11月8日(金)、
午前10時か11時頃に起きる。昨夜何時に眠ったか正確には覚えていないけど、やっぱり14時間くらい眠ったと思う。起きて、少し読書をして、それからアニメを5時間以上見ていた。疲れてきたので『ようこそ映画音響の世界へ』というアメリカのドキュメンタリー映画を見る。映画のサウンドって、無音の映像に、全て後から入れるんだね。映画にリアリティを持たせる仕事としては、監督や撮影の仕事よりもずっと大事なんだ、って初めて知って驚いた。
ただ単に役者が歩いているシーンでは、何種類もの風の音を組み合わせて、風音に感情を語らせたりとか。今までそういうのは何となく当たり前にあるものだと思っていたけれど、「当たり前」って感じられること自体がすごいのだと思う。怪獣や恐竜の声は、動物園で録りまくった動物の声の合成だったり(ゴジラの声はたしかチェロの音だったよね)、狭い画面の外で起こっていること(例えば戦争映画では)、主役しか映っていないのに、周りの戦況が爆撃音やヘリの音で、ありありと感じられたりとか。
『地獄の黙示録』の戦場のシーンが昔から大好きなんだけど、現地で音を録ったのだと思い込んでいた。サウンドマップを綿密に描いて、ひとつひとつの音を丹念に組み合わせていたと知ったので、これから映画を見る際の見る目というか、聴く耳が全然変わったと思う。音響のスタッフの仕事を意識しながら、近い内にまた『地獄の黙示録』を見ようと思った。もう何回も見ている映画だけど。
例えば登場人物が街中を歩くシーンでの、人々の声や、生活音や、車の音、アナウンス、流れる音楽、、、それらを全て別々に録音して組み合わせるのって、気が狂いそうに緻密で時間の掛かる作業なのに、今まで僕は単に「歩いてるなあ」としか認識してなかった。でもそういう音の、ひとつひとつのディテールが合わさって、やっと映画の中にひとつの街が出来るんだ。ぼーっと画面を見ているだけで、ヘッドホンを着けてるだけで、僕は映画の世界に入ることが出来る。音響の仕事が、地味な裏方だとは思えなくなった。
あと、映画音楽はやっぱりすごい。僕はハンス・ジマーが作曲した映画のサントラが好きなんだけど(特に『ダーク・ナイト』のサントラ)、彼もこのドキュメンタリーに出演していて、音楽は「まずはハートから作るんだ」と言ってた。それって、とても文学にも通じる。ぐーっと、心の深くに沈んで、そこから光を見付けないと、何にも作れない。技術よりも、その光が表現の核となる。
学べるところが多いドキュメンタリーでした。そして見終えた後、僕の部屋の、些細な音でさえ、ひとつひとつが生きているように聞こえた。音には命がある。というか音は僕の生活を、無音の世界よりも、ずっと生きたものにしてくれている。ジョン・ケイジが言っていた「全ては音楽だ」という言葉が、初めて少し腑に落ちた気がする。表向きは映画音響のスタッフの技術と苦労を延々映したドキュメンタリーなんですが、音に対する意識が、見る人によっては、少し、または全面的に変わるような作品だと思いました。
11月9日(土)、
朝まで起きていて、『コンパートメントNo.6』というフィンランドの映画を見る。電車の寝台室に乗り合わせた男女が、少しずつ心を開き合って、ほのかに愛し合うようになる話。ずっと孤独なムードが漂っている映画。他にあまり感想は無い。
男が粗野で下品な男から、急に好青年に変わるので、途中から違う人物に替わったのを見逃していたのかと、最初の方を二度見した。主人公の女の人は、ずっと悲しいムードで、きっと遠方への列車旅行から帰っても、悲しいままなんだろうな、と思う。北国の雪景色ばかりで寒そうな映画だった。
11月10日(日)、
一昨日から起きている。全く眠くない。朝から晴れてて、ほどよく寒くて気持ちいい。
11月11日(月)、
三日前から起きている。恐怖感。夜明け前『ハンニバル・ライジング』を見る。主人公のハンニバル・レクター青年が、ただの自己愛に満ちた猟奇殺人犯になっているのが残念だったけど、まあまあ面白かった。他の作品のハンニバルは、どこか悲しみを秘めていて、異常者にも関わらず、どこか捨て置けないような親しみ深さがあって、それがアンソニー・ホプキンスやマッツ・ミケルセンが演じている壮年期のレクター博士の魅力だと思う。この映画のハンニバル青年は、見るからに軽薄なシリアルキラーで、自意識過剰なチンピラみたいな感じだ(『時計じかけのオレンジ』のアレックス君の真似をしていそうな)。でもまあ、それはそれとして、映像は綺麗だった。監督は自然な美意識を持っていそうだし、もっと全然路線を変えて、叙情詩的な静謐な感じな映画にした方が良かったんじゃないかと思う。もっともっとハンニバル青年を無口にして、彼の悲しみを描く路線にした方が素敵な映画が作れたような気がする。
昼前。理由の付けられない、叫び出したいような恐怖感。少し眠ると悪夢を見る。起きていて、シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』を読む。2024年の新訳。シルヴィア・プラスの詩は昔から大好きで、彼女の唯一の長編小説であるこの本もずっと読みたかった。生きることは、とてつもなく恐ろしいこと。恐怖のどん底で、毎日辛うじて、金の粒のようなとてつもなく美しくて儚い希望を掬い上げるけれど、次の朝にはそれは失われ、世界はまた隅々まで灰色の砂で出来ている。
取り憑かれたように希望を探し続けてる。見付からなければ終わりだ。死。見付かったら見付かったで、その胸を満たす小さな光と共に死にたいと思う。人間って、行き着く先は死しかないんだよ。シルヴィア・プラスは本当の詩人だ。詩人という人種は、自分の生き死にで精一杯の人だと思うから。それ(生死)以外はみんな余興だ。余興はいつか終わる。自分の生と死に真摯な人は、また他人に対しても実直な人だと思う。余興に興じることが、他人を見下すことにも、つまらない欲得から他人を少し利用する、ということにも繋がると思うから。
奇跡みたいな美しさは現実だ。そして灰色の世界を作るのは眼と頭の中に溜まった砂のようなもの。人々は砂を投げ合っている。世界を覆い尽くす砂埃が治まるのを待たなければならない。それには眼をぱっちり開いていないと。その分眼が傷付くとしても、それで涙が止まらないとしても。僕は本当の奇跡、本当なら有り触れているはずの美しさを感じなきゃならない。狂いたくなければ。本当に笑いたければ。ひとりになりたければ。そして本当の意味で誰かと一緒にいたいなら。人生は、命を懸けるのに価するものだ。
僕は生きたい。だから本を読んでいる。映画を見ているのは、自分の中にも当然、悪が存在しているのを見付けるため。僕の中にもナチスはいて、どんな人の中にも冷酷な殺人者はいる。だからこそ僕たちは学ぶんだ。他者への不安(それはすぐに取り返しが付かないところまで膨張する)は、その殆どが自己欺瞞から出来ている。自分がとてつもなく凶暴で野蛮なことを認めない限り、争いなんてこの世から無くなるはずはないんだよ。
昼過ぎ、注文していた『折々のうた』四冊が届く。俳句編が二冊に、短歌が二冊。最近俳句を、もう少し深く読みたいと思うようになった。手に取ってみたけど、怠くて、しかも執拗に目を覚まさせ続ける恐怖が薄れない。また後で読むことにする。
夜遅く、何やら身体中の皮膚の、少し奥の細胞がざわつくような。
11月12日(火)、
日付が替わって三時間ほど、自分の好みを思いっ切り前面に出した俳句(のようなもの?)(『死後の世界で会いましょう』)を書く。つまりは夜中に部屋にいて音楽を聴いているのが大好き、という季節感があろうはずもない、現実感から遊離した、ひとりきりの充足感ばかりを並べてしまいました。多分内容は暗いし、閉塞感が強いです。少し生活感情を取り戻さないと危なっかしい気がします。
恐怖を感じる。未来が完全に閉じられている気がする。
11月13日(水)、
眠れない。
午後、今すぐ死にたい、と切羽詰まってきて、「ああ、もう薬を全部飲もう」と思ったけれど、セロクエルだけを飲んで、二時間ほど眠る。起きると、穏やかになっていて、もう少し生きようと思えた。死にたいと思ったり、生きたいと思ったり、これは脳だけの問題なのだろうか? 何にしろ、脳というものがあるとすれば、僕の脳は少しバグを起こしているみたいだ。
今日は眠る前までは音楽さえ聴いていなかったけれど、起きると音楽に飢えていて、早速ヘッドホンを着けて、音楽の世界に浸る。音楽って本当にいいな、と思う。
夜、すごく眠くなる。明日は平和に目覚められるといいな。