雨音と言葉を浴びている

2月1日(水)、
 夜中、「二月末、私は動詞の中に眠っている。」という文が何故か浮かんだけれど、その続きが全く思い浮かばない。マッシブ・アタックの『Teardrop』という大好きな歌の初まりの歌詞を思い出す。‘Love, love is a verb. Love is a doing word.(愛。愛は動詞。愛は進行形の言葉)’という詞だ。
 パソコンの液晶画面を見ていると、時々不思議な気分になる。僕が紡ぎ出していく言葉たちが黒い明朝体となって、液晶に浮かんでいくけれど、液晶と言うからには、これらの文字も液体で、謂わば電子の墨なのだろうかと思う。
「僕は不幸の中にはいない。小さな不幸を、不幸と感じる僕がいるだけだ。小さな不幸が撚り集まって、僕は抜け出ることの出来ない悲劇の中にいると、自分で感じているだけ。けれど言葉、僕はあなたの力によって、不幸をみんな他人事に変えられる。他人の悲劇は小さな喜劇。新しい電化製品の匂いを嗅ぐように、僕は新鮮な気分でいられる。」と書く。何のことか分からない。
 ノイローゼ気味で、言葉がだらだらだらだらと頭の中を流れているのに、そこに腰を据えて考えることが出来ない。オーバーヒートした言語AIになったような気分だ。
 動詞について、これ以上考えられるほどの元気も、今の僕には無い。言葉は現実を映すものであるけれど、それ以上に現実を作り出している。けれど言葉と現実との関係は、あまりに複雑すぎて、今の僕の手に負えない。
 僕は動詞をとても大切に感じていると思う。でも今「名詞とは何で、動詞とは何か?」と考え始めたら、僕は頭が変になってしまう。

 ――万年筆は僕の血を少しずつノートに刻み込んでいく。そして万年筆は、星屑の集まった、夜の海のような色をしている。万年筆ひとつにも、いろんな属性や景色がある。万年筆はフランス語ではStylo(スティロ)と言って、男性名詞なのだそうだ。英語ではStyloと言うと、「スタイロ」と発音して、謄写版に使う鉄筆の意味になるらしい。謄写版と言っても、昔あったと言うだけで、想像出来ないけれど。――(これもまた、意味の無いこと。)

 日常生活や、死と生、苦みや諸々の感覚、色、天国や地獄、苦しみと喜び、それらひとつひとつの単語たちは、本当に、真実として具体的なものなのか、それとも抽象的なものなのか。少なくとも「生活」や「社会」を手に掴むことは出来ないし、「苦しみ」や「私にとっての青」を、他人に見せることは出来ない。「全て」のひとつひとつのものたちは、言葉にされて、ただ苦しんでいるかもしれない。実際に苦しむのは僕だけど(世界は僕が病もうと、何ひとつ傷付かないと思うけれど)。
 言葉になることと、言葉に出来ないことの中間の、淡い曖昧な領域がある。全ての言葉は本当はその領域で、ただ踊り回っている。在って、同時に無くて、同時に遍在する電子のように。「葉っぱ」と言った途端に、葉っぱは固定される。逆に「葉っぱ」と言わなければ、葉っぱは無い。葉っぱなんて言う固定されたものは無くて、また葉っぱが存在しない訳でもなくて、「葉っぱは踊っている」、その踊りの状態だけがあるのではないだろうか?

 名詞を発する以前には何ひとつ無く、発したときにはそれは死んでいる。例えばそれ自体には何の意味も無く、(全ての名詞は)掴み所の無い、振り付けの一種のようなものなのかもしれない。

 全ては踊りに属している。全ては常に動いている。「何か根本的な踊りがあるのではないだろうか?」その踊りを、僕は既に知っているのではないだろうか? 思い出すことの出来る領域は広い。僕は既に全てを知っているかもしれない。けれど思い出せることはほんのわずかだ。何もかもを思い出したいという原点回帰みたいな感情、望郷の念みたいなものが僕の中にはあって、思い出せると僕は嬉しくなる。懐かしい場所に帰ってきたような気がする。(妙なことばかり書いているな。)

 他のものに会うことが怖いのは、自分を知ることが怖いのと並行している、と言うのか、極端に言えば、両者は全く同じことなのかもしれない。変なことを考えている。もう少し生活の気分に戻ろう。僕は永遠のダンスの中にいる。本質的で根本的なダンスを取り戻すこと。それさえ出来れば、僕の生は、完全さを取り戻せるかもしれない。僕は本来、全てなのだから。(いい加減、まともな生活に考えを戻そう。)
 僕は僕の奥の奥の底にある踊りを知りたい。文字の踊りや音符の踊りに、感情は揺さぶられ、身体は反応し、世界全ての動きのありように、僕の感情は並走する。人に会うことは好きだ。それはあまりにも強烈な体験で、死にそうになるけれど。文学や音楽が好きなのは、言葉や旋律によって、僕が自分を取り戻せるからなのかもしれない。でも、もういい。この考えは忘れよう。散漫で浅はかな思い付きばかりで、動悸がするばかりだ。

 明け方に偏ったことを考えていたので、身体の感覚がぎくしゃくしていて、部屋の方位がずれているような、慣れない場所にいるような感じがする。

 ひとりで、何の趣味も無く、部屋の中にいると、もう後はただ死ぬことしか考えられなくなってくる。

 

2月2日(木)、
 一昨日から眠れずにいる。眠ろうと思ってベッドに横になると、こうしてはいられないという焦りで苦しくなる。仕方が無いので、昨日はずっとフランス語の勉強をしていた。フランス語のラジオを聴きながら。英語の本を読んだし、日本の古典(『枕草子』『新古今和歌集』など)も読んだ。気分が鬱屈しているのに、焦りでじっとしていられない状態で、何をしていても、半分楽しくて、半分は上の空のような分裂した気持ちでいた。
 日付が替わる頃になって、急に息がしやすくなった。

 今日は日本語で普通に読書をしていた。何冊かを交互に読んでいたけれど、萩原朔太郎の『猫町』は一気に読んでしまった。とても薄い本だからというのもあるけれど、とにかく文章が面白い。ずっと詩しか書いてない人が、初めて書いた小説だとはとても思えなかった。あるいは初心で書けたから、文章に新鮮さがあるのだろうか?

 

2月3日(金)、
 ……

 

2月4日(土)、
 ……

 

2月5日(日)、
 もう五日くらい眠っていない。憑かれたように読書をして、ノートに書き込みをして、何やら考えている。

 

2月6日(月)、
 春の匂いは、僕を僕にする。冷たくて、変に恋しい匂いがする。昨日は一日中、シモーヌ・ヴェイユ哲学書を読み耽っていたけれど、一番よく分かったのは、僕は感傷的で、愛着を断ち切れなくて、すぐにでも楽になりたい気持ちを抑えられないので、とても彼女のように、苦痛にさえ感謝できて、あらゆる執着を断ち切れるほどの、本物の求道者(という呼称が適切かは分からないけれど)にはなれないということだ。
 シモーヌ・ヴェイユは徹頭徹尾、自分というものは幻想なので、心の中で自分を抹殺しなければならないと言う。僕は違う。神経質にぐずぐずしている時間さえ愛しい。何故なら、この宇宙の歴史の中で、ぐずぐずしたり、楽しんだりしていられるのは、この一回切りの人生の間だけだからだ。神を知らなくていい。僕は人を知りたいし、人と人との微妙な関係性に、とても興味がある。
 けれど、辛いとき、彼女の言葉はとても響いてくる。僕自身、相当な苦痛を経験してきたと思う。過ぎてみれば、まだまだ生ぬるい苦痛でしか無かったし、人並み外れて苦しかったなんてとても言えないけれど。昨日、僕はまた鬱状態に陥っていて、死にたいと思っていた。その時、シモーヌ・ヴェイユの、寧ろ苦痛が減じることを拒否し、苦痛こそが、ただひとつの穢れの無い真理への道だとする考えに、とても慰められた。彼女は、慰めさえも拒むべきだと書いていたけれど、僕は、そこまで苦しまなければならない理由がどうしても分からなかったから、ただ都合のいいところだけを抜き出して、不安も苦痛も恩寵であり、孤独だけが世界の実在を教えてくれると言うのを、確かにその通りだと感じたし、何よりまず執着を断たねばならないというのも、本当に正しいと思った。だから怠い身体を動かして、今まで勿体なくて捨てられなかったいろいろなものを捨てた。本当に必要なものだけあればいいと思って。それは本を読んだからと言うよりは、今まで出来なかった整理を、この機会にやっておこうと思っただけだけど。
 僕は本に影響されやすい方じゃないかと思う。あまりシモーヌ・ヴェイユばかり読み込んでいると、僕は彼女の記述を真に受けすぎて、僕は僕自身(の「自我」という意識)を抹殺することに何の躊躇も覚えなくなるだろうと思った。あらゆる執着、愛着さえも断ち切ること。でも僕は自然に何かを好きでいられる気持ちを、忘れたくない。例え、それが真理に繋がらないとしても、僕は好きな人や本や音楽を好きでいたい。
 とは言っても僕は「真理」を諦めてない。諦める必要がないと言うべきかもしれない。文学と音楽、それから僕が愛するものたち。それらへの愛着が俗悪で汚れたものだとは、どうしても思えない。それは真理とは関係ないかもしれないけれど、真理に反するとまでは思えない。僕は僕なりに、真理を見付けられると思っている。ヴェイユにとっての真理は神だけれど、僕にとっての真実は、何ひとつ区別も差異も無く、大きささえも無い世界。それはここにあるものだけど、僕はそれを知識としては知っていて、体験としては忘れている。僕だけが知っているのではなく、皆そうだと思う。知っているけど、忘れていると思う。
 今だけを生きること。僕はギターの音が好きだ。シモーヌ・ヴェイユは、バッハとグレゴリオ聖歌を最大限に評価しているけれど、僕はロックが好きで、もちろんニック・ドレイクが好きで、文学が好きだ。外国語も学ぶつもり。(怠惰さをどうにかしなければ。)
 仮に、ニック・ドレイク中原中也さえ捨てれば、全ての真理が立ち所に分かるとしたら、僕はそんな真理は要らない。何かが好きであること、個人的であること、やわらかな時間を穏やかに過ごすこと。それもまた(直観に根ざしていて)、ある種の匂いに導かれて、真理へと辿り着くことの出来る、ひとつの道だと思っている。それに冷たい真理よりは、温かい愛情と喜びを知りたい。死はいずれ訪れるのだから、いずれにしろ僕は僕なんていない世界に帰ることが出来る。急がなくても、本当に真理というものがあるならば、それは分かる人にだけ分かる特殊なものではなく、誰もがそこに帰れる場所に違いないと思う。それよりは、生きている時間を温かさで満たす方がずっと大事だと思う。

 仮に、音楽と本というものが無かったら、僕は哲学にどっぷり嵌まるか、もしくは修道僧になることを本気で望んでいたと思う。音楽が好き。春の風、春の匂い、現代の時間、ポップさが、僕はとても好きだ。

 シモーヌ・ヴェイユに真っ向から反対する気はまるで無い。僕はもっと孤独を知ろうと思う。自分が好きなものは好きなままで、それでも同時に自己から距離を置こうと思う。「自分」「自分」「自分」「僕は」「僕は」「僕は」の羅列との戦いに一日を費やしたくない。


 今日はフランス語の勉強の日だった。勉強とは言っても、何か役に立つことの為にしているのではなくて、ただ日本語から逃げているだけかもしれない。頭の中の日本語回路を使いすぎると、身体の中の日本語物質が過剰になるか、逆に枯れてしまうことがある。第一に日本語には慣れすぎているので、考えているつもりでも、惰性で似たような言葉をぐるぐるしているだけのことが多い。日本語から一時離脱するには、フランス語くらいの距離が丁度いい。英語だと近すぎるし、ドイツ語だと遠すぎる。日本語を新鮮に感じ続けるためには、僕の場合、今のところはフランス語に触れるのが最適であるような気がする。フランス語で読みたい本もいっぱいあるし、それに副次的にしろ、何か(何だろう?)の役に立たないとも限らない。……それにしても心身が火照って眠れない。