ここ十日くらい、死ぬことばかり考えていた。どうしてそうなのか分からない。不安になったって、いいことなんて何にも無いのに。
月末に死のうか、それとも生き続けようか、……今も迷っている。
心残りは、僕が書けることを書き切ってないこと。僕が死んだら、きっと泣いてくれる友達がいること。
十日間、ほとんど文章も書かず、詩も書かず、短歌だけを気が向いたときに書いていた。僕は滅多に短歌を書かないし、書き方もよく分からない。思い付いた、主に暗いことを、だらだらと書き流している。
短歌で意識していることは、出来る限り感覚的であること、一首に多くを込めないこと。それだけだ。
現代の短歌はほぼ読んだことがありません。唯一穂村弘さんの「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ」という短歌は、それだけネットで読んで、本当に本当に好きで、僕の「由比良」という名前はそこから採っています。(「倖」は、『たったひとつの冴えたやりかた』の、「コー」という人物から採っています。)
問題は死ぬかどうか。おそらく100パーセント死ねるだけの薬はあって、今手許には、処方薬が一ヶ月分と降圧剤が200錠近くあるし、おまけにウォッカまである。だからその気になれば僕はきっと、すんなり死ねる。月末は通院日なので、その日に貰える薬もプラスすることが出来る。
腕時計を付けてないのに、左手首を見る癖がある。時計は無くて、ためらい傷というより、ためらってない傷口の跡がある。橈骨神経というのを切っているらしい。
生きることは本当に本当に苦しい。いろいろあって、最近はずっととても空虚で、本当に楽しいと思える瞬間が一度も無く、ひたすら引き籠もっています。
楽しいと思えずに生きていることは、本来的な生き方に反していると思っています。生きていることは、それだけで嬉しくて、楽しいことだと思っているからです。
それに、楽しく生きている人たちを、出来れば邪魔したくない、という気持ちがあって、楽しくない顔で、不機嫌を振りまくことはしたくないので、人前では無理にテンションを上げて、笑って過ごすことが多いです、が「一体僕は何をしているんだろう?」という気持ちが拭えないし、無理に笑った後は本当に虚しくなるので、ときどき人里離れた一軒家か、もしくは街中でも誰とも会わないような環境で、ひとりっきりでひっそりと暮らした方がいいのではないかと考えます。
友達がいて、けれど、心の底から楽しいと思えないことは、どうにもならなくて、いつもすまない気持ちになります。
僕は「僕の」言葉を書きたいとずっと願ってきた。十年以上、借り物の言葉の羅列以外、何ひとつ書いている実感が無い。知っている言葉を、AIみたいに並べ換えていただけ。書いてる実感の希薄さは死ぬまで続くのかもしれない。僕は何に怯え、何に迷っているのだろう? それを言語化出来ないままで、苛立ちの中で思いは潰えていくのだろうか?
僕は今日で書き終えた方がいいのか、それとも今日から書き始めればいいのか。
この文章を読んでくださったあなたとは、きっと重なることのない僕の人生ですが、けれど多分、あなたは僕と同じ構造の酸素を吸っていて、同じ水を飲んでいて、同じように泣いていて、同じようにお腹が空いて、多分ひとりで、取り残されたような気分になることもあるはず。
点滅する都市が好きで、暗闇の中で明滅するデジタル表記が大好きなあなたへ。そして自然とアナログレコードが好きなあなたへ。陽に照らされた田舎町の、光る甍や窓枠が好きなあなたへ。人が好きなあなたへ。人なんか大っ嫌いなあなたへ。電車が好きなあなたへ。街から逃げたいあなたへ……。おそらく僕とは一生手を取り合うこともないはずのあなたへ。
僕は何の言葉も持ってない。けれど全ての人に「あなたのことが好きです」という個人的な言葉が送られるといいと思っています。