書いていること

絶望していても生きなければならない。壊れた精神は、日々悪くなっていくばかりで、趣味に逃げるか、自殺するか、自暴自棄になるしかない。空元気で毎日を乗り越えていくしかない。

大昔の映像を繰り返し見ているみたいだ。たまにテレビなんかが付いていると、まるで現実のこととは思えない。テレビも、それを見て笑っている人も。ずっと昔の、温かい悪夢みたいに感じる。
この世界は、虚しいゲームかもしれない。そして僕のプレイしているゲームはバグってて、みんな死んでいる。BGMも無い。セーブポイントも無く、電源も切れない。

朔太郎の晩年の散文詩が好きだ。朔太郎の詩は、10代の頃から読んではいたけれど、つまらないと思っていた。中也や宮澤賢治は歴史に残るけれど、朔太郎は消えると思っていた。でも今は、朔太郎の詩は、ずっと読まれていて欲しいなと思う。詩人にとって、これは褒め言葉なのか分からないけれど、彼はいい人だ。一度、その詩人の人柄が好きになると、その人の全作品が一気に好きになるから不思議だ。朔太郎は天才ではないと、自分の尺度に勝手に当て嵌めて、僕はいまだにそう思っているのだけど。朔太郎は優しい人だ。

漠然とした言い方になるけれど、今、自分が生きていることほど完璧な個性は無いから、要するに完璧な個性とは、世界の全てのことだ。個性とは「自分が今生きている」ということを超えたりはしない。

自分の世界を浅く見積もると、他人の世界もまた浅く見積もりがちなので、馴れ合って生きていると、寧ろ独善的になる。最初は確かに他人のことを深く思っていたはずなのに、段々自分勝手ということになってしまう。自分だって嫌々常識を身に付けたのに、常識が通用しない人を怪訝な目で見て遠ざけたりする。自分の頭で思考することが一番楽しいことのはずなのに、楽しいという感情が無くなってくると、考えるのをやめて本当に怠惰になってしまう。楽な考えに逃げてしまう。

朝、起きるたびに「このまま起き上がれないとしたら」と思う。

苦痛を感じたり、空虚になったりする。疲労、不安、被害妄想、加害妄想……。

恋愛に夢中になることほど辛く、自殺に近い状態は無いと思う。

言葉も文字も無くても、昔は不便が無かったんだから、と言っても、言葉と文字はすごい発明で、画期的で、面白くて、僕は好きだ。好きじゃなかったこともある。でも今は好きだ。未来のことは知らない。未来にはまた、言葉や文字と同じくらい画期的なものが産まれるかもしれない。ロボットやAIが発達すれば、世界は激変すると言われている。でも、今のところ、どんなに科学的に素晴らしい未来を想像したところで、結局、僕は本を読み、音楽を聴き、ギターを弾いているんだろうなあ、と思う。多分踊っているし、書いているだろう。どんなに時代や環境が激変しようとも、僕はキーボードをぱたぱた叩いて、あるいはノートにペンで、書いているだろうと思う。