永遠として

私が生きていることと、私が死んでいること、の間に、違いがあるとするなら、誰に、 何にとって、どんな違いがあると言うのだろう?
 ――私が生きているとき、あなた達は死んでいて、私を殺そうとする、
 ――私が死んでいるとき、私の望みは常に叶い、あなた達はどうしようもなく死んでいるにも関わらず、私を歓迎し、歓迎し損ねて、私をせめて苦しめたい、と表面的には笑いながら、人生ってどうしようもないねえ、と言うのだけれど…
生きてるって大変だね、「ねえ?」と 私の困惑を読み取ろうと、「ねえ、生きてるって、生きてるって、大変だね、どうしようもないよね?」生きてるって、苦しいね、悲しいよね、ねえ?
(でも、そうなの?) 私が生きていることと、あなた達が生きていることの間に、 繋がりなんかない、もともと断絶なんてなかったのだから、あなた達が私に同意を求めるまで、あなた達は確かに生きていた、違いなんてなかった、何も損なわれることなく、私は、ただしくあなた達であった、違ってなんかなかった、そうだから「違い」はとても楽しく、私とあなたがどうしようもなく違うことは、「個別性」はそれこそが楽しさと、死ぬことの楽しさと、死なないことの根拠だったんだ、
それでも確かに個別の私が、あなたが死ぬことは、嬉しいことだったね、生きることは特別な、とっておきの遊びだったよ、なのにいつまで、 いつまでとっておきにするつもりなの、それならばあなた達は私を死ぬまで殴り、私は平然と殴り返す、それがとっておきに素敵なこと、お互いに死ねば、言葉がすっぽりと抜け落ちた今にもまた、眠りと、ままごと遊びが、生き死にの楽しさが、戻ってくるに違いないから、
名前のない、砂地から起き上がれば風は空っぽな私の胸を満たし、胸の中の拡がりがあまりに宇宙なので、私たちはみんなてんでに砂遊びをしたり、言葉遊びをはじめ、そして 同時に全ての眼差しは優しさは、既に出会いつづけ、その上を星や空や太陽や風は、懐かしい肉体のように私たちの触れられない遠さとして、私たちはみな目を瞑りながら、空を見上げながら、目をしばたき、歩きながら眠りながら、夢を指さし目を開けつつ、も笑うだろう、いつまでも、いつまでも、笑い続けるだろう、(それが詩じゃなくて何だろう?)

もう詩なんかありはしないよ、そこでは全てが空の観点から、私たちを覆い尽くし、暗さに私たちを空洞にすると、ほらもう空が産まれる、私たちの内部から溶け合う空が、空からはまっさらな音が、音が分裂し旋律となりかけたときにはまた音が、音が、まっさらな音が降ってくる、高い高い、私たちの空から、(不安は私たちには親しい影の樹)
いつか笑いを忘れるのだとしても…そう、境目は目撃されたときには世界を覆っている、言葉は、発される前にはもう全てを語っているというのに、(ここにもう詩なんかない)

雨後の一瞬、旋律に言葉を、単語を、込めてしまったときには、ただ目を細めた一瞬、私は断絶されて、背骨を、背骨の痛さを感じ始めている、未来を思い出しながら、ただ雨の無い方へと走り続けている、痛みは、増しつづけ、喉が締め付けられる、と、私はひとこと血を吐くように、痛みを砂地に叩きつけ、「それが詩じゃなくて何だろう?」と呟くことの死を、別れの挨拶とした、世界へ、あなた達へ、
そのことを、覚えていますか? あなた達の記憶には、過去よりも彼方の現在があって、そこで私たちは永遠の別れを告げたいと、個別に、個別に、個別に、抗うことが出来なかったのですよ、そうして言葉は、空気からいずれは、鋭い凶器となって、一瞬だけ、私たちは皆顔を伏せたのです、その遊びの一環は、またたくまに過去の記憶となり、忘れられた夢となり、確かな憂鬱となり未来を産みました、
未来は一瞬にして永遠の重みで、私たちを押し潰して、それからの長い長い時間の経過とは、ただ私たちにとって空の色の不穏の繰り返しですが、経過も不穏も、繰り返しも、どんな時間の長い私たちの不和も、(人生って)、みんなみんな、一瞬なのです、
一瞬とはどんなに長いかと、知らずとも気付くとも、それにしてもみんな、みんな、一瞬の出来事なのです、長い長い一瞬に、あなた達、私たちみなは、生きているんです、だからともかく、殴り殺すことです、私は平然と殴り返すだろうから、そうして首が折れて、脳が腫れて破裂したなら、私はこの一瞬を、死角へと突き破って、私は言葉をさかのぼり、記憶は過去を見遣ることをやめ、そして泰然と、やっと敢然と、私は個別としてただしく私として、生きられるというのだから、詩なんてもうどこにもなくて、
……詩なんてもうどこにもなくて、ただ風と空と太陽が刺すように私に滲み、それならば虹の根元に立っているだろう私は、呼吸と鼓動と、みんなてんでに立ったり座ったり、歌を口ずさみ、また言葉遊びをするあなた達、それら全てが、全てが生きていることが、願望が、見上げることへの渇望が、それら全てが、全ての全てが、それから言葉を失うことが、それら全てが、詩じゃないのだとしたら、何が詩だというの? 何が生きることなの?
生きることは、そのままそっくり、死ぬことなのではないのですか?(そして今、私は果たして、生きているの? 生きていたことなんて、あったというの? 今、今なんて、問わないでください。)


私は私がかつて所有したものは、実在を拒否して、虚構に執着したことの集積、……不安な呼吸の、余韻に残る震えが肺の底に溜まり続けていること、そのことで光には嘔吐感を感じ、せめて私の所有が、私の過去が、私がこのような私であることそのことが、私を埋葬すること、への願望となって、
……痛みを感じず、浅く影だけ呼吸するならば、いつしか私は私の死という静けさの中へ、存在せずに且つ私は何も知らず、ただ、「永眠」を着実に手に入れられるだろう(推測による選択ではなく、自傷を選択し続けることを選択すれば)、
と……埋葬される感触が、静かで心地よく、私は私から運び去られながらなお、ここに留まり続けること、所有とはすべて、それを望んでのことでした。私が私を、所有を、私の所有を、執着を捨てれば、途端に私は生き始める。それは怖いことです。
……ところが埋葬の感触は、私を死ではなく、生へとぐずつかせていることにも気付いたのです。死への望みはそのまま、望まれた死を風化させていきます。生きることだけが同時に死ぬことでした。それに気付いたときにはもう、私は私の墓石を叩きつぶすことにしか興味がなくなった程ですが、さらに気付いたことには、私は全然、埋葬なんかされてもいなくて、死んだふりをしながら生き続けることの、覗き見趣味に、せめてもの快感と、暗がりでの、たった一回でもいい、深呼吸を求めていただけなんです。
落ち度があるとすれば、私は私への致命傷が怖く、その痛みが怖く、痛みのない死を望んでいたのですが、そのことは逆に、いつか訪れる痛みに対する恐怖を途方もないものにしていたのです。
私は死を怯えはじめ、そのことがそっくり自殺欲求となり、生きることは終わることのない痛みの増幅でした。死とは、生きることだ、と思うなら、生も、死も、ただ、生と死、でしかなく、それ以上の何ものでもない、何でもない、ただの、生と死、でしかないんです。捨てるもなにも、私はもともと何も所有なんかしていなかった。私は、勘違いしていたんですよ、必死に意味づけをしなければ、生に充足なんかない、なんて。
でも、違ったのです。意味などないこと…、意味をつけられるものではない、ということ、つまり全くの無意味であることが、そのまま……、もし「充足」なんてものがあるとすれば、そこからしか生きることの充足など得られないということ。
でもね、「充足」なんて言葉がないなら、もっといいだろうと思うのです。言葉、とはいつだって願望なのです。私にとって確かなものは、言葉の範疇にはありません。それはいつも言葉を捨てたところ、言葉より前であるか、それとも言葉を超えたところにしかないのです。書き続けることは、取りも直さず、言葉からの脱出の試みなのです。詩とは、言葉を否定することです。私は、言葉をただしく私から抜き取り、紛失したいのです。


「雨が終わる少し前、街は少しだけ静かになる。街を流れている、海流のような、それとも全てが同時進行している『今』の時間、あるいは海よりももっと大きなもの、その流れ、それはいつだって空気よりは確かに見えるものだけれど、それが見えるたびに、私は漠然とした…落ち着かない気持ちになる。
その流れはいつも少しだけ澱んでいる。それは私に問題があるせいかも知れない。けれど、雨が上がる前の一瞬、海がほんの数秒間だけ――、澄み切って、いつもの曖昧な、私の視界の乱反射は遠のき、目の前には、どこまでもどこまでも続く、水面下の世界だけが拡がっている。
街はみんな澄み切った静かな水の中で、ただ明るく穏やかに、安心しきっているように見える。何もかもが、海の底の底で…、見上げても水面なんか見えなくて、今、街はとても静か。その中を私は漂いながら、それでも立って見ている、何もかもが、ゆるやかな、感情そのもののような流れに、身を任せていて、喧噪さえもが平和な光景の一部のよう…、
街の全て、建造物や道路や人々が、みんな透明な光を浴びながら透明な光を発していて、そしてどこまでも透明に世界が続いていく中で…、それらは私を取り巻きながら、ひとつの分かちがたい魂みたいに、流れ、発光しながら、過ぎていく。
…過ぎて、いく、それがとても、とてもくっきりとして、私には見えている、聞こえている。とても、とても綺麗に、それは、私にとっての、運命的な風景として…、私は死に、私は産まれる…、幾たびも、幾たびも、幾たびも。」