みんな死にゆくから

12月10日(土)、
 人生は短い。好きじゃないことをやっている時間は一秒も無い。一秒後に死ぬ可能性は常にあるのだから。

 

12月11日(日)、
 とても憂鬱だった。朝から夜まで、ベッドの中でぐずぐずしていた。

 

12月12日(月)、
 未明、ギターを三時間くらい弾いていた。

 表面的な思考に支配されている。僕は駄目だとか、心が腐っていく音がするとか。

 

12月13日(火)、
 過ぎた日々のことを延々考えていた。僕の心の奥深くは変わらない。でも僕の外形は刻々と変わっていく。僕の心は僕の形に付いていけない。僕は多分、山の奥の洞窟で、十年くらい、ひっそりと苔でも舐めて暮らしていれば良かったのだと思う。でも、過去はどうしようも出来ないし、今の僕は今の僕だ。今の僕を完全な僕として生きるしかない。
 優しい気持ちは、寂しさと共に訪れる。生きていればいろいろある。自分の為に用意されていた広い広い世界は、段々他人ばかりでぎゅうぎゅう詰めの世界になってしまう。音楽や本の中にあったはずの僕の世界は、段々僕には関係のない、遠い誰かのための世界になっていく。何もかもが僕の心から遠く離れていく。
 でも、時間の流れと寂しさが一致するとき、僕は僕を生きられる。

 

12月14日(水)、
 いろんな決まりごとがある。決まりごとに自然に、無意識的に従えないと、生きていくのは難しい。僕は、いずれ死んでしまうというのに、何を求めて生きているのだろう? 世界との一体感?
 僕はまず、最高に気持ちいい時間を求めている。そのために、どれだけ多くのものを、取り落としてしまうとしても。とても自分勝手な望みを叶えるために生き長らえている。
 ……誰だってそうじゃないのかな? 誰だって気持ちよくなりたいし、楽しくなりたくて生きているんじゃないかと思う。でも、いや、多分不幸でもいいんだ。全てが分かる一瞬があるなら。どんな環境でもいい。世界を丸ごと感じたい。なのに、ぐるぐる何かを追い求めて、追い求めている内に、最初は確かにあったはずの目標を見失ってしまう。目標そのものを喪失してしまう。何らかの仮の指標を作らなければ、不安で、生きていても死んでいても同じみたいになってしまう。ぼんやりした死に怯えながら。何か他にやりたいことがあるはずだという違和感を抱えながら。
 多分、多くの人が、生きているってどんなことだったのか、よく分からなくなっていると思う。死ぬまで不幸を避けられた人が幸せ、という後ろ向きな幸福論が幅を利かせたりする。笑っていられればいいんだ、って。とは言っても、いくら自分を幸せな感覚で覆い隠したとしても、何か忘れている。絶対、幸せなだけでは、何か大事なことを忘れていると思う。不幸を嫌うのは何故? いいじゃないかと思う。不幸でも。自分が産まれてきた意味が分かるならば。そして出来得るならば、真っさらな自分のままで、真っさらなままの他人に触れられるならば。
 有限時間内に死ぬって分かっているのに、今、自分が何を求めているのか、分からなくなっていく。でも、最高に希望的な予測をしていいなら、結局、死ぬときには分かるんだと思う。自分が生きてきたことや、そして死んでいく意味。僕の周りでも、知っている人が何人か死んだ。何にも分からず、ただ眠るみたいに死んだのかな? 多分、そうじゃないと思う。本当に死ぬって分かったら、そのとき改めて、透明なままの存在の意味を知ることが出来ると思う。何もしなくて良かったって。自分が生きていて、そして他人が生きている。それだけで良かったんだって。命の意味を、誰もが理解すると思うんだ。