最初のメモ

 私は別に何も書かなくてもいい。私が書けるものなんて何ひとつ無い。言葉は私のものだろうか? 違う。「言葉は永遠の雨のように宇宙を流れ続け、紙コップに降り注ぐ」とジョン・レノンが歌っていた。それはただのシュールな歌詞ではなく、事実をそのまま歌っているのかもしれない。私は永遠の雨を受け止める、ただの紙コップに過ぎないのかもしれない。そして私という紙コップが滅びたときに残るのは、ただひたすらに、永遠に降り続ける言葉の雨だけなのかもしれない。あるいは「全て」と呼ばれる何かなのかもしれない。「世界」でも「神」でも、何でもいいと思う。永遠の何かが残るのだろうと思う。私はただの紙コップかもしれない。永遠によって満たされる、ただの紙コップなのかもしれない。

 この間また、ひどい鬱の波があって、もういいや、どうなってもいい、と思った。それで昼間から雨戸を閉めて、コタツに潜り込んで息を殺していたら、何か、とても懐かしい気分になった。どういう訳か、「僕は、僕が持っているものを全て失ったし、これからも失い続けるだろう。でも『本当に』失われるものなんてあるのだろうか? そもそも僕は何かを『得た』ことがあったのだろうか? 得たり失ったりする僕は、『本当に』僕なのだろうか? 『僕自身』は何も得ていないし、失ってもいない。昔から何にも変わっていないし、これからも変わらない」と感じた。何故なら、僕が感じた懐かしい僕は、何ひとつ変わってはいない、と感じたからだ。何も変わっていない部分がある。そしてきっと、その部分が、本当の意味での僕なんだろう、と思った。毎日洋服を着替える。いい服を着たり、ぼろぼろの服を着たりする。でも僕は服じゃない。もし服が僕であるか、服が僕の大事な要素であるなら、僕はずたぼろの服ばかり着てきて、これからも服はどんどん擦り切れていくと思うから、そんな服を着続けてる僕はずっと駄目駄目であり続けることになる。雨戸の外では強い風が吹いていて、風の音は多分昔とは微妙に違っているけれど、でも、風を聴いている僕のこの、胸の中の空洞が何かを欲しているような感じは、ずぅっと昔に感じていたのと、同じだと感じた。風の音に、僕の中の空洞が鳴っている。その音だけは、ずっと同じであり続ける気がする。僕は楽器? その音に聴き入っているだけで、別にいいような気がする。
 僕を通して音楽が、そして言葉が流れる。僕が単独で為し得る(成し得る)ことなんて存在しない。そしてその音楽、言葉はまた、他人へと、世界へと流れていく。僕の中には殆ど何にも無い。僕に出来るのは、僕を通って流れるものを、流れるままにしておくこと。ただ単に生きること。在ること。それ以上のことはできない。そしてその考えは、僕をすごく安心させる。息がつきやすくなる。僕という存在に、それ以上でもそれ以下でもない、完璧な居場所と、意味が与えられたような感じがして。

 私たちはあらゆる手段で消えようとする。ある人は病気になることで自分の全てを喪失したいと願い、ある人は楽器を演奏することで、自分を抹消したいと願う。私たちの願い、それはこの世界に於いて、形あるものを完全に失うこと。消え去ること。そして、それでも尚、残り続ける何かを見いだそうと願うこと。

 僕の眼や、視野でさえ、僕のものではない。それは与えられたものなのかもしれないけれど、それを所有している肝心の僕の姿が、僕には見付からない。

 つまり、これが僕なんだ。僕が所持しているものではなく。何故かここにある心や、意識と呼ばれるもの。僕はこの意識に「由比良倖」という名前を付けたのだけど、名前自体は僕じゃない。仮に僕が偉業を成し遂げたとして、それは「由比良倖」というこの意識がすごいのではなくて、もちろんこの意識を生んだものや、この意識や身体を通して何故か流れた何かがすごいのだと思う。だから僕の偉業があるとして、それは僕の偉業じゃない。
 僕に出来るのは、僕が病気なら、出来る限り休んだりして、僕を治そうと右往左往することくらいだ。僕はあなたであり、僕は父親を恨んでいたけれど、僕は父でもある。流れているものと、そして心、意識自体に形は無く、それらはきっと、皆同じであるか、同じもので出来ているのだから。

 そして、多分、私たちは同じ場所に帰っていくのだ。