奏でる

冷戦時に於いて、地球は火星よりも、太陽に近かった。今でもそう信じているひとはいるし、そしてまた子供の教科書を書架いっぱいに集めたあなたは、八歳の誕生日に、茶色の小瓶を買ってもらって、中で蝶を飼うことに決めたけれど、大人になった今でも、あなたは蝶の捕まえ方を知らない。

私は太陽の下で、あなたが雲になるのを見ていた。あなたはピアノに白鍵と黒鍵とそして赤い鍵を何処に並べるかで夢中になっている。あなたは楽器を誰よりも知っているのに、ピアノを自己流に解釈したために、さまざまな色調の赤や白や黒の塗料とニスにまみれたあげく、夢見がちな子供や、それよりももっと薬物中毒者のための、全く新しい、そして詩的な楽器職人になってしまった。
世界中を旅したために、あなたは日本語の美しい部分だけをよく覚えていて、そのためにあなたの楽器はますます詩的で、そして夢の原理に厳密になるほど、あなたは自分の名前や年齢を忘れることが多く、それはあなたの身体も同様だった。
あなたはたったひとつの試作器としての楽器を、長い間、作り続けていた。或いは、夢を見るのが、一日の殆どの、あなたの仕事だったのかも知れない。いつ見ても同じ、薄汚れて木屑にまみれ、塗料の染みついたシャツを着て、いつ見てもずっと同じ一日の中に、あなたはいるみたいだった。
もともと少なかった口数はさらに少なくなり、私が楽器を鳴らしてみると「どうかな」と言う。その楽器は、ピアノよりも縦に長く、形としてはアップライトピアノに似ているけれど、鍵盤が普通とは少し違う(白鍵と黒鍵の並びは、ピアノの鍵盤に準じているけど、赤い鍵の位置や、用途は、何度も変更された)だけでなく、他にもいくつかのノブやレバーやボタン、それから一時は目盛りまで付いていたために、それは、楽器と言うより、まるで、蒸気機関が主流だった頃に、巨大なゼンマイ時計をそのまま転用して作られた、原始的な計算機か何かのようにも見えた。
しかし、気品という点に於いては、胃の痛くなるような機能一辺倒の無骨さなどは微塵もなく、それは最初はバロック調にも見えたけれど、私が楽器の進捗を見に行くたびに、多分あなたがあなたの美感で何度も角度を変えて眺めては、段々に目立った装飾を減らしていったのだろう、色合いは平面的な白を基調とし始め、注意深く輪郭に曲線を取り入れ始めたために(私が見ている間、あなたは目の細かい紙やすりで、楽器をたったひと擦りしたり、そしてまた、私が鍵盤を押したり、つまみを回すと、音について、何かひとこと呟いたり、長いこと遠くを見るような目をしたまま黙っていたり)、全体としてひとつのシンプルな玩具のようになっていった。
ボタンやノブは段々に、現段階では数個にまで数を減らし、その代わり、鍵盤の右手側に、小さな、タイプライターのようなキーが取り付けられ、そしてそれはすぐにラップトップのキーボードのようなものに取り替えられた。私はそれを見て、興奮した。
プラスチックのような白に塗られた楽器の複雑な内部では、音を出す機構が三種類あって、ひとつは鍵盤を押すと箱の内部の上部から、あなたが世界中で集めた外国の雨が降るようになっていて(それぞれの雨には地名や詩人の名前が付いていて、その数は増え続けている。雨の種類や雨量は、つまみやレバーで切り替えたり、自由に配合したり出来て、いつでも新しい、見たこともない雨を降らせることが出来る。それを実現するため、あなたは不得手な電気工学と気象学を、一から学ばなければならなかった。それが夢の領域にまで達するまで)、その雨が箱の下部に薄く溜まった、繊細な振動を与えられた水溜まりに落ちると、その雨音と、微かな空気の揺れを、複雑に並び合ったピックアップが拾う。固有のそれらの振動、周波数を、真空管と美しい線の並んだ装置で、立体的に合成し、電気的に増幅して音を出す仕組み。
もうひとつは、中でひとつの季節、ある特定の時間の空気を再現して、それを言語化し、それを音色に変換する、もしくは、中の状態をひとつの化学物質を仮定して、それをそのままそれを音に変換することも出来る。これは、あなたの詩人としての、美しい直感を以てしか、為しえないことだけれど、あなたは気に入ってはいない。あまり美しくない、と言うのが理由のひとつ、もうひとつは、これは、既存のシンセサイザーに、少しの遊び心を加えたに過ぎないから、また、初期のシンセサイザーとほぼ同じ使い方だって、この楽器は出来るのだし「それでももう少し改良を加えれば、特にピックアップが問題で……」、とあなたは言い、そのときだけあなたは、少し疲れたような顔をする。
それから、もうひとつの音は、キーボードを使って打ち込まれた言葉、或いは、譜面台に乗せた本、楽譜、もちろん詩集、画集、図鑑や医学書、写真、それらを音や音階、周波数に変換することで、音色だけでなく、旋律を生み出すことも出来る。
本を読みながら目を瞑ると、微かに鳴るような音や、音楽が、言葉や詩から見つかることもあるけれど、ただ乾いて寂しげな風の音が聞こえるだけのこともあって、そしてこの楽器を使って、詩の音や旋律を同時に聞いた場合、或いは物語を聴いた場合、私は高い確率で意識を失ってしまう。あなたは「それは改良するべきことだろうか」、とあくまで社交辞令的な口調で言い、そして無論そのままにしている。
そして赤い鍵はあなたの一番苦心の作品で、これは見えないように取り付けられた、外付けのマイクと、それから一種のソナーと関連している。簡単に言うと、それはひとつには、完璧な無音を奏でるための鍵であり、そしてまた、奏者の精神や心の声そのものを鳴らすことを目的としている。しかしあなたは内面なんて言葉を、あまり本気で口にすることはないので、それは純粋な遊びの音、楽しい夢のメロディの一種として構想されていて、或いは楽器との対話のための鍵として、白鍵と黒鍵の間に、注意深く散りばめられている。
そしてそれが全く無駄な鍵となることが肝心なのだ、とあなたは言う。普段、赤い鍵は鳴らない。或いは鳴らないどころか、周りの音を完全に消してしまう。けれど突然に、けたたましく聞くに堪えない音を鳴らすことがあって、そしてときには、起きたばかりの時なんかには多くあることなのだけど、白鍵と黒鍵との間で、赤い鍵は、切れ目のない旋律や和音となり、まるで聞いたことのない、見たこともない、けれどただ懐かしいと感じる、美しい情景を奏でる、それは、あなたがいつか見た光景なのか、それとも私の記憶なのか。
……あなたは、笑って、まだ、もう少しだな。多分、もう少し、もう少しは……、と言う。それ以上は、何も、言わない。

あなたの楽器の中には、麻薬が入っている、あなたが世界中を旅したのも、日本では手に入らない薬物を手に入れるためだ、と言う噂が立っている。あなたは、そんな噂を、何も知らない。あるいは全く気に掛けたそぶりを見せない。……そして、私は、死にたくなると、あなたの楽器を弾かせてもらいに、あなたの工房へ出かける。