日記(青葉市子のこと、憂鬱のこと)

2月18日(日)、
 やわらかい、水のような気持ちに辿り着きたい。

 今朝また音楽をいろいろ発掘しようと思って、二週間前にすごく好きになったミツキから繋がるミュージシャンを延々聴いていたら、何人目かで青葉市子の名前が出てきたので、久しぶりに聴いてみようと思った。以前、一度だけYouTubeで彼女のライブ映像を見たことがあって、でもそのときの印象は全然残っていなかった。なのであまり期待せずに聴いたのだけど、イントロの不思議な音選びがとても好みで、歌声がすうっと身体に馴染んできて、一番が終わるときには、すごい、天才だと思った。
 ほとんどの曲が、ギターの弾き語りなのだけど、どの曲にも独自の個性と、音の拡がりがある。
 ギターの伴奏が、とてもメロディアスだったり、歌の引き立て役に回って、とてもシンプルな単音弾きになったりして、聴いているとギターを弾きたくなった。何曲か聴いていると、不思議な気持ちになった。どの曲も、単純に明るい/暗いとは言えなくて、仄明るい世界を届けてくれる人だと感じた。
 以前彼女の歌を聴いたときは、おそらく音楽を聴いても何にも感じなかった時期で、ドラムが無いから入れない、とか、とても寂しいことを考えてスルーしたんじゃないかと思う。僕はまだ完全には回復していないと思うけれど、今は音楽からとても多くのものを受け取れるようになってきたと感じる。嬉しいし、それ以上に有り難い。

 心を空っぽにして耳を澄まさなければ感じ取れない、そのぎりぎりのところに、一番心に近い音があると思う。自己主張の音ではなく、心の震えのような音。そっと拾い上げなければ他の音に紛れて消えてしまう、心そのもののように不安定で不定形な音。その音は、詩の言葉みたいにとても儚いけれど、それ故にこそ、きちんと正確な場所を与えられたときには、とても強い力を持つ。
 青葉市子は、そんな音たちをひとつひとつ拾い上げては、あるべき場所にそっと流しているようだと思った。彼女の音楽の世界観は広々としているのに、隅々までひとつの色合いや心の流れで統一されていて、同時に、まるで僕自身の心を語ってくれているみたいな、個人的な親しみ深さを感じる。その世界には、光と水と影が同時に含まれていて、柔らかでふんわりしているようにも聞こえるのに、同時にとてもくっきりとした彼女の心の確かさを感じる。
 ギターの音が景色だとしたら、彼女の声は、そこに吹く風や、鳥や、草や、動物や、悲しさや優しさ、生と死、などを率直に物語る、音楽の世界にずっと前から住んでいる語り部みたいだ。そして、物語りながら、全てに命を与え、聴き手にまっすぐ届いてくる風のようだと思う。そして、僕にとって(個人的に)大事なのは、彼女の音楽は幻想的なのに、その歌からは、生きていて、生活している彼女自身の声を感じるところだ。

 ……青葉市子の歌については、僕にとっての懐かしすぎる記憶について語っているみたいで、全然的確に書けない。僕の普段の生活の中では見えないものが、彼女の歌にはあるのだけど、それはもちろん、単純にギターと歌が上手ということとは殆ど関係が無い。ギターは半端じゃなく上手くて、とんでもなく練習したのだと思うし、歌声の美しさもまた、才能と努力に拠るものだと思うけれど、でもそれだけじゃない。とても失われやすくて、一番大事なのに、僕はすぐに忘れてしまう何かが、彼女の歌にはある。それだけ覚えていれば、他には何も要らないのに。

 

2月19日(月)、
 ……

 

2月20日(火)、
 ……

 

2月21日(水)、
 昨日と一昨日は、何もやる気が出なくて、憂鬱で、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしていた。一昨日は全く何も食べず、昨日は夕食(ハンバーグ)だけ食べた。Bluetoothでずっと音楽を聴いていると、夢と現実の境目が曖昧になる。散らかった部屋を見ると気が滅入るので、美しい家に住んでいるんだ、と思い込もうとしていたら、何となく住みたい家のイメージが湧いてきて、これからの行動次第ではそんな家にも住めるんだなと思うと、少し憂鬱が安らいだ。現実逃避なのかもしれないけれど、現状の鬱屈に沈むのは全然得策ではなくて、嘘でもいいから、素敵なことを考えていた方がいい。現実には、どうせすぐに戻って来なくてはならないのだから。
 憂鬱は難敵だ。起き上がると不安を感じて、不安を感じていない自分というものを想像出来ない。いい加減ずっとベッドに横たわっていたら、身体が痛くなってきたし、気分もまあまあ回復したので、昨夜の夕食前に起き上がった。夕食を食べるとまた、主に身体がしんどくなってきたけど、もう一度眠るのは無理そうだし、胃薬だけを飲んで、そのまま今朝まで、英語の本をぱらぱら読んだり、詩集や小説を日本語で読んでいた。フランス語を勉強したいと思っているけれど、毎日後回しにしていて、三年間ほども基礎的な部分で頓挫している。詩を読めるのは、調子がいい証拠だと思っていて、特に今朝は、個人的に難解な部類に入ると思っている西脇順三郎の詩を楽しめたので、うん大丈夫だ、と思った。青葉市子の音楽をたくさん聴いた。昨日と一昨日はベッドの上で、主にバッハを聴いていた。

 ヘッドホンがウォークマンに繋がっている。ヘッドホンを着けた僕は、音楽と繋がっている。ウォークマンはまた、コンセントに繋がっているので、僕は発電所とも繋がっている。辺境にある原子力発電所。元を辿れば核融合の産み出したエネルギーで、僕は今、音楽を聴いている。電気の中。ウォークマンの中の0と1。音楽に生かされている。
 音楽はいつも、現在時刻とは関係ない場所にある。バッハを聴いているからって、400年前に書かれたバッハの楽譜と繋がっているだけじゃない。僕は今、日本時間では、2024年2月21日の午前4時54分26秒にいるらしい。電波時計なので、おそらく秒単位で正確だ。けれど時刻は人間が、道具として便宜的に規定したものに過ぎない。本当は、今には時刻が無い。

 瞑想的な境地もいいんだけど、僕は社会的な感情が大好きだ。例え宇宙の全てを感じられても、そこに生活感情が欠けていたら、それだけで、大切な何かが抜け落ちていると感じる。それがたとえエゴイスティックで、ちっぽけな感情であっても構わない。この生きている現実の中で、きらきらした美しいものに出会いたい。

 苦しくてもいいから、答えを知りたいと思っていた。幼い頃から、長いこと。多分、最近まで。先月にもまだ、答えばかり探していた。だって、生まれてきて、生きてきて、答えを知らずに死ぬことなんて出来る?
 今は、少し考え方が変わっている。でも、具体的にどう変わったか書くには、今日は疲れすぎている。

 この間、僕と音楽の関係、今、一日中音楽を聴く以外に何をしているのか、そして音楽を聴けなかった、長い長い期間、一体どうやって生きてきたのか、考えてみようと書いたけれど、それもまたうまく書けない。ともかく今、僕は音楽と不可分の存在として生きている。それだけだ。もっと掘り下げて、僕にとって音楽とは何なのか、書きたいとは思うのだけど。
 とにかく、今日は眠たい。毎日のノルマの勉強や、自分宛てにだけ文章を書くことを続けていて、それが終わると、やっと一日が終わったという気がする。眠いけど、習慣化するまでは頑張らなくちゃ(一般的に、行動が習慣化するには十週間、つまり七十日近くかかると言われているけれど、本当かな?)と思ってる。今のところ、五十日続いている。もう少しだ。これだけは続けたい。

 取り敢えずは、お休みなさい。あなたへ、そして世界へ、おやすみ。