、少しだけ。希望でもなく、絶望でもなく。虚無でもなく重さでもなく。ただ、水のようにありたい。