日記(メモ、春の匂いがする)

 春の匂いが、頭の中を灼き尽くす。

 

2月14日(水)、
 夜、ヘッドホンで古い音楽を聴きながら、花片だらけの闇の中で、僕は書く。

 僕の頭の中には考えが不足していて、人生は分裂した森のようだ。いくつもの影が重なっている。魚も泳いでいる。綿雪が降ってくる。小さな、手のひらに乗るような稲妻が起きる。
 ドレーキップの窓。直列4気筒エンジン。ひとり遊び用のカードゲーム専門店。電線、どこまでも続く電線、永遠に続く日本語が命に触れるまで。月の光が眼に宿った種類の人たちが、頭の中の砂利道をどこまでも歩いていく。

 未明、もう少しで楽しくなれそうなのに、小さな病気を抱えているみたいな不快感が完全には消えてくれない。もう少しで至福の海にダイブできそうなのに、海面ぎりぎりのところでぶら下げられているみたいな。
 キーを打つ感触はまあまあ気持ちいい。

 夜遅く、詩を書く(『その位置: ゼロ』)。椎名林檎の歌を聴いていたら、妙に感動的になってしまった。音楽を聴かずに書いていたことなんてあっただろうか?

 

2月15日(木)、
 人は、依存しなきゃ生きていけない生物だ。感情や身体に。敵意や不安に。狭苦しい解放感。灰色、藍色。何処まで出かけても室内みたいな、表面が腐ったみたいに新鮮な、強いられた感動と自由。

 お酒を飲んで眠りたい。永遠に。警察に捕まらなければ何をしてもいい、なんて言う社会からは離れて。僕は歩く、栄養学的には悪いものを食べて、坂道を上っていく。誰も僕が死にゆく理由を知らないのに、僕には怒る相手がいない。全ては僕の心の産物に過ぎないというのなら、僕は一体、何を見ているのだろう? ナチュラル・ハイをずっと待っている。そのためにあらゆるものを捨てたくなるし、壊したくなる。僕は自分を否定したい。腐った牛乳を捨てるみたいに。肯定したい。死体を無表情に見るように。

 光。意味の無いものが好きだ。僕はAIと共存出来る。身体のいちいちに刻み込まれた自信の無さを、AIの、分解された言葉が埋めてくれるだろう。

 

2月16日(金)、
 今日も引き続き、日記に書くようなことは特に無い。両親が不仲で困る、ということを書いていたけれど、面白くないので消した。他には、何か散文詩みたいなことばかり書いている。

 元も子もある奇妙なズレの感覚。無価値なブランド品の数々。美しい気分のときは何だって美しいのに、気分が冷めると何もかもが醜くなる。僕は何処まで行っても幸福にはなれないけれど、ある一点を超えると途端に幸福になる。ある程度幸せ、という言葉は、本当のところは、僕にはあり得ない。不幸にはずんずん落ちていく。ある程度の不幸さと、絶望的な気持ちの間には断絶が無くて、あっという間に、すとんと死にたくなる。「もう駄目だ」には一瞬で辿り着く。

 僕にはパソコンとキーボードがあればいい。そしていつかは、それさえも捨てられればいい。ただ一点の今だけに集中していればいい。一瞬にして永遠の、そしていつも完璧に同一の今。

 血のにおい。木製の、分裂するハチミツみたいな機械。

 明日は晴れるらしい。鬱屈した気分が良くなってくれるといいのだけど。

 

2月17日(土)、
 僕、は、この小さな領域から出たくない。「そこ」はとても、広大だから。

 アゴタ・クリストフの『昨日』を読み終える。幻想的な描写と、透明感のある「希望の無さ」に満ちていて、165頁の短い本だけど、読み終えるのが勿体なくて、同じ箇所を何度も読み返しながら、一週間かけて読んだ。アゴタ・クリストフと言えば『悪童日記』三部作でかなり有名なのに、その次に書かれた『昨日』は日本では既に絶版だ。多くの読書家に読まれるべき本なので、再版して欲しいと思う。682円の文庫本を、僕は中古で533円(送料込み)で買った。とても綺麗な状態で届いたのだけど、物語の最終行の「。」の隣りに、パステルカラーっぽいオレンジ色のボールペンで、小さく「2022/7/19」と書かれていた。おそらくこの本の前の持ち主が、読了した日にちを書き込んだのだろう。女性らしい筆跡だけど、男性かもしれない。あるいは筆跡だけは可愛らしい、偏屈で生真面目なお爺さんかもしれない。書き込みをしている時点で、すぐに売るつもりは無かったのだろう。断捨離の際に多くの本と一緒に売ったのか、もしかしたら筆跡の可愛いお爺さんか誰かはもう死んでいて、遺品整理の為に売られたのかもしれない。本編とは違った意味で謎めいている。控えめな筆跡であることも含めて、良い種類の書き込みだと思った。

 本を読んだり、音楽を聴いていると思う。人が好き、そして人のいる世界が好きだ、と。

 僕はほぼ引き籠もっている。10歳の時から住んでいる子供部屋から、一歩外に出ることさえ滅多に無い。一日中ベッドの上で踞っている日もあれば、二日間ぶっ通しで椅子に座っていることもある。この間入院したときにそう言ったら、看護師の人に「部屋でどんなゲームをしているんですか?」と問われたので「ゲームはしません」と答えた。
 じゃあ一体何をしているんだろう?、と考えてみる。最近(多分半年間くらい)は寝ても覚めても音楽を聴いている。今日は朝からエイフェックス・ツインを聴いていた。ジェイムズ・ブレイクを流しながら眠りに就くのが好きだ。部屋の中ではなく、音楽の中が僕の住み家だから。夕食時は、両親と同じ空間にいなければならないこと以上に、音楽を聴けないことが苦痛だ。
 音楽を聴かないときは、ギターやピアノを弾いたり、歌ったりしている。もしくはたまに窓を開けて、外の音を聴きたくなるときもある。春には春の音がある。雲の音や風の音。雨の音は特別に好きだ。季節によって変わる鳥の声。人の声は不安になる。街宣車や移動販売の車の音は最悪だ。すぐに窓を閉めてヘッドホンを付ける。眼より耳を失うことが怖い。聴覚を失ったら、でも、そのときは沈黙の音を聴けるかもしれない。
 アニメや映画を見るときもある。ときどきYouTubeでギター関連の動画や、ライブ映像を見たりもするし、たまにつまらない動画を見てしまったりもする。それ以外は、ごくたまにネットで人と話すときも、友人が来たときも、ずっと音楽を流しているし、外出時にはイヤホンを付けている。さすがに診察時にはイヤホンを外すけれど。

 音楽が聴けないときはどうやって生きていたんだろう? ゲームをしていた時期もある。書くこと以外何にもしてなかった時期も。この頃は音楽を聴きながら、何をして生きているんだろう? 眠いし、他にすることがあるから、また明日考えよう。

ひとりの時間についてのメモ(日記からの抜粋)

 ……でも、それにしても、もっとずっと大事なことがあるんだ。無私の心って、やっぱりあると思う。好きになれない理由を探す前に、さっさと人を好きになった方がいいと思う。少なくともその方が自分も生きやすい。お互いが自分だけに拘っていたら、愛し合っていたふたりでさえ、いずれは不倶戴天の敵同士になってしまう。かと言って、自分を殺してまで相手に尽くすと、見返りが少ない分、段々恨みがましい気持ちになってしまうし、それ以上に自分を見失う。

 例え家族同士でも、皆がひとりの時間を大切にして、お互いがお互いの時間を尊重し合うことがとても大切だと思う。そして、ひとりでいる時には、家族のことなんて一切考えないのが、一番いいんじゃないかと思う。誰かに言われたことも、されたことも、全部キャンセルできる時間があった方がいいと思う。ついでに、自分がどうだこうだということもデリートしてしまう。
 いつも生活や、他人や、自分のことを抱えていたら、重苦しいし、何も出来ないし、しんどくて、下手すれば自殺にまで追い込まれてしまう。キャンセルしてデリートしてフラットになった状態でも、まだ文句を言ったり書いたりしたいなら、書けばいいんじゃないかと思う。悪気はゼロでも、誰かに文句を言ってしまったらまた面倒になるので。
 フラットな状態だと、感情まかせの主観的な青みどろみたいな言葉は出てこなくて、例えまだ怒っているとしても、怒っている自分を観察している状態でいられるので、書いていると、気分が大分落ち着くんじゃないかと思う。多分、自分自身を意識している自分が、本当の自分なのだと思う。

 いつも「僕は駄目だ」とか言っている「僕」が消えたところに、本当の僕がある、というのは、僕の昔からの感慨だ。……とは分かっていても、「生活」や「他人」や「自分」という概念の呪縛ってとても強い。
 けれども、僕はいつまでも子供のままでいる訳にはいかないんだ。良い意味での子供らしさとか子供心ってあるけど、大人にはそれと同等に素晴らしい、自分を制御して意識的に変えられる能力がある。きちんと良い部分だけ大人になれたなら、きっと僕は、子供の時よりずっと楽しくなれるはず。
 人生で最高の時間が、もう過ぎ去ったなんて絶対に思いたくない。最高の時間、そして期間は、これから訪れると思ってる。

その位置: ゼロ

 ふわふわ 浮いてる、どこまでも 浮いてる
 私は海の中、どこまでも透明に拡がっていく、

 私は今、肯定している、否定している、うちが外を包む、
 はい、は、いいえを肯定しているし、いいえ、は、はいを肯定している

 春、 選ぶ 到着する 、 と書き放して
 私はとても、トナカイのような目をしていた
 いない いない どこにもいない
 それは私が唯一の 動物だからか
 それともただ一人 思い出せない記憶ばかり思い出す
 倒錯者だからか? それとも全て夢で
 これら、は、すべて 夢で織られた
 血の抜けた街だからなのか


血で織られた街を、血まみれのほうきで掃きならしていく。
好奇心の種が内臓の中心で芽を出せば、
あたたかい冬の中で、散らかった部屋は意識不明になる。
脳を割られて、街は新しい首たちの視野となる。


人間は骨と皮と肉だけど、光の眼差しを持ってる、
いつ死んでもいいように、虹の瞳孔を、
魚の祖先が痛みと共に得たもの。


あの世に行けるかもっていう予感だけで、
この世で暮らすには十分。


意識がとても好き。裏返された身体で街を会話する、
歩く、誰も此処には入ってこない、人、人、人、
其れ其れの独りよがりが、私の頭上をオレンジ色に、

染める、デジタル木琴の音、五感、第六感、
でも私は通常過ぎる吐き気の中、対話と全ての真実の中、
向こう側、嘘を吐く甘さの中、で、

あ、(入っていく)、
土というイメージの深く、平等に……、

第ゼロ番の意識で、歩いている、まっすぐと迷う。


歩いている、、、
あなたは好きに、あなたの方で死んでてください。

……しててください。

 ……してください。

  ……していて……、


――

いつか、ふたりきりと、さんにんめの、りゆうをください。

私に泣く理由をください。

、、


私がなぜ、

こんなに泣いているのか、教えてください。

好きなことのメモ

 一番楽しいことは二つある。書くことと音楽を聴くことだ。二番目に楽しいことも二つあって、それは読書とギターを弾くこと。三番目に楽しいことは、歌うこと。新しい項目が追加されたり、順位が変動することもあるだろうけれど、音楽と言葉(言語)が最高に楽しいことは、この先ずっと変わらないと思う。あとは多分、考えることが楽しいと思うのだけど、僕は十年以上「楽しい」という言葉を使うことをためらっている。ランニングハイに入れなくなったランナーになったような気がする。ライティングハイというのがあって、書くことが麻薬みたいに気持ちいい時間がある。
 一番楽しいことは最上級のヘロインみたいで、二番目はモルヒネ、三番目はマリファナだ、と例えてみる。実際、化学的にも、脳内麻薬は超高純度のヘロインとほとんど同じ物質だと読んだことがある。書くことは本来、最高に気持ちいいことだ。それが急に無益な苦役でしかなくなったとき、最初は本当に絶望した。麻薬が手に入らなくなった薬物中毒者よりも、もしかしたらもっと苦しい時間を過ごして来たかもしれない。麻薬とは縁を切ることが出来るけれど、書くことは一生やめられないからだ。
 あまりにも長い間、楽しさや気持ち良さを感じられずにいると、楽しかった時間が特別で、楽しくないのが普通なのではないかと思えてくる。楽しいときは、本当にこれ以上は絶対にあり得ないだろうと思うくらい楽しい。楽しくないときは、古今東西で、僕ほど苦しんだ人が他にいただろうか?、と本気で疑問に思うくらい苦しい。苦しさを表現できる言葉って、本当に少ない。地上の天国はもちろんあるし、地上の地獄もある。釜ゆでだとか串刺しにされるようなチープな地獄なんか比較にならないくらいの地獄がある。誰かひとりの地獄は、全世界の地獄と同じものだ。ふたりの人が並んでいて、ひとりは天国に、もうひとりは地獄に住んでいるということは普通にあり得る。それが傍目にはふたり同じ世界に、もしかしたら仲良く並んでいるように見えたりするのだけど、天国にいる人はますます人に好かれ、地獄の方の人はますます孤立していく。
 おそらく、最高の快感をさらに超えた何かを知ることも出来るし、苦しみなんて言葉を通り越した何かを知ることも出来る。せっかく生まれてきたのだから、両方知りたい。

 天国や地獄とは無縁な、ただ無感情で無感覚な状態でいることがとても多い。身体のある世界、物や、言葉や、色のある世界が、僕はとても好きだ。普通の意味で使われる「世界」がとても好き。視覚表現を昔は馬鹿にしていて、大事なものは眼には映らないと本気で思っていたけれど、今は画集を見るのも大好きだし、絵も描けたらいいなと思ってる。眼に映るものが最高に大切だとは思わないけれど、見えるものをとても愛おしく思う。料理も出来たらいいなと思うし、自分の個性(個人性)を大切にしたいと思う。生活全体を統一感のあるものにしたいし、自分というキャラクターを、僕にとって一番自然な形で確立できたら面白いと思う。すごく個人的でいたくて、他人に見せたり、他人に合わせるための自分ではいたくない。

 眼鏡越しの世界が好きだ。「見ることを見る」ことを意識化できるからだ。それから世界を真っ直ぐ見つつ、同時にのぞき見しているような、孤立した視点を体感出来るからだ。僕は重度の離人症だった。ふわふわしてて気持ちいい、みたいな離人感では無く、眼の前の物や人と、完全に別世界にいるように感じていた。特に十代の頃は。安っぽい作りものの映像の中で生きているみたいだった。でも、音楽や言葉は、とても生きて感じられたので、ギターを持っていなかった頃は、ずーっと音楽を聴いて、いつも歌ってて、いつも本を読んで、いつも書いていた。だから、今でもずっと、僕にとっての現実は、言葉や音楽の中にこそ強くあるという感じを抱き続けている。
 演奏や言語での表現で、僕がいるこちら側の世界から、他人がいるあちら側の世界(両者は完全に解離していた)に、何か届けられるだろうか、繋がれるだろうか、と願うように書いていた。音楽での表現もしたくて、本当はチェロが欲しかった。歌は、自分の声がとても嫌だったので、歌うのは大好きだけど、いつもひとりで歌ってた。チェロは歌声に似ていて、本当に憧れた。安いからという理由でギターを買ったけれど、ギターの音で、世界と世界を繋げられるのか、ずっと疑問だった。17歳の夏にホワイト・ストライプスに出会うまでは、ギターは単なる歌の伴奏のための楽器だと思っていた。ジャック・ホワイトのギターを聴いて初めて、ギターはもしかしたら歌以上にエモーショナルで、心に直結した最高の楽器だと信じられるようになって、それからは他のギタリストの演奏も、急に生きて感じられるようになった。ギターは、僕が弾くと変な音しか出ないし、練習嫌い過ぎて、全然上手くならなかったし、それからとても長い間、読むことも書くことも、音楽を聴くことすらも出来ないくらいの鬱が続いて、ギターに触りさえしない時期が長かったから、今でも初心者なんだけど、本当にここ最近になって、ギターに初めて出会ったみたいな嬉しさを感じていて、新鮮で、毎日弾いてる。

 また最近は、気が付くと本を読んでいるくらい、読書が好きになった。「最近」というのは三週間前に退院してから後のこと。自殺未遂をして良かったかもしれない。また何か変えたくなったとしても、その為に自殺を試みる気はもう無いし、取り返しの付かないことになっていた可能性もあるけれど、結果的には良かったと思う。五日間の入院費と、その他の処置でお金は掛かったけれど、そんなことは別にどうでもよく思える。この三週間の間にもすごい浮き沈みはあったけど、基本的には、生きるっていいなと感じていて、不思議な感じだ。忘れていた感覚や感情が、僕の中にまだ残っていたことを、再確認できた気がする。

日記、メモ

 今日(2月13日)は珍しく晴れていて、珍しくいい気分だった。昨日までの一週間、塞ぎ込んでいて、とても堅苦しい気持ちでいた。この日記にも、自分のことばかり書いている。ほとんど人に会っていないから仕方ないのかもしれないけど。
 自分を捨ててしまいたいな、と本当は思う。自分のことは棚に上げて、他人を好きでいたい。僕にはほとんど希望が無い。枝から離れた一枚の葉っぱのように生きていたい。あるいは草のように。

 

2月5日(月)、
 何故か昨日から非常に怠くて、一日中あーとかうーとか言ってる感じだった。病院に行って、血圧を測ると、今日も過去最高の232もあって、死ぬかと思った。脳波が多分大変なことになっていて、ざわつき以外何も感じないし、何も考えられない状態。
 怠い。家に帰って血圧を測ると132。

 

2月9日(金)、
 昨日までの五日間、憂鬱で何も書く気になれなかった。一昨日、重い身体を引きずって、サンタクロースの袋一杯分くらいの本と、ギターやベース、アンプなどを売りに行った。とても疲れた。ほんの少しのお金にはなった。全部、捨てようと思っていた物なので、一応はお金になって、少し嬉しかった。この前の入院費の足しくらいにはなる。

 優しさを感じられる空間の中で生きていきたい。

 今日は誰にも会いたくなかった。気分が最悪だったので、試しに夜中にお酒を飲んでみたけれど、あまり効果は無かった。デイケアに行く予定だったけれど、どうしても行く気になれなかったので、朝、母に、気分が悪いから行かない、と電話を掛けてもらった。自分で電話する気にもなれない。お酒をもう一杯飲もうかと思ったけれどやめて、病院でもらった薬を飲んで寝逃げした。目が覚めても何度でも眠って、結局夜七時まで、ベッドでごろごろしていた。先月買ったスウェーデン産の安いウォッカは、もう無くなりそうだ。Amazonでもう13本も購入しててびっくりした。

 

2月10日(土)、
 僕は僕が存在しなくなること、何ものでもなく何処にも属さないこと、そして死ぬこと、消えることを望んでいる。
 同時に僕は何処かに属した何ものかであること、永遠に死なないこと、確かな存在として、誰かから(誰から?)認められることを望んでいる。
 どちらが本当の僕なのだろう? どちらが勝つのだろう? 消えたい僕と、社会的にあるいは社交的に認められたい僕。もちろん前者だ。
 消えたいなんて言いながら、誰かから愛されること、誰かと心の底から一緒に笑い転げられる時間を切望している。でも願いは叶う。僕はいずれ、もしくは今この瞬間、消えることが出来るのだから。でも消える前に、光を感じたい。優しさを感じたい。出来れば、性的な欲求を介した繋がりじゃなくて、心で誰かと繋がれる瞬間が欲しい。錯覚でもいいから。

 音楽や言葉の中に生きている誰かの心。誰かと出会える時間。それは生活の中で僕を脅かす「他人」としての誰かじゃない。自分と同じ時間を生きている誰かだ。僕は自分であり、誰もかもが自分であり、「僕は、僕は、僕は、……」と頭の中でうるさい「僕」が黙り込んだ後の沈黙の中で、宇宙さえも自分であるような感覚が愛しい。僕の何もかもが共有され、僕は僕でありながら世界の何もかもを共有し、全てが解体され、解体し合って、ばらばらになって、全てが同じで、全てが溶け合って平面になり、差異も僕も他人もみんな、ゼロへと帰ってしまう時間。フラットなモード。

 音楽はデジタル信号なのらしい。音楽なんてmicroSDに刻まれた0と1の配列に過ぎない。でもそれがどうした、と思う。音楽が生きているかどうかを見極めるのは僕だ。0と1だって生きている。

 

2月11日(日)、
 一日中怠かった。

 気になることは沢山ある。細かいことばかりだ。主治医の先生に、僕の書いた文章を印刷して渡したら、デイケアの担当者がそれをコピーして保管しているらしくて、そのことがものすごく気になる。リアルであまり僕の書いたものを読まれたくない。それ以上に、僕が書いた言葉を、この世界に残したくない。読んだら返してください、と言ったのは、処分するためだったのに。コピーされた文章を回収するためだけにでも、デイケアに行かなければならないかと思うと辛い。……でもそんなことは、夜中にはどうでもいい。

 

2月12日(月)、
 僕はどちらかと言うと、物質的な状況や環境より、精神的な変化を求めている。自分が空っぽでいて、そして完結している時間が好きだ。自分を感じない、ゆえに自分以外の全てに満たされる、という感じ。でも、そこに行くには、膨大な努力が必要だということも知っている。自分の限界に辿り着かなければ、自分の限界の外にあるものは分からない。頭が冴えていないと、頭が空っぽ、というのがどういう状態か分からない。新しい言葉をどんどん取り入れて、新しい言葉をどんどん出していく、その流れを作らなければ、言葉はどんどん停滞して、僕を苦しめる。腐った言葉が、僕の脳全体に蔓延して、その腐敗に、身体まで参ってしまう。疲れ切ってしまう。ものすごいリラックスと、極度の緊張は、隣同士にある。頭が分裂するぎりぎりの場所に、全てが統合された領域がある。鋭い痛みと快感が似ているように。僕が耐えられないのは、とにかく僕の頭がとても鈍くしか動かないことだ。生存さえも投げ出したくなる。

 思想書を全部遠ざけたいと思う。「真実」や「正しい思考」があるとすれば、それは乱雑なタイピングから生まれると、僕は信じているからだ。意味や考えに満ちた言葉を取り入れすぎることは危険だと思う。意味や考えや、書きたいことが先にあって、それを言葉に移すことが、すなわち書くことだ、という間違ったイメージを持ってしまうかもしれないから。言葉は流れるもの。書きたいことなんて用意せずに、空白の中でその流れを掴み、流れに乗ることが、書くことだと思う。僕が言葉を書くのではなく、言葉が僕に書かれたがっている、という感じだ。

 伊藤潤二の漫画『あやつり屋敷』の中で、操り人形で生計を立てている一家の父親が「いいか? 人形劇というのはな、人形を通して自分の心を表現するんだ」と息子たちに言うのに対して、息子の兄の方が「むしろ逆だ。俺達は人形に動かされているんだ。……おやじは人形をあやつっていると思っているが、実はあやつられてるんだ」と弟に呟く場面があって、その感覚はすごくよく分かる、と思った。僕はYouTubeでギター関連の動画をよく見ているのだけど、ある人が「音楽はギタリストの心の中にまずあって、ギターはそれを鳴らす道具に過ぎません。聴き手はギタリストの心に感動するんです」と力説していて、違和感を覚えた。そうじゃないと思う。むしろギタリストはギターと音楽の間にある仲介者に過ぎなくて、ギタリスト(人間)こそが道具に過ぎないのだと、僕は感じている。ビョークが、「私を通して音楽が鳴る。私は音楽に身を任せるだけ。それが私にとって歌うということ。……」ということを言っていて、それはとても、正しいあり方だと僕は思う。もしビョークが「歌は私の心を表現する手段に過ぎません」と言っていたら、やっぱり変だと思う。
 自分の心、言ってみれば自意識が最初にあるのではなく、音楽そのものに対するリスペクトが先にあるんじゃないだろうか? 「自己表現」なんて言っている内は、表現は出来ないと思う。音楽は僕を超えている。言葉は僕を超えている。自己は、とても小さすぎて、表現すべき何ものも持ってはいない。音楽や言葉など、一般的に「表現手段」と呼ばれているものこそが、本当は逆に、「表現者」を支配しているのだと思う。表現者が無に近付くほど、音楽や言葉は自由に、無限に膨らんでいく。
 自分があまりにちっぽけだと知ること。それを知れば知るほど、世界は無限に近付く。音楽は永遠に近付く。その永遠にこそ、聴き手は感動するんじゃないだろうか? ミュージシャンの個性はもちろんある。僕はジョン・レノンの歌に感動するし、今は、これを書きながら、ザ・スミスの音楽に感動している。人それぞれの個性はある。もちろん。でもそれはスピーカーにも個性があるのと同じことだ。ジョン・レノンを通して音楽が流れる。僕はジョン・レノンに出会う。でもそれ以上に、僕はジョン・レノンの音楽によって、永遠に出会う。何故かあまりに個性的なものは、すごく普遍的だ。普遍とは永遠。普遍とは世界。
 例えば、僕がストーン・ローゼズのライブに行ったときに感じたのは、彼らの演奏云々ではなく、二時間分の永遠だ。そして世界の全て。世界を届けてくれた彼らに、もちろん僕は感謝する。ジョン・スクワイアのギターの音に包まれながら、僕は言うに事欠いて、英語も知らないし、他に言うことも無くて、ひたすら「Thank You!」とか「I love you!」とか叫んでいた。感謝以外何も思い浮かばない。あとでそのライブの批評を読んだら「イアン・ブラウンが歌い始めた途端に、聴衆が揃ってがっかりしたような空気を感じた」と書かれていて、そんな批判精神は「死んでしまえ」と思った。がっかりしたのは多分、その批評家ひとりだ。
 イアン・ブラウンは音楽を知っている。彼ほど音楽を知っている人は殆どいない。ストーン・ローゼズが千年後も偉大であり続けるという確信を持てない批評家は、批評家稼業の為に、批評家として本来一番大事な感情を失っていると思う。何かにつけて批判しなくても自らの(批評家としての)矜持が死ぬことなんてないのに。でもプライドなんて死ねばいい。感じるための主体として、意識的に自らをどんどん小さくしていけばいいと思う。そうしなければ、音楽はどんどん分からなくなる。分からなくなっても、音楽を感じられる心の状態はいつでも戻ってくると思うけれど、それには時間が掛かるかもしれない。

 人は本来、良い存在でも悪い存在でもないと思う。

 

2月13日(火)、
 世界は全て僕の外側にある。僕をひっくり返せば、世界は全て僕の内側にある。

 バッハを聴いている。バッハはロックミュージシャンにもとても人気がある。ジャズではチャールズ・ミンガスを羨望するロックミュージシャンが多いと思う。ミンガスは特別だ。僕はロックが好きなので、クラシックもジャズもロックの延長だと思うと入りやすい。バッハの『ブランデンブルク協奏曲』は人気曲で、数多くのアルバムが出ているけれど、特にスローなテンポの録音が、とてもつもなくロックっぽいと思う。グスタフ・レオンハルトチェンバロを弾く『ブランデンブルク協奏曲』のアルバムが一番好きで、それからトレヴァー・ピノックが指揮をして、イングリッシュ・コンサートが演奏するアルバムも好き。カール・リヒター指揮の演奏が多分一番人気だろうけれど、僕には目まぐるしい演奏に聞こえて、あまり入り込めない。

 吸いかけの煙草を、それが吸いかけだから、というだけの理由で吸う。最後の煙草にしようと思う。いつも。でもこの、本当に何処にも喫煙所の無い時代に敢えて煙草を吸うことは、何かマイノリティっぽい不自由を抱えているみたいで、少し誇らしいような気がする。眼鏡が好きなのと同じ理由。わざわざ依存するためだけに依存する何かが欲しい。人間ってそういう生き物でしょう? 重荷を引きずっていなければ、自分の重さを確認できない。音楽にも依存している。音楽が大好きだし、それに、音楽が無ければ無音を体験出来ない。何にも物質が無ければ、無を意識できないように。

最近の日記

1月26日(金)、
 社会的に穏便に生きていたい、そして人と交わりたい、と思うと、無理をしなければならない。でも、人と話したい。うまく話せなくてもいいから。人との間の壁を、一時的に、もしかしたら錯覚でもいいから、越えてみたい。僕は今、人を騙している気がする。もっと正直になりたいと思いつつ、多分僕の本来の、暗い(そして多分残酷な)部分を人に見せるのが怖い。でも、もう少しだけ生きて、自分を、もっとさらけ出したい。そして受け入れられたいし、僕はやっぱり、愛されたいのだと思う。
 でも、こうも思う。自分はさて置き、自分以外の何かを好きでいられた方が、結局は自分にとっても幸せなのだと。

 

1月27日(土)、
 夜中、全てが遠く感じられる。全て捨てられたらと思う。大切な人間関係以外は、全て。好きな音楽と本以外は全て。

 

1月28日(日)、
 考えてみれば23年間くらい、引き籠もりがちで、他人を避けた生活を続けてきたな、と思う。大抵の期間は鬱状態で、何もせずにぼんやりと考えごとをしている。多分、碌でもないことを考えている。読書もせず、表現もせず、勉強もせず、一体何をして生きてきたんだろう、と思う。何かいつも、光があるような気がしていた。でも考えていることと言えば「死にたい」が八割方じゃないかと思う。

 この間、自殺未遂で入院したときは、酸素マスクを着けられて、点滴と尿道カテーテルを入れられて、その上紙おむつまで穿かされていたらしくて、肺の中の(?)酸素濃度(違うかもしれない)が、僕の祖母が死んだときの数値を下回りそうで、傍にいた母は僕がとうとう死ぬんじゃないかと気が気でなかったらしい。
 CTとレントゲンで見る限りでは、脳にも内臓にも異常が無いし、呼吸も持ち直して来たので、(多分)様子を見ましょうと言うことになって、それで、三日目になって僕は急に目をぱっちりと覚ました訳なのだけど、後々その時の状態について聞いて、そんなに悪かったのか、と自分で驚いたし、もしかしたら一生、脳に障害が残ったまま、言葉も書けずに過ごしていた可能性もあったかもしれない、と思うと怖くなった。例え死にたくなっても、もうODはするまいと思った。死ねるならともかく、後遺症は僕にしても怖い。今、指がきちんと動いて、感覚も感情も確かだということが、奇跡のように思えるし、実際危なかったのかもしれない。
 僕のような死にたがりに、なかなか死ねない身体が与えられているのは妙な気がする。健康に生きていくつもりなら、いつも素直に喜べるだろうけれど。自殺未遂は何回したか思い出せないし、ODやら血がどばどば出る自傷を繰り返し行ってきたのに、何の後遺症も残っていないのを、手放しで喜ぶ気にはなれない。でも、今これを書きながら、書けることがとても嬉しいし、僕は今まで、とても運が良かったと思う。まだ健康な僕の心身を、もう絶望や自堕落や自殺未遂なんかに使いたくはない。もっと大切なことが他にあるだろう、と思う。

 入院中は、医者や看護師の人たちが、本当に心配してくれて、僕の回復を喜んでくれたのが、とても有り難かった、……いや、正確に言えば、今になって身に染みて有り難くなってきて、僕はやっぱり随分と意固地に過ごしてきたと思う。僕にしてからが、周りの人たちを悲しませたくないな、と本気で思い始めている。これはもしかしたら、僕が自分を好きになり始めている、ということのサインなのかもしれない。命のありがたさ、なんてものはずっと考えていなくて、命は重荷でしかなかったのに、今はじわじわと見えるものや聞こえるものたちが、少し感動的なくらいに綺麗に感じられるようになってきた。

 ただ、僕の意固地さや、ひとりでいることを好みながら出しゃばりな部分もあるという狷介さや、図々しさは、無くならないと思う。寂しさばかりは膨らむ一方で、秘かに自分は人並みより優れているはずだ、と自分に言い聞かせたりしている。具体的に考えると、何ひとつ優れてなんかいなくて、そう思うと自信がぺしゃんこになって、卑屈になって、自分を恨んで死にたくなる。生きろという人に反感を覚え、かと言って、死ねという人は最悪だと思う。

 

1月29日(月)、
 今日もまた病院に行ってきた。この頃何度も病院に行っているせいか、外出には少し慣れてきて、……と思ったら、やっぱりひどく緊張して、血圧が、おそらく過去最高の227もあった。脳内で、軽く出血しているんじゃないかと思った。足下がふらついて、指が小刻みに震えた。声もうまく出ない。

 緊張でふらふらしていたので、病院のことはあまり覚えていない。

 

1月30日(火)、
 ダイナソー・ジュニアを聴いている。酩酊感のある、宙の窒素を引っかくようなジャズマスターフェンダー社製のエレキギター)の音。耳触りに近いのに心地良く、その音には間違いなく色がある。乳白色に、微かに黄色みがかった霧のような色だ。黄色はあまり好きな色じゃない。でもエレキギターの音は好きで、何故か僕はエレキギターの音を「黄色っぽい」と表現することが多い。エレキギターの音の黄色は好きだ。ときにそれは青みがかっていたり、赤っぽかったりする(モノクロな音だってもちろんある)。エレキギターほどカラフルな楽器ってあるだろうか? 音色も、もちろんギター本体の色も。
 正直に書くことは難しい。だから「エレキギターが好き」とか、間違いようのない事実から書き始めないと。

 午後は買い物に行った。通院日以外に外出したのは何ヶ月ぶりだろう? 少なくとも今年に入っては初めてだ。去年の暮れにはコンビニに行った。Amazonのギフトカードと煙草を買うために。

 日本の音楽が、好きだったり嫌いだったりする。邦楽にある独特の空気感。信号待ち、アスファルトの罅、水溜まり、電線や、ドアの内側で孤立している感じ。Adoはとても好きだ。

 

1月31日(水)、
 夜中、AppleMusicとインターネットを駆使して、今まで触れたことのないミュージシャンを次々と聴いていた。10人以上の、好みのミュージシャンが見付かった。特にミツキ(ミツキ・ミヤワキ)という人が天才だと思った。他にも、これから好きになりそうなミュージシャンも数人見付けた。すごい。豊作だ。

 

2月1日(木)、
 さっさと生きてしまいたい。悲しいから。
 悲しみが湧き上がってくる時は嬉しい。悲しいのに出かけなければならない時は辛い。部屋にいて、悲しみとだけ一緒にいたいのに。

 夕方、閉店時間に近い美容室に行った。髪をざくざく短く切ったので、少し落ち着かない感じだ。明日、デイケアに見学に行く予定なので、あまり長い髪では、第一印象が良くないだろうかと、気にしてしまった。短い髪の自分を見るのは久しぶりなので、少し違和感がある。鏡を見ると、すごく疲れて自信を失った、知らない誰かみたいな僕が映っている。

 

2月2日(金)、
 午前5時、今日は朝からデイケアに見学をしに行く日なのに、徹夜している。正直言うと、デイケアには行きたくない。しょうもないことで逮捕されて、数日間監獄で過ごすのと、どっちの方が嫌か分からないくらい。

 午前6時、昨夜から、ベッドに入っては、眠れずに起き上がることを繰り返している。誰にも会いたくない気持ちでいっぱいだ。でも、このまま死んでいくのは嫌な気持ちもある。

 午後1時、寝坊した。朝の7時頃に、一時間でも眠っておこうと思って、睡眠薬セロクエルを飲んで横になったら、最近の寝不足も相まって、今日に限って五時間近くも眠ってしまった。多分母が起こしてくれるだろうと思っていたら、母は母で僕が起こしに来るだろうと思って寝ていたそうだ。

 

2月3日(土)、
 ガラスが好きだ。物質は好きじゃないけれど。ガラスの粒。水滴。透過性のある鋭角たちのかそけき光。反射光。
 ひとりの世界が好きだ。ひとりのとき、僕は誰にでもなれる。全てになれる。でも人といると、僕は(他人とは違う)僕として固定されて、僕という枠から出られなくなる。言葉が産まれる場所を探している。でも、……なのに人と話していると、僕の言葉は表面的で、だらだらしていて、僕自身の発言が僕を裏切る。僕は常に変化していて、流れる存在なのに、言葉は発した途端に動かせなくなるからだ。……人との交流が音楽なら、どんなにいいだろう。
 全てが光の歌ならいいのに。全てが光の海ならいいのに。全てがゼロならいいのに。死は、とても優しい。

 こんな晴れた日には、僕は死にそうにない。死を感じるのが好きだ。とても個人的な人間に戻っていきたい。風を浴びて、外で過ごしていたくなるような日。僕にはいつか、美しい日々が訪れるだろう。でも、それにしても僕は、一体何処に辿り着けるのだろう? 春の匂いがする。春みたいな風が吹いている。感情は日々麻痺/摩耗していく。

メモ(まだまだ考え中)

 この世界をプログラミングしている神のような存在がいないとしたら、世界って、ぽつんと孤立して、何の意味も無く存在しているだけなのだろうか? 冬の匂いがして、遠い遠い昔の記憶が胸の奥で疼く。夜には夜の匂いが確かにある。季節感を感じたり、音楽を聴いたり、イラストを見て美しいとか、可愛いと思ったりすることに、別に意味なんて無いけれど、意味も無く綺麗なものたちを、僕はとても大事に感じている。

 僕が何かは分からない。けれど景色は美しい。パソコンのディスプレイの中の世界と、この僕の身体がある世界(現実)を、僕は区別しているけれど、現実だってプログラムされた世界かもしれない。でも多分、この世界を作ったプログラマーはいないだろう。今僕に見えている(と思っている)物たちや、僕の外部にある(と信じている)存在たちが、本当のところは何なのか、僕は全く知らない。
 内面とは何だろう? 僕の内面と、僕の外部の空間を、僕は分けて考えているけれど、その境目は何処にあるのだろう? 本当はただ、感覚と感情と意識だけがあって、他には何ひとつ無いかもしれない。でも仮にそうだとしても、この世界の現実性は全く揺るがない。この世界は実質ゼロで、そしてただ、僕の感覚と意識と感情だけが存在するのだ、と考えても、世界は何ひとつ変わらない。けれど、僕個人の世界観は、大きく変わる。

 僕が素朴に抱えている世界観は、「とても大きくはあるけれど無限ではない宇宙の中に、僕の小さな身体がぽつんとあって、身体の中に脳があって、脳の中に僕の内面(心)というものがあって、そして、僕の心身以外は僕の外部」、という感じ。だだっ広くて複雑な世界の中で、ちっぽけで孤立した僕が混乱している、という図式。でも、それは間違っているかもしれない。僕は広い宇宙の中で孤立した存在なのではなく、この世界に境界なんて存在しなくて、全て溶け合っていて、僕は全てで、全ては僕なんだと考えると、思考が解けていって、気持ちよくなる。

 本当に、完璧に完全に存在していると断言出来るのは、僕の意識と感覚と感情だけだ。例えば今、僕の眼の前には、コーヒーの入ったマグカップがある。でも、そのことをより正確に言うと、「僕の意識は今、『眼の前にマグカップがある』と感じている」というだけのことになるし、手を伸ばしてマグカップに触れば、ひんやりとしているのも、僕の感覚に過ぎないし、コーヒーを飲むと冷えてて、不味いとか、もっと熱いコーヒーが飲みたいな、というのは、僕の感情に過ぎない。本当に、実際に冷えてて不味いのか、それとも、冷えてて不味いと、僕が感じているだけで、本当はコーヒーなんて存在しないのか、僕には分からない。どちらが正しいとしても、僕に見える世界は同じだ。「世界がある」のか、「世界があると僕が感じている」だけなのか、僕には絶対に判断出来ない。ただ、後者の方が面白くて、気持ちいいと感じる。

 よく、人類は皆ゲーム内に住んでいて、シミュレーション(ヴァーチャル空間)を体験しているだけだ、と主張する人がいるけれど、もしそれが完全に真実だとしても、僕が住んでいる世界は実質、今と全然変わらない。眼の前に「本当に」マグカップが存在しているのか、それともマグカップという「情報」だけがあるのか、僕には見分けが付かない。
 世界の全てがヴァーチャルリアリティであるとしたら、その割には、働かなきゃお金が入らないし、身体は疲れるし、お腹は空くし、冬は寒いし、戦争も地震も起こるし、この世がゲームだとしたら随分、人間にとってハードモードに作られてるな、と思う。このヴァーチャル空間を作った存在がいるとして、彼ら(?)は「本当の」世界に住んでいるのだろうか?、とか、人間だけがプレーヤーなのか(例えば猫や犬は?)とか、実証不可能なことが沢山あるし、世界がゲームだとしたら、だから何なんだ?、というところから話が進むとは思えない。

 しつこくて、どっち付かずの文章になっているけれど、僕は、世界がヴァーチャルだとは思っていない。僕の意識や、この世界が、プログラミングで作られたものだとは思えないし、かと言って眼の前の現実が確固として存在しているとも思えない。世界が全て僕の内部であるような、もしくは全てが外部であるような感覚は昔からある。

 ついでに言えば、独我論は間違っていると思う。世界には僕ひとりしかいなくて、他人は全て幻想だ、という考えはおかしいし、危険だと思っている。普通に考えて、例えば僕が今まさに座っている椅子は、椅子職人さんが作ってくれた物だし、この文を書いているキーボードも、日本の工場で緻密に作られた物だ。第一、日本語を作ったのも僕じゃない。
 僕は一日中音楽を聴いているけれど、素晴らしい音楽の数々は、すごいミュージシャンたちが作曲して演奏したのをスタジオで録音したものだし、僕のヘッドホンはタイ、ウォークマンは中国で製造された物だ。大好きなギタリストがいっぱいいる。僕が毎日弾いているアコースティックギターエレキギターは、アメリカで丹念に作られた物だし、ウクレレはメキシコ製だ。地球のあちこちで、今この瞬間も熟練の職人さんたちがこつこつ働いているのは、間違いないと思う。

メモ(不眠)

 ベッドに横になって、眠れずにじっとしていると、すぐ不安に浸されてしまう。胸の辺りに軽い気体が充満してくるような感覚があって、知らず知らず、身体を丸くして、手をぎゅっと握りしめていて、脛の辺りにも力が入っている。不安が不安を呼ぶ。さっき友人に送ったばかりのメールがひどい内容だった気がしたり、宛先を間違えてないか気になったり、両親の不仲の原因が自分にあるような気がしたり、自分には何の才能も能力も無く、ごろごろしているしか能が無いと考えたり、今にも地震が起きて、明日から避難生活をしなければならないかもしれないし、その場合、病院の薬はどうなるんだろうと思ったり、何とはなしにひとりぼっちで、誰からも忘れられたか、嫌われたような気がしたりする。
 お腹のずっと奥の方に真っ暗な空間があって、そこで大きな歯車が回り続けていることをイメージする。手挽きの石臼くらいの速度で、静かに穏やかに回っている。人の気配が消えていくのを待つ。励ましてくれる誰かよりも、一緒に堕ちてくれる誰かを待っているような気がする。自分自身が、いっぱいの友達に囲まれてて幸せ、というイメージが湧かない。世界はとても美しいけれど、寂しくなければ、綺麗なものも可愛いものも、みんな忘れてしまうような気がする。

好き

好きで、好きで、好きな気持ちを抑えられないときは
好きとあなたに言うんじゃなくて、
あなたの力になりたいし、あなたのことを祈るだけで、
私は生きていて、本当に幸せだと感じます。

あなたはどうして私に良くしてくれるのでしょうか?
あなたは人の好き嫌いをはっきり言うのに、
どうして私を好きでい続けてくれるのでしょうか?

私は、私のことなんかどうでもいいからあなたに幸せになって欲しいし、
あなたは、俺の事はいいから君は君自身を心配してくれ、と言う。
私が死のうとしたときも、悲嘆や非難はいっさい抜きで、
無茶はしないでくれ、と言ってくれて、
私は素直に、無茶はするまいと思いました。
そして、そういうあなたに甘えていると思いました。
あなたの言葉は私にとって真言ですが、
あなたが私に無茶を言わないこともまた分かっているのです。
あなたが、ゆっくりしてくれ、と言ってくれれば、
その言葉に寄りかかって、私はいつまでもゆっくり出来るのです。
なのにときどき死のうとする。
あなたから優しい言葉を引き出すために?
優しくされすぎると怖かったりもします。
優しさに、あなたへの好きが、好きでおかしくなりそうな内に、
溶け込むように死にたいと思うのです。

あなたの趣味の話が私は好きです。
何故ならあなたが好きなものたちは私も好きに決まっているからです。
あなたは光を浴びて生まれてきて、光の中で生きていて、
その光に私も包まれるのが、私は好きなのです。

好きです、
でも好きとは言いません。
好きで、好きで、好きで、気持ちを抑えきれなくて、
泣きたいくらいなのが、私の全世界なのです。

好きです。
ぶっきらぼうなあなたの全てが、私は大好きなのです。

気が向いたときに、いつでも会いに来てください。
私の全てをあげられる準備は、いつでも出来ているのです。