メモ(寂しさの欠片)

 寒さの匂いがする。白っぽいスピーカーから、酸っぱいくらいの、エレキギターの心地良い高音が流れ出してくる。どこまでも作りものの世界で、私が生きている理由は、ただ音楽が血に溶けて、心臓を疼かせてくれるから。
 寂しさの欠片はどこででも見付かる。ただ単に揺れるカーテン。遠い自動車の音。ストーブの掠れた風の音。暗い思い。淡い黄昏時の図書館。噴水に投げ込まれた一枚のコインのような気持ち、……揺れつつ浮き上がっていく一粒の泡。世界中に欠片が散らばっている。寂しさをひとつひとつ拾い上げていく。

 寂しさや残酷さや、あるいはグロテスクささえ、僕個人にとってはとても大事なもので、この世界からネガティブな、暗い要素が無くなってしまったら、すごく嫌だなと思う。戦争も無く、みんな仲良く、揃って幸せな未来を想像すると、どうしてもべたっとした生ぬるい事なかれ主義の、嘘っぽい世界しか想像出来ない。争いや怒りや暴力は無くなって欲しい。けれど、ネガティブさや陰気さ、内気だったり寂しかったり、悲しかったり、憂鬱だったり悔しかったり、苦しかったり、という暗い側面も、世界にはくっきりと残っていて欲しいと思う。陽と陰というか……光ばかりがいい訳じゃないよね、と思う。

 悪は無くならない。戦争には、賛美したい要素がまるで無いけれど、つまり集団レベルでの争いは、単なる思考停止としか思えないけれど、個人レベルの悪徳を撲滅することは出来ないし、悪いことは考えることすら駄目、と言うことになったら、サイコパス的な傾向のある子供を隔離して矯正したりとか、平和な気分になれるチップを脳に埋め込むことが義務化されたりとか、ディストピアとしか思えないとんでもなく退屈な世界が出来上がって、みんな何となく情熱を失って、何となく自殺する人がわんさか増えて、しかもその死を悲しむ人も、死者を悼み続ける人もあまりいない、すごく平和で清潔な豚小屋みたいな、副作用の無い明るい阿片窟みたいな、お腹いっぱいの豚と眠たげな犬がひそひそ微笑み合っているみたいな、想像力の入り込む余地も、その必要も無い、すばらしい人類の理想郷が出来てしまいそう。そこに僕はいたくない。

 人間の身体って本来は、水分が欠乏すれば喉が渇くし、糖分が減れば、自然に甘い物が欲しくなるように出来ていると思う。飢え渇いているときに、パンよりも無糖のガムに惹かれる、とかそう言うことはまず無い。頭の病気は、自分の好き嫌いをまるで分からなくしてしまう。文字通りの意味でも、食べものが美味しいのか不味いのか分からなくなる。味がしなくなる。食べものだけじゃなくて、音楽の味も、言葉の味も、全然分からなくなる。精神的にも、何にも欲しくなくなったり、手当たり次第食べても満たされないような状態になってしまう。

 ある程度時間が経つと(大抵は次の日や二日目にはもう)、捨てた物に関しても「そういや持ってたなあ」くらいの感慨しか抱けない。でも、時をさしたように後悔が襲いかかってくることもある。昔、本当に楽しく、ただしく自分の全てを込めて書いていたと、今も信じてる、多くの文章を、全部消してしまったことには、ときどき死にたいほど後悔する。あんなに、本当に心底楽しく書いていたのに、文章力も語彙も、今とは比較にならないくらい豊富で、好奇心も滅茶苦茶あったのに、って。今ここには、駄目になった自分だけが残っている。そう考え出すと、耐えられないと思う。
 僕にとっては、言葉を書くことが、本当に「全て」だったので、僕は「全て」を無くしたんだ、と思う。多分、あんなにまで、言葉に没入して全身全霊をかけて書く、ということは、殆どの人には想像出来ないだろうし、今の僕にもぼんやりとしか思い出せない。
 考えても仕方ない、全然意味が無い、と思う。でも消えた、消した、失った、って延々考え続けては、今の自分を無価値だと信じてしまう。もちろん、新しく書くしかないんだ。すごく焦っている。「楽しい」が思い出せないので、今の自分が書くものが全て、クズに見える。これからも、生きている限り書いていくのだと思うけれど、仮に良いものが書けたとしても、それだけでは全然嬉しくない。本当に自分の全てを言葉に込めて、心から楽しく、能力も心身も全てを懸けて、しかも質の高いものを書けるのでなくては。毎日「無理かもしれない」と思う。……全部捨てて、命さえも捨てる気で、やり直せたら、と三日おきくらいに考える。ゼロに戻れば。そうすればまた何か、僕の中で疼く欠乏や喪失感を満たしてくれる、圧倒的な楽しさが訪れるんじゃないかって。