メモ(死にたいこと、生きたいこと)

2024年9月30日(月)、
 死にたいというより、多分僕は嘘の自分を捨てたいのだと思う。僕はとても簡単に「僕」という言葉を使う。でも、僕が「僕」と呼んで、一生懸命大事にしようとしている「僕」とは何ものなのだろう? 僕が様々なものを感じていること、そして僕を含めた全てが、今生きていることの奇跡。その奇跡を実感している僕こそが、本当の僕なんじゃないだろうか? そして名付けられない予感のようなものを。

 僕はもう、何もかも失ってしまった、とときどき思う。両脚を切断されたサッカー選手のように。二十年間命懸けで書いてきた原稿が全部燃えてしまった作家のように。究極には、サッカーが一生出来なくても、ノーベル賞級の小説が消滅しても、世界とか宇宙にとっては、本当に些細なことだ。でも、サッカーが出来ないことや、もはや何も書けないことに拘ると、当人にとっては一生が地獄になる。

 僕は自分を、主に自分自身の遺伝子の被害者だと思うことで、自分を庇ってきた。中学に行くのをやめて、高校も大学も中退して、躁状態になって次々と始めたバイトも続かず、知人の多くとの関係が切れ(アドレス帳の上から下まで電話を掛けて喋りまくってた)、女の子との同棲も上手く行かず、デイケアにも行けず、次第にひどい鬱になって、何度も死のうと思った。数ヶ月に一度くらい、死ななければならない、という焦燥感に襲われる。残ったのはODとアルコールと不摂生で弱った身体と、もう新しく切るところが無くなって、全体的に樹皮のようになった左腕くらい、……多分他には何にも無い。

 こう書きながらも、僕は恐ろしくて身動きが取れない。今は雨戸を閉めて部屋を真っ暗にしていて、とても喉が渇いているけれど、台所までの明るさが怖い。何に怯えているのかも分からない。

 人間の一番の悲劇は、人々が一般的に自分自身の価値を(生きてるだけで完璧だと)認められないことだと思う。

 生きることの苦しみの為に誰かが死んでも、あるいは幸福な人が幸福論を声高に唱えても、世界は少しも変わらない。僕はたくさんの人々が共通して住んでいる「世界」をあまり信じていない。結局はそれぞれの個人が自分自身の内側の空虚さや広大さに気付くしかないと思う。もし「世界」が良くない方向に進んでいるとすれば、それは誰もが自分自身の決まりきった価値観から抜け出すことを恐れているからだと思う。

 死は簡単に消費される。でも詩は簡単には消費されない。詩は、理解すればそれで終わり、というものではないから。音楽も。多分、絵も。単純な理解では終わらないものが、もっともっとたくさんあればいいと思う。

 今朝、少し、楽しさの影みたいなものを感じた。昔聴いた音楽を懐かしむような感覚で。空気が甘い。僕は多和田葉子さんの詩と小説を愛する者なのだけど、多和田さんは、他の何よりも書くことを楽しんでいると思う。書くよりも楽しいことがあるならば、そっちを本業にした方がいい。
 本当に楽しいことはみな、人間の三大欲求を超えていると思う。食べて、寝て、性行為をして、お金を使って、食べて、寝て、……の繰り返しが楽しいとは思えない。人間って、放っておいたら自分を滅ぼしてしまう動物だ。生きるには、ものすごく楽しいことを見付けなければならない。さもないと、人生に飽きる。

 楽しくない人が語る人生訓は真実ではない。大抵は無い物ねだりだからだ。僕が過去、本当に心底楽しいと思えたのは、書くことと音楽を聴くことだけだ。それは完璧な楽しさだったので、それ以上のものは何ひとつ求めていない。

 脳が何かは知らないけれど、取り敢えずはコンピューターの一種であり、世界を受信する為のデバイスみたいなものだと思っておけばいい。脳が壊れると言語を扱えなくなるし、音楽を認識出来なくなるし、何より快感も幸福も遠のいてしまう。脳と心の関係は知らない。けれど脳内麻薬はいっぱい出て欲しいし、勝手に楽しくなれる脳を持っている人はいいなと思う。いや、勝手に、と言っても、やっぱり努力は必要なのだろうか? 小さな子供はあまり労せずして楽しんでいるみたいだけど、大人は大体楽しくなさそうだ。何処かで大体の人は心折れるのだろうか? 多くの人が、心からの喜び、という言葉には懐疑的になっているように見える。どう考えても、子供より大人の方が楽しめることが多いはずなのに。

 昔の書院造りの和室みたいな部屋にいたいと思う。夕暮れどきには部屋がオレンジ色に充ちて、静けさの中で、庭の石には夕闇が染みていて。誰も責めることなく、誰に咎められることもなく。寂しさについていろいろと質問されることもなく、自分ひとりの身体を抱いて。……でもそれも寂しい。

 「僕」という言葉は本当はきっと、僕が生きていて、全てが生きていて、何もかもが今この瞬間、僕を含めて存在していることの驚きの中から発せられる言葉なのだと思う。僕の惨めさから出てくる言葉ではなく。強いて言えば、僕はこの瞬間を生きている全てだ。この干上がった身体の内側の空虚感を「僕」と名付けていると、世界は言葉に引きずられて、あっという間に空虚に満たされる。僕の世界は小さくなり、歳老いて役立たずになっていく自分が、僕の世界の全てになってしまう。

 理屈としては分かっているんだ。なのに死にたいとか思ってる。僕は僕を破綻者だと思っている。そしてその考えはある程度正しいと思い込んでいる。でも、同時に、生きていきたいとも思っている。生きていたい。そして他人の幸せを心底願える人間になりたい。

 人たちの言動の細部が、とても愛しい。真理が好きというより、人が好き。可愛らしい仕草も、怒った態度も。彼らもまた、僕と同じ時間を生きている、確かな、奇跡的な存在だと、いつも感じていたい。僕は生きていて――多分、痛みも祈りも、言葉への湧き立つような思いも、僕自身も、あなたでさえも、――すべて忘れてしまうのではないかと思うと悲しい。出来る限りは取り落とさずに生きていきたい。死の瞬間まで、僕は僕でいたい。そして世界の奇跡を、感じていられる存在でいたい。