メモ(死と共に)

とにかくよく読むしかない。そうすれば言葉は、いずれ僕の奥底を掬って/救ってくれるかもしれない。書けるかもしれない。

昔の人は(昔の人がいるとすれば)(その当時の人にとっての)「今」の柔らかさを書こうとしたに違いない。多分、何万年も前から、人々は言葉を話していたし、多分、今と同じような雨が降っていたのだろう。けれど大昔の雨には、共感する余地も無い。この頃、日本語を積極的に好きになってきて、古典も読んでみている。やはり文字として本が残っているっていいな、と思う。

最近、書くのがとても楽しくなったり、何も書けなくなったりする。

万葉集』の「田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」、という短歌は、僕はとても美しいと思う。「田子の浦ゆ」というのは「田子の浦に(向かって)」という意味だそうだ。「美しい和歌がある」、とは思わない。何故美しいのか分からない。私は「和歌の美しさ」を何故か感じる。感じている自分を訝る。すごくつまらないことを書いているのにな、と思う。和歌の美しさを感じるというか、和歌を美しいと感じている自分を感じる。

僕は愛される夢をよく見る、、、夢から覚めて冷たいベッドで、「愛される」なんて言葉とは無縁な朝、僕は生きていく方途を失って、本当に、色の無いため息を吐くだけ。そして起き上がり、思考する。起きて少し時間が経って、少しの幸せを感じる。言葉が好きだから。それから、音楽がとても好きだ。ヘッドホンを付ける。僕はどこかへ行ける。どこか、でもそれは生活の壁を超えない。超えたこともあったかも。今、僕は楽しくても楽しくない。音楽は、頭の中で揺れる。街を遠く感じる。心臓はそれとは関係無しに、生命を単純に維持してる。灰色に。灰色に、僕は沈む。拘束されている。

人って何故生きるのだろう? そんな簡単な、中学生みたいな問いにしばしば引っかかる。そしてその度に死にたくなる。私たちは地球という、とてもローカルな國に住んでいる。
何故生きる? 私に心があるなら、人間皆におそらく心があるはず。人間に心があるなら、宇宙の全てにも、心はあると思う。

僕は詩が好きで、言葉が好きなんだなと思うと安心する。言葉は僕の中にあるかもしれない。でも詩の言葉はいつも、向こう側にあるように感じる。それは同時に僕に寄り添っている。ぼーっと本棚の前の椅子に座っていて、ドアノブを眺めていると、「真鍮だな」と思う。真鍮という言葉が好きだと思う。それは僕の中から出てきたと言うより、やっぱりドアノブから出てきたと思うんだ。

言葉が妄念だと言うなら、それでもいい。妄念に付き合おうと思う。老荘や、仏教の偉い僧は、言葉は妄念だって言う。言語が脱落した世界。僕はそれにとても惹かれた。時計も本も苺も机も同じで、ものすごくフラットで、分け隔ての無い世界。そこに溶けていける。チベットのお坊さんが瞑想するときには言語野の働きが抑えられていて、妄念が無いから、宇宙と一体化したように感じられるのらしい。すごく気持ち良さそうだし、多分、全てが分かるんだろうと思う。

生きているといろいろある。「いろいろある」としか言いようがないし、いろいろあるのが人生だ。人との関わり合いで、誤解や伝わらないことっていっぱいある。もし誤解が無くて、全て綺麗に伝わるなら、多分人生なんて無いと思う。結局のところ、言葉の有用性と限界の内に、僕は生きているのだし、言葉に限界があるから、人は、永遠に言葉を書き続けなければならない。植物とか、街灯みたいに、ただ寡黙に突っ立っていても人生なんて生まれない。宮澤賢治の童話でも、信号機が言葉を持てば、信号機同士の会話や、行き違いが生まれて、そこに喜びも、不安もまた生まれる。黙っていられないからひとりの人間の歴史があるし、人間全体の歴史もある。隠遁して、誰とも話さないのがいい、という老荘の理想だって、美徳として詩で語られる。そして、本当に黙っていた人は、消えてしまった。

話はずれるけれど、この文章を書いていて、急にどっと落ち込んだ。何の前触れもなく、生きている意味が分からなくなる。死ぬこと以外考えられなくなる。でも、その憂鬱は、また何の前触れもなく収まった。たまにすごく憂鬱になるからこそ、元気になったとき、生きていたい気持ちが湧いてくることの有り難さを、強く感じるのかもしれない。

鬱状態には、なってみないと、その辛さは分からないし、僕自身、鬱が晴れると、辛かったことをすっかり忘れてしまう。今日は、たくさん薬を飲んで首を吊ろうと思った矢先、気分が急に良くなった。ウォッカを大きなグラスになみなみと注いで、溜めてあった薬と2週間分の処方薬と一緒に、今にも飲もうとしたところだった。

この頃、言葉について考えていると、僕はきっと、言葉を粗末に扱っていたから辛かったんだろうな、なんてのうのうと思って、それを疑いもしなかった。自分が十数年ほども、ひどい鬱だったことを、すっかり忘れていて。音楽も聴けずに、ただひたすらベッドの上で死にたさに堪えていたことも、10年間の記憶が殆ど無いことも、元気なときは、何でも無いことに思えてしまう。

西脇順三郎が好きだ。彼はものすごい博学で、数カ国語で、外国の人がびっくりするくらい、いい詩を書けたらしい。慶応大学で文学部の教授をしていて、詩でも論文でも、大きな業績を残した人だ。長生きをして、85歳で書いた詩集に至るまで、全てが素晴らしいという、詩人としては、とても稀有な人だ。だから、風来坊みたいに出鱈目な生活をして、狂気に陥りながら、奇跡みたいに天国的な詩を、生と死のぎりぎりのところで遺した中原中也とは正反対みたいなんだけど、僕は、両者に似たところを感じる。読んでいて懐かしい。僕が死ぬときになっても、やっぱり彼らの詩を懐かしく感じるだろう。……まさに死ぬという時になって、急に魅力が色褪せるような本は、生きている間にだって、どうせ本当には魅力を感じていない。生きている間には、質のいい暇つぶしや趣味が重要なように思えてしまうかもしれない。でも本当は、誰もが今まさに死に続けているし、すぐにでも死んでしまうかもしれない。だから、暇つぶしなんて過ごし方はあり得ないんだ。

心が透き通るくらい、ひとつの石を磨いていたい。僕の心に必要なことは、例えば卑弥呼とかの時代に、一生をかけて銅鏡をぴかぴかになるまで磨くことに人生の全てを懸けていた人の仕事みたいなものじゃないかと思う。難しいことも、コンプレックスも、感情の絡まりにぐるぐる巻きにされることも無くて、ただ言葉とか、音とかを、磨き続ける。透明になるまで。刀鍛冶の仕事でも、まだ複雑すぎるくらいだ。自分の為だけに鳴るような、内気な音のギターがを弾いていたい。

僕たちは死と共にいる。

シンプルな、シンプルな生き方をしたい。