夜中のメモ

 今回こそ本当に、鬱が治ったかもしれない。似たような言葉を、期待を込めて、何度も書いてきたけれど、今度こそ、本当に良くなった気がする。とは言ってもごくたまに一週間くらい調子が良くなることはたまにあるので、また気分が落ちる可能性は十分にあるのだけれど。ここ4年間くらいは、何度も調子を悪くしながらも、全体的には上がり調子だと思う。セロトニンとかドーパミン、エンドルフィンの分泌量が、段々正常になってきているという気がする。

 僕も歳を取った。寝不足で顔色が悪い。また三日間眠っていない。血の気が引いた顔をしているのにとても高血圧だ。焦りが身体の中にあって、自殺願望と混ざり合っている。そこから、ハイテンションとスピード感で逃げ切ろうとしている。
 歳を取ることに不安は感じない。順当にこれから、じっくりと歳を取っていければいい。顔に薄いシミや皺が出来ている。白髪が、抜いても抜いても生えてくるので、もういっそ総白髪になってしまえばいいと思う。そういうことをネガティブに感じたりはしない。鏡で自分の顔をしげしげと見ると、特に疲れていると40歳くらいに見える。悪くない。老いた身体で、思い切り気持ち良く生きて行けばいい。

 世界を理解しようとして、意味を知りたくて、ずっと考えていたような気がするのだけれど、全然分からなかった。結局は、自分の息を呼吸すること、たったそれだけのことなのだと、やっと最近気付いた。今、僕にあるのは、僕の手だけだ。そして僕の心だけ。キーを打つ指先が気持ちいい。キーボードはかたかたととても軽快な音を立てている。
 頭の中で、言語野と音楽回路が復活しているのを感じる。実際に、頭の中にもやもやとした感触があって、シナプスが成長して、脳の血流量が増えているのを感じる。脳に感覚があるのかは知らないけれど、脳内に違和感があって腫瘍を早期発見した人の話を聞いたことがあるし、音楽を聴いたり、活字を読んだりすると、本当に頭の中のいろんな場所に気持ち良さを感じる。

 僕は脳の中に異常があったけれど、それはおそらく産まれ付きのものだと思う。僕が受けた程度のストレスで頭の病気になるなら、日本なんかは精神病患者で溢れて大変な状況になっているだろう。コンビニ並みに精神病院が増えていると思う。僕は楽しいときは、おかしいくらいに楽しい。いつも麻薬がいい感じに効いているみたいで、音楽を聴いているだけで、脳内麻薬がとめどなく溢れてきて、身体の感覚がほとんど無くなる。三大欲求が無くなって、音楽の存在だけを感じる。それ以外は全て「非在」する、という感じがする。何もかもが、音楽を残して、無くなってしまう。

 頭の中の気持ち良さの「苗」や「核」みたいなものは、成長すると思う。段々、いろんな音楽から快感を汲み取れるようになってくる。そして、自分にとって、好きな音楽と、そうでない音楽を選り分けることが容易になっていく。感傷的な音楽の聴き方をしなくなっていく。昔好きだった音楽を、昔を思い出しながら一所懸命聴くなんていう努力はしなくなる。自分が今現在好きな音楽の世界が拡がっていく。WALKMANmicroSDのチップが、脳内の音楽回路にリンクしながら膨らんでいく。快感のシナプスとシンクロした、個人的なデータバンクが完成されていく。


 快感って何なのだろう? エンドルフィンとドーパミンが主に快楽物質と呼ばれていて、特にエンドルフィンが陶酔感に関係あるらしい。僕は苦痛以外何も感じなかった頃、最高の快感と多幸感が羨ましくて、最強クラスの麻薬であるヘロインにとても憧れていた。快感が一瞬であっても構わないと思っていた。ヘロインは素晴らしい快感を生じさせてくれるけれど、本当に気持ちいいのは数分間だけらしい。しかも効果が切れたときの苦痛は身体中の皮膚を剥かれて火あぶりにされたり、極寒の地に裸で放り出されたのかと錯覚するほどの、これ以上考えられないほどの地獄らしくて、その苦痛を抑えるために、またヘロインを打つという連鎖に、簡単に陥ってしまうらしい。自殺すること前提でなければ、とても手が出せない。
 だから一番いいのは、薬物無しでナチュラルハイに陥ることだ。

 ライティング・ハイってあると思う。書くことで自分の記憶の小路を旅するとか、そういうリリカルなことではなく、単純にキーを叩くのが気持ちいいという、ただのフィジカルな事実。煙草の火を丁寧にもみ消す。相変わらずぬるいコーヒーばかり飲んでいて、スピーカーからは初音ミクの甘い丸っこい声が流れている。歌声に紛れて、ファンヒーターの音、加湿器と空気清浄器の音が微かにかさ付いて聞こえる。冷蔵庫は独り言がうるさいので、隣室に移動させた。
 音楽をジャズに換える。ジャズは20年近く前から好きで、音楽を聴けなかったここ12年間を除けばよく聴いていたのに、未だに特に好きなミュージシャンがいないというか、あまり演奏者による違いが分からないし、テナーサックスとアルトサックスの音の区別さえ付かないことが多い。慣れの問題かもしれない。ピアノやギターだと違いが分かるからだ。今、ウェイン・ショーター(テナーサックス奏者)のアルバムを聴いていて、おそらくピアノはハービー・ハンコックだろうと思っていたら、やっぱりそうだった。……音楽を浜渦正志に換える。

 頭の中には感覚器官は無いというけれど、嘘だと思う。西脇順三郎も、脳髄が心地いいように言葉を書くと言っていた。音楽をヘッドホンで聴くと、直接脳の中に音楽を浴びて、脳細胞が音楽に浸るような感じがして気持ちいいのだけど、スピーカーで聴いてもやはり脳の中に快感が拡がる。脳が音楽に染まると、世界が音楽になる。脳の奥の方の、皺の奥底まで、音楽が浸みていく。その血流量の増加や、シナプスの電気の発火を、僕は感じる。
 今脳内で、何処の細胞が騒いでいるか、僕は実際に知覚できる。……それって普通の感覚なのではないだろうか? それを感じない人は、音楽を主に身体で感じて、脳では感じないのだろうか? それとも何にも感じない? 僕は身体でも音楽を感じる。
 バロウズが、麻薬中毒者にとって身体とは、麻薬を打つための機械に過ぎないということを言っていた。僕にとって身体とは踊るもの。身体中の筋繊維や関節が喜んでいる。でももっと気持ち良くなると、身体を一切感じなくなる。キーを打つ指先の快感だけを感じる。眼鏡越しの柔らかな世界。

 活字にもまた快楽物質が含まれている。ある種の言葉には、麻薬そのものが含まれている。麻薬的というのではなく、物質としてのオピオイド。オピウムという単語が好きだ。小さな天使みたいで。言葉には天使的側面(The Angel Aspect of the Words)があると言った人もいる。当たり前の単語に、陶酔効果が含まれている。机とか光とか時計とか感情とか眼鏡とか。……部屋の中。自分のためだけのダンス。ナルシシズムの極限としての宇宙。その限りない広さと同時に、親密な四角い、限定された空間。混沌。混沌は全ての始まり。秩序からは何も産まれない。秩序は閉塞している。混沌は崩壊している。斜めに雪崩れ落ちながら、光を纏い、新たな命を形成していく。

 ヘッドホン/スピーカーを愛している。ジョン・レノンはヘッドホンを付けているときも眼鏡を掛けていて、耳たぶの内側が痛くならないのかなと思う。僕は眼鏡越しの世界が、平坦に見えて、デジタルみたいで好きだ。今掛けている眼鏡は4つめだけど、どの眼鏡でも、掛けながらヘッドホンを付けると、ツルがイヤーパッドに押さえつけられて、段々痛くなってくる。それだからという訳でもないのだけど、僕はどちらかと言えば、ヘッドホンよりスピーカーの方が好きだ。ヘッドホンの方が内に籠もれるから、ヘッドホンを偏愛する人の気持ちはよく分かるけれど、慣れるとスピーカーでも、内面的な気分で音楽を聴くことが出来るし、全身で聴けるので気持ちいい。脳の快感と、身体の快感の両方がある。ただ、結構音量を上げなくてはならないのだけど。BOSEの白いスピーカーを15年間愛用している。と言っても今のは2代目なのだけど。低音が温かくまろやかで、Bluetoothでも音がスカスカにならない。


 呼吸することさえ快感だ。気持ちいい振りなんてしなくていい。ただ当たり前に目を開けているだけでいい。
 皮膚のあらゆる場所と、外の空間との区別が付かない。私は静止している/踊っている。私の筋繊維。息をしていれば私は完璧に近付いていく。冷えた香りがしている。薄い大気が好きだ。浅い呼吸。

 肯定感があるから楽しいのではなく、楽しいから全てを肯定できるのだと思う。楽しくないときにいくら全てを肯定しても、楽にはならない。特に言葉なんかで全て肯定しても。

 一番本質的なのは音楽。

 論理的なこと、歴史的なこと、理論、などを覚えて、忘れるのが理想だと思う。それから、自分の精神を隈なく使うこと。思考して、思考を超えた思考に行くこと。頭には論理的な部分と、分裂的な部分があって、僕は論理的な面が弱いと思っている。論理や数学はひどく大事だと、いつ頃からか思っている。
 最近、書くのが楽しい。それはギターやピアノを弾くのが楽しいこととリンクしている。限定された世界の中で、無限を目指すこと。宇宙の遠く、自分さえも及ばない場所に行くこと。それは、今これを書いているキーボードや、ギターやピアノの演奏によって可能だ。そう、僕は知っている。知っているけれど行けないことは、死ぬことよりも辛い。キーボードで書くことも演奏の一種だと思っていて、煙草を吸いながら、キーを流れるように叩けるときは至福だ。なのにまだ、そこに行けない。

 書くときはほぼ必ず音楽を聴いている。ヘッドホンも好きだし、スピーカーも好きだ。スピーカーで聴くときは、音をかなり大きくするのが好き。たまに音楽を聴くのも忘れて書いている。静謐を音楽にして。

 インプットがかなり大事。考え尽くすことも大事。

 音楽も、書くことも、全然楽しくなかった十年間。それ以前は、音楽と言葉が、死ぬんじゃないかと思うほど好きだった。死者の眼に映るものが見えていると思った。僕はおそらく躁鬱だ。また、何の前触れもなく楽しくなってきた。でも、まだまだだ。僕の脳細胞は死にすぎた。読書をして、言葉を心の底の、混沌の、命の海に沈めなければならない。
 もしかしたら、言葉には限界があるのかもしれない。でも、言葉を仲立ちにして、遠くに、それから心の中心に行けるかもしれない。生きているのだから、行けるだけの場所には、最大限に遠く、深く、行きたいと思う。

 多幸感や、意識の変性には限界があると思う。自己と世界を認識する、その認識の仕方の転換が一番大事だと思う。気分や感覚や感情、快感は、絶対的に追い求めるほどには、大したものじゃない。
 それに、ただふわふわと気持ち良く浮いているだけじゃ意味が無い。現実や現代に接地していなくては、ただの夢遊病者として一生を終えることになってしまう。
 僕を現実に連れ戻してくれるものはいくつかある。例えば友人の存在。ニック・ドレイクの4枚のアルバムと、中原中也の全詩歌集(上下巻)。色で言えば赤。自傷すること。

 最近嬉しかったのは、ずっと前に無くしてしまったのと同じモデルの眼鏡(丸眼鏡だけど、レンズはやや楕円形)を、ネットで見付けて購入したことだ。眼鏡が好きだ。昔は眼が良かったので、度入りの眼鏡を掛けられなかったのが残念だったけど、今は近視になったので嬉しい。
 僕はジョン・レノンがとても好きで、昔眼が悪くなかったのに眼鏡を掛けていたのは、ジョン・レノンにあやかってのことだ。もちろん丸眼鏡で、ジョン・レノンが一時期掛けていたのと同じ商品を選んで買った。その眼鏡を無くしてから、今度はジョンが最晩年に掛けていた、白山眼鏡店のセルロイドの眼鏡を買うつもりでいたのだけど、通販では売っていないのでぐずぐずしている内に、歳月が経ってしまった。いずれ買いに行くと思う。でも多分、僕には丸眼鏡の方が似合う。また、同じ丸眼鏡を買えて良かった。

 ときどき強い孤独を感じる。


 ジミ・ヘンドリックスの音楽は熱に満ちている。ジャニス・ジョプリンもドアーズもそう。比較的最近の音楽だとホワイト・ストライプスの『エレファント』も。煙たい空気の感触と、密室感がある。

 音楽を聴いているときは、音楽が全て。


 正しいことって、案外どうでもいい。意味は特に無いことであっても、自分が生きていることや、何気ない、個人的な出来事を感じて、そして書いていたい。いつもとは違う風の匂いとか、毎日変わる空の高さとか、部屋の空気の密度とか。キーボードがかたかた言っていて、とても気持ちいいこととか。とうに冬休みが終わって、あまり聞こえなくなってしまった子供たちの声のこととか。電車の音や、車の音について。ステレオの青い電光表示の時計が好きなこと。ステレオの上には米山舞さんのビビッドな感じのカレンダーを置いている。寒いこと。あまり焚かなくなったお香のこと。ストーブの音、少し薄い空気。……ヘッドホンを付けていると、他の何ものも関係ない、音楽の世界に行ける。

 この世が真実かどうか分からない。けれど世界が何であれ、すぐに途方に暮れてしまうことは変わりない。天国なんて無い。今この場所だけが素晴らしい世界になり得る。

 ぱらぱらと本を捲ることの快感。ずっと忘れていた活字の感覚。


 夜、ひとりでノートに向かっていると、孤立感が和らいでいく。万年筆が紙を擦るかさかさという音、ストーブの音や、加湿器の音だけが聞こえる。窓を閉めているから、高速道路の音も聞こえない。ステレオの青い電光表示が、現在時刻([2:25])を光らせている。LEDの電球の光。コンセントを通して、遠い、遠い、原子力発電所と繋がっている。手を擦り合わせると、熱すぎるくらいの体温を感じる。
 僕が、僕であり、僕でしかないことには、時々強い不安を感じる。だから、時には宇宙を感じたい。この街の四季や、月や空の高さだけじゃなくて。全てになりたいと思う。他のことは何も感じない。昼間の小さくて惨めな僕はとても遠い。ただ僕とノートとお気に入りの万年筆。この闇の時間に、僕は何処までも溶けていく……。



 僕が僕である以上のことは書けない。「普遍的な自分」なんていない。誰かより偉い自分もいない。数学や科学、哲学の中には、真理はあるかもしれない。けれど、そこに僕はいない。理論や論理の中には、感情や四季が含まれないのと同じように。僕は「僕」を見たい。僕は、「君」を見たい。……昨日、僕は鍋の中にしめじが浮いているのを見ていた。……個人的な生を生きて、個人的な死を死にたい。僕がひとりでいることには、何ら抽象的な思考は含まれない。それは端的な、事実だ。

 黄色い感じの、戦闘服が似合いそうな、細い音のギター。音楽の全体的な評価って宛てにならなくて、それはラブレターに点数を付けられないのと同じ。僕にとって、僕に向けて個人的に作られたと感じるアルバムを、他の人が好きだろうが嫌いだろうが、そんなことはどうだっていい。……小さな部屋が好きだ。小さな部屋を感じる音楽が好きだ。心の中の掠れたメロトロンの音。忘れられた灰色の交信。一枚を通して宝物のように感じられるアルバムが好きだ。

 階段の脇に、薔薇が咲くように光が射していた。僕はプラグに繋がって別世界にいた。痩せて、乾いて、硬い血管を抱いて、身体だけは他人が怖くて、そのままだったけれど。リノリウムの剥げかけた緑の階段に、膝を抱えて、僕は誰ひとりいない世界で、光に包まれていた。内面の光だけが、無限の希望だった。僕は、死のうと考えていたんだけど。

 クラシック音楽は頁の裏側。詩の果実。

 ロックを黄色い音で聴きたいときもある。酸っぱい音で聴きたいときも。大体のときは、モノクロ(単色)で、濃いセピア色か白黒の音で聴くと、頭の中が熱量で満たされて気持ちいい。

 ギターの音は消えても、空中に残り続ける。それから、世界の裏側の虚空に。そこに挟まれた本に。ここにある、死んだ後の図書館に。


 好きな音楽が増えるごとに、僕の世界は拡がっていく。そう広い世界でなくてもいい。古い石段や、白亜の壁に挟まれて曲がりくねった小路のある、水の街くらいでいい。ときどき都会が恋しくなるけれど、僕の帰る街は、いつも小さな静かな街だ。ニック・ドレイクのドキュメンタリーにそういう街があった。
 僕の住みたい街は、ギリシャの小さな街のようでもあるけれど、ギリシャは僕が思うより、陽射しが強そうで、光や刺激の苦手な僕には合わないかもしれない。イギリスのケンブリッジ大学の構内やその界隈、ロンドン、パリ、それからアイルランドの首都のダブリンが、住みたい場所の筆頭。ベルリンもいいなと思う。それからイギリスのムーア(ヒースが一面に咲いた荒野)の真ん中の、そう大きくない家に憧れる。ケンブリッジ大学の図書館には、魔術書の迷路みたいなイメージがあって、いつかそこに通える身になりたいと思う。学生や教授でなくても、例えば研究生という名目で、出入りが可能になるらしい。
 僕が知っている街は有名な場所ばかりなので、世界には本当はもっとこぢんまりとして静かな、美しい街があるかもしれない。
 都市にも憧れていて、特にカナダのトロントが、本当に美しいと思う。ニューヨークのアパートもいいな。東京も、雑然としてはいるけれど、いずれは住んでみたい。日本で今一番住みたい場所は西宮なのだけど。何故なら神戸や大阪の喧噪からは遠くて、空気がどことなく冷たくて甘いからだ。
 個人的な、心の街に流れる音楽が好きだ。その街は、音楽と共に、ほんの少しずつ僕の理想の街となり、永遠の国となる。



 優しい時間が恋しい。僕は音楽と言葉が大好きだ。人は多分、簡単に地獄に落ちられる。当たり前の日常だって十分に地獄で、今この瞬間も全世界で孤立したたくさんの人々が、自殺を試みようとしている。儚い希望にすがって、何とか惨めな生を長らえている人だっている。僕は三十分前、首を吊ろうと考えた。
 でも、この世界からいっとき離れられるなら、死ななくてもいい。

 タバスコの瓶を裏返すと、こう書かれていた。
 「100万羽の小鳥、飛び立つ」と。

 文学と音楽が、僕を生き長らえさせてくれる。教義的な言葉や、論理は要らない。僕が欲しいのは人間の感情。ロシアやイタリア、アメリカの小説があると落ち着く。

 古い窓ガラスに、霜の花が咲く冬。
 街が一面光に満たされ、噴水の水しぶきが白昼夢のように輝く夏。
 僕はそこにいない。
 僕は暗い暗い、心の内側でありながらあまりに遠い、永遠の夜中にいる。
 それともいつしか、光が光で満たされる?
 僕は西暦3000年に出版された聖書を読んでいる。
 『ロリータ』と『不思議の国のアリス』を読んでいる。
 アニメみたい。
 アニメや映画を見ることは嫌いだ。
 僕は全てを夢見る。僕は全てを読む。
 何もかもに血を塗る。
 言葉、言葉、言葉……
 全てが沈黙するとき、
 世界で最後のピアノの音が鳴り終わるとき。
 僕は、その時を生きている。
 永遠に開けられない扉の前で、
 窓の外では、おびただしい数の青い馬が駆けている。

 美しいものは、美しい理由を与えてくれない。割れたグラスを台所の窓辺に置いて、それに陽が当たってきらめくのを、朝、煙草を吸いながら見ていたい。――折り畳むことが出来る、蝶の本。血で描かれたカモメのシルエット。夜に浮かんでいる。

 ……優しい時間が恋しい。静かな夢のように活字たちが呼吸する、書庫の中で眠りたい。小さな街が恋しい。誰か、何処か、僕の為に存在し続ける場所があるはず。希望。探し続ける。
 僕はここから脱出したい。