メモ(新しい水のように、その4)

最近僕は読書ばかりしている。言語中枢が泡立つような感じがする。僕の中に大きな、言葉の棲み家があって、その中で言葉たちがぶつかり合い、泳いで、踊り始める。そこに意識と意味を預けてしまって、この物質としての身体の感覚や意味が、ふと消える瞬間がとても好きだ。僕は僕の中心からずれ始める。
ひたすら自分の中に言葉を沈め続ける孤独な作業が楽しい。自分からは言葉を発することなく、自分の内部の闇を熟成させていく。いずれは星が瞬き始めるまで、僕は闇を見詰め続ける。

結局は風向きなんだって思う。風当たりが悪いともちろん風を恨むし、風向きがいいと風に感謝したりするけれど、結局はみんな過ぎていく。風は別に、僕の為に吹いている訳じゃない。
みんな苦労している。すごく頑張っている。頑張ってない人は、おそらくひとりもいない。怠け者はそうなりたくて怠けている訳じゃないし、誰しもが羨むような暮らしをしていた人が自殺したりする。誰だって抱えきれない自分を抱えてて、自分を自分で完全に満足させることは無理なので、結局誰もが欠落を抱えている。
誰もが、全てを耐え忍ぶには若すぎるし、全てを捨てて逃げるには歳を取り過ぎている。九十歳のお婆さんだって、やっぱり何かしら耐え忍べないし、十五歳の少年だって、もはや何処にも逃げられない。
若いからって幸せだったことがあった? 大人になって楽になったことなんてある?

僕は募金箱を見ると何十円かは入れなければという強迫観念に囚われている。でも、募金箱に千円札などが入っていると不安になる。僕よりもっと罪悪感の強い人がいるのか、それとも自分の善意を確かめたいのか、と考えてしまう。それよりはその千円で、美味しい青リンゴでも買って、ひとりで食べた方が、もしかしたら世界は幸せになるんじゃないかとか、遠い国の見も知らぬ不幸や涙と、僕たちのこの、空気が酸化し過ぎたような辛さは同じなんだ、とか。
……結局は全てが過ぎ去っていくのだとしても、僕たちの全てが空を見上げて、雲を眺めてそれで満足出来る時代は来なくて、みんな地面を見ている。多分、どんなに未来になっても、みんな俯いている。自分の靴には満足出来ない。自分の靴が踏む地面にも、踏み出す地面が連れて行ってくれるどんな行き先にも、きっと満足出来ない。けれど皆、歩き続けてる。
誰もうまく踊れないし、ひとりで踊るには寂し過ぎるし、誰かと踊り始めれば、関節が外れて心がばらばらになるまで踊りをやめられない。その場に倒れ伏してしまうまで。倒れた人は埋められる。生きてる人は自分が分からない。誰のことも分からない。

僕は愛の意味を知らない。けれどそれは妬みや恨みや怒りとは違う。愛とは多分、妬みや恨みや怒りを拒否することではなく、それら全てのネガティブさを包み込めるような場所に自分を位置付けることから始まるのだと思う。言葉たちが揺れていること。揺れている言葉をそのままにすること。
個人的に、僕を一番傷付ける感覚は、時間が差し迫ってくる、この感じだ。過去は重さを増していく。未来の空気はどんどん薄くなっていく。もはや動かせない過去も、これから書き加えられるはずの未来も、どんどん自分の意図を離れていく。混乱の中でぽつんと重力に押し潰されながら、ただ立ちすくむことだけを学んでいく。膝が崩れ落ちたら終わりだけど、もう、何故立っているのか分からなくなる。

例えば今、スピーカーでレディオヘッドを聴いていて、ギターの音が懐かしくて、針のように僕の悲しみを刺すような感覚が嬉しいので、もはや何の努力も意味が無いとさえ思ってしまう。彼らは、この世に存在しない友人のように、僕と共に傷付いて、一緒に弱っていってくれる。コンピューターの音や、ジョニー・グリーンウッドの弾くギターの音や、トム・ヨークの声や、そんな音たち、空気のような、文字列のような、いつでも寄り添ってくれる感情たち。
だから、他に何も要らない。