憂鬱の中と外

 ここ一週間くらいかな、大分気分が落ちていたんだけど、今朝は起きた瞬間に、自分が憂鬱さから脱出していることに気付いて、嬉しい以上に不思議さを感じた。昔(中世頃だろうか?)アイアンメイデン(鋼鉄の処女)という拷問器具があったとか、実は無かったとか言われているけれど、憂鬱はそれに閉じ込められることに似ている。身じろぎも出来ない空間の中に無数の刃があって、ほんの少し身を捩るだけで、皮膚を裂かれ、痛みが走る。何を考えても、全ての思考が痛みとなって、心を刺す。全ての考え、全ての感覚が、痛みに変換される。「ポジティブな考えをすればいい」なんて脳天気な言葉は、何の役にも立たない。「大丈夫だ」と考えれば「大丈夫なんかじゃない」と反射的に感じ(何せ痛いのは事実だから)、余計に心が弱るし、時間が解決してくれると言ったって、今まさに心が痛むことをどうしようも出来ない。見えるものや、言葉の全てが、痛みに変換される。何もかもが僕の命を削る。生きていること自体が、終わりの無い衰弱や恐怖と同義になる。しかも、動くことが困難なので、簡単に自殺することも出来ない。脱出の可能性はゼロだと思い込んでしまう。
 それがある瞬間、心のアイアンメイデンから、ふと抜け出している自分に気付く。傷跡さえ残っていない。「やった、自由だ」と歓喜するよりも、一体どうして抜け出せたんだろう?、それとも元々僕は閉じ込められてなんかいなかったのだろうか?、とあっけに取られたような気持ちになる。人は……少なくとも僕の心は、しばしば何の前触れも無く、狭い狭い拷問器具に押し込まれてしまう。しかも他人には、致死的な状況にいる僕が見えないみたいで、多分、僕の心から流れる血と痛みを、想像することすら出来ない。当然だ。僕だって、人の痛みを目視出来ない。今まさに眼の前で苦しんでいる人が、まさかのっぴきならない苦痛と死にたいほどの恐怖に近接しているなんて思いもせず、「世界はこんなに自由なのに」と、まるでその人が好きこのんで身を縮めているようにしか見えず、優しい言葉や説得で、その人の不幸を救えるのではないかとさえ、簡単に考えてしまう。
 けれど、自らが鬱状態に陥ったときには、それがまるで見当違いであったことに気付く。本人だって、鬱から脱出したいと切実に願っている。でも無理なんだ。心をずたずたにする狭い箱には、何重にも鍵が掛かっている。誰が好きこのんで我が身を切り刻む箱に自らを押し込んで、そこから出られないように厳重な鍵を掛けようなんて、奇矯な考えを抱くだろう?
 その箱は、僕の、そして多分人たちの、すぐ傍に、いつも存在している。何の予防策も無い。ふと気付くとその中に入っている。誰からも同情してもらえない。誰にも、他人の心の致死的な状況が見えない。
 ……そしてまた、永遠の拷問は、いつも不意に終わる。でも、今度こそは、次こそは終わらないかもしれない。死んじゃうかもしれない。どうしようも、どうにもならない苦痛。それが今回の僕みたいに、数日で終わることもあれば、何年も、何十年も続くことだって、十分にあり得る。地獄だ。僕はその地獄に何年もいたことがある。地獄はいつも、僕のすぐ傍にある。いや、待ち構えている。それが何の為に存在するのか分かった試しがない。
 ただ、何の意味も無く、ただ静かにそれはある。ふと足を踏み込むと、がしゃんと鋼鉄の扉が閉まり、あるいは気付くとその中にいて、どんなに叫んでも、叩いても、絶対にそこから逃れる術はない。その内には痛みに耐えかねて、自分の痛みが、ただ無感覚になるのを願うようになる。疎まれようが、身体が腐敗し始めようが。足掻くことをやめ、緩慢な、出来れば速やかな死を願う。死だけが暗い、ただひとつの希望になる。無感覚になることと、意を決して何が何でも死ぬこと、選択肢はそのふたつだけになる。
 暗い暗い事実だけど、それは事実だ。天国と地獄。地獄は大袈裟なものじゃない。いつも心の、すぐ傍にある。……天国。それは今書いていることの主題じゃない。けれど天国もまた、今この場所にある。