日記、メモ

 今日(2月13日)は珍しく晴れていて、珍しくいい気分だった。昨日までの一週間、塞ぎ込んでいて、とても堅苦しい気持ちでいた。この日記にも、自分のことばかり書いている。ほとんど人に会っていないから仕方ないのかもしれないけど。
 自分を捨ててしまいたいな、と本当は思う。自分のことは棚に上げて、他人を好きでいたい。僕にはほとんど希望が無い。枝から離れた一枚の葉っぱのように生きていたい。あるいは草のように。

 

2月5日(月)、
 何故か昨日から非常に怠くて、一日中あーとかうーとか言ってる感じだった。病院に行って、血圧を測ると、今日も過去最高の232もあって、死ぬかと思った。脳波が多分大変なことになっていて、ざわつき以外何も感じないし、何も考えられない状態。
 怠い。家に帰って血圧を測ると132。

 

2月9日(金)、
 昨日までの五日間、憂鬱で何も書く気になれなかった。一昨日、重い身体を引きずって、サンタクロースの袋一杯分くらいの本と、ギターやベース、アンプなどを売りに行った。とても疲れた。ほんの少しのお金にはなった。全部、捨てようと思っていた物なので、一応はお金になって、少し嬉しかった。この前の入院費の足しくらいにはなる。

 優しさを感じられる空間の中で生きていきたい。

 今日は誰にも会いたくなかった。気分が最悪だったので、試しに夜中にお酒を飲んでみたけれど、あまり効果は無かった。デイケアに行く予定だったけれど、どうしても行く気になれなかったので、朝、母に、気分が悪いから行かない、と電話を掛けてもらった。自分で電話する気にもなれない。お酒をもう一杯飲もうかと思ったけれどやめて、病院でもらった薬を飲んで寝逃げした。目が覚めても何度でも眠って、結局夜七時まで、ベッドでごろごろしていた。先月買ったスウェーデン産の安いウォッカは、もう無くなりそうだ。Amazonでもう13本も購入しててびっくりした。

 

2月10日(土)、
 僕は僕が存在しなくなること、何ものでもなく何処にも属さないこと、そして死ぬこと、消えることを望んでいる。
 同時に僕は何処かに属した何ものかであること、永遠に死なないこと、確かな存在として、誰かから(誰から?)認められることを望んでいる。
 どちらが本当の僕なのだろう? どちらが勝つのだろう? 消えたい僕と、社会的にあるいは社交的に認められたい僕。もちろん前者だ。
 消えたいなんて言いながら、誰かから愛されること、誰かと心の底から一緒に笑い転げられる時間を切望している。でも願いは叶う。僕はいずれ、もしくは今この瞬間、消えることが出来るのだから。でも消える前に、光を感じたい。優しさを感じたい。出来れば、性的な欲求を介した繋がりじゃなくて、心で誰かと繋がれる瞬間が欲しい。錯覚でもいいから。

 音楽や言葉の中に生きている誰かの心。誰かと出会える時間。それは生活の中で僕を脅かす「他人」としての誰かじゃない。自分と同じ時間を生きている誰かだ。僕は自分であり、誰もかもが自分であり、「僕は、僕は、僕は、……」と頭の中でうるさい「僕」が黙り込んだ後の沈黙の中で、宇宙さえも自分であるような感覚が愛しい。僕の何もかもが共有され、僕は僕でありながら世界の何もかもを共有し、全てが解体され、解体し合って、ばらばらになって、全てが同じで、全てが溶け合って平面になり、差異も僕も他人もみんな、ゼロへと帰ってしまう時間。フラットなモード。

 音楽はデジタル信号なのらしい。音楽なんてmicroSDに刻まれた0と1の配列に過ぎない。でもそれがどうした、と思う。音楽が生きているかどうかを見極めるのは僕だ。0と1だって生きている。

 

2月11日(日)、
 一日中怠かった。

 気になることは沢山ある。細かいことばかりだ。主治医の先生に、僕の書いた文章を印刷して渡したら、デイケアの担当者がそれをコピーして保管しているらしくて、そのことがものすごく気になる。リアルであまり僕の書いたものを読まれたくない。それ以上に、僕が書いた言葉を、この世界に残したくない。読んだら返してください、と言ったのは、処分するためだったのに。コピーされた文章を回収するためだけにでも、デイケアに行かなければならないかと思うと辛い。……でもそんなことは、夜中にはどうでもいい。

 

2月12日(月)、
 僕はどちらかと言うと、物質的な状況や環境より、精神的な変化を求めている。自分が空っぽでいて、そして完結している時間が好きだ。自分を感じない、ゆえに自分以外の全てに満たされる、という感じ。でも、そこに行くには、膨大な努力が必要だということも知っている。自分の限界に辿り着かなければ、自分の限界の外にあるものは分からない。頭が冴えていないと、頭が空っぽ、というのがどういう状態か分からない。新しい言葉をどんどん取り入れて、新しい言葉をどんどん出していく、その流れを作らなければ、言葉はどんどん停滞して、僕を苦しめる。腐った言葉が、僕の脳全体に蔓延して、その腐敗に、身体まで参ってしまう。疲れ切ってしまう。ものすごいリラックスと、極度の緊張は、隣同士にある。頭が分裂するぎりぎりの場所に、全てが統合された領域がある。鋭い痛みと快感が似ているように。僕が耐えられないのは、とにかく僕の頭がとても鈍くしか動かないことだ。生存さえも投げ出したくなる。

 思想書を全部遠ざけたいと思う。「真実」や「正しい思考」があるとすれば、それは乱雑なタイピングから生まれると、僕は信じているからだ。意味や考えに満ちた言葉を取り入れすぎることは危険だと思う。意味や考えや、書きたいことが先にあって、それを言葉に移すことが、すなわち書くことだ、という間違ったイメージを持ってしまうかもしれないから。言葉は流れるもの。書きたいことなんて用意せずに、空白の中でその流れを掴み、流れに乗ることが、書くことだと思う。僕が言葉を書くのではなく、言葉が僕に書かれたがっている、という感じだ。

 伊藤潤二の漫画『あやつり屋敷』の中で、操り人形で生計を立てている一家の父親が「いいか? 人形劇というのはな、人形を通して自分の心を表現するんだ」と息子たちに言うのに対して、息子の兄の方が「むしろ逆だ。俺達は人形に動かされているんだ。……おやじは人形をあやつっていると思っているが、実はあやつられてるんだ」と弟に呟く場面があって、その感覚はすごくよく分かる、と思った。僕はYouTubeでギター関連の動画をよく見ているのだけど、ある人が「音楽はギタリストの心の中にまずあって、ギターはそれを鳴らす道具に過ぎません。聴き手はギタリストの心に感動するんです」と力説していて、違和感を覚えた。そうじゃないと思う。むしろギタリストはギターと音楽の間にある仲介者に過ぎなくて、ギタリスト(人間)こそが道具に過ぎないのだと、僕は感じている。ビョークが、「私を通して音楽が鳴る。私は音楽に身を任せるだけ。それが私にとって歌うということ。……」ということを言っていて、それはとても、正しいあり方だと僕は思う。もしビョークが「歌は私の心を表現する手段に過ぎません」と言っていたら、やっぱり変だと思う。
 自分の心、言ってみれば自意識が最初にあるのではなく、音楽そのものに対するリスペクトが先にあるんじゃないだろうか? 「自己表現」なんて言っている内は、表現は出来ないと思う。音楽は僕を超えている。言葉は僕を超えている。自己は、とても小さすぎて、表現すべき何ものも持ってはいない。音楽や言葉など、一般的に「表現手段」と呼ばれているものこそが、本当は逆に、「表現者」を支配しているのだと思う。表現者が無に近付くほど、音楽や言葉は自由に、無限に膨らんでいく。
 自分があまりにちっぽけだと知ること。それを知れば知るほど、世界は無限に近付く。音楽は永遠に近付く。その永遠にこそ、聴き手は感動するんじゃないだろうか? ミュージシャンの個性はもちろんある。僕はジョン・レノンの歌に感動するし、今は、これを書きながら、ザ・スミスの音楽に感動している。人それぞれの個性はある。もちろん。でもそれはスピーカーにも個性があるのと同じことだ。ジョン・レノンを通して音楽が流れる。僕はジョン・レノンに出会う。でもそれ以上に、僕はジョン・レノンの音楽によって、永遠に出会う。何故かあまりに個性的なものは、すごく普遍的だ。普遍とは永遠。普遍とは世界。
 例えば、僕がストーン・ローゼズのライブに行ったときに感じたのは、彼らの演奏云々ではなく、二時間分の永遠だ。そして世界の全て。世界を届けてくれた彼らに、もちろん僕は感謝する。ジョン・スクワイアのギターの音に包まれながら、僕は言うに事欠いて、英語も知らないし、他に言うことも無くて、ひたすら「Thank You!」とか「I love you!」とか叫んでいた。感謝以外何も思い浮かばない。あとでそのライブの批評を読んだら「イアン・ブラウンが歌い始めた途端に、聴衆が揃ってがっかりしたような空気を感じた」と書かれていて、そんな批判精神は「死んでしまえ」と思った。がっかりしたのは多分、その批評家ひとりだ。
 イアン・ブラウンは音楽を知っている。彼ほど音楽を知っている人は殆どいない。ストーン・ローゼズが千年後も偉大であり続けるという確信を持てない批評家は、批評家稼業の為に、批評家として本来一番大事な感情を失っていると思う。何かにつけて批判しなくても自らの(批評家としての)矜持が死ぬことなんてないのに。でもプライドなんて死ねばいい。感じるための主体として、意識的に自らをどんどん小さくしていけばいいと思う。そうしなければ、音楽はどんどん分からなくなる。分からなくなっても、音楽を感じられる心の状態はいつでも戻ってくると思うけれど、それには時間が掛かるかもしれない。

 人は本来、良い存在でも悪い存在でもないと思う。

 

2月13日(火)、
 世界は全て僕の外側にある。僕をひっくり返せば、世界は全て僕の内側にある。

 バッハを聴いている。バッハはロックミュージシャンにもとても人気がある。ジャズではチャールズ・ミンガスを羨望するロックミュージシャンが多いと思う。ミンガスは特別だ。僕はロックが好きなので、クラシックもジャズもロックの延長だと思うと入りやすい。バッハの『ブランデンブルク協奏曲』は人気曲で、数多くのアルバムが出ているけれど、特にスローなテンポの録音が、とてもつもなくロックっぽいと思う。グスタフ・レオンハルトチェンバロを弾く『ブランデンブルク協奏曲』のアルバムが一番好きで、それからトレヴァー・ピノックが指揮をして、イングリッシュ・コンサートが演奏するアルバムも好き。カール・リヒター指揮の演奏が多分一番人気だろうけれど、僕には目まぐるしい演奏に聞こえて、あまり入り込めない。

 吸いかけの煙草を、それが吸いかけだから、というだけの理由で吸う。最後の煙草にしようと思う。いつも。でもこの、本当に何処にも喫煙所の無い時代に敢えて煙草を吸うことは、何かマイノリティっぽい不自由を抱えているみたいで、少し誇らしいような気がする。眼鏡が好きなのと同じ理由。わざわざ依存するためだけに依存する何かが欲しい。人間ってそういう生き物でしょう? 重荷を引きずっていなければ、自分の重さを確認できない。音楽にも依存している。音楽が大好きだし、それに、音楽が無ければ無音を体験出来ない。何にも物質が無ければ、無を意識できないように。