覚え書き

先月、部屋から一歩出るのにさえかなりの苦痛と恐怖が伴うくらいの鬱が一週間ほど続いて、今度こそもう駄目だと思った。ちょうど溜めてあった薬もあったので、それに二週間分の処方薬を足して、ウォッカで飲もうと思った。でも、さあ飲もうと思ったときになって、気分がふと晴れたので、その日はウォッカだけをちびちび飲んだ。
いつまで生きていけるか自信が無い。誤魔化し誤魔化し、生きてはいるけれど、心から楽しいと思える時間は、僕には殆ど無い。
けれど妙な気楽さと自信を持っていられるときもあって、死ぬにしても生きるにしても、自分の頭を一度くらいは全力で使いたいと時々思う。

僕には自然があまりよく分からない。でもたまに、僕は自然が好きなのかな、と思ってみたりする。今はもう九月だ。机の脇の窓をいっぱいに開けている。虫の声がする。虫の声が、脳の中のとても暗い部分に浸みてくる感じがする。遠い、遠い昔から相変わらずの秋の風が、僕の皮膚に触れる。

季節感なんてものを、いいな、と感じてしまった時は、自分が宇宙的にとてもつもなくローカルな存在になった気がして、悔しい。百人一首の「風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける」という短歌なんかが、ぐっと来たりする。「風がそよそよ吹いている奈良の小川の夕暮れどきは、秋のように涼しいけれど、みそぎだけが、今日がまだ夏であることを教えてくれる」という意味の歌らしい。「みそぎ」というのは、夏に、河原の水で身を清める、昔の年中行事のことらしい。でも、ぐっと来た瞬間に、苔むしたような、じめじめした自分の感覚がすごく嫌にもなる。
あと、秋と言えば、松尾芭蕉に「愚案ずるに冥途もかくや秋の暮」という俳句がある。「愚」というのは「私」のことで「私が思うに、冥途もこの秋の夕暮れのようなものなのだろうか」という意味の句だ。冥途なんて行ったことも無いし、見たことも無いのに、何故かよく分かる気がしてしまう。
でもその、よく分かることを、いまいましくも思う。

少しずつ活字が読めるようになってきた。ここ12年ほど、頭の病気で、殆ど本が読めなかったけれど、先月には、本文が800頁あって、しかもその半分が古文で書かれた、小林秀雄の『本居宣長』をすらすら読めたので、ある程度は本が読めるようになったと言ってもいいと思う。ただ『本居宣長』は評論なので、それほど読むのに想像力は要らない。長くて難しい小説にもそろそろチャレンジしてみたい。小説を心から楽しめたら、自信も少しは回復するかもしれない。

僕は活字を丁寧に読む方だと思う。飛ばし読みが出来ない。例え、見開き2頁が丸ごと「死にたい死にたい死にたい死にたい……」の羅列だったとしても、全部、一文字ずつ読まなければ、気が済まない。大事な箇所だけを読んで、後は読み飛ばす、ということが出来ない。でもそれで困ったという経験もない。じっくり読むのが好きだ。

最近、実写映画をいくつか見た。でも、どれだけよく見れば「見た」と言えるのか、いまだに迷う。活字なら、一字一字消化している感触があるので、全ての活字を噛み砕いたという実感があれば「読んだ」と思える。読めないときは明確に読めないので、読むのをやめる。

時々思うのだけど、意識にはいろんな意識があって、意識が変わると世界がまるで変わる。感情の無い、無表情な眼に囲まれているような怖ろしい感覚に苛まれている時があるし、生活感情や、未来の覚束なさに窮々としている時もある。梶井基次郎の言葉を借りて言えば、まるで背を焼くような借金を背負っているかのような焦燥感を感じる。かと思うと、その日のうちに、生活のことも、奈落のような気持ちも、全然気にならなくなって、自分が不思議さと魅力のまっただ中に生きているような気がしたりする。その都度、世界が全然違って見える。

僕は13歳くらいの頃、自分が宇宙人だとしか思えなくて、人間なんてみんな滅びろと本気で思っていたし、人なんて苛めても殺しても構わないと思っていたし、でもそのことで悩んでもいた。母に「今すぐ母さんを殺せるんだけど」と真面目に言ったら、母は、ああそう、という感じで、あまり大した反応を示さなかった。「殺せる」とか「殺したい」という言葉は、いかにも中学生くらいの少年が言いそうだけど、そう言っている人たちは、本気で言っていると思うし、少なからず困惑を抱えていると思う。

憂鬱は本当に辛い。治ってみると何と言うことも無いのに、憂鬱な間は、腐った枯れ木になったような気分だ。何かを書こうにも、キーボードのキーさえ重いし、指先の感覚が遠い。ご飯を食べようと思っても、自分の箸を選ぶ気力さえ無い。声も出ない。7月の初めから、異様なくらい元気で、何をしても、寧ろ何もしなくても、楽しくてならなかったのに、先月の20日くらいから時々調子を崩すようになって、月末の一週間ほどは本当にひどかった。

憂鬱なときには、憂鬱な本が読めない。何となく本棚から出してきた梶井基次郎の『檸檬』をぱらぱらと捲っていたのだけど、一行ごとに、身につまされるような痛みを感じて、三行も読むと、脳が酸化していくかのような頭痛と、吐き気がした。
朝起きると、身体が重くて、何時間も起き上がれずに、寝たきりで意識はしっかりしている老人の絶望ってこんな感じだろうかと思った。未来は無いし、過去を見ても後悔と悔しさばかりで。何日か経てばぴんぴんして元気に書きものをしていられる僕には、本当の絶望は分からないだろうけれど、これで最後かと思う気持ちは、いつもとてもリアルだ。