ちょっとした日記(気分の記録)

2026年7月20日(月)、

午前2時、

コーラルピンクの音楽。絵の中の錆びた鉄の匂い。すみれ色に加工された声。花たちが静かに秘めた数式。お揃いの寂しさ。ふたりいることでの孤独。空気を舐める。湿度の味。車の中。天井と窓の境目。

生は、訳が分からないくらいすごいし、死ぬということもまた、何て素晴らしいのだろうと思う。誰かの眼を気にしている余裕なんて無いのだと思う。

世界を、もっと知りたい。

感情を押し付けられるのだけは嫌だ。感情を強制されるのはもっと嫌だ。
そしてまた、他人は、自分の願望とは無関係に存在するのだと認めること。

どこか(ソネットの中?)で書いた気もするのだけど、「人を理解しようとする試みは、殆どの場合、自分の願望に基づいている」、つまり大抵は、他人を理解しているつもりで、単に自分の願望を押し付けて、他人についての勝手なイメージを、自分の中で作り出している、と最近よく思う。
少なくとも僕はそうだったし、これからも(こう書きながらも)そうあってしまうのかもしれない。もちろん、皆がそうだとは限らない。本当の共感に基づいた理解だってあると思う。でも、共感出来る人は、安易に「理解」なんて言葉は使わないだろう。「君らしい」とか「君らしくない」とか、自分のキャラを気にするとか、とてもくだらない。

「理解だと? 理解なんてものはおおむね願望に基づくものだ」という言葉は、攻殻機動隊(『イノセンス』)の中の、荒巻(偉い人)の台詞なんだけど、最近まであんまりよく分かってなかった。

誰も心配してくれないと、皆を恨み、心配されると隔絶を感じて、結局人が好きなのか嫌いなのか分からなくなる。

多分、善意で人は変えられないし、人から離れた方が、世話を焼くよりお互いにとってずっといい場合もあると思う。究極には他人との付き合いに於いても、大事なのは自分自身の自尊心なのかな、と思ったりする。その上で、他人の個人性を重んじること。人の願望に侵害されず、自分の願望を強制しないこと。


*
昨日の朝、深く深く眠った。半日近く寝ていたんじゃないかと思ったら、30分しか寝ていなかった。それから元気なままだ。
怠さとかが全然無い。それが一週間くらい続いてる。不思議だ。いつもと変わらずだらけてたのに。Tame Impalaの音楽が、骨の底から気持ちいい。

僕は、しんどいときは目を開けているのやら寝ているのやら分からない、ぼーっとした表情を多分していて、呼吸もよく忘れてるのだけど、楽しく考え込むときは、斜め上の、天井と壁の境目の少し下辺りを見上げたり、目の前の壁に貼った、コーネルの箱作品の写真(『エミリー・ディキンスンへ』というタイトルの、一番好きな作品)を見ている。シャープペンシルを両手で持って、鼻の下に当てたり(革のペンケースの中に入れた香水の染みた紙と、古い消しゴムの匂い、そして淡い革の匂いが混じった、複雑で素敵な匂いがする)、ペンで顎の下をとんとんと叩いたりする。そうしてると落ち着く。

このペンの匂いの中にも、僕には知り得ない何かが宿っているのかな? 例えば図書館に出かけて、本を読みながら、僕は時々、いつもはこの部屋にあるペンケースやシャーペンを取り出して、匂いを嗅いでみたりする。もしかしたら、部屋だけにある、何かの存在の名残が、この匂いに残ってるんじゃないかと思って。

……本当に実在を証明できるものなんて、この世には無い。人間のことは、特に分からない。僕はただ、僕がここにいて、僕の気持ちが揺れたり嬉しくなったりすることだけは、抗いようも無い事実だと認めている。それだけで今は十分だ。

多分、僕は今、少し元気になりすぎている。普通のときの気分が、大体マイナス10からプラス10で揺れ動くとしたら、今はかなりプラス側に針が振れていて、プラス15くらいになっている気がする。頭がショートしそうな感じ。そしてそのショートがすごく気持ちいいような感じ。

たまーに、ちょっと元気だな、と思うときはあるけれど、数日前から、いくら何でも元気がありすぎる。恐怖も不安も疲労感も、全然無いので、自分としては嬉しいのだけど、他人から見ればかなり心配な状態になっている、と判断は出来る。

以前、もっと本気で、病的に躁状態がひどかった時は、一週間ぶっ通しで書いていても、全然平気だったし、アドレス帳の上から下まで順番に20人くらいに電話を掛けて、数日間で電話代が8万円になったり、友人に言わせると、真夜中に僕が電話を掛けてきて、3時間以上、一方的に止めどなく喋り続けていたらしいのだけど、全然記憶に無い。今はそこまででは無いのは、多分薬で抑えられているのと、自分で意識的にストップを掛けているからだと思う。明らかに病的な言動を取ってしまったら、友達を無くすし、誰からの信用も失ってしまう、と考えて。

今は、主に鬱を抑えるためにラミクタールを飲んでいるけれど、次の通院日(明後日)までに、さらに訳が分からないような興奮状態になったなら、リチウムに替えた方がいいかもしれない。リチウムは嫌いな薬だ。以前リチウムのODで死にかけたことがあるから。死んだのならまだしも、数日間、地獄ってこんな感じなのだろうか、と思った。苦しみの中で死ぬことを観念して、神でも仏でも、今助けてくれるなら信じようと思ったくらいだ。全身を有刺鉄線で貫かれて、内臓や脳まで容赦なく縛られて、血まみれのままで、身体中を引きちぎられそうな感じだった。正直に「200錠くらいウォッカで飲みました」と言ったら、病院の先生には笑われてしまった。そんなに飲んだら絶対に死んでます、と言って。僕は一回死んだのかもしれない。
リチウムは体が拒否している感じだけれど、躁状態には殆ど唯一、てきめんに効果がある薬とされているので、自分で少しはましな判断が出来る内に、処方して貰った方がいいのかもしれない。

(2時間眠った。夢を見た。夢の中に久しぶりに母と弟が出てきた。ふたりともすごくいい人として登場して、ふたりの顔を見ると、嘘の無い笑みを浮かべていて、心が安らいだ、夢の中では。)
(夢から覚めると、弟も母もとても遠い人に感じて、夢よりも現実だよな、やっぱり、とか思ってる。そう思いつつも、最近、現実よりも夢の方が楽しい、と言う母の気持ちがよく分かる。悪夢さえ見なければ。)


*
午前5時前、

過去の自分は古びていき、今も僕は生まれ変わり続けている。宇宙全体がそうであるように。太陽も地球もいずれは滅び、滅びた後から新しい星々が産まれる。細胞のひとつひとつが僕には感じるべくもない星であり、いずれは僕全体だって終わってしまう。
終わる前も、終わった後も、変わらず残り続けるもの。僕にとって、それはきっと、今も僕の底にある、僕の感情の全てを産み出し続ける、花のような存在だけなのだろう。僕が今書いている言葉たちもまた、全ては花の末裔のようなもの。花……何の実利的な意味も無いもの。意味もなく綺麗なもの。眼の前に見える全ての世界。それらは全て、意味も無く綺麗。あるいは意味も無く醜い。全ては、僕の底、そして世界から送られてくるメッセージ。受けとれば受けとるほど、僕は意味の無さに消えていく。僕は笑う。誰もが笑う。笑みが純粋であるほど、それは世界の全てを含んでいる。無意味だけど綺麗。
いつだって笑みはお別れに似ている。この世界のものでありながら、今ここには無いものからのメッセージ。何故か笑ってしまう。何故か夢見てしまう。僕は今、この場所にいる。永遠を信じて。現実の流転の中で、絶対に変化しないもの、その小さな掠れ声を、例えば眼の前のレモンジュースのペットボトルから微かに感じて……その歌に耳を澄ませて、まるで錯覚を追うように、影の向こうに本質を探し求めて。僕はここにいる/そして同時にここにいない?
そして僕は、自分が何を書いているのか分かってない。

全てが風だとは思っていない。風が僕という楽器を少し鳴らしているとか、それが今僕が書いている言葉なんだとか、そんなこと、思ってもいない。そうじゃないんだ。永遠の風なんて信じていない。風じゃない。
吹きすさんでいるのは言葉。僕はそれに耳を澄ませて、翻訳し、翻訳前の言葉を探し求め、世界に、少しだけでもいいから触れたいと思っている。世界は徹頭徹尾、無でなんかありはしない。世界は誰かの、誰かの、そしてまた誰かの、囁きと、沈黙の言葉と、微生物たちや石たちや、建物や地面や、人工物や光や空や、煙草や薬や、愚痴や叱責や、あらゆる腹立ち紛れの、不安や無いものねだりの声に満ちていて、全ての言葉は飛び交っていて、それらをひとつひとつ拾い上げている内に、僕は海の底に少しずつ近付いていける。(一番身近にあるものは、一番果てにあるもの。)光、風景、感情、悲しみ。歌っている。囁いている。今もここにいて、同時に果てにいる。言葉は、感情は、そして更に深くの沈黙は、そこにも確かに流れる感情や、小さな感覚は。ずっとそこにいる。僕の底にある、今はまだ夢の中でしか出会えない、花のような存在に、僕はもう一度、この現実の中で、会いたい。


*
午前5時半、

セミが鳴いている。さっきまではヒグラシが鳴いていたのか、知らない。Tame Impalaって、ハイな気持ちに合うよね。ジョン・レノンが『アイ・アム・ザ・ウォルラス』のサイケデリックな路線を続けていたなら、こんな曲をたくさん作ったのかなって思えるような音楽。すごく気持ちいい。一番よく聴いているアルバムは『Lonerism』。……少しだけ落ち着いてる。睡眠は大事。リチウムが要るほどではないのかも。


*(また少し内向的)
少しずつ五感が戻ってきた。雨の匂いや、夜の海に映る街灯の光や、何処からともなく聞こえる子供の歓声の中にある、いつも変わらない郷愁みたいなものを、物質やこの世界を越えた、何処か遠くにあって、同時に近くにあるものへの入り口のように感じるようになった。
だけれど、このままただ惰性で生きていれば、次の5年後には、僕はひげを生やし、髪を伸ばし、不平不満に満ちた、もう後戻りの出来ない、どうしようもない、べたべたしたゴミのような人間になり、もはや生きることを諦め、かと言って死ぬほどの衝動性もない、僕自身にとっても、心から唾棄すべき人間となっていそうな気がする。別にそれが悪いことだとは思わない。でも、何も、自分を良くする行動を起こさなかった自分を、もはや一生許せなくなるような気がする。繰り返すけれど、それはそれでいい。人は、生きているだけでいいと思うから。

けれど。でも。どうしても、そうじゃない。

ゴッホの絵とか、フェルメールの絵を、毎日見ている。pixivのイラストも、相変わらず、漁り続けては、たまに感動的なイラストを描く絵師さんに出会ったりする。多くの画家が普段感じているのは、もしかしたら不安や孤独なのかもしれないけれど、描いている最中は幸福であったと信じたい。
(しばしば思うことだけど、AIって100点中80点くらいの作品は、コンスタントに作れる。最近pixivでも、AIで作りました、というイラストが増えてきていて、綺麗だなと思うけど、100点中120点だと思うくらい、本当にすごい絵は、今はまだ人間にしか描けないという印象だ。)

人間でいて良かったな、と思う瞬間は、切なくて、愛おしくて、苦しいけれど、過ぎて欲しくない時間。時たま、奇跡のように訪れる時間。

言葉を涵養して、醸造して、蒸留して、腐敗せず、退廃せず、しかも最高に聖なるものと、最低に下劣なものの両方を行き来し、読み手に、心の呪縛からの離脱を使嗾するような、天然物みたいで、同時にガラスのような文章。あるいは、倉皇としてでもいいから、帰ることの出来る小部屋のような詩を。書きたい、(個人的な)宇宙を。人工的な夕暮れみたいな、平坦な爆撃の風景を。生き延びる術を。(難しい単語を使ってみた。)

壁の染みを眺めている。血の跡がいっぱい残っている。

オレンジ色の宇宙船、船内。……。
……。

僕の中で自律的な力が働いているのではなく、向こうから感動的な宇宙の側面が切り出されて、僕の脳に差し込まれているような感じ(カードリーダーか何かみたいに)。拒まないでいること。世界は僕に散々、眠れなくなるほどのメッセージを発し続けている。いろんな形を取って。受信しているだけ。僕に出来るのは、感覚を開きっぱなしにすることだけ。

皮膚感覚が過敏になっていて、長袖のシャツが気持ち悪い。腕時計も手首に湿った異物感をもたらす。Tシャツと、よく分からんパジャマで過ごしてる。冬には二十年間着続けた、もらい物のコートが、着ている内に朽ち果てて、いくつかの端切れ同然になってしまったので、同じ型のを買おうと思っている。けれど、そのコートは随分昔のサイトの記事でしか見付からないし、僕にやすやすと買えるような安いコートではない。もらい物とのお別れ。お別れして悲しかった記憶って、無いような気がする。世界はきっと、幾つにも分かれていて、僕は川のような流れに乗って、ただ漂流したり、溺れたり、泳いだりしている。生き延びたところで、いつかは多分、海に出るだけのことなのだろう。


*
これは軽躁ではなく、ただの風向きのようなもの。時間……生との巡り合わせのようなもの。

読書とか(2ヶ月前に革の文庫本カバーを買った)。すべすべした手触りと革の匂い、そして頁の紙を捲るときの、かさっという音が、ピアノの装飾音符よりも胸に心地よいアクセントとなる。

いろいろな見方が、人生にはある。誰もいない場所で咲く花や、空。人類が絶滅した後も続く世界。そしてこの部屋の中で僕は、お気に入りのシャープペンシルを撫でたりして、少しずつ流れる時間を生きている。この世界は、楽しんだもの勝ちなのかもしれないけれど、この部屋の中には、勝ち負けが存在しない。僕が僕であるならば、それだけでいい。


*
午前6時過ぎ、

セミが、じゃーじゃーとうるさいくらいに鳴いている。

人って個人史を生きている。生きるって、面白いことだ。
僕は長年、すぐにでも死にたかったけれど、今は歳を取って細胞が心地良く枯れ果てるまで生きたいと思っている。破滅的に生きてきた割には、僕は身体が健康で、精神的にも落ち着いてきた。ものすごく歳を取ったような気がしていて、細胞も神経も完全に疲弊したような気がしていたけれど、案外そうではなかったのかもしれない。
僕は昔から、脳や心が歳を取るということを全く信じていない。だから、歳を取ることを全く気にしていない。情熱と好奇心があって、固定観念に囚われなければ、何歳になっても人生は面白いに違いない。体力や筋肉が大事だという説も信じてなくて、ひとまずキーボードを叩けて、ピアノやギターを弾ける程度の筋力さえあれば言うことないし、あとは立ってギターを弾けるくらいの体力があれば十分だ。

それにしてもセルロイドの黒縁眼鏡って安心する。たまに以前のお気に入りだったメタルフレームの丸眼鏡に掛け替えてみるんだけど、金属と肌が反発し合っているような気がして、少し落ち着かない。それにやっぱり丸眼鏡は視野が狭い。セルロイド……というかプラスチックの方が柔らかく顔に馴染む。どっちが似合うかは、まだ分からないんだけど。黒縁眼鏡は、顔の半分をかっちり守ってくれるみたいな感じがする。

やっぱり僕にとっては、頭を使うのが一番楽しいんじゃ無いかと思う。身体を使うよりは、僕には、明らかに楽しいように思える。まあ、それは本当に、僕の個人的な感覚だし、僕はまともに運動をしたことが無いので、精神的作業と身体活動のどちらが楽しいかなんて、比較することは出来ないのだけど。

Tame Impala(この頃やたら嵌まってる)の音楽が堪らなく気持ちいい。今聴いてるアルバムは『Currents』。音楽って、結局、どんな薬よりも気持ちよくなれる。音楽が気持ちいいのは何故だろう、とよく思う。物理的に言えば、ただの耳から入っている空気の振動でしかないのに。イラストだって(物理的には)光の信号でしかない。いろんな情報が僕を気持ちよくしてくれる。多分、それが「何故か」なんて言葉にしなくてもいい。目の前にあるものを、そのまま受け容れればいい。

と言いつつ、少し考える。
……
疑問:コンピューター・スクリーンに映ったイラストの花と、自然の花は、究極にはどう違うのだろう? おそらく、僕個人にとっての明確な違いは無い。――自然の花はいつか枯れてしまう。イラストの花はいつかデータが破損して消えてしまう。ただそれだけの違いしか。――けれど、今この瞬間、僕の『「眼の中」/「眼の外」』で、イラストの花が永遠であることを、僕はリアルに感じる。なのに自然の花には、永遠を感じたことが無い。それは何故だろう?
花を想像していると永遠を感じる。けれど、現実(?)の眼の前の花には、怖さばかりを感じる。何故?

仮説1:僕は「感情」が好きなのだと思う。世界との「感情的な繋がり」、そして「感情」によって得られる、あるいは「感情」を含んだ、世界の無限の奥行き、を求めているのではないかと思う。無感情、あるいは感情の断絶が怖い。イラストはエモーショナル。錯覚かもしれなくても。それは、データとして枯れることなく、いつだって好きなときに対話出来る。僕個人にとっては、それが錯覚でも現実でも、どっちでもいい。でも自然はどこまでも、無関心で冷酷だ(と、かなりしばしば感じてしまう)。雨は別に僕の為には降らないし、星たちはあくまで僕を無視する。少なくとも、僕はそう感じる。実際の花より、想像上の花に親しみを感じるのは、花を想像するのは作者、あるいは僕の感情だからなのではないか、と思う。――無感情な繋がりがあったとしても、それは僕にとっては、繋がりとは呼べない。――感情によるコネクト。その感触が欲しい。
音楽もそう。それは僕に「感情的」な繋がりを感じさせてくれる。

仮説2:イラストや音楽が楽しいことについて。それらは、自然よりもよほど情報量が少ない。情報に混乱しがちな僕は、限られた情報に、安心感を覚える?――違う。自然からだって、限られた情報を受け取る、ということは出来る。けれど、自然は僕を「包囲」し、常に僕を侵し続ける。イラストや音楽の情報量が、仮に自然の風景以上に無限大だったとしても(それは技術次第で可能だろう)、そこには入り口がある。それはディスプレイやヘッドホンの中にあり、自由にその中を泳ぎ回るのも、電源を切るのも、僕の意志次第で、自由だ。――でも、多分、それだけじゃない。イラストや音楽には、描かれていないもの、鳴らされていない音が、必ず存在する。みっちりと、解釈する必要の無さを息苦しいほどに感じる自然の風景とは違って。僕はイラストや音楽の、その余白の部分に、とても安心し、余白を自分の想像で埋めたり、想像を泳がせることで、そこに寧ろ、無限を(自然以上に)感じるのではないか? 多分、だから僕はあまりにも描き込まれ、線や色が多過ぎ、そこに想像の余地がない絵や、音で充満して、作者が意図する以外の聴き方を拒むような、解釈の余地の無い音楽に、すごく息苦しさを感じるのでは無いか? 余白は対話の可能性、そして対話は無限に続く。僕が生きて考えて、想像してる限り。そうすると、自然の方が、僕にとっては有限に近いということになる。――車窓から見える街の光、そこには想像の余地があって、窓がスクリーンのように感じられて、だから音楽を聴きながら、ぼーっと車に乗って街を眺めているのがすごく好きなのかも。
自然は、僕の想像力を萎縮させてしまうのではないか? 想像力を超えている、と言ってもいい。僕を超えたもの、自然に対しての畏怖の感情も、決して嫌いじゃないし、おそらくそれを拒否すべきではない、と感じてもいる。……でも、山とか海って、怖いよね。
自然が大好きな人だって、もちろんたくさんいる。自然の、もっと自由な楽しみ方を教わりたい。言葉じゃなくて、例えば表情で、そして笑みによって、確信に満ちた動作によって、僕を案内して欲しい。でもそれって、自然の好きな誰かを窓にすることによって、自然をまるで人工物そっくりに味わおうとすることなのかな?(多分、これ以上は考えるべきじゃない。もっと気楽に行こうぜ?)

……

無限を求めてる。永遠も。でも、僕が求めてる無限や永遠は、果てしなく続く、夜空の星々に対するときのような、恐怖と魅惑の混じった、崇高な(?)感覚ではないのだろう。(ついでに言えば、夜空の視覚的な情報量は、一枚のイラストよりも少ない。)怖い。けれど同時に、その崇高さみたいなものに、怖いもの見たさや、自分の中の根源的な何かに出会いたい気持ちで、触れたくなるときもある。人間世界がたまに窮屈になったときとか、そういうときは、自然は物の充満じゃなくて、圧倒的な「余白」に満たされている気がする。空が、苦しみの置き場となって、その無関心さが、いくら心のゴミを流しても無関心に流れを一切変えない川の流れとかが、深い安心をくれたりする。……「まあ、要はバランスだよね」と無難で、何も言っていないような言葉で結論づけて、一旦思考停止することにする。
と言いつつ、言い訳のような付け足し。「自然は僕を「包囲」し、常に僕を侵し続ける」と書きつつ、自然よりずっとしんどいのは、言葉/思考に「包囲」されることだ、ってことを、苛々した思考や言葉、言葉、言葉、の最中にありながら、僕はかなりしばしば、よく忘れる。鬱蒼とした自然に比べ、鬱屈とした思考の先には、拡がりなんて全然無くて、多分、闇/病み、しか無い。でも一度囚われると、すごく厄介なんだ。強制終了した方がいいのに。……と言う訳で改めて、一旦、思考停止します。


*君でも僕でもない場所で、……恐怖の無い世界で、また会いましょう、繰り返し、……
にしても、セミは鳴いてるなあ。音楽やイラストが気持ちいいことの説明が出来ないなあ。「説明不可」で今はいい。すごく気持ちいい。今はそれでいい。シンセの重奏感と、浮遊するヴォーカル。レイヤー、ギターのファズ、コーラス、ディストーション、音の重力と、白い反重力、切り裂いてる、(休符)、金のピンのようなスネア、それから彩度のあるヴォーカル、ディレイの波に揺れるままに空間を突き抜けていく。それら全ての空間を圧縮して、そして白飛びした音が、「さーっ」と鼓膜に投射されて、切り取られた明るさ。鮮血が澄んだ泉にゆったりと沈み、溶け拡がっていくよう、淡いピンクのベースライン。笑った。笑み。その笑みのままに。合わさりかけた唇の1mmの透き間のように。明るい世界は、いつもここに、ある。ここに、君の背骨、ちょっと出てった先に、震えと共に。ここに、ある。ただ交差し合う光の、終息の地として。ここに。心でしかない君の、指先に、3度か5度の、クリック。ここにある、その繰り返し、として、そして。(イラストを見てる、音楽を聴いてる。)