日記(調子は悪くない)

1月26日(木)、
 眼鏡のレンズを両眼とも合わせたはずなのに、どうも左眼の方が良く見えるので、右眼のレンズだけ合ってないのかな?、と思って眼鏡屋でもらった明細書を見たら、両眼とも同じ度数のレンズが入っているみたいだった。前に買った眼鏡と全く同じ度数のレンズが入っているのだと思う。何度か、新しい眼鏡と、前の眼鏡とを掛け替えて比べてみたけれど、見え方が変わらない。眼鏡のレンズって、もっとすごく細かく度数が区切られているのかと思っていた。

 ベッドに横になるとすぐに目が覚めてしまって、また一昨日から眠っていない。昨日血圧が高かったのは寝不足のせいだろうかと思って、朝計ってみたら、130しか無くて、心拍数も60だった。実家にいたり、出かけたりしてすぐに緊張するのでは、あまり身体に良くない気もするけれど、今のところは仕方がない。出来るだけ、深呼吸したりして、おっとりした気分を持続させるしかない。

 

1月27日(金)、
 眼鏡越しの世界が好き。デジタルで組み立てられていて。全てが少し嘘みたいで、記号的に見えて。活字がくっきりと見えて。

 万年筆の中では血が渦巻いている。私はそれを書き写すだけ。

 出来れば格好いいおじさんになりたいな。鬱(統合失調症?)がひどかった間に、数枚だけ自分の顔写真を撮っていたけれど、見返してみても、病気って表情に出るものだなと思う。今はどうかと言うと、単純に歳を取ったなと思うし、うまく笑えない。何年も、ほとんど笑わない生活をしてきたからかもしれない。自分の写真をどう撮っても、表情が硬いし、口角が下がっている。人とあまり会わないと、表情を変えることが少ないので、顔の筋肉が硬くなる。

 鬱などで元気が無いと、身なりを気にしなくなるのは本当だと思う。この頃鬱が寛解してきてみると、もう少し、ぱっとしない見た目をどうにかしたいと思うようになってきた。
 かなり思い切って、見た目を大きく変えてみたいと思う時さえある。

 長年、本当に何もかもがどうでもよくて、生きる気が無かったので、例えばODして嘔吐した跡が数年間そのままだったり、今すぐ死にたいばかりで、歯を磨く意味が分からなくて、コーラばかり飲んでいたので、欠けていない歯は、多分一本も無いし、上の前歯を四本と、下の前歯を二本含む、八本の歯を完全に失った。そんなこともどうでもよかった。どうせ家に引き籠もったまま死ぬのだからと思っていて、たまに激しい歯痛に襲われる他は、歯なんて無くても気にならなかった。僕は23歳まで虫歯が一本も無くて、歯医者に行ったことも無かったのだけど。

 四年ほど前から、回復の兆しはあった。頭はすぐに壊れる。でも治るのにはすごく時間が掛かるみたいだ。

 夜、コーネルの、箱の作品集を見ている。夢の中に置いてけぼりにされたような気持ちになる。コーネルの作品集は4冊持っているけれど『Shadowplay Eterniday』という作品集が一番好きだ。

 

1月28日(土)、
 ……憂鬱、不安、自己喪失。

 夜、ニーアオートマタのアニメを最新話(3話)まで見る。ニーアオートマタのゲームのサウンドトラックが好きで、CDはもちろん、レコードでも持っている。アニメでの作中、ゲームと同じBGMが使われていたので、とても興奮した。
 ゲームの方はずっとずっとしたいと思いつつ、PS5を買ってからしようと思っていたら、PS5が全然手に入らなくて、発売から6年も経つのに、まだやってない。だからアニメがゲームの内容に、どこまで忠実かは分からないけれど、よく出来たアニメだと思った。
 シリアスだし、戦闘シーンは多くても、殆どが廃墟を舞台にしていて、地味な印象なので、あまり人気は出ないかもしれないと思ったけれど、映像が美しいし、動きも良く、端正に作られているので、多くの人に見て欲しいと思った。
 特に、敵である機械生命体が、段々に人間に対する敵対意識よりも、自らの個人的な心に目覚めていく場面は、静かな感動に突き動かされるように描かれていて、心って、一体何だろう、でも、心は、本当に大事だ、人間にとっても、ロボットにとってもと感じたし、不思議さと悲しみを感じた。
 主題歌は『鬼滅の刃』と同じAimerが歌っているし、主人公の2Bの声優は石川由依(『進撃の巨人』のミカサや、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のヴァイオレットなど)で、9Sの声優は花江夏樹(すごくいろいろ出ているけれど、『鬼滅の刃』の炭治郎役が多分一番有名)なので、とても人気がありそうに思うのだけど、どうなんだろう? 少なくとも、僕が利用しているU-NEXTの人気ランキングには入っていなかった。でも、僕はすごくいいアニメだと思う。

 

1月29日(日)、
 ……とても鬱屈していた。

 またお香を焚いている。史上稀なくらい美しい声を持つヴォーカリストジェフ・バックリーが、お香の煙でいっぱいの部屋に籠もっていた話を思い出す。ヴォーカリストは喉を大事にするから、煙なんか御法度だと思っていたので、その話には少しびっくりした。それからフレディ・マーキュリーがステージ上で美声をいかんなく発揮した後、楽屋で煙草を吸いながらインタビューに答えていたのにも驚いた。
 気に入ったお香が見付かったので嬉しい。本当はアルメニア・ペーパーという、ポストイットみたいな、紙のお香が一番好きだ。イタリア製で、パッケージが格好いいし、焚かなくても、本に挟んでいると、本にとてもいい匂いが移って、かなり匂いが長持ちするからだ。中原中也の詩集に三日間くらい挟んでいたら、もう半年も経つのに、まだいい香りがして、読書の時間が高貴に感じる。ただ、一枚当たり200円以上もする上に、五分くらいで燃え尽きてしまうので、全部焚いてしまったのは勿体なかった。
 今気に入っているお香は220本入って1000円もしない、しかも一本が20分も燃え続けるという格安のお香なのだけど、日本製で、パッケージがあまり格好良くない。パッケージの良さは、とても大切だと思うので、ある程度安くて、格好いいお香を探してみようと思っている。

 音楽を気持ち良く聴けるようになってくると、これほどの気持ち良さを体感出来なかった、過去の十年間の僕が可哀想に思えてくる。本当に(インド音楽グレゴリオ聖歌さえも)全然音楽が聴けなかったときは、音楽ではなく、環境音のアプリで、焚き火の音とか、雨音とかを聴いていた。たしか僕の弟も、仕事で疲れて、夜はYouTubeで延々焚き火の動画を見ていると言っていたことがあって、ああとても疲れているんだなと思ったことがある。環境音のアプリやYouTubeの自然音の動画は、かなり人気があるみたいなので、疲れている人はとても多いのだろうと思う。生きにくい世の中なんだろう。疲れていると音楽が聴けなくなる。ロックなんてうるさくてとても聴けない。それどころか、僕は数年間、音楽を聴くと恐怖と混乱を感じた。ニック・ドレイクのアルバムでさえ怖かった。僕は、ヒーリングミュージックは、聴いていると何故か気持ち悪くなってくるので、嵌まらなかったけれど、YouTubeでたまにヒーリングミュージックの動画が流れてくると、その再生数の多さに驚く。疲れて、精神世界に浸りたい人が、とても多いんだなあと思う。
 僕は今また、ギターの音が滅茶苦茶、この世で一番好きだ。

 

1月30日(月)、
 僕に財産があるとすれば、僕が僕であるということ。それだけだ。

 夜、2週間ぶりくらいにインド音楽を聴いている。すごく暗い気分でいるときに、インド音楽をよく聴いていたけれど、今、それなりに元気な気分で聴いても、やっぱり良いと思う。瞑想的なだけではない。格好いいと思う。インド音楽について長い散文を書いていたのに、もう二度とインドの音楽は聴かないと思って消してしまったのは、たいへん勿体なかった。
 イギリスやアメリカの、特にギタリストには、インド音楽を愛好する人がとても多い。ジョージ・ハリスンはもちろんだし、ジョン・マクラフリンライ・クーダーや、デレク・トラックスや、多分、挙げれば切りがないと思う。ジョージ・ハリスンシタール奏者のラヴィ・シャンカールに師事してシタールを学んでいるし、デレク・トラックス・バンドの1枚目のアルバムの最初の曲は、その名も『サロード』で、おそらくデレク・トラックス自身が演奏しているのだと思う。シタールサロードもギターに似た弦楽器で、シタールは幻想的な、琵琶を少し明るくしたような(ビリビリする)音色、サロードはチューニングを下げたギターのようで、少し暗い音がする。僕はまず何よりサロードが好きだったんだけど、段々シタールが好きになってきて、とは言っても、サロードシタールが好きと言うよりは、シタール奏者のラヴィ・シャンカールサロード奏者のアリ・アクバル・カーンが好きで、他の人の演奏もいろいろ聴いたけれど、この二人のアルバムを聴くだけで、今はいいと思っている。僕には、この二人がずば抜けて美しい演奏をすると思う(一番有名な二人だと思うから、当然かもしれないけれど)。特にラヴィ・シャンカールはおそらく西洋音楽の素養があって、インドの楽器なのに、時々強烈にロックなフレーズが入って、どきどきする。アリ・アクバル・カーンは、サロードという、フレットの無い難しい楽器を、まるで空を泳ぐように自由に奏でる。音程の正確さも別格だと思うし、何十分もの即興演奏を聴いていて、全く飽きることが無い。
 他には、シェーナイというトランペット(チャルメラの音に似ているかもしれない)のような楽器を演奏するビスミラ・カーンという人の音楽と、ヴァイオリンでインド音楽を演奏するラクシュミナラヤーナ・サブラマニアムという人のアルバムを聴いている。それから、ギター奏者のヴィシュワ・モハン・バット。どの人も本当に素晴らしい。インド音楽は、基本的に何の楽器を使ってもいいらしくて、チェロを使う人さえいる。西洋音楽では考えにくいことだけど、インド音楽では、例えばシタール奏者にヴァイオリニストが弟子入りしても、何の問題も無いらしい。取り敢えず師匠の弾く旋律を模倣できて、インド音楽特有の音階やリズムをマスター出来ればそれで良くて、それがどんな音色だろうが、関係ないのだと思う。基本的に和音は弾かずに、旋律だけを弾くので、鳴りさえすれば楽器なんて関係ないのだと思うけど、大らかだなあと思う。
 インド音楽には微分音(半音のさらに半音などの音程)がよく使われるので、その為か、半音階以上に細かい音程の出ないピアノが使われているのを見たことが無い。撥で叩くダルシマーのような楽器を使う人もいるけれど、おそらく曲ごとにチューニングを変えているのではないかと思う。ピアノは、チューニングを変えるとなると大がかりなので使われないのだと思うけれど、もしかしたら単に高価だし、持ち運びにとても不便だから使われないだけかもしれない。ジャズのピアニストは、吹奏楽器やギターなら簡単に出せる、半音の半音などの微妙な音程を模倣するために、わざと実際に出す音の隣の鍵を一瞬だけ叩く、などの工夫をしているらしい。でも、それだけでは限界があって、やっぱりインド音楽には使いにくいんじゃないかと思う。

 あとは、音楽を聴くのが辛い間、グレゴリオ聖歌を好んで聴いていたけれど、今は、あまりに瞑想的すぎて、聖歌が面白く感じられない。もちろん、面白さを志向して作られた音楽ではないけど、とても辛いときに聴くと、少し救いや、自分の中の宗教心みたいな何かを感じて、幾分心が安らかになる。おそらく全て、神を讃える為の歌だろうと思う。神の救いに全く興味が無いときに聴いたら、ただの地味な、どちらかと言うと暗い、よそよそしい音楽に聞こえてしまう。
 今これを書きながら僕はレッド・ツェッペリンを聴いているけれど、レッド・ツェッペリングレゴリオ聖歌では、世界観が違い過ぎる。でも、不安が嵩じてきたりして、またロックがしんどくなる時がきっと来ると思うので、その時にはまた静かな心を求めて、グレゴリオ聖歌を聴くのではないかと思う。
 ちなみに僕がグレゴリオ聖歌を知ったのは、グレン・グールドがよく言及していたからで、コンクールなどでノイローゼになった演奏者は、一週間グレゴリオ聖歌を歌うのがいいということを書いていたからだ。グレゴリオ聖歌は非常に地味ではあるけれど、疲れ切った心によく効く、傷薬のような効能はあると思う。僕は伝統的な作品よりも、個人的な作品を重んじるけれど、グレゴリオ聖歌の多くは作者不明で、何百年も毎日毎日聖堂で歌われ続けてきた音楽だ。地味で退屈であるようでも、飽きることのない、人の心の深い部分に訴えかける力を持った歌なんだろうと思う。その多くは伴奏もハーモニーもなくて、ひとつの旋律だけが合唱で、あるいは独唱で、延々と歌われ続ける。元気なときには、地味で、とても効いていられないし、宗教色をわざわざ感じてしまって、寧ろ少し不安になってしまう。出来れば、ロックを聴いて楽しい時期が、ずっと続けばいいとは思うんだけど。またその内、グレゴリオ聖歌のお世話になるかもしれない。