暗めのメモ

 死が美しいとか、死に惹かれる、と思ったことは、多分一度も無い。不安から逃れられる一番安直な方法として自殺を希求し続けただけのことで、それは多分、誰だって同じなんだろうと思う。今僕は相変わらずストゥージズの『ファンハウス』を聴いていて、基本的な生活態度は十年前から変わっていない。聴いている音楽までほとんど同じだ。十年前からの新しい十年は既に古びていた。この十年間、新しく発表された音楽の殆どは、僕には古い、もう思い出せない記憶の向こう側で鳴っているもののようにしか聞こえなかった。死ぬなら、出来れば美しく死にたい。死ぬほど、最期の一瞬が、美しくあるといい。

 死のうか、と考えたとき困るのは、死んだらこの世界が消滅するとは言え、それでも僕の想像の中では続いていく、僕の死後についてのことだ。僕の遺品のことを考える。それから僕が死ななければならない、どうしてもの理由を、特に家族や友人に納得させられるだけの、遺書を書きたいと思う。いや、人に、というのも確かにあるけれど、自分自身に納得させたいのかもしれない。無意味に死にたくなんかない。何かに負けて死にたくなんかない。
 迎え入れられる最良の未来として、光として、死を選びたいと思う。死に至る動機が着々と形成されてきた、その経緯を出来れば丁寧に説明したいと思うし、仮に本当にひとりぼっちの言葉が書けたなら、僕はもうひとりぼっちではない気がする。きっと皆がひとりぼっちだからだ。
 ひとりぼっちじゃなくなって、僕はひとりぼっちを超えて、天使みたいになりたいのかもしれない。もはや僕が既に死んでいたこと、そして僕が既に死を克服していたことを伝えられたらいい。今はまだ何処にもいない読者に向かって、僕は書こうとしている。

 幸いかどうか、僕は今全然天使なんかじゃないし、生への執着心が強くて、執着心故に苦しむこともあるけれど、いつか僕は僕自身の過去を全て受け容れられることが出来て、過去が全て光に満たされる瞬間があることを信じている。ずるずる生きてきたけれど、希望はずっとあり続けた。生の時間の総体として、いつか全ての過去はゼロになる。死んだら、例えどんなに祝福された生を送ったとしても、全てがゼロになる。だとしたら僕の取る態度は、ふたつしか無い。さっさと死ぬか、ゼロとしての今この一瞬を永遠であると感じて生きるか。

 憂鬱で、何も感じなくて、何もしないでいると、自分がゴミのように思えるけれど、無理に何かをしたからって、そのたいへんな努力を誰も誉めてはくれないし、僕自身疲れるだけで、何の達成感も無い。「また明日」という言葉が重圧になるばかりだ。自分の部屋の片隅で座り込んでしまう。聞きたくない言葉ばかり。いつもヘッドホンを付けている。
 外出したらしたで、お店に行けば、入り口近くのベンチから動けなくなって、けれど休めずに、居たたまれない感じがして、きょろきょろしてしまう。自分がとても馬鹿っぽい顔をしていると思う。鳴っている音楽が全部同じに聞こえる。

 今僕は部屋にいる。ひたすら部屋にいる。どんなに今を永遠に感じられても、時計の針は確実に進むし、例え部屋の中で言語的ハイに陥って、自分が何か偉いものに思えたとしても、僕は多分限り無く無価値だ、と要らぬことが頭に引っ掛かる。
 気持ち悪くなり、動悸が始まって止まらなくなる。今大好きで聴いているボブ・ディランも、ドラッグをやって、あっちの世界で法螺を吹いているだけの気楽な馬鹿に思える。ディランだって、書いて歌うのが楽しくて、書いて書いて、生活の苦痛から逃げ切ることが出来ただけの、ただの運のいい人だと思う。書いても逃げられない、息を吸っているのかも吐いているのかも分からない僕とは無縁だ、と寂しいだけの考えが渦巻く。
 僕はもう、何にも楽しめなくなってしまう。動悸は止まらない。


 昔、僕は英語を日本語に翻訳することが本当に大好きだった。英語の文章の中から感じられた感情や風景を丁寧にすくい上げて、それを出来るだけ損なわないように、僕の手で丁寧に日本語として定着させる。
 英語をよく読んで、作者の呼吸を感じる瞬間が大好きだったし、その呼吸のままに日本語を無心に組み立てる作業が大好きだった。今の僕には、英語は死んだ染みだ。本当の染みの方が静かで楽しいくらい。染みを見ていると、以前感じた何かを感じない自分を意識せずに済むから。
 頭の中で常に言葉にならない言葉が鳴っている。実際、頭の中で得体の知れない炎症が拡がっている感じがする。ネガティブな言葉が脳幹に宿っている。僕の言葉は疲労している。僕の感情は古い言葉の群れにへしゃげている。何もかもどうでもよくなるくらい苦しい。
 何か新しいことが書けたなら、その分僕は新しい自分を自覚できるだろう。朝目覚めたとき「どうせ」何も無い一日だ、という確信に襲われてしまったりしないだろう。それでも毎朝僕は新しい一日に少し期待する。けれど即座に、何をしても無駄だ、という思いに満たされる。言葉も音楽も、もはや僕の意識を運び去ってはくれない。みんな遠くで鳴っているだけ。僕に感じられるのは灰色の羽音だけだ。

 妙な言い方かもしれないけれど、肉体的に死ななくても、僕の中には既に死がある気がする。全ての論理の外側から降ってくる、とても、きらきらした光がある。全てを捨てられたときだけ許容できる光がある。みんな捨ててしまえ、と思う。僕は光だけが欲しいのだから。

自殺願望があるときって妙に笑ってしまう。生きてること自体が、嘘を吐いているみたいな気がするからだと思う。……僕は今すぐ死ぬつもりはないけれど、自殺の考えを完全に拭い去ることは、多分ずっと出来ないだろうと思う。