最近の日記

2月22日(木)、
 自分に期待する気持ちは、本当に即座に落胆に変わる。朝、とても寝覚めがいい時なんかは、僕は本当に何でも出来ると感じる。それで、喜び勇んで英語の勉強や、ギターの練習などを始めるのだけど、ほんの少し時間が経つと疲れてきて、あっという間に「何にも出来ない。駄目かもしれない」と思って、何もかも放り出してしまう。寝逃げしようと思っても、もう眠れない。

 

2月23日(金)、
 いつか僕の心臓をなだめることが出来るだろうか?

 

2月24日(土)、
 部屋の壁紙を貼り替えた方がいいのかもしれない。天井には僕の手形が付いていて、何だか事故物件みたいだ。僕が自殺したら、この部屋には幽霊が出ると噂されるかもしれない。でも大丈夫だ。僕は幽霊にはならない。この世に恨みを残すような性格じゃない。僕は誰ひとり恨まない。それは僕に残された、数少ない美徳のひとつかもしれない。
 僕はパソコンで書く。夜に、影が踊り出すような時間に、書く。本当はタイプライターで書きたいけれど、持っていないし、和文タイプライターは、あれをタイプライターと呼んでいいのか分からない。美しい機械だとは思うけれど。機織り機みたいで。機械の蝶みたいで。そして僕は日本語でしか書けない。英文や仏文のタイプライターで書くのが、いつかの夢だ。
 天井の手形は、僕が自傷した時に、ハイになって、血でべとべとの手をなすりつけたのが、時を経て黒くなったものだ。

 

2月25日(日)、
 昼間、僕はガラクタみたいな気分になる。インクの切れたボールペンとか、乾燥したプランクトンの標本みたいに、黴臭い世界の隅で麻痺して、心は埃で埋もれている。

 

2月26日(月)、
 ここ数日ほとんど眠っていない。毎日、朝から晩までギターを弾いていた。青葉市子の音楽に出会ってから、ギターを弾くことと歌うことが格段に楽しくなった。こんなに自由に演奏していいんだ、って。彼女の歌を聴いて、音楽には規則や制約なんて無いのだと、初めて知った気がする。音楽理論はあっても、そんなの無視してよくて、自分が気持ちよく弾けるなら、それでいい。そうすれば、気持ちいい音は、結果的に理論にも適っているのだと思う。ギターを弾き過ぎて指先が痛くなってくると、音楽を聴く。

 朝早く、また父と口論をしたのか、母が家出をした。大荷物を抱えて出て行ったし、東京に行くと言っていたから、多分少なくとも五日間は帰ってこないんだろうな、と思う。夜、父とふたりきりで過ごさなければならないと思うと、憂鬱でならない。僕が住んでいる地域は、東京からは大分遠い。
 せっかくだから、東京の白山眼鏡店で、ずっと欲しかった眼鏡を買ってきてもらうことにした。白山眼鏡店は、通販をしていないので。
 もうひとつ憂鬱なのは、母が帰ってこなかったら、来週は、病院にひとりでタクシーで行かなくてはならないことだ。僕はタクシーがものすごく苦手だ。

 買ってきてもらうつもりの眼鏡は、ジョン・レノンが、もしかしたら掛けていたかもしれないモデルだ。白山眼鏡店のサイトにはこう書かれている。↓

『当時、白山眼鏡店では毎年数本の新作をデザインしていました。そんな話をジョンにすると、「僕用に各アイテムを取り置きしてくれないか」と思わぬ言葉が返ってきました。それは願ってもないことで、許されるならその場で飛び上がりたいほどの歓喜の瞬間でした。翌年の夏の再会を約束して、白山眼鏡店はジョンをイメージした新作に取り掛かりました。ジョンにかけてもらいたい……その一心でイメージの翼が大きく広がっていきました。完成したモデルは、ジョンのミドルネームにちなんで、ウィンストンと名付けました。』
(白山眼鏡店HPより)

 結局ジョンは、完成した眼鏡を掛けることなく死んでしまったのだけど。何となく、この眼鏡を掛けることで、ジョンの跡を継げるようで夢を感じる。何故かあまり人気の無い(検索してもあまり出てこない)眼鏡なのだけど、白山眼鏡店の他の眼鏡よりも、デザインがいいと思う。実際に生前のジョンが掛けていたのは、メイフェアというモデルで、時々復刻されているのだけど、高いし、おそらく僕には似合わないだろうと思う。デザインの主張がやや強い眼鏡だからだ。あと、ジョンが愛用していたのは鼈甲柄の眼鏡だけど、僕は黒縁の眼鏡が好きだ。

 ジョンは来日した際に、たまたま白山眼鏡店の眼鏡を見かけて、いたく気に入ったらしい。それで僕は白山眼鏡店にはずっと憧れていた。他にも多くの有名人が白山眼鏡店を贔屓にしているらしいのだけど、それは僕の憧れにはあまり関係ない。
 今、僕が掛けている眼鏡もまた、Oliver Goldsmithというブランドの、ジョン・レノンが一時期掛けていたのと同じ種類のモデルだ(ただし、画像検索してもOliver Goldsmithの眼鏡を掛けたジョンの写真が見付からないので、本当に掛けていたのかは分からない)。正確にはジョンの眼鏡より、レンズの横幅が2mm広い限定モデルで、こちらの方が僕に合うと思って買った。ジョン・レノンにあやかっているのは確かだけれど、ジョンと僕とでは好みが違っている。ジョン・レノンのことは大好きだけど、僕はジョンのコピーになりたい訳じゃない。

 僕が産まれてから一番最初に好きになったミュージシャンがジョン・レノンで、彼の歌は全部好きだし、もし眼鏡を掛けるなら、ジョンと同じ眼鏡にしようと、子供の時から決めていた。ジョンの佇まいはとても自然で、特に眼鏡を掛け始めてからのジョンは格段に格好いいと思ったし、眼鏡を掛けるだけで内省的な雰囲気を身に纏うことが出来るので、僕自身も、眼鏡を自分のアイデンティティの一部にしたいと思い続けてきた。数年前にやっと近視になって、すごく嬉しかった。
 ジョンと言えば丸眼鏡だけど、画像検索すると、意外にも本当に真ん丸の眼鏡は、あまり掛けていない。僕が今掛けている眼鏡は、レンズが楕円形だし、白山眼鏡店の眼鏡は、丸眼鏡とはかけ離れたセルロイドの、まるでジョニー・デップが掛けているようなデザインのものだ。

 今朝、母が出て行った後の居間で、しんと虚ろな気分でいて、両親の子供っぽさに呆れたり、母を羨ましく思って少し腹が立ったりしながら、しばらく何にも手に付かなかった。ぼんやりしたまま、まだ全然買うつもりじゃなかったギターを、ネットで注文した。青葉市子が、デビュー前から15年以上も使い続けているヤマハのミニクラシックギターが欲しかったのだけど、サウンドハウスでは売り切れだったので、少し迷って、コルドバというブランドのミニクラシックギターを注文した。ヤマハのとサイズが同じで、しかも僕の好きなオールマホガニー製なので、こっちの方がもしかしたら、好きな音が鳴るかもしれないと思った。
 エレキギターや、今持っているジャンボサイズのアコースティックギターは、いい音なんだけど、とにかく取り回しが悪い。大きくて重くて、特に二階から一階に持っていくときは、壁や階段にごんごんぶつけてしまう。弾きたいときにすぐ手に取れるミニクラシックギターは、すごく便利だし、青葉市子のギターを聴く限りでは、ちゃんと粒の揃った音が鳴るみたいだ。特に、小さいのに低音が豊かだと思う。普通のクラシックギターと比べても、全然遜色のない音がする。ミニと言っても、弦長が普通より5~7cm短いだけなので、音がそう変わらないのは当然かもしれない。でも、それだけでも、持ったときの感じは大分小さくて、外出にも気軽に持って行けるサイズなのだそうだ。

 

2月27日(火)、
 一日中ギターを弾いていた。昼過ぎにミニクラシックギターが届く。すごく出来がいい。ミニだからって手を抜いていないのが分かる。最初、4弦のペグの調子が悪くて、回すとぎしぎし音が鳴っていたのだけど、何度も回していたら治った。中国製だけれど、日本製やアメリカ製と言われても分からないくらいだ。以前にも中国製のギターを持っていて、それもとても作りが良かった。とても真面目な中国人の職人さんが作ってくれたのだと思う。
 ミニクラシックギターウクレレに近い大きさで、弦がゆるゆるなんだけど、部屋で弾き語りをするのには十分な音が出る。持ち運ぶのには本当に便利な大きさだし、練習や作曲をするのにも使えると思う。さすがに金属弦のアコースティックギターには、音量も音の良さも適わないのだけど、夜中に弾くのには丁度いいし、これはこれで可愛らしい音がする。音が重厚すぎないので、例えばボサノヴァを弾くのには、寧ろ適していると思った。
 僕が買ったのは、フレイムマホガニーという、白い木材を使ったギター(マホガニーは通常、濃い褐色)だったのだけど、きちんとマホガニーの音が出るのも良かった。マホガニー製のギターは、少し硬めの、粒立ちのいい音がすると思っていて、特に単音を弾いたときに、微かに「カキン」という感じの、金属っぽい響きが混ざるのが、本当に好きだ。
 もう少し弦のテンションが強い方が弾きやすくて、いい音がするのではないかと思ったので、サバレスというブランドの、硬めの弦を注文した。サバレスはクラシックギター用の弦の老舗中の老舗で、ガット弦(牛の腸を使った弦)の時代から、何と250年以上も弦ばかり作り続けているらしい。金属弦も作っているので、以前試しに買ってアコースティックギターに張ってみたら、驚くほど音が良かった。それまでは弦なんて、どれも大体同じだと思っていたけど、サバレスの弦には違いを感じた。今はエレキギターにもウクレレにもサバレスの弦を張っている。すごい老舗の割りに、知る人ぞ知るブランドという感じで、レビューの数も本当に少ないのだけど、使っている人からの評価は、概ねすごく高い。
 ギターのことに話を戻すと、ミニクラシックギターは、普通のギターの代わりとしてではなく、メインの楽器として十分使えると思います。素晴らしく良く出来たギターです。

 コルドバのミニクラシックギターサウンドハウスでは、Amazonより3千円安くて、しかも最初から、かなりしっかりしたケースが付いていました。Amazonでは見たところ、同じケースを別途2万円で買う必要があるので、サウンドハウスの方が断然お得です。でも、サウンドハウスでは、僕が買ったモデルの在庫が残り1点になっていて、しかもポイントも考慮すると、一気に6千円も値上がりしたので、ケースが要らない方は、今はAmazonの方が、若干安く買えます。ちなみにAmazonの在庫も残り1点のようです。もしかしたら生産終了したのかもしれません。(広告を貼ろうと思ったのですが、サウンドハウスの商品はURLしか表示出来ないみたいです。コルドバ(Cordoba)のMini II FHMというギターです。)(すみません。後日(3月7日)Amazonの当該ページをよく見たら、Amazonで買っても、ちゃんとケースが付いてくるみたいでした。)

↑真ん中がCordobaのMini II FHMです。ギターよりはウクレレに近い大きさです。

 

2月28日(水)、
 今日は殆ど何も書かなかった。何も書かないでいると、自分の身体が空洞だらけになってしまったような気がする。

 

2月29日(木)、
 ひどい眠気の中で、小説風の断片を書いた。続きを書く気が起こらないので、日記代わりにここに記しておく。↓

 『涼城恋羽は、そして狂っていた。夜だった。机も窓も、そして恋羽の足に降る雨も、彼女の身体もみんな夜だった。僕の内臓も、満遍なく、朝が来るまでは夜だった。彼女は雨の服を着ていた。
 切なさの速度で口を開ければいいのにな、と僕は思っていた。切なさの含有量が、言葉を震わせる内に、心を言葉に出来れば。その波長が同調すれば、僕たちはきっと上手く行くのに。彼女は乖離していた。まるで死んでいるみたいだった。
 僕は椅子に座っていた。右足を上にして組んで。そして、ナイトテーブルの上のノートパソコンを前にして、今これを書いている。
 恋羽の滑らかな足が見える。雨は降り続けている。雨は半開きにした窓から、カーテンの網目をすり抜けて、ベッドの上の彼女に、夜そのもののように降り注ぐ。彼女は麻の枕を腰の後ろに当てて、上半身を起こし、眼を僕の方に向けている。そして僕を見ていない。彼女の視線は僕を滑り、僕を透過し、……そしてまた、彼女の眼にも僕は死んでいるもののように映っているはずだ。何故ならキーを叩きながら、僕もまた、ここにはいないからだ。
 いつも遺書だ。けれど同時に、僕は誰も死なない世界で、言葉を書いている。あ、また「入った」と思う。もう誰も死なない世界へ。すべてが死んでいる世界へ。
「ねえ、涼城さん」
 僕は問うてみる。』

 ↑すごく読みにくい。もう少し肩の力を抜いて小説を書けないだろうか? まあまあ言語力が戻ってきたと思うので、そろそろ小説を書きたいと思っているのだけど。

 

3月1日(金)、
 小説を書こうと思って「祈理は本心から死にたがっていた。」と書いたあと、一時間くらいぼんやりしていた。世界観やプロットなどをいろいろ考えるのも面白いかもしれない。短編は、書けるときには、さっと書くことが出来るけれど、長編に挑戦してみたいと思うので。

 

3月2日(土)、
 明日の夜、母が帰ってくるそうだ。眼鏡も買ってくれたらしい。明後日が僕の通院日なのだけど、もし母が帰ってこないなら、僕は病院になんか行かない、と子供みたいに駄々をこねたから、仕方なく帰ってきてくれるのかもしれないけれど。まあ、薬が無いとすごく辛いので、母がいないならタクシーで行くとは思うのだけど、以前やはり母が家出をしていたとき、タクシーに乗ったら、それだけでどっと疲れて、その日一日ぐたっりとして何にも出来なかったので、出来ればもうタクシーには乗りたくない。
 本当は、自分で車を運転して通院するのが一番いいと思うのだけど、僕は車の運転が文字通り致命的に苦手で、自分が怪我をするならまだしも、人身事故を起こしたらと思うと、怖くて運転できない。今は頭が大分回復してきているので、もしかしたら運転も出来るかもしれない。でも、数年前に、反対車線に停まっていた車にブレーキ無しで突っ込んでからは、あそこにもし人がいたら、と思うと、登校中の小学生の列を轢いてしまった、というニュースが人ごととは思えなくて、僕は一生運転をしない方がいい、と思ってしまう。

 このところ、あまり文学的な気持ちになれない。つまりは「これが自分だ」という静かな気持ちになれずにいる。毎日数時間は読書をしているし、音楽は四六時中聴いている。けれど、何処かそわそわして、上の空な部分があって、ベッドに横になると、天井が回って、壁が近付いてくるような、幻覚が起こりそうな恐怖を感じる。幻覚とは、起きたままで見る夢のようなものだと思う。しかも大抵は悪夢だ。
 これが自分、という気持ち。ひとりきりの静かな時間に一番近いのは、詩だと思う。中原中也の詩をゆっくりと読んでいると、懐かしい、そして遠いような気持ちを思い出す。
 最近は西脇順三郎の詩を読むのもとても好きだ。彼の詩集を初めて買ったのは、もう4年以上も前で、最初は面白さが全く分からなかった。けれど何か引っ掛かるものがあって、一週間に一度くらいのペースで、彼の詩集をぱらぱらと捲っている内に、彼の詩は、解釈されることを拒んでいると感じた。ごちゃごちゃした気持ちで読むと、ごちゃごちゃした詩にしか見えないし、静かな気持ちで読むと、静かで、心にしんと馴染む詩として読める。
 西脇順三郎の詩は難解だ。難解、というのは、解釈するのが難しいという意味ではなく、何も考えずに、書かれたことを文字通りに読むことが難しいという意味だ。すごく魅力がある。彼と同世代の詩人だと、朔太郎や室生犀星三好達治北原白秋なども読んだし、『海潮音』や『月下の一群』(二つとも訳詩集)も読んだけれど、ほぼ何ひとつ記憶に残っていない。もちろんそれは彼らの作品の文学的価値とは全然関係が無くて、僕が求めるものがそこには無かったというだけだ。教養だとか文学の歴史とか時代の空気に関係なく、そして世間の人々が抱えているであろう感情にも関係なく、端的に自分の世界を独白してくれる詩が好きだ。読者に与える効果をわざわざ考慮していない詩も好きだ。孤独を感じる詩が好き。
 宮澤賢治の詩は、長年愛読しているけれど、まだ分かったとは言えない。その間に、西脇順三郎の詩には、ぐっと近付けた気がする。「好きだ」と思うと、その人の詩を全部読みたいと思う。賢治の全詩集は一応持っているけれど、『春と修羅』より後の詩は、まだ何となく、読んでいて辛い感情が湧いてくる。西脇順三郎は、85歳で最後の詩集を出版するまでの、どの詩を読んでもわくわくする。その後、88歳で亡くなるまでの詩もあるはずだから、いずれ読めたらいいと思う。彼の評論集や訳詩集も読みたいのだけど、買うのを後回しにしている内に、すぐに絶版になってしまって、中古でべらぼうな値段が付いている。詩集はもう七冊も買ってしまったのだけど。

 

3月3日(日)、
 西脇順三郎の詩がとても好きだ。古本で買った1971年版の『西脇順三郎全集』のI巻とII巻を持っているので、彼の詩は殆どそれで全部読めるのだけど、1979年刊の『人類』という詩集は、もちろん収録されていない。西脇順三郎はあまり人気が無いのか、その後、全集は出ていないし、『人類』も再刊されていない。『人類』には1200部の「限定版」があって、すごく欲しかったのだけど、ものすごいレアだろうし、高価だろうと思って、今まで探したことも無かった。「普及版」の方は持っている。本当に好きな詩集だ。
 昨夜遅くに何気なくAmazonで『人類』の古本の出品を見ていたら、何と「限定版」が2000円で売られていた。今すぐ買おうにも、Amazonのポイントの残高はゼロだし、母はまだ家出中なので、ギフト券を買いにコンビニに連れて行ってもらうことも出来ない。そうそう売り切れる物でもないと思うけれど、もしかしたら誰かが見付けて今にでも買うのではないかと思うと、気が気じゃなくて、頭の中がそのことでいっぱいになってしまった。何しろ全国には一億人以上いるのだ。その内のひとりが、西脇順三郎のファンで、「限定版」をたまたま見付けて、今日明日にでも購入するということが、絶対に無いとは言い切れないではないか。
 コンビニは一応歩いて行ける距離にあるので、真夜中にとぼとぼギフト券を買いに行こうかと思ったのだけど、すごく寒いので、駄目もとで父の部屋に行って、映画を見ていた父に、コンビニに連れて行って欲しいんだけど、と頼んでみると、じゃあ今から行くか、と返ってきたので、すごく驚いた。まず間違いなく断られるか、明日時間があったらな、と言われると思っていたので。
 それで、今日、日付が替わってすぐの頃に、父の運転する車でコンビニに行って、ギフト券を買ってきた。外気温は2度しか無くて、車の中でも寒く、しかも父はジャージしか着てなかった。寒い寒いと言いながら、僕に文句のひとつも言わずに、真夜中に車を出してくれた父には、本当に感謝の念しか無い。帰宅してすぐパソコンを開いてチェックしたら、当然のように『人類』の限定版はまだ売れてなくて、無事に注文することが出来た。ほっとした。これで僕が持っている西脇順三郎の詩集は八冊になる。一番目立つところに西脇順三郎の詩集を並べていると、本棚から水の音が聞こえてきそうだ。背表紙を眺めているだけで胸が軽くなる。

 夜、母が帰ってきた。えらく上機嫌だ。早速、白山眼鏡店の眼鏡を出してもらって掛けてみたら、想像通りだった。おそらく僕に似合っている。出来れば近日中にレンズを入れてもらおうと思う。今日はギターばかり弾いていたけれど、他にはあまり何にも集中できなかった。とても疲れている。早く寝てしまおう。おやすみなさい。