詩のこと、言葉のこと (3)

 日本語の美しさって、呆れかえるばかりだ。意識の表面に並んでいく、ささくれ立った言葉をあっさり捨ててしまって、心の深くから浮かび上がってくる言葉たちだけを信じること。夜の部屋、泡のようなLEDの光の中で、瞳孔が拡がっていく。拡がった瞳孔の奥に、本来見えないはずの遠い国の景色が見えて、少し目を細めると、身体の中にふうわりとした快感が渦巻いていく。そんな微かな快感の中で静かに、日本語を書いていたい。できたら詩も、小説も書きたい。

 「彼女には散々泣かれてしまった」という日本語も、おそらく英訳はとても難しい。英語で日本語訳が難しい言葉もたくさんあると思うけれど、「泣かれてしまった」という簡単な言葉のニュアンスを英語に移すとすれば、まず「泣いた」と「泣かれてしまった」の違いを明確にしなければならない。これは、英文法の本に書かれていたことなのだけど。
 「泣いた」はもちろん「cried」でいいけれど、「泣かれてしまった」には、「僕に向けて訴えかけるように泣いた」とか「泣くとは予想もしていなかったけど、彼女は泣いた」というニュアンスがあって、英文法の本によれば前者は「She cried on me.」が妥当かと書かれていた。後者の意味も含めるとすれば「彼女が泣くとは予想もしていなかったのに、その想像が間違いであることを強調するように、彼女は僕に向けて泣き顔を見せた」という感じもあって、しかもシチュエーションによって、そのニュアンスはかなり異なる。
 そして「散々」もとても難しい。「こっちが嫌になるくらい、とても」という感じの意味になるのだろうか? 「散々」という言葉には、話者自身が、ちょっとげんなりしたというような含みがある。字義的にはそうなると思う。でも言葉を使う人が、いちいちそんな意味を探りながら言葉を使っているということはまず無くて、どういう訳か、感覚としてその意味合いを知っていて、しかもかなりきちんとそのニュアンスが読者や、聞く人には伝わる。「彼女は昨日、すごく泣いたんだ」と言えば「彼女に何があったんだろうね」という会話に繋がるのは自然だし「昨日、彼女には散々泣かれたよ」と言えば「それは君も大変だったね」という返しが自然だったりする。お互い感覚的に話しているけれど、しかもその感覚が、きちんとした言葉遣いに結びついている。

 三歳になる甥が遊んでいる動画を、妹(甥の母親)がときどき送ってくるんだけど、現在形や過去形の使い方は、どうも実地体験で感情と関連させて覚えているという感じがする。例えば甥は電車が好きで、電車がやってくると「でんしゃがきました」と、わくわくする感じで言う。電車が走っていくと「でんしゃが、いっちゃった」と少し残念そうに言う。それだけでもすごいと思うのだけど、けれどそこから一歩進んだ言葉は、どこでどう、……やっぱり本の中でかな?、……覚えるのだろうと、今の無邪気な甥の様子を見ながら思う。三歳の甥が「僕の希望を載せて電車がホームに滑り込んできた」「そして電車は走り去って行ってしまった。僕にひと固まりの不安だけを残して」という物言いをしていたらびっくりするけれど、でもそれを大人が書いていたら、さして何とも思わず素通りしてしまう。
 小説では、日常では全く使わないような、曖昧な心情や情景を、とても的確に表現する言葉によく出会う。それを読むたびに僕は、とてもふわっとしたような、でもそういう気持ちって自分にもあるという、懐かしさや安らぎを感じる。あまり思い浮かばないので、さっき書いた「幽玄」を使い回すけれど、「その家の戸を開いた瞬間、一瞬にして時代をいくつか遡ってしまったような感覚に捕らわれた。ただ古いというだけでなく、幽玄とさえ言えるような空気がそこには漂っていた」という表現があるとして……ちょっと下手な描写かもしれないんだけど……、多分、甥にしても、この表現をあと十年くらいすれば、過不足無く読めて、何かしら、イメージを伴って感じられるようになると思う。小学校や中学校で「幽玄」の意味を一から学ぶことは無いだろうし、時代を遡る経験を、おそらく一度も経ないにも関わらず、何故か分かってしまうと思う。そして多分、有りがちな表現として、立ち止まることも無く、こんな文章は読み飛ばしてしまうようにさえなるだろう。
 僕は本に囲まれた生活をしている。さらさらと読み飛ばしただけなのに、不思議な、遠い余韻を、僕の中に残していった本がたくさんある。どんな魔法のような表現が、僕の中にこんな、遠い感慨を残していったのだろうと、再読してみることが多い。そしていつも思う。何でもないような表現、僕にとっては日本語が、既に魔法のように、本来言葉にならないような感情や、「何か」としか言いようのないものを、僕の心の底から掬い取ってやまないのだと。

 中原中也の詩は、矛盾に満ちていて、どうしても視覚的なイメージにならないというか、中也自身が明確なイメージを避けているという感じがする。それなのに、僕の心には、ひとつひとつの詩に対しての、明確な、イメージでもヴィジョンでもない、何かが残っている。
 例えば、僕が中也を読み始めて最初の頃から大好きだった「一つのメルヘン」という詩には、陽がさらさらと射しているし、その陽といっても硅石か何かの粉末のようだし、蝶が落とす影は、淡くて、それでいてくっきりとしていて、最後にさらさらと流れるのは、今度は陽ではなくて水であるし、これは多分、絵にも漫画にも、映像にもならないと思う。でも言葉にすれば、それはすんなりと分かる。少なくとも、分かるような気がする。でもどうして分かるのかは、全然分からない。
 それから「冬の夜」という詩では「……痩せた年増女の手のような、その手の弾力のような、やわらかい、またかたい、かたいような、その手の弾力のような、煙のような、その女の情熱のような、燃えるような、消えるような……」という長い形容が出てきて、それが「冬の夜の室内の、空気よりよいものはないのです」に繋がるのだけど、これは「分かる」という感覚をぎりぎり超えているか超えていないかのところで、でも綺麗に言葉に収まっていて、息が切れそうなくらい、本当にすごいと思う。あともう少しのところで言葉からはみ出そうだと思う。

 ひと言では説明出来ないことを、そしてまだ説明されたこともないことを、言葉は描く。心の中から何が出てくるのか分からない。心は言葉にならないことだらけなのかもしれない。言葉を与えられても与えられても、そこからするりと抜けてしまう、永遠に余りある何かが心の中にはある。同時に、言葉にされるまで、言葉に滲みいって形になるまでは、気付きもしなかった感情や情景が、心にはたくさん、多分無限にある。意識からは逃れゆき、生活からは疎外された何かを、掬い取る言葉たち。言葉から心が余り出るのか、心から言葉が余り出るのか。その相互作用によって、言葉の列は永遠に成されていく。
 心は言葉に滲み入り、心は言葉を超えていく。言葉は心に沈みゆき、言葉は心を超えていく。その言葉をさらに心は把捉し、またも言葉を超えていく。言葉の強さは、的確な表現ではなく、書き続け、書かれ続け、終わりなく心を汲みだし続けることにある。終わらない旅。人類が言葉を見付けたときにはもう既に、永遠を決定づけられた心の旅、それは悲しいかもしれない。嬉しいのかもしれない。
 言葉について書いたので、言葉に限定したけれど、表現には一般に「終わらない」という性質があるのだろうと思う。僕は言葉への偏愛があって、言葉によって一番、僕が遠くに……あるいは深くに……惹かれるのを感じていて、言葉への興味を、言葉が煩わしく思えた時でさえ捨てられなかった。僕の底の方で形成され、熟成されてきた、言葉のネットワーク。意識では気づけない場所。僕の長年の人生そのものが、全て織り込まれているような場所。時間/空間、そこからはみ出る言葉たち。心の中の壮大さ。全ての言葉にそのような性質がある、とすれば英語にも奥深い強さと、何もかもを超えていくものがあって、きっと一筋縄ではいかなくて、面白いだろうなとわくわくする。短い人生で、多くの言葉を学べないことは残念だけど、今書いているこの瞬間が、永遠にも連なる感覚があると、そんな残念さは問題にならない。永遠に浸れる今を感じている僕の心は、安息と希望を感じている。

 言葉が好きだ。僕は書き続け、読み続けるだろう。きっといつまでも。それが出来ると思える今、僕にとって人生は嬉しいものだ。言葉と心を巡る旅。それが誰にとっても、嬉しいものであることを、僕は願っている。……もしかしたらその嬉しさを共有出来るかも知れない……という儚いような、ちょっと泣きたくなるような、希望も込めて。