日記

11月22日(金)、
 とても大切な日。

「本当の自分は冷たい」と決め付けるのも早計だ。

 

11月24日(日)、
 本格的にメンタルが回復している気がする。死にたいと思わない日が続いていて、まるで自分じゃないみたいだ。数日前まで辛くて、ずっと死にたかった。死にたくない日なんか無かったと思う。僕は徹底的に無価値だと思い込んでいた。

 音楽を聴くことの純粋な喜びを思い出しかけている。随分耐えてきたって思う。
 しぶとく生きていたい気持ちもあって、でも、ころっと死にたい気持ちもあって、中途半端な気持ちで、薬で自分を抑えながら、いっときも消えない不安の中を生きてきた。空虚で空っぽで。
 今はどうなんだろう? 少なくとも自分に価値があるとか無いとかは、どうでもよくなってきたと感じる。

 

11月25日(月)、
 今日は通院日だった。久しぶりの外出。

 苦しいなら、考えることを少しだけやめてみればいいのかな? でも、何か考えていないと自分がばらばらになって、何をしでかすか分からないような気がする。

 何故か、あまり人を怖いと思わなくなってきた。長い間、外に一歩出ると、くらくらするくらい緊張してしまって、病院で血圧を測ると、200を超えていることが当たり前だったので、外出なんかしてたら心臓が弱って早死にすると思っていた。前に病院に行ったときは血圧は232あったし、その前は229あった。今日は病院内でも、何か楽しいな、って思えて、冷静で、血圧は139しか無かった。

 

11月28日(木)、
 風の音と車の音が混ざり合って聞こえる。

 悠長なことのようだけど、今僕は僕のメンタルを回復させることを第一に考えている。誰かに幸せになって貰おうとしても、ぎすぎすしてたり、自己犠牲を払っていたのでは、すぐに自分が潰れてしまう。

 家で血圧を測ると107しか無かった。こんなに低い数値は、今まで一度も見たことが無い。子供の頃からずっと高血圧だった僕が、今日は少し低血圧を心配したくなるくらいで、本当に驚いた。食べるものも生活習慣も特に変えてないので、やっぱり心が落ち着いているのだと思う。単なる躁鬱の波のせいじゃなくて、何か根本的なところで、心の調子が良くなりつつある気がする。

 

11月29日(金)、
 もし今の、自分では最悪だと思っている状況を抜け出せたなら面白いだろうな、という感じで、少し今の状況を楽しめている。ゲームみたいな感じ。今までも、とびきり苦しいときには、「あとでこの苦しみは小説を書くときにプラスになるかも。苦しみを描写出来るし、ネタくらいにはなるかも」と思って生き延びてきた。内面的な経験だけでは、外の世界について書くのは難しいと思うので、人と関わり合うことはこれからの課題として。

 

12月2日(月)、
 昨日は誕生日だった。やたらと元気な一日だった。幸先が良さそう。もしかして軽躁状態なんじゃないかと少しだけ心配だけど、落ち着きもあるので、きっと大丈夫だと思う。病気をアイデンティティにはしたくない。

 恐怖って、自分自身で闇を作り出しておいて、その中に自分を詰め込んで、「怖い、怖い」って言っている状態だったんだ、って最近思う。まるで闇の中を懐中電灯ひとつで彷徨っていて、物の影や、ときには自分の足音にさえ仰天して、動けなくなってしまう状態。自分自身をコントロール出来ないと、闇は深さを増していく。

 

12月5日(木)、
 朝、昔のように、角砂糖だけを食べて生きたくなった。コーラだけで栄養補給するのもいいな。僕はここにいて、同時にここにいないような感じ。いてもいなくてもいいや、という感じ。ほんの少しだけ危うさを感じる。

 

12月6日(金)、
 午前中は妙に元気があって、部屋の拭き掃除をしたり、ギターを弾いたりしてた。午後は寂しくなって、町の人の声も遠い思い出の中から聞こえてくるみたいだった。『灰羽連盟』を最終話(13話)まで通して見た。
 とても弱気になっている。きちんとご飯を食べて、たくさん眠って、運動して、仕事をしないと、大変なことになりそうな気がする。

 夕方、父の帰宅前に、母がいろいろと父に対する恨みごとを滔々と僕に語ってくれたので、不謹慎かもしれないけれど楽しかった。端から見てると三十年や四十年の我慢に我慢を重ねた恨みつらみでも、笑って見ていられるんだから、僕にはあまり感情移入の能力が無いのかも知れないし、そんなダメージを受けるだけの能力は要らない。

 「自分」として生きていくのは、とても難しい。「自分らしさ」なんか全然分からない。僕は目先のことしか見えてない。例えば、そろそろ友達にメールを書かなきゃな、とか、三日後にまた病院に行くのが面倒だな、とか。あと謂れのない不安。そして死にたくなるような恐怖感。少しでも得たい優越感。自分は駄目だと思うことで得られるアイデンティティ。苦しみから逃れられない理由をいつも用意している。親のことだったり、病気のことだったり。でも、いつまでもこうしていられないことは分かってる。

 先月買った、エイフェックス・ツインの『Selected Ambient Works Volume II』の三十周年記念盤(CD三枚組)が良すぎて困ってる。気持ちよくて抜けられない。美しい音楽。

 僕は絶望感も喪失感も、それなりに味わってきたと思う。人一倍苦しんだかは分からないけれど、個人的には、これ以上は絶対に無理だろうと思う程度には苦しんだ。生半可じゃない、地獄としか言いようのない苦しみは、おそらく誰の中にも存在する。孤独も、絶望も。僕が「いつかは死ねる」ことを救いのように感じるのは、生きるのを忌避しているからだろうか? 生きていればしばしば、耐えられないほどの悲しみに襲われる。時計の秒針がくるくる回っているのを見るだけでも、少し悲しい。

 僕は、自分がとても冷たくもなれる人間だと知っているので、両親には等しく感情移入はしても、それが僕にとってあまりに負担になりそうなら、思考の中から両親の存在を一時的に切り離すことが出来る、ということを最近知った。僕は別に両親のどちらの味方でもないし、別に夫婦仲に介入したくもない。ただ、人の愚痴を聞くのは全然苦にならないので、母が何か言ってたらふんふんと聴いているのだけど。にやにやしながら軽い受け答えで聴いてるから、あまり聞き上手ではないことは自覚してる。

 と言いつつも、父と母がふたりきりでいると、また妙なこじれ方をするんじゃないかと思って、どうしても時々様子を見に行ってしまう。でも、それは僕に精神的な余裕があるときだけだ。そして父と母の間で発生する重なり合わない電波がノイズになったみたいな毒気に当てられて、大抵僕は疲れ切って部屋に帰って来る。薬が無ければどうしようもないくらい、虚無的な気分になってしまっている。で、薬を飲んで音楽に浸って、また少し回復すれば、両親の様子を見に行って、また疲れて帰って来る。
 僕は多分、父と母の間の緩衝剤に、少しはなれているみたいなので、僕の力で両親間のこじれをどうにか出来るんじゃないか、という淡い期待をいつも持っている。でも、それも僕の傲慢さの為せる業だとは知っている。父は父で、母は母で、彼ら自身をどうにかしなきゃならない。父も母も僕も、本当に子供みたいだ。みんなでもうちょっと大人になろうよ、とか思ってしまう。僕が変えられるのは、僕だけなのにな。僕はさっさと独り立ちしなければならない。
 独り立ち出来たなら、僕が金銭的な面で母をサポートして、父と離れて暮らせる環境をつくってあげられたら、とか、まだ何の目途も立っていないのに、妄想めいたことを考えている。かと言って父をひとりぼっちにしたい訳でもない。僕は、とっても偉そうな人間なので、ちょっと父や母を見下しているかもしれない。僕は成長しようとしているのに、両親ともどもまるで子供の駄々のこねあいをしてるだけじゃないか、って。それって本当、僕は一体何様のつもりなんだろうと思う。自分のことをまず黙って、せっせとしっかり何とかしろと思う。

 僕は基本的に自分の中に壁を作って、その中に住んでいた。僕は宗教や他人の価値観を信じない代わり、他者そのものも信じていなくて、僕以外のものに心を開こうとしたことが全然無かった。まずは自分の中の腐った湿地帯から、抜け出さなければならない。
 一番虚しいのは、自分で自分を見放してしまうこと。僕は「何も分からない」と決め付けていた。心を閉じまくっていた。それに、何かが分かったり、何かを知ったところで、何の意味もないと思っていた。
 大人にならなきゃね。頭の中の袋小路から抜けなければならない。

 少し熱いくらいの温かいお茶を飲んでいる。僕は何を大切にしている? 何を待っている?

 自分しかいない、とか、自分自身だけで何でも分かるというのは、完璧な幻想だ。僕は山と海に挟まれた細長い街に住んでいるんだけど、多分あの山が酸素をたくさん作ってくれてるんだよね、と今は思う。くだらない山だと思っていたけれど、あれらの木々が作ってくれた酸素を、今僕は吸っていて、だから実質、物質的な意味でも、僕はあの山と繋がっている。それを否定するというのなら、息を止めて死ぬしかない。息を吸えば、僕の肺は二酸化炭素と酸素を瞬時に分けて、そして、酸素はすぐに、僕の指先にまで供給される。そういうのって、いつも全然僕の意識しないところで行われている。僕は僕の自意識とか考えで生きている訳じゃない。
 今僕の周りにあるもので、僕が作ったもの、作れるものは、ほぼひとつも無い。ほっこりする感情とか温かさって、自分からは産まれないんだよね。僕は言葉を書きながら(ついでに言えば、言葉も僕が作ったものじゃない)、しばしばネットの個人サイトやpixivでイラストを眺めて感情を整えることが多いんだけど、イラストって本当に多くのエモーションを含んでいる。懐かしさや、きゅんとする気持ち、忘れてならない感情が、イラストには含まれている。

 何か変えていきたいんだよね。僕だけじゃなくて、どうしようもなく引き籠もっている人たちは、日本だけでも何万人もいる。自殺したい人だって、相当な数だと思う。今この瞬間、死を選んでいる人もいるはず。
 メッセージ性なんて僕には全然無いけれど、現実逃避してても何でもいいから、とにかく誰しもに生きていて欲しい。自分を責めずに。少しくらい悪いことをしたって、駄目人間になったっていいから。

 依存とか逃避を、僕は全然悪いことと思っていない。弱々しいメンタルで立ち向かったら死んじゃうことばかりだ。いつまでも楽な道で現実を見ないことは大問題だけど、とにかく傷を癒やさなければ、生きられない。ガメラだって傷付くたびに海底温泉に潜って傷を癒やしていた。誰にだって自分の為の安心出来るスペースや、いつでも逃げられる余地はあった方がいいと思う。
 僕は大量のサプリメントなどの市販薬や、処方薬や、煙草に依存している。そして何より、音楽に依存している。究極には音楽は要らないのではないか?、と思ってはいるけれど、今のところ音楽が一番の、最高の逃げ場になっている。依存の無い生活よりも、依存と共に生きる生活を自分に許している。お酒は合わないと感じるのでやめている。別に依存を正当化するつもりは無いし、他人に勧める気も無い。でも、自分だけのとてもプライベートな逃げ場を、もっと多くの人が持っていた方がいいんじゃないかと思ってる。

 本当に本当に辛いときは、不安と恐怖しか無くて、もう、僕の場合は、死ねる量の薬を机に並べて眺めたりとか、薬とお酒を出してきてがぶがぶ飲んだりとか、腕を切ったり、母相手に死にたい死にたいとぐちぐち言ったりとか、本当、碌なことをしてない。心が燃え滓みたいになっていて、あと一吹きでぼろぼろと何もかもが崩れてしまう。世の中の「楽になれる方法」を総動員しても、救えない心ってある。助けは来ない。何もかもが怖い。
 それでもまだ、死にたい死にたいと言える友人や母がいてくれたから、僕は生きてこられたと思うし、ODや自傷も、本当に死んじゃうことに比べれば、まだずっとましだと思う。

 ともかく、僕にとっての人生は、基本的に僕が決めるものだ。ずっと待っていても、誰かがわざわざ僕に安心感をくれたり、安心出来るスペースを作ってくれたりはしない。自分が安心出来ないことを、誰かのせいにしている限り、安心は得られないと思う。
 一時的に冷血な動物みたいになるんだ。ひとりでいるときは、時たまでもいいから、頭の中から他人の存在をシャットアウトしてみる。別に人を嫌いになるとか、敵意を持つということじゃなくて、本当に自分の安心出来るひとり分のスペースを作ることに、一時的にしろ専念してみること。それが今試していること。うまく行くのか、有用な方法なのかは、分からないのだけど、ひとりでいるときくらい、心からひとりでいたい。それは心を閉じることではないと思う。心を開くとか閉じるとかいうのは、ひとまず置いておいて、自分が安らげる場所で、たまにはひとりでぷかぷか浮いていたいんだ。