好きなことのメモ

 一番楽しいことは二つある。書くことと音楽を聴くことだ。二番目に楽しいことも二つあって、それは読書とギターを弾くこと。三番目に楽しいことは、歌うこと。新しい項目が追加されたり、順位が変動することもあるだろうけれど、音楽と言葉(言語)が最高に楽しいことは、この先ずっと変わらないと思う。あとは多分、考えることが楽しいと思うのだけど、僕は十年以上「楽しい」という言葉を使うことをためらっている。ランニングハイに入れなくなったランナーになったような気がする。ライティングハイというのがあって、書くことが麻薬みたいに気持ちいい時間がある。
 一番楽しいことは最上級のヘロインみたいで、二番目はモルヒネ、三番目はマリファナだ、と例えてみる。実際、化学的にも、脳内麻薬は超高純度のヘロインとほとんど同じ物質だと読んだことがある。書くことは本来、最高に気持ちいいことだ。それが急に無益な苦役でしかなくなったとき、最初は本当に絶望した。麻薬が手に入らなくなった薬物中毒者よりも、もしかしたらもっと苦しい時間を過ごして来たかもしれない。麻薬とは縁を切ることが出来るけれど、書くことは一生やめられないからだ。
 あまりにも長い間、楽しさや気持ち良さを感じられずにいると、楽しかった時間が特別で、楽しくないのが普通なのではないかと思えてくる。楽しいときは、本当にこれ以上は絶対にあり得ないだろうと思うくらい楽しい。楽しくないときは、古今東西で、僕ほど苦しんだ人が他にいただろうか?、と本気で疑問に思うくらい苦しい。苦しさを表現できる言葉って、本当に少ない。地上の天国はもちろんあるし、地上の地獄もある。釜ゆでだとか串刺しにされるようなチープな地獄なんか比較にならないくらいの地獄がある。誰かひとりの地獄は、全世界の地獄と同じものだ。ふたりの人が並んでいて、ひとりは天国に、もうひとりは地獄に住んでいるということは普通にあり得る。それが傍目にはふたり同じ世界に、もしかしたら仲良く並んでいるように見えたりするのだけど、天国にいる人はますます人に好かれ、地獄の方の人はますます孤立していく。
 おそらく、最高の快感をさらに超えた何かを知ることも出来るし、苦しみなんて言葉を通り越した何かを知ることも出来る。せっかく生まれてきたのだから、両方知りたい。

 天国や地獄とは無縁な、ただ無感情で無感覚な状態でいることがとても多い。身体のある世界、物や、言葉や、色のある世界が、僕はとても好きだ。普通の意味で使われる「世界」がとても好き。視覚表現を昔は馬鹿にしていて、大事なものは眼には映らないと本気で思っていたけれど、今は画集を見るのも大好きだし、絵も描けたらいいなと思ってる。眼に映るものが最高に大切だとは思わないけれど、見えるものをとても愛おしく思う。料理も出来たらいいなと思うし、自分の個性(個人性)を大切にしたいと思う。生活全体を統一感のあるものにしたいし、自分というキャラクターを、僕にとって一番自然な形で確立できたら面白いと思う。すごく個人的でいたくて、他人に見せたり、他人に合わせるための自分ではいたくない。

 眼鏡越しの世界が好きだ。「見ることを見る」ことを意識化できるからだ。それから世界を真っ直ぐ見つつ、同時にのぞき見しているような、孤立した視点を体感出来るからだ。僕は重度の離人症だった。ふわふわしてて気持ちいい、みたいな離人感では無く、眼の前の物や人と、完全に別世界にいるように感じていた。特に十代の頃は。安っぽい作りものの映像の中で生きているみたいだった。でも、音楽や言葉は、とても生きて感じられたので、ギターを持っていなかった頃は、ずーっと音楽を聴いて、いつも歌ってて、いつも本を読んで、いつも書いていた。だから、今でもずっと、僕にとっての現実は、言葉や音楽の中にこそ強くあるという感じを抱き続けている。
 演奏や言語での表現で、僕がいるこちら側の世界から、他人がいるあちら側の世界(両者は完全に解離していた)に、何か届けられるだろうか、繋がれるだろうか、と願うように書いていた。音楽での表現もしたくて、本当はチェロが欲しかった。歌は、自分の声がとても嫌だったので、歌うのは大好きだけど、いつもひとりで歌ってた。チェロは歌声に似ていて、本当に憧れた。安いからという理由でギターを買ったけれど、ギターの音で、世界と世界を繋げられるのか、ずっと疑問だった。17歳の夏にホワイト・ストライプスに出会うまでは、ギターは単なる歌の伴奏のための楽器だと思っていた。ジャック・ホワイトのギターを聴いて初めて、ギターはもしかしたら歌以上にエモーショナルで、心に直結した最高の楽器だと信じられるようになって、それからは他のギタリストの演奏も、急に生きて感じられるようになった。ギターは、僕が弾くと変な音しか出ないし、練習嫌い過ぎて、全然上手くならなかったし、それからとても長い間、読むことも書くことも、音楽を聴くことすらも出来ないくらいの鬱が続いて、ギターに触りさえしない時期が長かったから、今でも初心者なんだけど、本当にここ最近になって、ギターに初めて出会ったみたいな嬉しさを感じていて、新鮮で、毎日弾いてる。

 また最近は、気が付くと本を読んでいるくらい、読書が好きになった。「最近」というのは三週間前に退院してから後のこと。自殺未遂をして良かったかもしれない。また何か変えたくなったとしても、その為に自殺を試みる気はもう無いし、取り返しの付かないことになっていた可能性もあるけれど、結果的には良かったと思う。五日間の入院費と、その他の処置でお金は掛かったけれど、そんなことは別にどうでもよく思える。この三週間の間にもすごい浮き沈みはあったけど、基本的には、生きるっていいなと感じていて、不思議な感じだ。忘れていた感覚や感情が、僕の中にまだ残っていたことを、再確認できた気がする。

日記、メモ

 今日(2月13日)は珍しく晴れていて、珍しくいい気分だった。昨日までの一週間、塞ぎ込んでいて、とても堅苦しい気持ちでいた。この日記にも、自分のことばかり書いている。ほとんど人に会っていないから仕方ないのかもしれないけど。
 自分を捨ててしまいたいな、と本当は思う。自分のことは棚に上げて、他人を好きでいたい。僕にはほとんど希望が無い。枝から離れた一枚の葉っぱのように生きていたい。あるいは草のように。

 

2月5日(月)、
 何故か昨日から非常に怠くて、一日中あーとかうーとか言ってる感じだった。病院に行って、血圧を測ると、今日も過去最高の232もあって、死ぬかと思った。脳波が多分大変なことになっていて、ざわつき以外何も感じないし、何も考えられない状態。
 怠い。家に帰って血圧を測ると132。

 

2月9日(金)、
 昨日までの五日間、憂鬱で何も書く気になれなかった。一昨日、重い身体を引きずって、サンタクロースの袋一杯分くらいの本と、ギターやベース、アンプなどを売りに行った。とても疲れた。ほんの少しのお金にはなった。全部、捨てようと思っていた物なので、一応はお金になって、少し嬉しかった。この前の入院費の足しくらいにはなる。

 優しさを感じられる空間の中で生きていきたい。

 今日は誰にも会いたくなかった。気分が最悪だったので、試しに夜中にお酒を飲んでみたけれど、あまり効果は無かった。デイケアに行く予定だったけれど、どうしても行く気になれなかったので、朝、母に、気分が悪いから行かない、と電話を掛けてもらった。自分で電話する気にもなれない。お酒をもう一杯飲もうかと思ったけれどやめて、病院でもらった薬を飲んで寝逃げした。目が覚めても何度でも眠って、結局夜七時まで、ベッドでごろごろしていた。先月買ったスウェーデン産の安いウォッカは、もう無くなりそうだ。Amazonでもう13本も購入しててびっくりした。

 

2月10日(土)、
 僕は僕が存在しなくなること、何ものでもなく何処にも属さないこと、そして死ぬこと、消えることを望んでいる。
 同時に僕は何処かに属した何ものかであること、永遠に死なないこと、確かな存在として、誰かから(誰から?)認められることを望んでいる。
 どちらが本当の僕なのだろう? どちらが勝つのだろう? 消えたい僕と、社会的にあるいは社交的に認められたい僕。もちろん前者だ。
 消えたいなんて言いながら、誰かから愛されること、誰かと心の底から一緒に笑い転げられる時間を切望している。でも願いは叶う。僕はいずれ、もしくは今この瞬間、消えることが出来るのだから。でも消える前に、光を感じたい。優しさを感じたい。出来れば、性的な欲求を介した繋がりじゃなくて、心で誰かと繋がれる瞬間が欲しい。錯覚でもいいから。

 音楽や言葉の中に生きている誰かの心。誰かと出会える時間。それは生活の中で僕を脅かす「他人」としての誰かじゃない。自分と同じ時間を生きている誰かだ。僕は自分であり、誰もかもが自分であり、「僕は、僕は、僕は、……」と頭の中でうるさい「僕」が黙り込んだ後の沈黙の中で、宇宙さえも自分であるような感覚が愛しい。僕の何もかもが共有され、僕は僕でありながら世界の何もかもを共有し、全てが解体され、解体し合って、ばらばらになって、全てが同じで、全てが溶け合って平面になり、差異も僕も他人もみんな、ゼロへと帰ってしまう時間。フラットなモード。

 音楽はデジタル信号なのらしい。音楽なんてmicroSDに刻まれた0と1の配列に過ぎない。でもそれがどうした、と思う。音楽が生きているかどうかを見極めるのは僕だ。0と1だって生きている。

 

2月11日(日)、
 一日中怠かった。

 気になることは沢山ある。細かいことばかりだ。主治医の先生に、僕の書いた文章を印刷して渡したら、デイケアの担当者がそれをコピーして保管しているらしくて、そのことがものすごく気になる。リアルであまり僕の書いたものを読まれたくない。それ以上に、僕が書いた言葉を、この世界に残したくない。読んだら返してください、と言ったのは、処分するためだったのに。コピーされた文章を回収するためだけにでも、デイケアに行かなければならないかと思うと辛い。……でもそんなことは、夜中にはどうでもいい。

 

2月12日(月)、
 僕はどちらかと言うと、物質的な状況や環境より、精神的な変化を求めている。自分が空っぽでいて、そして完結している時間が好きだ。自分を感じない、ゆえに自分以外の全てに満たされる、という感じ。でも、そこに行くには、膨大な努力が必要だということも知っている。自分の限界に辿り着かなければ、自分の限界の外にあるものは分からない。頭が冴えていないと、頭が空っぽ、というのがどういう状態か分からない。新しい言葉をどんどん取り入れて、新しい言葉をどんどん出していく、その流れを作らなければ、言葉はどんどん停滞して、僕を苦しめる。腐った言葉が、僕の脳全体に蔓延して、その腐敗に、身体まで参ってしまう。疲れ切ってしまう。ものすごいリラックスと、極度の緊張は、隣同士にある。頭が分裂するぎりぎりの場所に、全てが統合された領域がある。鋭い痛みと快感が似ているように。僕が耐えられないのは、とにかく僕の頭がとても鈍くしか動かないことだ。生存さえも投げ出したくなる。

 思想書を全部遠ざけたいと思う。「真実」や「正しい思考」があるとすれば、それは乱雑なタイピングから生まれると、僕は信じているからだ。意味や考えに満ちた言葉を取り入れすぎることは危険だと思う。意味や考えや、書きたいことが先にあって、それを言葉に移すことが、すなわち書くことだ、という間違ったイメージを持ってしまうかもしれないから。言葉は流れるもの。書きたいことなんて用意せずに、空白の中でその流れを掴み、流れに乗ることが、書くことだと思う。僕が言葉を書くのではなく、言葉が僕に書かれたがっている、という感じだ。

 伊藤潤二の漫画『あやつり屋敷』の中で、操り人形で生計を立てている一家の父親が「いいか? 人形劇というのはな、人形を通して自分の心を表現するんだ」と息子たちに言うのに対して、息子の兄の方が「むしろ逆だ。俺達は人形に動かされているんだ。……おやじは人形をあやつっていると思っているが、実はあやつられてるんだ」と弟に呟く場面があって、その感覚はすごくよく分かる、と思った。僕はYouTubeでギター関連の動画をよく見ているのだけど、ある人が「音楽はギタリストの心の中にまずあって、ギターはそれを鳴らす道具に過ぎません。聴き手はギタリストの心に感動するんです」と力説していて、違和感を覚えた。そうじゃないと思う。むしろギタリストはギターと音楽の間にある仲介者に過ぎなくて、ギタリスト(人間)こそが道具に過ぎないのだと、僕は感じている。ビョークが、「私を通して音楽が鳴る。私は音楽に身を任せるだけ。それが私にとって歌うということ。……」ということを言っていて、それはとても、正しいあり方だと僕は思う。もしビョークが「歌は私の心を表現する手段に過ぎません」と言っていたら、やっぱり変だと思う。
 自分の心、言ってみれば自意識が最初にあるのではなく、音楽そのものに対するリスペクトが先にあるんじゃないだろうか? 「自己表現」なんて言っている内は、表現は出来ないと思う。音楽は僕を超えている。言葉は僕を超えている。自己は、とても小さすぎて、表現すべき何ものも持ってはいない。音楽や言葉など、一般的に「表現手段」と呼ばれているものこそが、本当は逆に、「表現者」を支配しているのだと思う。表現者が無に近付くほど、音楽や言葉は自由に、無限に膨らんでいく。
 自分があまりにちっぽけだと知ること。それを知れば知るほど、世界は無限に近付く。音楽は永遠に近付く。その永遠にこそ、聴き手は感動するんじゃないだろうか? ミュージシャンの個性はもちろんある。僕はジョン・レノンの歌に感動するし、今は、これを書きながら、ザ・スミスの音楽に感動している。人それぞれの個性はある。もちろん。でもそれはスピーカーにも個性があるのと同じことだ。ジョン・レノンを通して音楽が流れる。僕はジョン・レノンに出会う。でもそれ以上に、僕はジョン・レノンの音楽によって、永遠に出会う。何故かあまりに個性的なものは、すごく普遍的だ。普遍とは永遠。普遍とは世界。
 例えば、僕がストーン・ローゼズのライブに行ったときに感じたのは、彼らの演奏云々ではなく、二時間分の永遠だ。そして世界の全て。世界を届けてくれた彼らに、もちろん僕は感謝する。ジョン・スクワイアのギターの音に包まれながら、僕は言うに事欠いて、英語も知らないし、他に言うことも無くて、ひたすら「Thank You!」とか「I love you!」とか叫んでいた。感謝以外何も思い浮かばない。あとでそのライブの批評を読んだら「イアン・ブラウンが歌い始めた途端に、聴衆が揃ってがっかりしたような空気を感じた」と書かれていて、そんな批判精神は「死んでしまえ」と思った。がっかりしたのは多分、その批評家ひとりだ。
 イアン・ブラウンは音楽を知っている。彼ほど音楽を知っている人は殆どいない。ストーン・ローゼズが千年後も偉大であり続けるという確信を持てない批評家は、批評家稼業の為に、批評家として本来一番大事な感情を失っていると思う。何かにつけて批判しなくても自らの(批評家としての)矜持が死ぬことなんてないのに。でもプライドなんて死ねばいい。感じるための主体として、意識的に自らをどんどん小さくしていけばいいと思う。そうしなければ、音楽はどんどん分からなくなる。分からなくなっても、音楽を感じられる心の状態はいつでも戻ってくると思うけれど、それには時間が掛かるかもしれない。

 人は本来、良い存在でも悪い存在でもないと思う。

 

2月13日(火)、
 世界は全て僕の外側にある。僕をひっくり返せば、世界は全て僕の内側にある。

 バッハを聴いている。バッハはロックミュージシャンにもとても人気がある。ジャズではチャールズ・ミンガスを羨望するロックミュージシャンが多いと思う。ミンガスは特別だ。僕はロックが好きなので、クラシックもジャズもロックの延長だと思うと入りやすい。バッハの『ブランデンブルク協奏曲』は人気曲で、数多くのアルバムが出ているけれど、特にスローなテンポの録音が、とてもつもなくロックっぽいと思う。グスタフ・レオンハルトチェンバロを弾く『ブランデンブルク協奏曲』のアルバムが一番好きで、それからトレヴァー・ピノックが指揮をして、イングリッシュ・コンサートが演奏するアルバムも好き。カール・リヒター指揮の演奏が多分一番人気だろうけれど、僕には目まぐるしい演奏に聞こえて、あまり入り込めない。

 吸いかけの煙草を、それが吸いかけだから、というだけの理由で吸う。最後の煙草にしようと思う。いつも。でもこの、本当に何処にも喫煙所の無い時代に敢えて煙草を吸うことは、何かマイノリティっぽい不自由を抱えているみたいで、少し誇らしいような気がする。眼鏡が好きなのと同じ理由。わざわざ依存するためだけに依存する何かが欲しい。人間ってそういう生き物でしょう? 重荷を引きずっていなければ、自分の重さを確認できない。音楽にも依存している。音楽が大好きだし、それに、音楽が無ければ無音を体験出来ない。何にも物質が無ければ、無を意識できないように。

最近の日記

1月26日(金)、
 社会的に穏便に生きていたい、そして人と交わりたい、と思うと、無理をしなければならない。でも、人と話したい。うまく話せなくてもいいから。人との間の壁を、一時的に、もしかしたら錯覚でもいいから、越えてみたい。僕は今、人を騙している気がする。もっと正直になりたいと思いつつ、多分僕の本来の、暗い(そして多分残酷な)部分を人に見せるのが怖い。でも、もう少しだけ生きて、自分を、もっとさらけ出したい。そして受け入れられたいし、僕はやっぱり、愛されたいのだと思う。
 でも、こうも思う。自分はさて置き、自分以外の何かを好きでいられた方が、結局は自分にとっても幸せなのだと。

 

1月27日(土)、
 夜中、全てが遠く感じられる。全て捨てられたらと思う。大切な人間関係以外は、全て。好きな音楽と本以外は全て。

 

1月28日(日)、
 考えてみれば23年間くらい、引き籠もりがちで、他人を避けた生活を続けてきたな、と思う。大抵の期間は鬱状態で、何もせずにぼんやりと考えごとをしている。多分、碌でもないことを考えている。読書もせず、表現もせず、勉強もせず、一体何をして生きてきたんだろう、と思う。何かいつも、光があるような気がしていた。でも考えていることと言えば「死にたい」が八割方じゃないかと思う。

 この間、自殺未遂で入院したときは、酸素マスクを着けられて、点滴と尿道カテーテルを入れられて、その上紙おむつまで穿かされていたらしくて、肺の中の(?)酸素濃度(違うかもしれない)が、僕の祖母が死んだときの数値を下回りそうで、傍にいた母は僕がとうとう死ぬんじゃないかと気が気でなかったらしい。
 CTとレントゲンで見る限りでは、脳にも内臓にも異常が無いし、呼吸も持ち直して来たので、(多分)様子を見ましょうと言うことになって、それで、三日目になって僕は急に目をぱっちりと覚ました訳なのだけど、後々その時の状態について聞いて、そんなに悪かったのか、と自分で驚いたし、もしかしたら一生、脳に障害が残ったまま、言葉も書けずに過ごしていた可能性もあったかもしれない、と思うと怖くなった。例え死にたくなっても、もうODはするまいと思った。死ねるならともかく、後遺症は僕にしても怖い。今、指がきちんと動いて、感覚も感情も確かだということが、奇跡のように思えるし、実際危なかったのかもしれない。
 僕のような死にたがりに、なかなか死ねない身体が与えられているのは妙な気がする。健康に生きていくつもりなら、いつも素直に喜べるだろうけれど。自殺未遂は何回したか思い出せないし、ODやら血がどばどば出る自傷を繰り返し行ってきたのに、何の後遺症も残っていないのを、手放しで喜ぶ気にはなれない。でも、今これを書きながら、書けることがとても嬉しいし、僕は今まで、とても運が良かったと思う。まだ健康な僕の心身を、もう絶望や自堕落や自殺未遂なんかに使いたくはない。もっと大切なことが他にあるだろう、と思う。

 入院中は、医者や看護師の人たちが、本当に心配してくれて、僕の回復を喜んでくれたのが、とても有り難かった、……いや、正確に言えば、今になって身に染みて有り難くなってきて、僕はやっぱり随分と意固地に過ごしてきたと思う。僕にしてからが、周りの人たちを悲しませたくないな、と本気で思い始めている。これはもしかしたら、僕が自分を好きになり始めている、ということのサインなのかもしれない。命のありがたさ、なんてものはずっと考えていなくて、命は重荷でしかなかったのに、今はじわじわと見えるものや聞こえるものたちが、少し感動的なくらいに綺麗に感じられるようになってきた。

 ただ、僕の意固地さや、ひとりでいることを好みながら出しゃばりな部分もあるという狷介さや、図々しさは、無くならないと思う。寂しさばかりは膨らむ一方で、秘かに自分は人並みより優れているはずだ、と自分に言い聞かせたりしている。具体的に考えると、何ひとつ優れてなんかいなくて、そう思うと自信がぺしゃんこになって、卑屈になって、自分を恨んで死にたくなる。生きろという人に反感を覚え、かと言って、死ねという人は最悪だと思う。

 

1月29日(月)、
 今日もまた病院に行ってきた。この頃何度も病院に行っているせいか、外出には少し慣れてきて、……と思ったら、やっぱりひどく緊張して、血圧が、おそらく過去最高の227もあった。脳内で、軽く出血しているんじゃないかと思った。足下がふらついて、指が小刻みに震えた。声もうまく出ない。

 緊張でふらふらしていたので、病院のことはあまり覚えていない。

 

1月30日(火)、
 ダイナソー・ジュニアを聴いている。酩酊感のある、宙の窒素を引っかくようなジャズマスターフェンダー社製のエレキギター)の音。耳触りに近いのに心地良く、その音には間違いなく色がある。乳白色に、微かに黄色みがかった霧のような色だ。黄色はあまり好きな色じゃない。でもエレキギターの音は好きで、何故か僕はエレキギターの音を「黄色っぽい」と表現することが多い。エレキギターの音の黄色は好きだ。ときにそれは青みがかっていたり、赤っぽかったりする(モノクロな音だってもちろんある)。エレキギターほどカラフルな楽器ってあるだろうか? 音色も、もちろんギター本体の色も。
 正直に書くことは難しい。だから「エレキギターが好き」とか、間違いようのない事実から書き始めないと。

 午後は買い物に行った。通院日以外に外出したのは何ヶ月ぶりだろう? 少なくとも今年に入っては初めてだ。去年の暮れにはコンビニに行った。Amazonのギフトカードと煙草を買うために。

 日本の音楽が、好きだったり嫌いだったりする。邦楽にある独特の空気感。信号待ち、アスファルトの罅、水溜まり、電線や、ドアの内側で孤立している感じ。Adoはとても好きだ。

 

1月31日(水)、
 夜中、AppleMusicとインターネットを駆使して、今まで触れたことのないミュージシャンを次々と聴いていた。10人以上の、好みのミュージシャンが見付かった。特にミツキ(ミツキ・ミヤワキ)という人が天才だと思った。他にも、これから好きになりそうなミュージシャンも数人見付けた。すごい。豊作だ。

 

2月1日(木)、
 さっさと生きてしまいたい。悲しいから。
 悲しみが湧き上がってくる時は嬉しい。悲しいのに出かけなければならない時は辛い。部屋にいて、悲しみとだけ一緒にいたいのに。

 夕方、閉店時間に近い美容室に行った。髪をざくざく短く切ったので、少し落ち着かない感じだ。明日、デイケアに見学に行く予定なので、あまり長い髪では、第一印象が良くないだろうかと、気にしてしまった。短い髪の自分を見るのは久しぶりなので、少し違和感がある。鏡を見ると、すごく疲れて自信を失った、知らない誰かみたいな僕が映っている。

 

2月2日(金)、
 午前5時、今日は朝からデイケアに見学をしに行く日なのに、徹夜している。正直言うと、デイケアには行きたくない。しょうもないことで逮捕されて、数日間監獄で過ごすのと、どっちの方が嫌か分からないくらい。

 午前6時、昨夜から、ベッドに入っては、眠れずに起き上がることを繰り返している。誰にも会いたくない気持ちでいっぱいだ。でも、このまま死んでいくのは嫌な気持ちもある。

 午後1時、寝坊した。朝の7時頃に、一時間でも眠っておこうと思って、睡眠薬セロクエルを飲んで横になったら、最近の寝不足も相まって、今日に限って五時間近くも眠ってしまった。多分母が起こしてくれるだろうと思っていたら、母は母で僕が起こしに来るだろうと思って寝ていたそうだ。

 

2月3日(土)、
 ガラスが好きだ。物質は好きじゃないけれど。ガラスの粒。水滴。透過性のある鋭角たちのかそけき光。反射光。
 ひとりの世界が好きだ。ひとりのとき、僕は誰にでもなれる。全てになれる。でも人といると、僕は(他人とは違う)僕として固定されて、僕という枠から出られなくなる。言葉が産まれる場所を探している。でも、……なのに人と話していると、僕の言葉は表面的で、だらだらしていて、僕自身の発言が僕を裏切る。僕は常に変化していて、流れる存在なのに、言葉は発した途端に動かせなくなるからだ。……人との交流が音楽なら、どんなにいいだろう。
 全てが光の歌ならいいのに。全てが光の海ならいいのに。全てがゼロならいいのに。死は、とても優しい。

 こんな晴れた日には、僕は死にそうにない。死を感じるのが好きだ。とても個人的な人間に戻っていきたい。風を浴びて、外で過ごしていたくなるような日。僕にはいつか、美しい日々が訪れるだろう。でも、それにしても僕は、一体何処に辿り着けるのだろう? 春の匂いがする。春みたいな風が吹いている。感情は日々麻痺/摩耗していく。

メモ(まだまだ考え中)

 この世界をプログラミングしている神のような存在がいないとしたら、世界って、ぽつんと孤立して、何の意味も無く存在しているだけなのだろうか? 冬の匂いがして、遠い遠い昔の記憶が胸の奥で疼く。夜には夜の匂いが確かにある。季節感を感じたり、音楽を聴いたり、イラストを見て美しいとか、可愛いと思ったりすることに、別に意味なんて無いけれど、意味も無く綺麗なものたちを、僕はとても大事に感じている。

 僕が何かは分からない。けれど景色は美しい。パソコンのディスプレイの中の世界と、この僕の身体がある世界(現実)を、僕は区別しているけれど、現実だってプログラムされた世界かもしれない。でも多分、この世界を作ったプログラマーはいないだろう。今僕に見えている(と思っている)物たちや、僕の外部にある(と信じている)存在たちが、本当のところは何なのか、僕は全く知らない。
 内面とは何だろう? 僕の内面と、僕の外部の空間を、僕は分けて考えているけれど、その境目は何処にあるのだろう? 本当はただ、感覚と感情と意識だけがあって、他には何ひとつ無いかもしれない。でも仮にそうだとしても、この世界の現実性は全く揺るがない。この世界は実質ゼロで、そしてただ、僕の感覚と意識と感情だけが存在するのだ、と考えても、世界は何ひとつ変わらない。けれど、僕個人の世界観は、大きく変わる。

 僕が素朴に抱えている世界観は、「とても大きくはあるけれど無限ではない宇宙の中に、僕の小さな身体がぽつんとあって、身体の中に脳があって、脳の中に僕の内面(心)というものがあって、そして、僕の心身以外は僕の外部」、という感じ。だだっ広くて複雑な世界の中で、ちっぽけで孤立した僕が混乱している、という図式。でも、それは間違っているかもしれない。僕は広い宇宙の中で孤立した存在なのではなく、この世界に境界なんて存在しなくて、全て溶け合っていて、僕は全てで、全ては僕なんだと考えると、思考が解けていって、気持ちよくなる。

 本当に、完璧に完全に存在していると断言出来るのは、僕の意識と感覚と感情だけだ。例えば今、僕の眼の前には、コーヒーの入ったマグカップがある。でも、そのことをより正確に言うと、「僕の意識は今、『眼の前にマグカップがある』と感じている」というだけのことになるし、手を伸ばしてマグカップに触れば、ひんやりとしているのも、僕の感覚に過ぎないし、コーヒーを飲むと冷えてて、不味いとか、もっと熱いコーヒーが飲みたいな、というのは、僕の感情に過ぎない。本当に、実際に冷えてて不味いのか、それとも、冷えてて不味いと、僕が感じているだけで、本当はコーヒーなんて存在しないのか、僕には分からない。どちらが正しいとしても、僕に見える世界は同じだ。「世界がある」のか、「世界があると僕が感じている」だけなのか、僕には絶対に判断出来ない。ただ、後者の方が面白くて、気持ちいいと感じる。

 よく、人類は皆ゲーム内に住んでいて、シミュレーション(ヴァーチャル空間)を体験しているだけだ、と主張する人がいるけれど、もしそれが完全に真実だとしても、僕が住んでいる世界は実質、今と全然変わらない。眼の前に「本当に」マグカップが存在しているのか、それともマグカップという「情報」だけがあるのか、僕には見分けが付かない。
 世界の全てがヴァーチャルリアリティであるとしたら、その割には、働かなきゃお金が入らないし、身体は疲れるし、お腹は空くし、冬は寒いし、戦争も地震も起こるし、この世がゲームだとしたら随分、人間にとってハードモードに作られてるな、と思う。このヴァーチャル空間を作った存在がいるとして、彼ら(?)は「本当の」世界に住んでいるのだろうか?、とか、人間だけがプレーヤーなのか(例えば猫や犬は?)とか、実証不可能なことが沢山あるし、世界がゲームだとしたら、だから何なんだ?、というところから話が進むとは思えない。

 しつこくて、どっち付かずの文章になっているけれど、僕は、世界がヴァーチャルだとは思っていない。僕の意識や、この世界が、プログラミングで作られたものだとは思えないし、かと言って眼の前の現実が確固として存在しているとも思えない。世界が全て僕の内部であるような、もしくは全てが外部であるような感覚は昔からある。

 ついでに言えば、独我論は間違っていると思う。世界には僕ひとりしかいなくて、他人は全て幻想だ、という考えはおかしいし、危険だと思っている。普通に考えて、例えば僕が今まさに座っている椅子は、椅子職人さんが作ってくれた物だし、この文を書いているキーボードも、日本の工場で緻密に作られた物だ。第一、日本語を作ったのも僕じゃない。
 僕は一日中音楽を聴いているけれど、素晴らしい音楽の数々は、すごいミュージシャンたちが作曲して演奏したのをスタジオで録音したものだし、僕のヘッドホンはタイ、ウォークマンは中国で製造された物だ。大好きなギタリストがいっぱいいる。僕が毎日弾いているアコースティックギターエレキギターは、アメリカで丹念に作られた物だし、ウクレレはメキシコ製だ。地球のあちこちで、今この瞬間も熟練の職人さんたちがこつこつ働いているのは、間違いないと思う。

メモ(不眠)

 ベッドに横になって、眠れずにじっとしていると、すぐ不安に浸されてしまう。胸の辺りに軽い気体が充満してくるような感覚があって、知らず知らず、身体を丸くして、手をぎゅっと握りしめていて、脛の辺りにも力が入っている。不安が不安を呼ぶ。さっき友人に送ったばかりのメールがひどい内容だった気がしたり、宛先を間違えてないか気になったり、両親の不仲の原因が自分にあるような気がしたり、自分には何の才能も能力も無く、ごろごろしているしか能が無いと考えたり、今にも地震が起きて、明日から避難生活をしなければならないかもしれないし、その場合、病院の薬はどうなるんだろうと思ったり、何とはなしにひとりぼっちで、誰からも忘れられたか、嫌われたような気がしたりする。
 お腹のずっと奥の方に真っ暗な空間があって、そこで大きな歯車が回り続けていることをイメージする。手挽きの石臼くらいの速度で、静かに穏やかに回っている。人の気配が消えていくのを待つ。励ましてくれる誰かよりも、一緒に堕ちてくれる誰かを待っているような気がする。自分自身が、いっぱいの友達に囲まれてて幸せ、というイメージが湧かない。世界はとても美しいけれど、寂しくなければ、綺麗なものも可愛いものも、みんな忘れてしまうような気がする。

好き

好きで、好きで、好きな気持ちを抑えられないときは
好きとあなたに言うんじゃなくて、
あなたの力になりたいし、あなたのことを祈るだけで、
私は生きていて、本当に幸せだと感じます。

あなたはどうして私に良くしてくれるのでしょうか?
あなたは人の好き嫌いをはっきり言うのに、
どうして私を好きでい続けてくれるのでしょうか?

私は、私のことなんかどうでもいいからあなたに幸せになって欲しいし、
あなたは、俺の事はいいから君は君自身を心配してくれ、と言う。
私が死のうとしたときも、悲嘆や非難はいっさい抜きで、
無茶はしないでくれ、と言ってくれて、
私は素直に、無茶はするまいと思いました。
そして、そういうあなたに甘えていると思いました。
あなたの言葉は私にとって真言ですが、
あなたが私に無茶を言わないこともまた分かっているのです。
あなたが、ゆっくりしてくれ、と言ってくれれば、
その言葉に寄りかかって、私はいつまでもゆっくり出来るのです。
なのにときどき死のうとする。
あなたから優しい言葉を引き出すために?
優しくされすぎると怖かったりもします。
優しさに、あなたへの好きが、好きでおかしくなりそうな内に、
溶け込むように死にたいと思うのです。

あなたの趣味の話が私は好きです。
何故ならあなたが好きなものたちは私も好きに決まっているからです。
あなたは光を浴びて生まれてきて、光の中で生きていて、
その光に私も包まれるのが、私は好きなのです。

好きです、
でも好きとは言いません。
好きで、好きで、好きで、気持ちを抑えきれなくて、
泣きたいくらいなのが、私の全世界なのです。

好きです。
ぶっきらぼうなあなたの全てが、私は大好きなのです。

気が向いたときに、いつでも会いに来てください。
私の全てをあげられる準備は、いつでも出来ているのです。

日記(通院の日)

1月25日(木)、
 全てを愛したいな。全てを丸ごと。自分の周りに幸せでぼんやりした空間を作ることではなくて(そうしたいと思うことは、多分堕落か、老化なのだと思う)、全てをみんな愛すること、それが僕の望むこと。
 僕はきっと、人に会わなければならない、もっと。だってそうしなければ、人が好き、な感覚を忘れてしまうから。薄れてしまうから。
 僕は精神の病気だ。とても心の異常な部分に苛まれている。何もかもが怖い日々が続いて、人と交わることも、外に一歩出ることも、ほとんど出来なくなっていた。幻覚や躁状態や、それよりもずっと長い鬱状態の中で、自分なりの隔絶されたシェルターを作ろうと、叶わない努力(みたいなもの)を続けていた。まず自分が楽にならなければ。楽、を探していた。
 けれど僕は今、楽なんて無くても、それか楽なんてずっと後回しでもいいと思っている。それよりも愛したい。楽ではない場所かもしれないけれど、愛することの先に、楽しい場所も、きっとあるはずだから。

 それにしても、ああ、何でこうも自信が無いのだろうと思う。

 午後は病院に行ってきた。空気に触れる神経から、内面までがぴりぴり震えるくらい緊張した。血圧は217あった。何なんだ、この今まさに人を殺してしまったみたいな緊張は、と思いながら「いつも高いんです」と、看護師さんに笑って言った。すぐ、「あ、いや、いつもじゃないんですけど、安静時は120くらいなんですけど」と口をついて出そうになって、まごまごしている内に、何か誤魔化しているみたいな気になってきて、謝りそうになって、取り敢えず、服が背丈に合っているか気にしている人みたいな動きをしていたら、「次は採血ですよ」と言われたので、「あ、はい」と答えた。
 誰も僕の挙動不審なんか気にしていないらしくて、だから落ち着けばいいのに、と思っても、何か失敗して、周りの人たちの手はずを狂わせるんじゃないかと感じる。十分自分はまともだ、と思考しても、思考が感情に追いつかない。何も変なことなんか起こらない。看護師さんの手はアルコールを多く触っているからか、少し乾いていて、僕の手よりもずっと寒そうだった。血を抜かれながら、長年病院に通っているのに、看護師さんの名前を誰ひとり覚えていない、と気付いて、名札を見たけれど、待合室の椅子に戻るときには、その名前のことを全然覚えてなくて、自分が馬鹿なんじゃないかと思った。主治医の先生の名前以外は、まるで思い出せない。覚えようとは、毎回思うのだ。待合室の窓から、大きな木が見えて、冬なのに枯れていないんだな、と思った。自分の血のことには何の興味も持てない。
 時計の針の音が気になってしまう診察室で、主治医の先生に、僕が書いた文章を読んでもらった。その場で読んでもらえたのは嬉しくて、けれど恥ずかしくて、先生が僕の文章をじっと読んでいるのを意識すると落ち着かないので、壁の時計ばかり見ていた。本当は針の音はそんなに大きくなかったのかもしれない。その後、やたらと喉が渇いて、覚えているはずの自動販売機の場所まで歩いていったら、見事に迷ってしまって、いつの間にかスタッフさんの事務室(?)みたいなところの前に来ていたり、中央に液晶テレビの置かれている薄暗い広間のようなところに三回も戻ってきてしまって、テレビの前に立っている人と、三回すれ違ってしまった。トイレに行き着いたので、洗面台の前に立って、自分の顔を見たら、大丈夫、怪しい人ではない、と思えたけど、あまりそれが自分に見えなくて、とても怯えている、疲れた病気の人に見えた。
 乳酸菌飲料を無事に買えて、その冷たさを片手に感じていると、自分が少し社会生活をしているような、ほんの少しの安心感を覚えた。

 ディスプレイの明度が脳を落ち着かせる。帰ってきて、レディオヘッドを聴きながら、これを書いている。病院ではニック・ドレイクR.E.M.を聴いていた。さっき家で血圧を測ってみたら150に下がっていた。心拍数は65。まあまあというところだ。少しは安心しているのかな? 分からない。

 来週、デイケアというものを見学することになった。よくは分からないのだけど、大人のフリースクールのような場所なのだろうか? フリースクールには通っていたことがある。精神的な孤児みたいな不登校生たちが、寂しさを通して、寂しい連帯感を保っているような、けれど悪くない場所だった。デイケアもそれに似て、社会と寄り添うようには生きていけない、途方に暮れた人たちが、もしかしたらそこでだけは、自分の存在理由のようなものを感じられるような、人との関係性を、寂しくても少しだけ保てるような場所なのだろうか?、それとも、どうなんだろう……。「さあみんなでダンスをして仲良くなりましょう」みたいな、今までの薄暗い僕の実情とは違う、明るすぎる場所だったらどうしよう、とか、逆に俯いた人たちが、何か諦めているような表情で、みんな仕方なくそこにいて、生きていても関わっていても仕方が無い、という雰囲気で、誰も他人に無関心だったりしたらどうしよう、それとも淡々と、めいめいが席について職業訓練(想像も付かない)を、黙々と行っているような、外で内職をするような場所なのだろうか?、とか、要らない想像をしては、少し不安になっている。
 デイケアの担当の方(自己紹介されたにも関わらず、名前を忘れてしまった)に、月間プログラム、というのを見せてもらいながら、「なるほど」「そうなんですね」と答えながらも、『アルコールミーティング』というのが、飲み会ではなく禁酒のための集団カウンセリングのようなものなのだと気付いたり(がっかりはしなかった)、プログラムの書かれた紙にポケモンの絵などが描かれているのが気になったりしていて、けれどゆっくり説明して頂けたので、僕は担当の方の目を見たり、プログラムに目を落としたりしながら、悪いところではなさそうだし、それにともかく、このまま引き籠もっているのはまずいと思っていた矢先でもあるし、と何となく「見学だけでも行かねば」という方に、心の針が落ち着いた。「金曜日がやっぱり一番若い人が多いですね」と言われて、その金曜日の欄には『節分イベント』と書かれていて、怖いな、と思ったのだけど、「じゃあ、金曜日にします」と答えた。若さと年齢はまるで関係ないと思う。僕は自分がどちらかと言うと年寄りじみたメンタル……世をすねている感じというのだろうか……を持っていると思うので、「若い」ってどういう感じなんだろう?、僕には分からないかもしれない、と一瞬不安混じりの興味を持った。そして後悔みたいな、何かが始まる前の、微かにひりひりするような怖れと不安で、胸の奥がきしんだ。

メモ(入院中につらつらと考えていたこと)

 随分長いこと、論理的に物事を考えようと苦労してきた。まだもう少し、出来れば論理的に、出来れば常識的に、考えられればいいんだけど……。

 この世界には、内側と外側があると考えてしまっていた。でも実際には違う。僕の外に見えるものを、全て内側と言い換えても構わない。あるいは、僕自身が外側にいるのだと考えてもいい。

 今、「僕が考えている」と思っている。でもそれを、より正確に表現するならば「考えている」だけが存在している。「僕」というものは何処にも無い。

 僕は、本に書かれた存在かもしれない。あるいは封筒の中の、誰かが一晩掛けて命懸けで書いた手紙、それが僕なのかもしれない。言葉に命を感じることがよくある。だから僕自身もまた、言葉に書かれた命なのだとしてもおかしくない。言葉は文字の組み合わせだけれど、そこに心を感じる。僕自身もまた、ただの組み合わせで、しかも同時に心を持つ存在だ。そこに違いはある?

 僕は、数ある構成物、つまりこの宇宙全体に存在する全ての物質の、ただの一部なのではない。何故なら、よく考えてみたら、僕と、僕以外の全ての物たちの間に、境界線なんて引かれていないからだ。僕という個体には名前がある。その名前は、例えば住民票にきちんと記載されている。でも、僕という個体とは何か、厳密に考えると、答えが出ない。「僕」という単語が、正確には何を指しているのか分からない。
 風の音がして、何かを思い出す。何か、大切なものを。いろんな思いや考え、感情が僕を通過していく。雨の音が好きだ。もしかしたら雨の音や匂いが大嫌いな人も存在するかもしれない。「雨」と「好き」と「嫌い」、それらは別々のものだろうか? 交錯すらしないもの? もし、世界に名前や言葉がひとつも無いとしたらどうだろう? 雨にも好きにも嫌いにも名前が無い。仮に雨を「……」と表現する。好きも嫌いも「……」と表現する。世界には「……」以外何も存在しない。宇宙も僕も「……」でしかない。「世界」の全てが「……」であるならば。「僕は今、キーボードで日本語を書いている」も「……」で、「ヘッドホンで菅野よう子を聴いている」も「……」。「僕がいる」も「僕はいない」も「……」。……、そんな世界を想像出来ませんか?

 「……」から言葉が産まれ、「……」から音楽が産まれ、「……」から物質が産まれ、「……」から空間が産まれ、「……」から時間が産まれる。「……」に「全て」という名前を付けたとき、「……」から「全て」が産まれる。名付けられた後の世界、つまり言葉の世界に、僕は住んでいる。既に出来上がった「世界」に、「僕」は生きている。ある程度楽しく、ある程度悲しく、ある程度幸せで、ある程度不幸な僕がここにいる、と僕は思っている、と僕は思っている、と僕は思っている、……。でも全てが「……」なのだと、想像することも出来る。「……」だけがあると感じるとき、僕は最高に楽しい。何故なら、全ては「……」に付けられた名前に過ぎないから、「僕」も「キーボード」も「世界」も本当は「……」なのであり、「僕」は、イコール「全て」でもあり得るからだ。名前が変わるだけ。つまり言葉の組み合わせが変わるだけ。言葉は全てを産む。言葉は全てを変化させる。言葉は美しくて、可愛くて、愛おしいもの、それ以上でもそれ以下でも、何ものでもない。過ぎゆく時間、夜中の時間、玄関のドアを開ければ拡がる明け方の空、街、あるいはディスプレイに映るカラフルなものたち、それらがみな美しくないって誰が言える? あるいは美しいと感じることが、そのまま美しいということを、誰が否定できる?

 「……」が全てであるという持論を敷衍するならば、脳が言葉を作る、というのは嘘で、言葉が脳を作っている。僕の中に言葉があるのではなく、寧ろ、言葉の中に僕が住んでいる。脳は、言葉で出来た世界を、切り分けて整理する器官であり、脳には決して「……」は見えない。一時的な脳死状態に陥らなければ、「……」は決して感じられない。でも、ずっと脳死だと、もちろん生きられない。脳のオン/オフが切り替えられたら理想だと思う。
 スイッチを切られたくないロボットみたいに、脳は死ぬことを極度に怖れている。
 ところで、「……」と、「言葉で出来たこの世界」は、その二通りだけあるのではなくて、その間に、かなりいくつもの段階があると思う。魂とか心とかは、言葉より、もう少し深いところにある。言葉が言葉になる前の段階だ。「……」は一番深いところにあるとも言えるし、一番表面にあるとも言えると思う。「……」は「全て」でもあるから、「……」を感じられるときには、全てを見られるのだけど、「……」は、言葉を少しずつ減らしていった先にあるのではなく、寧ろ言葉のど真ん中にいるときに、ふとそこにいる、という感じで分かるものだと思う。「……」から、あらゆるものが産まれる。物理学で言えば、ビッグバン以前の宇宙のようなもの。そこには宇宙は無いし、「宇宙は無い」も無い。「……」から、言葉によって産まれる全て。それは、本当に全ての全てで、言葉になる以前の言葉さえ、やはり言葉によって産まれる。それくらいの広い意味で、僕はここでは「言葉」という単語を使っている。全てを産み出す、魔法のスペルとしての言葉。魔術や神ではなく、言葉こそが全ての創造主だと思ったりもする。同時に、そこから創造された全てのものたちもまた、言葉だと思っている。
 「……」を僕は愛している。同時に「言葉」も、すごく愛している。「愛」とは例えば、ある何か/誰かを、他とは違う、不可侵で価値あるものとして、尊重することだと思う。そして、自分自身を絶対に手放さないことだと思う。そして「言葉」によって産まれたものたちを、出来る限り細部まで、よく観察したり、よく感じることだと思う。言葉を愛すること。それが、言葉の前提としての、言葉になる前の言葉を感じるための、一番の近道だと思う。さらにその前提としての「……」には、言葉になる前の言葉をも受け入れ、愛することによってしか、辿り着けないんじゃないかと思う。
 何故なら愛とは、完璧に自分自身でありながら、同時に自分以外のものを知りたいと願うことであり、また愛とは、他の何かや誰かのことを深く感じようと意識し、その存続を祈ることだからだ。自分をほったらかしにしていては、何処にも行けない。でも逆に、自分にだけ拘って、自分以外を蔑ろにしていたら、自分が最初に滅びる。自分と他人は、文字通りの意味で繋がっている。何処にも境界線は無い。……