音楽が聴けるようになってきた

 この世はそれ自体が不思議だ。

 音楽を聴く為に音質は、ある程度は必要ではあるけれど、少しでもいい音をと拘る必要は無い。オーディオにたくさんのお金を注ぎ込むくらいだったら、レコードやCDを買った方がいいと思う。いい音を聴けたら、それだけで気持ちいいけれど、音楽がとても楽しいとき、僕は音質のことなんて忘れている。ラジカセの音でも別にいい。いい音を聴くより、いい音楽を聴きたい。

 最近、カセットテープが少し流行っているらしい。カセットって音は悪いけど、余計な音が削ぎ落とされたタイトな音で、中音域(特にヴォーカルやギターの音域)がよく聞こえるし、それに、カセットを聴いているという実感がいいらしい。
 レコードも、カセット以上に流行っているみたいで、今ではAmazonで多くの新品のレコードが手に入る。レコードもまた、CDに比べると、全然音がクリアじゃないし、音域も狭い。もちろんハイレゾの音質には遠く及ばない。数値上は、レコードはかなり音が悪い。けれど研究している人に拠れば、レコードでしか出ない心地いい音の成分がいっぱいあるらしい。針の揺れや、振動、摩擦音(ノイズ)や、真空管の電流の不安定さや、いろいろな要素が重なって、レコードの音を良くしているらしい。
 僕はほぼデジタル音源の時代に生きてきたので、アナログの音を味わってみたいという興味はある。エレキギターには真空管のアナログアンプを使っていて、デジタルのアンプと細かく比較したことは無いけれど、確かに何かしら心地いい音がするような気がしている。

 音楽が楽しめないときに限って、音質に拘ってしまう。音楽がいいと思えないのは音質のせいもあるかと考えて、もっと音が良かったら感動出来るんじゃないかと。でも僕が最初(10歳のとき)に音楽に感動したのは、カセットテープに録音したビートルズウォークマンで聴いたときで、イヤホンも安物だった。それでも毎日毎日聴いていて、感動が薄れることは一度も無かった。
 12歳のときにMDプレーヤーを買って、次元が違うと思えるほどの音に、大袈裟じゃなく衝撃を受けて、カセットには戻れなくなってしまった。SHARPのMDプレーヤーだった。でも2年くらいで、CDプレーヤーの方が、CDを買ってすぐ聴けるし、コピーの手間も要らない思って、今度はCDのウォークマンを買った。TSUTAYAでCDを借りて、MDにコピーして聴くということに、まどろっこしさと、何かしらの純粋じゃなさを感じていて、お小遣いは少なかったけれど、月に2枚くらいCDを買って、それを何度も何度も聴き込んでいた。14歳の頃から20歳頃までは一貫してウォークマンとケンウッドのコンポで、CDをじっくり聴いていた。イヤホンがあまり気に入らなくて、もっぱらヘッドホンを使っていた。イヤホンは音に包まれる感覚があまり味わえないし、それに耳に突っ込んだときの異物感が気になって仕方なかった。

 20歳のときにパソコンを買ったのに合わせてiPod(Classic)を買って、それからコンポも、BOSEのとてもいいのを買った。それから3年間ほどは、今までの人生の中でも、特に音楽が死ぬほど好きだった時期だ。音楽が無かったら死んでいただろうと思うくらい。iPodでは、圧縮音源(MP3、AAC)で、ヘッドホンも安いのを使っていた。
 22歳のときに、今もまだ使っているaudio-technicaのATH-M50というヘッドホンを12000円で買って、それでもう世界で一番いい音を楽しんでいるつもりでいた。
 その後少し経って、10年間以上、僕は鬱がひどくなってしまったので、音楽を楽しめなくなってしまった。音楽に恐怖さえ感じた。音楽を聴くと、すぐに不安になった。病院に行ったとき、ヘッドホンをいっときも外さない少年を見て、彼の内面はきっと音楽に満たされているのだろうと思うと、本当に羨ましかった。自閉的な人はよく音楽を聴く。外の音が苦手で、いつも音楽に籠もっていたいからだと思う。頭の病気になると、音楽さえ聴けなくて、何処にも逃げ場が無くなってしまう。

 僕は、音楽を楽しめないのは僕の精神(脳)の問題だと思っていた。ヘッドホンは22歳の頃から頑なに換えなかったし、近頃までずっとiPodを使い続けていた。同じリスニング環境で、昔と同じように楽しめるのでなければ、脳が治ったとは全然言えないと思っていたから。一度だけすごくいいヘッドホンを買った。やっぱり音が違えば、と期待してしまったから。でもすぐに、音は確かにいいけど、昔とは違うという気持ちが強くて、そのヘッドホンは、綺麗な内に売ってしまった。

 半年ほど前に、最新のWALKMANを買った。iPodの電池の消耗が早くなって、そろそろ新型のiPodが出る時期だと期待していたら、何とiPodが完全に生産中止になってしまったからだ。WALKMANは、ただ音が綺麗なだけじゃなくて、何となくノスタルジックな音がするので好きだ。アナログ(レコード)の音質を志向して開発されたそうだ。

 WALKMANを意識する前は、もういっそ携帯音楽プレーヤーを使うのをやめて、iMacで音楽を楽しもうかと思っていたけれど、WALKMANを買ったことは、結果的にはiMacを買うよりずっと良かったと思う。WALKMANは、僕の生活を一変させてくれると思う。音楽には人生を変える力がある。

 WALKMANを買ってから半年間、やはりほぼ音楽を聴けない状態でいた。今になってWALKMANの良さに感銘を受けている。半年間、ほぼ雨戸を閉め切って、真っ暗な部屋に閉じ籠もって、お香なんかを焚いたりして、インド音楽グレゴリオ聖歌を聴いたりしていた。何にも聴かない日も多かった。WALKMANの売りは何と言ってもヘッドホンで聴くときの音の良さなのに、Bluetoothでスピーカーに繋いで聴くことの方がずっと多かった。
 半年間、ごくたまに瞑想状態のような、それともただ単に半睡状態でぼーっとしているような、現実離れした時間が訪れることがあって、それはとても気持ちいい時間なので、僕は毎日、朝から晩まで、自分の意識が変化する瞬間を待っていた。でも、最高に気持ちいい場所までは一度も行けなかった。ある種の変性意識(?)には、目が冴えてないと行けない。眠気の先には何にも無いと思う。快感は、聖歌やインド音楽ではなくてロックの中にある。

 今、クラシック音楽を楽しめるようになってきている。クラシックの世界に入ることが出来たら、また新しい感覚を味わえて、きっと素晴らしいだろうと思う。

 音楽が気持ちいいことは大事だと思うけれど、例えばニック・ドレイクの音楽は、気持ちいいから好きなのではない。気持ち良さは身体の感覚だけど、僕は、敢えて言うならば、頭で音楽を聴いている。もう少しリリカルに言うと、心や精神で音楽を聴いている。頭で聴くことは、耳を澄まして意識的に聴くことだ。退屈な音楽や地味な音楽に、ふと嵌まれる瞬間が好きだし、何度も聴いて初めて好きになれる音楽はとても多い。
 もっと、音楽が無ければ、本当に生きられないくらい、音楽を好きになりたい。また音楽が聴けなくなったら、虚無感と自己嫌悪で、生きる気持ちがまるで無くなって、今度こそ本気で自殺を考えてしまうかもしれない。

 WALKMANは、すごく味のある音がする。音に色があって。音の向こう側にも音があって、音楽の心地よい混沌の中にどっぷり浸れるような。今は雨戸を開けているけれど、自分の影が四方八方にぐちゃぐちゃと拡散していくような不安は感じない。寧ろより濃密な空間の中いるみたいで、ヘッドホンを付けていれば、心の内側の世界に行けるような気がしている。僕の存在がひっくり返って、大きさという概念や、内面と外界の違いや境目が、段々分からなくなっていく。

 僕が今まで本当に好きだった音楽が、例えば、12平均律で作られていたから駄目だと言われたら、それは絶対違うと思う。耳がすごくいいのではなく、あまり音楽を楽しめない人に限って、周波数がどうとか、理論に走ってしまうのではないかと思う。
 僕はかなり長い間、音楽が面白くないどころか、聴いていると不安になり、大好きだった音楽にさえ恐怖を感じていた。10年以上それが続いて、自分が嫌になった。自分が不協和音に敏感になりすぎたのかと考えて、民族音楽や、12平均律を徹底的に否定したハリー・パーチの音楽や、グレゴリオ聖歌や、古典音楽を聴き漁ったりもした。

 日本のスタジオではSONYMDR-CD900STというヘッドホンが、圧倒的に多く使われているらしい。僕がaudio-technicaのATH-M50というヘッドホンを選んだ理由は、イギリスやアメリカのミュージシャンがスタジオで聴いていたそのままの音を、味付けすることなく聴けるのではないかと思ったからだ。ATH-M50は、欧米のスタジオでは、おそらく一番多く使われているヘッドホンだから。

 不満足に生きていると、何かが変わることを期待して、あれこれ欲しくなってしまうし、せっかく買った物はなかなか捨てられず、ますます不満になり、死ぬことも出来なくなる。

 最近、少し音楽が聴けるようになってきた。13年前に買ったATH-M50は5年ほど使っていたら断線してしまったので、すぐに後継機のATH-M50xに買い換えた。ATH-M50xは、ケーブルが交換できるようになっているので、すごく良心的だと思う。ATH-M50xは、2度ケーブルが断線したけれど、その度に新しいケーブルに取り替えて、もう7年と半年近くも使い続けている。
 ケーブルで音が変わるかと思って、8000円もするケーブルを買ったけれど、音楽が楽しくなってくると、純正のケーブル(1500円)の方が何故か音楽をより楽しめると感じるようになった。イヤーパッドだけYAXIというブランドのに換えている。(純正が2000円で、YAXIのは3500円だ)。
 WALKMANは好きだけど、たまにiPodで音楽を聴き直してみると、音は少し平坦ではあるけれど、十分に楽しめる。WALKMANの真価はおそらく、ハイエンドのヘッドホンじゃないと発揮できない。でも今は音質に拘ることを、意図的にやめている。今のヘッドホンで十分音楽を楽しめるようになってから、余裕があれば、趣味としてもう少しいいヘッドホンを買うかもしれない。