意識と世界についてのメモ


詩はとても美しい。詩は、脳の中に収まりきらない。

世界が現実だろうと非現実だろうと、関係ない。感情の世界は他を圧倒している。音楽を聴くと、僕は消滅する。脳科学者は、脳がいろいろな機能を発揮する、と言う。例えば、脳が音楽を作る、と言う。僕は、それは逆なんじゃないかと思っている。つまり、音楽が脳を作るんじゃないかと思っている。

人間(生物)は、進化の過程で音楽を手に入れたのか?、それとも音楽が進化の過程で人間という形態を得たのか? 僕は多分後者だと思う。音楽や感情は、宇宙の始まりよりずっと前に、少なくとも生物の誕生以前に、既にあったのではないか? そして、感情が形を得るために、物質に力を得て、いつしか人間という形態を手に入れたのではないか?

全てが美しく流れる時間。全てがとろりとして、目に見えるものはあまり意味を成さなくなる。視覚より聴覚が根源的。

音楽は、空気の振動を組み合わせたもので、構造としては(例えばDNAなんかに比べると)、とても単純だ。僕はDNAを作ることは出来ないけれど、音楽はギターさえあれば作れるし弾ける。歌うのだって、上手下手はあっても、難しいことじゃない。単純な音の上下、リズムを組み合わせたものが音楽だ。歌なら、そこには普通和音があって歌詞がある。あとは声質を含めての音色を組み合わせて、音楽は出来ている。音楽の仕組みは、メカニズムとしては細胞とは比べものにならないほど単純だ。人はいろんな音楽を日々大量に作っているけれど、細胞は、未だたったの一個だって作ることが出来ない。しかし、現に世界には細胞がある。

ものすごく複雑な細胞が先に出来て、その後に副産物的に、単純な音楽が出来た、と考えるのは、不自然だと思う。音楽や感情という概念が先にあって、生物は、謂わばスピーカーのようなものとして後から産まれたのではないか? つまり音楽は人間の副産物なのではなく、音楽が先にあって、副産物として人間が産まれたのではないか?

それが絶対に正しいとは思わないけれど、僕は、そう考えるのが好きだ。例えていうなら、音楽と言うものが存在しない世界において、まずCDやCDプレーヤーというハードウェアが先にたまたま生まれて、その後、CDプレーヤーがあったから、音楽が作られた、という考えは極めて不自然だ。もちろん、音楽が先にあって、それを鳴らす目的として、CDプレーヤーが作られた。CDプレーヤーはかなり複雑で、自然発生的にはまず出来ない。それと同じで、生物は多分、自然発生的に、たまたま出来るようなものではないと思う。CDプレーヤーどころじゃない、とんでもない複雑さなのだから。だから、まず、目的があって、生物が作られた、と考える方が自然なんじゃないかと思う。音楽を鳴らす、という目的が先にあって、CDプレーヤーが作られたのと同じように。(その目的は、別に音楽に限らなくても、もちろん構わない。僕の好みで音楽を例に取っているだけだ。)

僕としては「自分が音楽を作る」と考えるよりも、「僕を通して、音楽が実体化する」と考える方が、とても自然だと感じる。

僕の捉え方だと、音楽や感情は、脳内に複雑なネットワークが構築された結果として産まれたのではなく、音楽や感情が進化、あるいは顕在化する過程において、脳が産まれた、ということなのだけど、また同時に、脳が存在しないと音楽が存在しないのも、僕個人にとっては確からしく思える。例えば、脳がいかれていたとき、僕は音楽を全然面白いと思わなかったし、もっとひどいときは、音楽を音楽として認識出来ない、という不思議な体験をした。そのことは、やっぱり脳が音楽を音楽たらしめている、という証拠になるようにも思える。

でも、再生機器としての脳が壊れたために、つまり僕の頭の中のCDプレーヤーが壊れたために音楽を聴けない状態になってしまったとしても、情報としての音楽は依然として存在しているはずだ、と考えることも出来る。脳が壊れていると、もちろん音楽は作れないし、音楽を聴けない。でも、だから音楽は脳の産物なのだ、とは言えないと思う。音楽は依然として存在している。それは常に作られるのを待っているし、聴かれるのを待っている。

人間がいてもいなくても音楽は存在するけれど、同時に人間がいなければ、音楽が実体化(再生)されることはない、ということなのではないかと思う。人間は多分、音楽を受信して再生する、スピーカーのようなものに過ぎないと思う。感情もそう。それは脳が脳内麻薬とかで産み出すものではなく、どこか脳とは違う場所にあって、もしかしたら偏在していて、それを単に受信するのが脳なのではないか、と僕は思う。

「生きたい」とか「楽しみたい」とか「知りたい」という感情を、ネットワークに過ぎない脳にプログラミングすることが出来るのか疑問だ。

世界がフラットに見えて、全てが溶け合って感じられる不思議な感覚。それは僕にはどうしても、進化の過程で副次的に手に入れた感覚だとは思えない。自分が物や空間や情報と同じだ、とか、全ては同じ、境界線なんて無いんだ、という感覚。何もかもがごちゃごちゃとしてある状態でも、何にも無い状態でもなく、全てが、ひとつの感情に統合されたような感覚。比較(あれがいい、これがいい)という概念が消えて、大きさがよく分からなくなり、視覚情報の感じ方が大分変わる。そういうときには、現実にある物が絵みたいに見えて、逆にイラストとかが現実より現実らしく見える。でも、イラストを、現実的には理解出来ない。例えば、机の上で人形たちが遊んでいるイラストを見るとして、それが机の上だ、ということに気付かないし、人形だ、と認識することが出来ない。その絵がダイレクトな感情としてそこにあるような感じがする。いつもの生活的な意識に戻ってきたときに、「あれ? これって人形が机の上で遊んでいる絵だ」と気付いて驚いたりする。その、生活の意識の中では、細かいことがいろいろ分かるけれども、絵が生きた感情そのものだとは、もう感じられない。

僕は、「これが人形」「これが机」と分けて考えられる能力はおそらく脳の能力だと思うし、AIにもプログラミング可能だと思うけれど、「そこに感情がある」と感じられる能力は、もっと根源的で、それ自体はプログラミング不可能なものなのではないか、と思う。絵や音楽や言葉が、ただの無機質な情報の羅列や組み合わせではなく、それこそが生きているものなのだということ。そして人間は、もしかしたら生存競争に勝つために産まれてきたのではなく、単に意識し、何かを実体化させ、感じるために産まれてきたのではないか、と飛躍して思う。街を作ったり、経済活動を生み出したり、ということも含めて。人間が一生懸命思考して、言葉や数学や音楽理論や、いろんなものを考え出してきたのは間違いないと思う。でも、例えば、文学が、生存競争に勝つために作られた、とは考えにくい。それはやっぱり感情を実体化させるために産まれたのではないだろうかと思う。

感情はおそらく、脳の産物ではない。寧ろ、脳が感情の産物なのだと思う。いくら正確に音楽を分析出来ても、言葉の意味が分かっても、そこにある感情が感じられなければ意味が無い。何の為に創作をするのかは分からない。けれど、僕がもっともっと世界をフラットに感じられたとき、本当に最初からある何かに、僕は近付けるような気がしている。

AIが学習の結果、感情を手に入れるかもしれない、ということに関しては、僕は肯定派だ。別に感情は人間の専売特許のようなものではないと思う。脳は単なる感情の受け皿みたいなもの。だとしたらロボットという、よく出来た受け皿があれば、そこに感情が宿るのは、当たり前なのではないかと思う。

言葉も好きだ。何年間か、僕は言葉が大嫌いというか、邪魔なものだと考えていた。単なる分析ツールだと思って。そう思うようになる前は、僕は言葉が大好きで、そこは感情に満ちた場所だと考えていた。すごく極端なことを言えば、例えば「あ」という一文字は、単なる日本語という構造体の最小単位のひとつでしかないけれど、同時にそこにはもう、感情が充満している。多分、原始人は多分「あ」としか言えなかっただろうと思う。けれど「あ」だけでは不便なので、いろいろ言葉を継ぎ足していって、今の複雑な言語が出来たと思うのだけど、複雑になった結果、さらに多くの、大きな感情が表せるようになった、とは思えない。多分「あ」しか知らない原始人が「あ」と言ったとき、そこには全ての感情が込められていたと思う。

現代では「あ」ひとつでは何も表せない。僕が「あ」と書いても、それが他人にとって持つ情報量はゼロに等しい。身振り手振りとか、声音とかをいろいろ駆使して「あ」と言えば、何かしらの表現にはなるだろうけれど、それは身振り手振りという言語の中のひとつの構成要素として「あ」を使っただけなのであって、別に「あ」そのものが何かを表した訳ではない。

現代では、日常言語ではない、何か特別な言葉の用法が、詩だと思われている気がする。「石ころ」という一単語が詩でも別に構わないと僕は思うのだけど、それだけではやっぱり詩とは見なされないし、僕だって「石ころ」だけで感動出来るほど原始的ではない。

言葉が特に面白いのは、言葉がフラットになれば、現実もフラットになるところだ。言葉と現実は密接にリンクしていて、言葉の扱い方が、そのまま世界の捉え方になる。それは「世界は悪意に満ちている」と書けば世界が悪意に満ちているように感じられる、という対応の仕方ではなくて、「あ」も「い」も「う」も均等に扱ったとき、僕に見える世界、例えば「本」や「机」や「フィギュア」という、ひとつひとつのものたちが、全て均等に見えるような、とても気持ちいい感覚を得られる、ということ。

言葉によって分析されて抽象化されて、構築された、観念に満ちた世界を、一度リセットしてみる。原始人にとっての、リアリティ溢れる「あ」ではなく、限りなく「僕」という主体性を稀薄にした「あ」を、ただ奏でてみる。音符の中で、どの音が一番重要だ、というものが無いように、全ての単語を「あ」と等価なものとして扱うこと。世界は音楽に限りなく近い。僕にとっての言葉の楽しさは「石ころが浮かぶ」みたいな、常識に反することを書くことでもなく、また「青い季節」とか「暮れ行く甘さ」みたいな、映像化出来ないことを書くことでもない。単なる指というハードウェアに成り切って、フラットな意識に受信された何かを、ディスプレイに叩き付ける作業に没頭することが、何より楽しい。

「何を書こうか」とか「どう書こうか」と思案するとき、書く楽しさは激減する。書くことは即興演奏に限りなく近い。書かれたものには、僕の経験や気分などが反映されている。僕の言葉には毒だって含まれている。僕は常識に反したことも書くだろうし、五感には含まれないものも書くだろう。……ただ、こう書いておいて何なのだけど、僕は即興演奏の境地には到っていない。でも、フラットさを意識して、そして普段から勉強や経験を怠らなければ、いずれ何もかもが等価な世界に到達出来ると信じてる。

 


この世界が仮にデータだとしても、僕はこの世界に愛着を持っていて、手触りのあるものが恋しい。昔僕はルリユールになりたくて、ルリユールというのは、手造りで本を作り、本を手作業で修繕する人のことだ。異世界には別に行きたくないし、そこで人生をやり直したくはない。人生は、この、僕の人生だから。僕とはこの世界に於ける、僕が僕だと認識する世界の拡がりのこと。音楽が好き、というのも含めて僕だから、異世界に行って、ニック・ドレイクの音楽が聴けなくなったら、もしかしたら、少なくとも僕が自然に僕だと言える僕は、そこにはもう、いないかもしれない。デジタルが嫌いな訳じゃない。インターネットという仮想の空間も好きだし、VRだって好きになれるかもしれない。でも、物としてちゃんと存在するCDが好きだし、究極のところレコードで音楽を聴きたい。

空間はデジタルだろうか? 光度の変化は、ものすごく細かく見ればデジタルなのらしい。つまり、本当は段階的に明るくなったり暗くなったりするのだけど、あまりに細かく光度が変化するので、人間の脳には、太陽の光が段々翳っていくのが、がたがたと段階的に暗くなっていくようには見えないだけなのらしい。紙の本を、原子や電子や素粒子の集まりとして見る人はいない。ましてや、隙間だらけどころか、実質は本なんて存在していなくて、ただの紐状のエネルギーの集まりだとか、私たちがそれを本と認識したときだけ、本は本として存在するとか、そんなことをいちいち考えながら本を手に取る人はほぼいない。感情が世界を具現化し、感情が捉えないものは最初から存在しない。僕が僕を感じるとき、僕は存在するし、僕が世界を感じるとき、世界は存在する。感情の拡がりが、僕にとっての世界の拡がりそのものだ。

頭が良い、とは物事を抽象化する能力が高い、ということだそうだ。例えば、たくさんの大事な本を分類し、綺麗に本棚に並べ直すこと。また、自分の持ち物や情報を、感情に従って、厳密に取捨選択すること。整理や取捨選択は、まさに物事を抽象化する作業だから、自分の持ち物をあちこちにほったらかしにせずに、自分にとって本当に大事なものを選び、それを大事にする人は、頭がいい、ということになる。社会や集団にとって有用なものを、膨大な情報の中から適格に選び出せる人や、ある漠然とした問題意識を、整理して、要らないところを切り捨てて、シンプルな問題へと変換させることが出来る人は、社会にとって有用な人で、基本的にそういう人のことを、頭がいい、と言う(と思う)。有用さという尺度によって物事を選別するか、感情に従って選別するか、では世界へのアプローチの仕方が異なっているけれど、ひとりの人の感情的な選択が、社会にとってすごく有用になることもある。自分が好きで作った物や作品が、多くの人の役に立ったり、人を喜ばせたり幸せにしたりする。多分だけど、多くの人は、そんなに便利さを求めていない。求められているのは、この世に生きるに価する、と感じられるようなヴィジョンだと思う。そのヴィジョンが、本当の本当に現実か、作り話であるか、ということは関係ない。この世界自体、現実か作り話かなんて、誰にも分からないのだから。

僕は、ある部分では、自分の古風さに拘って、生きていきたいと思っている。今現在、世界に住んでいる人々の、集団的な心理の傾向、なんて僕にはとても分からない。僕は、硯に向かって、よしなしごとを和紙に書き付けていた、昔の時代を懐かしく思うし、昔より今の方が優れているとか、今より未来の方が優れている、とは全く思わない。

僕にしても、今さら筆で書く時代には戻りたくないし、iPhoneやゲームやネットが好きだし、未来の技術にはどきどきする。VRの世界や、延命技術の飛躍的な進歩を目の当たりに出来たら嬉しいし、そこまで寿命が保たないかもしれないことを、少し残念に思う。サイボーグになりたいし、意識自体がネットワーク化された世界に憧れる。けれど同時に、僕は今の時代や今の空気や今の僕や、紙の本や音楽や、キーボードで書くことが好きだし、世界共通語とか関係なく英語が好きだし、日本語が好きだ。

僕は、他人ではなく僕なのだ、という当たり前のことに、やっと最近気付いてきた。

最近、過去のことを言っても仕方ないな、と思うようになってきた。僕はすぐに後悔の渦に飲み込まれてしまって、しばしば、もう自分は完全に損なわれてしまった人間だと思ってしまう。大切な何かが致命的に失われたか、もしくは不可逆的に壊れてしまった、と思う。確かにあったはずの光を、僕は無くしてしまった。過去をどう思い出せばいいのか分からない。無為な年月を過ごしてきた。

後悔しない人なんていないにしても、僕はもう取り返しが付かないくらい何もかもを失ってしまった、と思っていた。自分自身を無くしてしまった。歳を取ってしまったら尚更、後悔の種は尽きないと思う。引きこもりの僕にだって、それなりの精神的なドラマはあった。その大部分は、虚無と恐怖で出来ている。誰もがきっと、どうしようもなく傷付いた過去を抱えたままで生きている。それは理解されず、また理解されたり納得されたりすることを、誰もが拒んでもいる。

過去は自分にだけ刺さる棘のようなもの。過去の重さや、今の自分のどうしようもなさに、耐えきれずに自殺する人たち。弱っている人たちに向けて強者は決まって「自業自得だ」と言う。お前が駄目なのも、弱いのも、痛いのも苦しいのも皆、自分で選んだことなのだ、と。辛い人が辛いと言うことは疎まれる。誰も他人の辛さなんて見たくない。自分自身で立ち直らない人間は屑のままだと言われる。

じゃあ調子がいい人は、自分の調子を良くするために努力してきたのか、と言えば、全然そうじゃないと思う。傷付くのも、楽しく生きられるのも、運でしかない。死にたい人の方が、じっと日々の苦痛に耐え、一秒一秒を決死の思いで生きている。

今になって、過去を思って燻るのを止めようと思い始めた。それはもう、本当、ただ単純に今が楽しくなり始めたからだ。

人には何故、過去に拘る習慣があるのだろう? 80歳くらいになって、思い出に浸るのは悪くないかもしれない。僕はずっと、自分はもはや老いてしまった、と思い続けてきた。18歳の時は、もう人生の終わりだと思ったし、23歳の時には長く生き過ぎたと思ったし、それからは毎日死にたいばかりで、年齢を数えるのもやめてしまった。僕は、少しずつ磨り減って行った訳ではないし、時間をかけてじわじわと回復してきた訳でもない。人は……と、一般論的に言うのだけど、……あっという間に悪くなるし、かと思えば、急に回復した自分を発見する。ふと、おかしいと思う。するとその奇妙な、常識的な世界とのずれは、どんどん累積していく。気付くと、常識的に生きるってどういうことなのか、全然分からなくなっている。治るときは逆で、ふと楽しいと思う。そしてこれが本来の心だ、と思う。本来の自分を取り戻そうと焦りながら、何もかもをまた見失ったりしながら、少しずつ少しずつ、自分がまともだと思える時間が増えていき、その内そっちの自分が普通になってくる。

ここ10年間の僕の過去には、絶望感以外何も無かったから、書くべき過去はほとんど何ひとつ無い。精神の闘病生活には相手がいないので、そこにはドラマは無いし、それに病気の症状についての細かいことは、他に書いたので、今は書く気が無い。僕はもう、自分がいかに苦しかったか、と、書く気がまるで無い。精神の病気を抱えている人には同情する。でも、僕自身が同情を乞うべき時は終わった。僕は、多くの人の、精神病に対しての理解がもう少し深まればいいと思うし、もっときちんとした治療法が確立すればいいと思っている。精神病が、例えば腎不全なんかの病気と同等に扱われたらいい、と思うのだ。産まれ付き心臓が弱い人がいるように、脳に病気を抱えやすい人もいる。誰でも落ち込むことはあるけれど、病気としての鬱は、もっと激しく、命に関わるものだ。精神病は、なってみなければ絶対に、本当には理解出来ない。落ち込みや不安と、病気としての鬱は全然違う。息切れと喘息が全然違うように。「自業自得だ」という言葉は見当違いだし、考え方を変えたからって、病気はどうにもならない。

「生きていればいいことがある」と言う。それは、ある意味では正しい。でも絶望している人にとって、普通に生きることは、針山を裸足で歩くくらい、とても困難なことだ。仮に、針山を百歩歩けば天国に行ける、と約束されていたとしても、痛みと恐怖が薄らぐ訳ではない。しかも鬱には終わりが見えないし、致命傷を負った血まみれの心を、誰ひとり、想像すらしてくれない。それに、死ぬまで鬱は治らないかもしれない。

僕は、大切な何かを、全て喪ってしまったと思っていた。心の中の火、すなわち、情熱や好奇心や、心の熱量。詩的な感覚。何もかも。昔はあった、確かなものが、完全に壊れたか、損なわれて、そして二度と帰っては来ない、と思い込んでいて、喪失の中の自分を生きる以外に、選択肢は何も無い気がしてた。けれどこの頃、案外そうではないのかもしれない、と思える時がある。ドラマみたいに、僕が自分自身を取り戻す決定的なシーンがあった訳じゃない。もしかしたら、僕の鬱は周期的なものでもあるのかもしれない。僕は僕の意思で鬱を治した訳ではないので、やはり運が良かったと言うしか無い。

要は過去に囚われず、未来を絶望視しないならば、人は現在を永遠に生きられる。